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1巻
1-2
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◇◇◇◇◇
気分も体調も回復して俺がベッドから出て活動し始めた頃、兄のヘクトール・シュナーベルが俺の部屋を訪ねてきた。
ヘクトール兄上から庭園を共に散策しようと誘われ、俺は素直に応じる。
「王太子殿下からお前が気鬱になっていると聞き、心配した。大丈夫か、マテウス?」
「ヘクトール兄上。もしや、この庭園へのお誘いは殿下の提案ですか?」
「ああ、そうだ。王太子殿下より声を掛けられた。気鬱のお前を見舞って、庭園散策に誘えと命じられた。マテウスは殿下に随分と気に入られている様子だな? 少し意外に思う」
庭園は美しく整えられ、様々な花が咲き誇っていた。
だが、整えられすぎている気もする。シュナーベル家の広大な領地を馬で駆けると、自然の花々が群生する美しい景色に巡り会うのだ。その景色に、俺は何度も心を癒された。
「王城の庭園の花々も美しいですが、あまりに整えられていて自然を感じられません。シュナーベルの領地の野性的な花々が見たくなりました。ヘクトール兄上、領地を馬で駆け巡りたいです」
「ヴェルンハルト殿下が折角気を使ってくださったのだ。『王城の庭園では気が休まりませんでした』などと発言するなよ、マテウス?」
俺は思わず笑って、ヘクトール兄上を見る。確かに前世を思い出す前の俺ならば、そう発言してヴェルンハルト殿下の不興を買っていたに違いない。
「殿下の寝所でお前が『小姓を鞭打て』と怒鳴ったと耳にした。その時は、マテウスはシュナーベル家に送り返されると思っていた。殿下はお前のどこが気に入ったのだろうな?」
「ヘクトール兄上、私は殿下に気に入られてなどいませんよ? 寝所のことは筒抜けのようですから、私が殿下に愛されていないことを知っているでしょ、ヘクトール兄上? 寝所で倒れてしまった私に殿下は同情してくださったようですね。お優しい方ですから」
ヘクトール兄上は軽く目を細めて俺を見つめた。そして、すっとこちらに向かって手を伸ばす。
「階段がある。手を取れ、マテウス」
「ヘクトール兄上、ありがとうございます」
数段の階段であったが、俺は素直にヘクトール兄上に手を預けた。
近親婚を繰り返すシュナーベル家では、子を孕める『孕み子』は大切に扱われる。冴えない容姿の俺でさえ大事にされるのだから、勘違いして傲慢にもなるというものだ。
そんなことを考えながら階段を下りていると、不意にヘクトール兄上が身を寄せてきた。そして、俺の耳元で囁く。
「本当に、気鬱の類ではないのだな?」
「秘密が漏れるのがそれほど心配ならば、私を早々に処刑してはいかがですか?」
「皮肉を口にするな、マテウス。俺はお前の身を案じているだけだ。俺がシュナーベル家次期当主に選ばれなければ、お前の兄となることはなかった。従兄弟関係の俺とお前は、伴侶となる可能性もあったが、今は兄として『親愛の情』を抱いている。そんな相手を処刑になどするものか」
俺はヘクトール兄上の言葉にハッとして息を呑んだ。互いの視線が一瞬絡んだが、先に視線を外したのは俺のほうだった。俺は呟くように言葉を紡ぐ。
「私とヘクトール様が伴侶となった可能性……ヘクトール兄上、どうか私の心を惑わせないでください。従兄弟であった『ヘクトール様』はもう存在しません。目の前の貴方は、私の大切なヘクトール兄上です。そして、誰もが期待を寄せるシュナーベル家の次期当主です」
「……そうだったね。つまらないことを言った。すまない、マテウス」
シュナーベル家一族が世間から『不名誉な穢れた血脈』と見なされて以来、血縁者以外との婚姻が極端に減少した。特に本家はその傾向が顕著で、代々近親婚を繰り返している。
