誘拐/監禁

月歌(ツキウタ)

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ハードボイルドミステリー

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浴室には手すりが配置され、実に使い易い仕様だった。腰掛け椅子も高く身体障碍者にはありがたい。

「このボディソープ、高級な薫りがするな。シャンプーと同じブランドか‥‥悪くない」

体を洗い終わると手すりを頼りに湯船に浸かった。少し熱めの温度だが気持ちいい。窓を覗けば朝日に輝く森林が広がっていた。

周囲に民家は見当たらない。

「俺の失踪に気がついて警察に通報してくれるとしたら、ケアマネジャーさんかな?失踪届けを出してくれると良いけど‥‥。」

シングルマザーだった母が亡くなってからは、祖父母が住む今の家に引き取られた。優しい祖父母に何不自由なく育てられ、二人が亡くなったあとは自宅と収益物件をいくつか相続した。

「俺は恵まれてる。でも、だからって誘拐される程の悪さはしてない。真面目に生きてきたのに事故には遭うし誘拐されるし‥‥ついてない。」

遺産で揉める親族がいなかったことをあの当時は感謝したが、誘拐された身としては失踪を不審に思い警察に届けてくれる身内が居ないのは辛いところ。

「成人の失踪で身内からの届け出でない場合‥‥警察がしっかり動いてくれるか怪しいよな。まさか、このまま誘拐犯と二人で暮らすことになるのか?」

俺は暗澹たる思いで湯船のお湯を指先で弾いた。

「執筆は‥‥無理だ」

そう呟いてから情けない気分になる。確かに俺は3冊の書籍を出版した。有名な賞は取れなかったが、評判はそこそこよかった。

「専業作家として独立した矢先に事故に遭うとか予想外すぎる」

事故に遭った後も、編集部は俺を応援してくれていた。次作品を書くように勧めてくれて、俺もそのつもりでいた。

でも、何も生み出せず筆先は止まった。

少しでも参考になればと、自身で書いた3冊の小説を事故後の俺は何度も読み返した。

書籍の帯に書かれていた言葉は『ハードボイルドミステリー』

小説の舞台は昭和の中頃。暴力が支配する街で、主人公の私立探偵は愛する人達を守るために巨悪に立ち向かっていく。危機に陥っても諦めることなく戦い続ける、タフな男の物語だ。

3冊の書籍は私立探偵を主人公にしたシリーズもの。事故後の脳障害で曖昧な部分もあるが、確かにその3作品は俺が書いた作品だ。執筆作業の記憶もある。

なのに‥‥。

『俺の好みの話ではない』
『俺が書きたい話はこれではない』

事故後に違和感は大きくなるばかりで、かと言って新しい作品を生み出すこともできずに‥‥俺は本格的なスランプに陥った。

今もその状態が続いている。

「出版社にも事情を話して次回作の話は流れた。俺は作家として生きることを諦めようとしてるのに‥‥誘拐犯のせいで作家業をやめれないじゃないか‥‥。」

漏れるため息が切なく胸を軋ませる。



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