長く近親婚を繰り返した結果、血脈が濃くなった弊害が現れる頻度が増えていった。それは、肉体面よりも精神面に生じることが多い。そのため、シュナーベル本家では、現当主に血脈の弊害が見られた場合にのみ、最も重要な分家である『シュナーベルの刃』と呼ばれる一族から優秀な男子を選び次期当主として迎え入れると定めていた。
ヘクトール兄上が『シュナーベルの刃』から本家の次期当主に選ばれたのは、現当主の父上に、血脈の弊害が見受けられたせいである。
「ヘクトール兄上は、シュナーベル本家の次期当主に選ばれたことを重荷とお考えですか?」
「そうではないよ、マテウス。領地運営や処刑案件を纏める職務が、俺には向いていたようだ。『シュナーベルの刃』の中では、弟のアルミンのほうが余程処刑人としての腕が良かったからね」
俺は幼馴染の名を聞き、思わず笑顔になった。アルミンの顔を思い浮かべつつ口を開く。
「シュナーベル本家の次期当主に選ばれたのがヘクトール様で本当に良かったです! もしもアルミンが選ばれていたなら、シュナーベルの領地運営は即座に破綻していたに違いありません!」
ヘクトール兄上が俺の言葉に微笑みを返す。そして、優しく俺の髪に触れた。
「弟のアルミンは、いずれ『シュナーベルの刃』を統括する立場になると思う。あいつは不真面目ではあるが、処刑人としての才能だけは群を抜いているからね」
「『シュナーベルの刃』は実力主義ですものね。領地でアルミンが罪人の首を斧で刎ねるところを見ました。美しい所作で一刀のもと、罪人も苦しむことなく亡くなりました」
「アルミンは皆の希望により『シュナーベルの刃』を纏めるだろう。だが、俺はシュナーベル本家の血脈を薄めるためだけに選ばれた存在にすぎない。時々、自分の存在意義に戸惑うよ」
ヘクトール兄上の視線が庭園に向けられる。その瞳は複雑な感情に揺れているように見えた。
「……ヘクトール兄上」
「お前を励ますつもりが、愚痴を言っているね。申し訳ない、マテウス」
「『シュナーベルの刃』で最も優秀な人物が、シュナーベル家の次期当主に選ばれると聞いております。それに、濃い血脈を薄める役目はとても大切なものです、ヘクトール兄上!」
俺はヘクトール兄上に身を寄せると、その体にしがみ付くようにして話し続ける。自然と声は硬くなり、同時に体が震え出した。
「シュナーベル家現当主である父上には、明らかな血脈の弊害が見られます。私とカールの産みの親であるグンナーは、父上の腹違いの弟だったのですよ? なのに、父上は伴侶には全く関心を示さず彼を生家に返すと、腹違いの弟を三度も孕ませた。その挙句、グンナーは三度目の妊娠で子宮が裂けて……子も自らの命も流してしまった」
ヘクトール兄上が俺を落ち着かせようと肩を抱き寄せる。俺は息を整えようと深呼吸した。ヘクトール兄上は俺の背中に手をあてがい、呼吸のリズムを整えてくれる。
「マテウス、落ち着け」
「ヘクトール兄上……私もカールも、濃い血脈の澱みから生まれました。カールの異常な行動は、血脈の弊害の影響があったに違いありません。何時か私にも血脈の弊害が現れるかもしれません」
俺の言葉に兄上が敏感に反応した。俺の唇に自らの指を押し当てる。
「たとえ人払いをしていても、このような会話は王城内では相応しくないよ……マテウス」
「……確かにそうですね」
そして、会話を切り上げると俺から身を離した。その際に、俺の上着のポケットに手紙を差し込む。俺が視線を送ると、彼は僅かに笑った。
「シュナーベル家の現状を手紙に書いた。読んだ後は燃やしてくれ、マテウス」
「承知しました、ヘクトール兄上」
ヘクトール兄上と別れ自室に戻った俺は、渡された手紙を早速読むことにした。
封を切り便箋を取り出すと、封筒の中から押し花がはらりと卓上に落ちる。俺は思わずにやつきながら、それを拾い上げた。
あの端正で美丈夫なヘクトール兄上の趣味が押し花作りだということは、おそらく彼の婚約者も知らないことだろう。
「誰か来てくれる?」
「はい、マテウス様」
部屋の端で控えていた小姓が一人、俺に近づく。俺はヘクトール兄上から貰った数枚の押し花を彼に手渡して命じた。
「この押し花を活かしたしおりを作りたいのだが、可能だろうか?」
「紙職人に頼めば良いしおりができると思います、マテウス様」
「では、頼む」
「承知いたしました」
押し花を丁寧にハンカチに包んで懐に収めた小姓だが、まだ何か言いたげに俺の顔を見ている。
「どうした?」
「まだ、先触れはございません。ですが、今宵はヴェルンハルト殿下より、マテウス様に閨への誘いがあるかもしれません」
「お前は曜日を勘違いしているよ? 今日は、殿下は後宮で側室と過ごされる日のはず」
「マテウス様の体調が回復されたとお聞きになった殿下が、後宮行きを取りやめになさったと聞き及んでおります。前準備などはどういたしましょう、マテウス様?」
うーん、まじか。
後宮に住む側室達は、下級貴族や庶民出身の者ばかりだ。だが、国中から選び抜かれた彼らは、誰もが麗しい美貌の持ち主。もっとも、彼らが子を孕んでも妃にはなれない。ただ、妃候補に子ができなければ、側室の産んだ子が『王』になる可能性はゼロではない。
そのため、側室達は常に着飾り、美貌を保つための努力を怠らなかった。
俺のような冴えない男をわざわざ抱かずに、ヴェルンハルト殿下は後宮の美男子達と楽しく過ごせばいいと思う。まあ、俺が妃候補である以上は、殿下の命令に従うしかないけどね。
「では、前準備を進めなくてはならないね。湯浴みの準備を頼む。知らせてくれてありがとう」
「感謝の言葉、痛み入ります」
部屋の小姓達が一斉に準備に取り掛かる。
小姓達への態度を改めてから僅かな日数しか経過していないのに、明らかに彼らが友好的に接してくれるようになった。やはり、日頃からの行いは大切だ。
相変わらず衛兵の態度は悪いものの、これは処刑人一族出身者への偏見のせいだろう。
「……無駄なことを考えても仕方ないな」
手紙には兄上の言っていた通り、シュナーベル家の現状が書かれていた。
シュナーベル家現当主のアルノーはシュナーベルの別邸で静養しているらしい。まあ、実際にはヘクトール兄上によって、監禁されたってところかな?
父は溺愛していた息子のカールを亡くして半ば正気を失い、介護が必要な状態なのだろう。兄上は食事制限を父に課して、衰弱死させる気かもしれない。息子カールの死を嘆いて食事も喉を通らず……その末の病死か。
不意に虚しい気分になって、その気持ちを紛らわすために手紙の続きを読む。
「ヘクトール兄上は忙しそうだな」
以前から、次期当主のヘクトール兄上は、シュナーベルの領地運営と王城での勤めを兼任している。領地は王都と隣り合っており交通の便は良いが、負担は大きいはずだ。体調を崩さなければ良いのだが。
手紙には、『シュナーベルの刃』の現状にも触れていた。シュナーベル家の処刑人『シュナーベルの刃』は、現在、叔父一家が一手に担ってくれている。叔父のループレヒト・シュナーベルは父上の弟であり、幼馴染のアルミンの父親だ。そして、ヘクトール兄上の実父でもある。
「そろそろ、私も将来のことを考える頃合いかもな?」
妃候補に選ばれた『孕み子』が期間内に子を孕まなかったものの、王太子殿下に傍に望まれた場合。その時は、殿下の側近として王城に留まる。殿下の話し相手が主な仕事だが、時には閨を共にすることもあった。但し、殿下の子を孕まないように、王家秘伝の避妊薬を飲む。
この避妊薬は毒性の強い植物から作成されているらしく、多用すると早死にする羽目になる。
逆に、王太子殿下に傍にいることを望まれなかった場合。俺の場合はこちらだろう。その時は生家に戻り、家が定めた相手と婚姻を結んで子を孕むことを求められる。まあ、シュナーベル家は血族婚だろうから、顔見知りと婚姻するのだろう。
「王太子殿下の使いの者が参りました。今宵、殿下はマテウス様と寝所で共に過ごすとのことです」
「分かった。湯浴みと前準備を急ごう」
「承知しました」
俺はヘクトール兄上からの手紙を燃やすと、殿下と閨を共にするための前準備に取り掛かった。
◇◇◇◇◇
ヴェルンハルト王太子殿下の寝所に召されて、俺はその異変に気が付いた。
数人の小姓が部屋の片隅に控えてはいるが、何時もより人数が少ない。俺は違和感を覚えながらも、妃候補として殿下の相手を務める。
今宵の殿下は、何故か激しく猛っていた。何時もは義務的に抱くのに、激しく俺を抱き寄せ体内を貫く。
「ぁあ……ひぁ、やぁん、殿下ぁ……はぁ、はぁはぁ……あぁ!」
「はぁはぁ……はぁ……はぁ」
体内をペニスで貫かれ、俺は快感と同時に痛みに身を震わせる。
うつ伏せにされ殿下に腰を強引に引き寄せられ、あられもない姿で激しくペニスを挿入された。幾度もペニスで擦られた腸壁の襞からジワリと体液が溢れ、ヴェルンハルト殿下のペニスをきつく締め上げる。
殿下は快感の息を吐きながら激しく腰を動かし、体内に射精した。
「くっ……!」
「ぁあ、殿下……はぁはぁ……んあっぁ……」
精液を体内にとどめる処置をするためには、ペニスを抜いてもらわないといけない。だが、殿下は体を繋いだまま、ペニスを抜く気配を見せなかった。
腹部に苦しさを覚えた俺は、殿下に許しを請う。
「はぁはぁ、ぁ……殿下……ぁあ……もうお許しください、ペニスを抜いていただき処置を……」
「まだだ、マテウス……体位を変える」
「んぁ……ひぁ!」
挿入されたペニスが、いきなり体内から引き抜かれた。そして俺は、うつ伏せから仰向け状態にされベッド上で転がされる。その拍子に、体内に溜まっていた精液が太ももに流れ出るのが分かった。
精液に濡れた太ももを殿下に掴まれ、引き寄せられる。大きく脚を開かされ片足を殿下の肩に乗せられた。
羞恥心から体を熱くしながらも、俺は次の衝撃に備えてシーツをギュッと握りしめる。
「あぁっ、あんぁ‼」
「くっ」
再び体内に突き込まれたペニスは、腸液で潤み始めた直腸を滑るように最奥を貫いた。
何時の間にか俺は涙目になり、意識が途切れがちになる。体は快感に溺れきっていて、ペニスで前立腺を擦られた瞬間に、俺は射精していた。殿下の腹部を自身の精液で穢してしまったことに愕然として、朦朧としつつも謝罪する。
「はぁはぁ……も、申し訳ございません……殿下、精液が……腹部にっ、んあぁ……」
「構わん、俺も限界だ……くっ‼」
「はぁん……中があたたかい……」
無意識に呟いてしまって、俺は慌てて口を閉ざす。
だが、妃候補の役目として、今度こそ殿下の子種が流れ出ぬようにする必要がある。体を繋いだままの殿下の体にそっと触れると、囁いた。
「殿下……処置を……」
「……」
「ヴェルンハルト殿下?」
「その必要はない。処置をする小姓は、寝所にはいない。マテウス……抜くぞ」
「んっぁ!」
アナルからペニスが抜かれ、とろりと精液が流れ出てベッドのシーツを濡らす。流れ出る殿下の精液を肌に感じながら、寝所に入室した時の違和感の正体にようやく気が付いた。
子種を体内から出さぬ処置をする小姓が、見当たらなかったのだ。
つまり、俺は妃候補ではなくなったということなのだろう。
体を起こそうとして眩暈を起し、俺は殿下に抱きとめられた。
「大丈夫か、マテウス?」
「申し訳ございません、ヴェルンハルト殿下。早々に寝所より退出いたします。これまでの数々のご無礼をどうぞお許しください、王太子殿下」
「待て、しばらく俺の傍にいろ。ベッドに横になると良い。体を楽にしろ、マテウス」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
確かに体は疲れ切っていた。
殿下の言葉に逆らっても仕方がないので、俺はベッドに横になる。
それにしても、ヴェルンハルト殿下も人が悪い。俺が妃候補でなくなったのなら、もう抱く必要はないはずだ。なのに激しく抱くから、少しは殿下に気に入られたのかと勘違いしてしまった。快感に溺れ、殿下に向かって射精した自分が恥ずかしい。
◇◇◇◇◇
現在、ヴェルンハルト王太子殿下の妃候補は俺を含めて三人いる。だが、二人の妃候補が孕んだとは耳にしていない。
彼らと競い合っていたつもりは、俺にはなかった。だが、俺が一番の新入りであり、妃候補としての期間はまだ十分に残されている。その俺が真っ先に不要だと殿下に判断されるとは、不甲斐なくて情けない気分になってきた。
まあ、冴えない容姿の男を抱くのは、ヴェルンハルト殿下にとって苦痛だったに違いない。
俺はこのまま生家に戻されるのだろう。これからの人生設計を、早急に立てる必要がありそうだ。
これからの生活について考えていると、不意に殿下に髪を撫でられる。俺は思考をいったん停止させた。
冴えない容姿の男でも、ベッドの上で微笑めば……少しは可愛く映るかもしれない。
俺は控えめに微笑み、殿下に視線を送る。殿下はなんとも愛おしそうに俺の髪を撫でていた。そして、目を細め柔らかく微笑む。
「マテウスはカールと同じ髪色をしているな。カールは赤茶色の髪が気に入らなかったようだが、俺は気に入っていた。綺麗な色だと何度も伝えたのに、あいつは金髪が良かったと不貞腐れていた」
「愛らしいカール。カールは大好きな殿下と同じ髪色になりたいと思ったのではないでしょうか? カールは殿下の髪色が大好きだと、何度も私に申しておりました。青空の下では黄金色に輝き、その凛々しいお姿に惹かれてやまないと……顔を赤らめて申しておりました」
「カールがそのようなことを言っていたとは知らなかった」
全て嘘っぱちなので、殿下が知らなくても当然だ。
幼い頃は、常にカールが隣にいた記憶がある。だが、産みの親のグンナーが亡くなると、父はカールだけを連れて別邸で暮らし始めたのだ。それ以来、弟と会う機会は年に数えるほどになった。成長したカールとは、長く会話をした記憶がほとんどない。
なので、カールが自身の髪色を嫌っていた理由など、俺が知るはずもなかった。
それにしても、ヴェルンハルト殿下はカールを想いながら俺の髪を撫でていたのか。先ほどまで激しく抱き合っていた相手に別の男の名前を出されるとは、なんとも切ない。
でも妃候補として、ヴェルンハルト殿下の想い出話には快く付き合うべきだろう。
「弟のカールとは産みの親が同じです。容姿は全く似ていませんが、この赤茶色の髪だけはカールとそっくりです。なので、この髪に触れると……カールとの思い出が溢れ出します」
「俺もお前と同じだ。マテウスの髪に触れると、カールとの想い出が幾つも溢れて止まらなくなる。マテウス、もう少し髪に触れていても良いか?」
「殿下、どうぞ触れてください」
ヴェルンハルト殿下が優しく髪に触れる。
それは構わないのだが、俺はこれからの身の振り方が気になって仕方がない。そろそろ殿下に妃候補を正式に外されたのかどうか、確認しよう。
俺はタイミングを見計らって、慎重に話し掛けた。
「ヴェルンハルト殿下、私は正式に妃候補ではなくなったのでしょうか?」
そう尋ねると、ヴェルンハルト殿下は不意に真顔になり髪を撫でるのを止める。そして、俺の顔を覗き込むようにして言葉を紡いだ。
「マテウス……お前は、傲慢さを演じることで自分を守ってきたのか?」
ん? なんだその質問は?
殿下にそう真顔で聞かれても、返事のしようがない。
前世に目覚める前の俺は、確かに傲慢な人間だった。それが演技なのかと聞かれても、なんのために演じる必要があるのかと問い返したい。まあ、聞かないけど。
「それはどういう意味でしょうか、殿下?」
殿下は俺の髪に一瞬触れたが、その手は遠のいていく。苦い表情を浮かべて、ゆっくりと話し出した。
「カールはお前を傲慢な人間だと評していた。『マテウス兄上は傲慢な振る舞いを重ねたせいでシュナーベル家の使用人達にも嫌われてしまった』『マテウス兄上が産みの親が同じ弟の僕にも傲慢に振る舞うので辛くて悲しい』……カールはそう嘆いていた」
シュナーベル家で傲慢に振る舞った記憶はない。カールは俺を貶めることで何か得るものがあったのだろうか?
「……さようですか」
「俺はカールを妃にと望んでいた。そのカールが兄から酷い扱いを受けているなら、俺はマテウスを罰するべきだと考えた。そして、シュナーベル家の内情を調べるように臣下に命じる。残念ながら、シュナーベル家の密偵に阻止され、表面上の情報しか得られなかったがな。だが、その情報の中に望むものはあった。マテウスはシュナーベル家で傲慢な振る舞いなどしていなかった」
「ヴェルンハルト殿下……」
「カールは俺に嘘をついていた。だが、その事実を受け入れるのは容易ではない。実際、マテウスには悪い噂があったからな。お前は王立学園に通っていた時期があったな?」
「確かに、私は王立学園に通っておりました。ですが、卒業することなく退学しております」
「その当時の噂が今も貴族間で話題にあがる。マテウスは学園で下位貴族に対して傲慢に振る舞い、学園の生徒達から疎まれていたと耳にした。また、お前が学園内の空き教室に生徒や教師を誘い込み、淫らな行為を行っていたとの話も流れている」
「王立学園において、私が下位貴族に傲慢な振る舞をしたのは確かです。ですが、男を誘って淫らな振る舞いなどはしておりません。その噂は否定します」
「それについては、理解しているつもりだ。寝所で初めて抱いた時に分かった。お前の体は男を知らなかった。あまりに初心な反応に、俺のほうが戸惑ったくらいだ」
殿下の言葉に俺は狼狽える。事実そうなのだが、はっきりと指摘されると恥ずかしい。
「ぁ……その、殿下」
「そうであろう?」
「その通りです、ヴェルンハルト殿下」
「マテウス。何故、王立学園を辞めた?」
王立学園時代には、苦い思い出しかない。自分の堪え性のなさを考えると情けなくなる。
それでも、ヴェルンハルト殿下に尋ねられた以上は理由を話すしかない。
「シュナーベル家の次期当主であるヘクトール兄上は、王立学園を首席で卒業しました。私は兄上に憧れ、シュナーベル家の反対を押し切り王立学園に入学しました。ですが、私は学園に入学して初めて、処刑人一族であるシュナーベル家への偏見に晒されたのです。私はシュナーベル家で大切に守られて育ち、現実を全く知りませんでした。生徒や教師が蔑む眼差しを毎日私に向けてきました。ヘクトール兄上はその環境下でも首席で卒業しました。私もそうありたかったのです。ですが、私は心が折れてしまいました。そして、私を蔑む下位貴族に傲慢な態度を取るようになったのです。その行為が私の立場を更に悪くすると気が付かないほど……私は平常心を失っておりました」
涙が滲み出て、俺はシーツを手繰って王太子殿下から顔を隠す。
「マテウス……」
殿下の声に反応して、俺はシーツから顔を上げた。
目が赤くなっているだろうが構わない。どうせ、妃候補を外されたのだ。殿下とプライベートな会話をするのも、これが最後かもしれない。ならば、思ったことや感じたことを全て伝えればいい。そのせいで罰せられても構わなかった。
但し、カールを殺害した罪だけは、絶対に話してはいけない。大丈夫、今の俺は冷静だ。
「私に退学をすすめたのはヘクトール兄上です。兄上は私を醜いと評しました。確かにその通りです。高位貴族も下位貴族も、教師さえも、処刑人一族の私を蔑みました。ですが、私が傲慢に振る舞ったのは、下位貴族にのみです。私は地位の弱い者に溜まった怒りをぶつけていました。その心根を、兄上は醜いと評したのです。私はヘクトール兄上の指示に従い、学園を退学して領地に戻りました。その後、領地を馬で駆け自然に触れて、私は再び以前の心を取り戻したのです」
今すぐにシュナーベルの領地を馬で駆けたい。美しい自然と優しい一族の皆の笑顔が恋しい。
「だが、亡くなったカールの身代わりとして、お前は妃候補となり再び王都に来ることになった。王城での生活はお前にとって辛いものだったのか、マテウス?」
「ヴェルンハルト殿下。王城での生活は、私にとって王立学園での生活と同じでした。妃候補として迎えられた私ですが、処刑人一族への蔑みの眼差しは避けられませんでした。そして、私は再び傲慢な態度を取るようになりなした。その矛先は、私の身の回りの世話をする小姓達に向けられました。醜い心根が……私を、また支配したのです」
ヴェルンハルト殿下が不意に俺の頬を撫でた。その苦しげな表情に、俺まで苦しくなる。
「カールは俺の初恋だ。カールがシュナーベル家の出自と知った側近は、俺から強引に引き離そうとした。だが、俺の想いは変らなかった。俺は焦りを募らせ、王家の慣習を無視したんだ。そして、強引にカールを妃として王城に召し上げようとした。その行為は明らかに側近や貴族達の反感を買う。そして、反感は怒りとなり……その矛先がカールに向いてしまった」
「殿下‼」
「妃に迎える直前に、カールは攫われ酷い殺され方をしたのだ。妃にと望んだことが、カールに死をもたらしたとしか思えない。カールの死の真相について調べるよう、俺は側近に指示を出した。だが、結局は何も掴めていない。側近達は、シュナーベルの血脈が王家に流れることに反対していた。そんな彼らが真剣にカールの死の真相を調べたとは到底思えない。俺は何を信じ、誰を信じれば良いのか……分からなくなってしまった」
小姓が部屋の隅で控えているが、会話は聞こえていないはずだ。だからこそ、王太子殿下は胸の内を吐露しているのだろう。
閨での会話は寝所を出たら忘れるのがマナーだ。だとしても、ヴェルンハルト殿下は俺に対して心の内を話しすぎている。
「妃候補として迎えたお前は、大人しく穏やかに見えた。だが、時が経つにつれて、王城でも傲慢に振る舞うようになった。寝所で俺が冷たい態度を取れば、お前は自室の小姓に辛く当たる。俺はそんなお前の態度を見聞きして、カールの言葉が正しかったのだと思った。カールの言った通り、マテウスは傲慢で性悪男なのだと思った。いや、そう思い込みたかった。カールが……俺に嘘をついたとは思いたくなかった」
「……殿下」
小説内のヴェルンハルト殿下は、カールに対して一切不信感を抱いてはいなかった。だが、今世の王太子殿下は、カールに対して不信感を抱いている。
小説内の殿下と今世の殿下を、同一視するのは危険かもしれない。小説内では書かれていなくても、今世の殿下がカール殺害の嫌疑を俺に向けている可能性を完全には排除できないのだ。作者の『月歌』先生が、小説内には書かなかった裏設定がそこかしこに隠されている可能性がある。
今は用心しながら会話を続けるしかないか? とにかく、俺がカールに対して悪意を持っていないことを示すべきだな。
「弟のカールは殿下に嘘など申してはおりません。私は王城で確かに傲慢な態度を取っていました。殿下もご存じでしょう? 寝所でディルドの挿入に失敗した小姓に『鞭を打て』と罵倒した私の姿はとても醜かったでしょ? 私の心根は醜く歪んでおります。環境の変化で私の心はすぐに折れて、傲慢で性悪な男に変貌するのです。カールは醜い私の内面を見抜き、殿下に正直に伝えたのでしょう。カールはとても素直で、嘘などつける性格ではありません。それはカールを愛してくださった殿下が一番ご存じのはずです。そうではありませんか、ヴェルンハルト殿下?」
王太子殿下はその問いには応じることなく、俺の頬を撫でた。そして、俺の耳元に顔を近づけ小声で囁く。
「マテウス、聞け。前回、ディルドの挿入に失敗した処置係の背後関係を調べた。あの小姓の推薦状を書いたのは、ディートリッヒ家に関わりのある者だ」
「ヴェルンハルト殿下。王城では上位貴族の推薦状を持った小姓のみを雇っています。侯爵家であるディートリッヒ家の推薦状を持った小姓が寝所で務めを果たしていてもおかしくはありません」
「ディートリッヒ家がシュナーベル家を敵視しているのは有名な話だ。それでも、マテウスは思うところはないのか?」
「殿下は……何を仰りたいのですか?」
「お前が子を孕まぬように……あの処置係の小姓がディルドの挿入をわざと失敗した可能性がある。ディートリッヒ家の関係者が処置係に圧力を掛けた。そして小姓が実行した。そうは思わないか、マテウス?」
「王太子殿下、私には何もお答えすることができません」
ディートリッヒ家がシュナーベル家を快く思っていないのは確かだ。だが両家は、フォーゲル王国の謀によって仲違いさせられたようなもの。なのに、王族のヴェルンハルト殿下こそ、両家の確執に何も思うことがないのだろうか?
まあいい……それより問題は、殿下がこの場でディートリッヒ家の名を出したことだ。
俺が妃候補を外された件に、ディートリッヒ家が関わっているのだろうか?
黙っていると、ヴェルンハルト殿下は俺の瞳を覗き込みながら言葉を紡いだ。
「ディートリッヒ家は『孕み子』が滅多に生まれぬ家系だ。それ故に、ディートリッヒ家に『孕み子』が生まれ無事に適齢期を迎えた場合、必ず王位継承者が無期限の妃候補として王城に迎え入れるのが習わしとなっている。そのことはマテウスも知っているな? 今回、俺はディートリッヒ家の『孕み子』を妃候補として迎えることとなった」
俺は堪え性がない。思わず皮肉を込めて殿下に祝いの言葉を述べる。
気分も体調も回復して俺がベッドから出て活動し始めた頃、兄のヘクトール・シュナーベルが俺の部屋を訪ねてきた。
ヘクトール兄上から庭園を共に散策しようと誘われ、俺は素直に応じる。
「王太子殿下からお前が気鬱になっていると聞き、心配した。大丈夫か、マテウス?」
「ヘクトール兄上。もしや、この庭園へのお誘いは殿下の提案ですか?」
「ああ、そうだ。王太子殿下より声を掛けられた。気鬱のお前を見舞って、庭園散策に誘えと命じられた。マテウスは殿下に随分と気に入られている様子だな? 少し意外に思う」
庭園は美しく整えられ、様々な花が咲き誇っていた。
だが、整えられすぎている気もする。シュナーベル家の広大な領地を馬で駆けると、自然の花々が群生する美しい景色に巡り会うのだ。その景色に、俺は何度も心を癒された。
「王城の庭園の花々も美しいですが、あまりに整えられていて自然を感じられません。シュナーベルの領地の野性的な花々が見たくなりました。ヘクトール兄上、領地を馬で駆け巡りたいです」
「ヴェルンハルト殿下が折角気を使ってくださったのだ。『王城の庭園では気が休まりませんでした』などと発言するなよ、マテウス?」
俺は思わず笑って、ヘクトール兄上を見る。確かに前世を思い出す前の俺ならば、そう発言してヴェルンハルト殿下の不興を買っていたに違いない。
「殿下の寝所でお前が『小姓を鞭打て』と怒鳴ったと耳にした。その時は、マテウスはシュナーベル家に送り返されると思っていた。殿下はお前のどこが気に入ったのだろうな?」
「ヘクトール兄上、私は殿下に気に入られてなどいませんよ? 寝所のことは筒抜けのようですから、私が殿下に愛されていないことを知っているでしょ、ヘクトール兄上? 寝所で倒れてしまった私に殿下は同情してくださったようですね。お優しい方ですから」
ヘクトール兄上は軽く目を細めて俺を見つめた。そして、すっとこちらに向かって手を伸ばす。
「階段がある。手を取れ、マテウス」
「ヘクトール兄上、ありがとうございます」
数段の階段であったが、俺は素直にヘクトール兄上に手を預けた。
近親婚を繰り返すシュナーベル家では、子を孕める『孕み子』は大切に扱われる。冴えない容姿の俺でさえ大事にされるのだから、勘違いして傲慢にもなるというものだ。
そんなことを考えながら階段を下りていると、不意にヘクトール兄上が身を寄せてきた。そして、俺の耳元で囁く。
「本当に、気鬱の類ではないのだな?」
「秘密が漏れるのがそれほど心配ならば、私を早々に処刑してはいかがですか?」
「皮肉を口にするな、マテウス。俺はお前の身を案じているだけだ。俺がシュナーベル家次期当主に選ばれなければ、お前の兄となることはなかった。従兄弟関係の俺とお前は、伴侶となる可能性もあったが、今は兄として『親愛の情』を抱いている。そんな相手を処刑になどするものか」
俺はヘクトール兄上の言葉にハッとして息を呑んだ。互いの視線が一瞬絡んだが、先に視線を外したのは俺のほうだった。俺は呟くように言葉を紡ぐ。
「私とヘクトール様が伴侶となった可能性……ヘクトール兄上、どうか私の心を惑わせないでください。従兄弟であった『ヘクトール様』はもう存在しません。目の前の貴方は、私の大切なヘクトール兄上です。そして、誰もが期待を寄せるシュナーベル家の次期当主です」
「……そうだったね。つまらないことを言った。すまない、マテウス」
シュナーベル家一族が世間から『不名誉な穢れた血脈』と見なされて以来、血縁者以外との婚姻が極端に減少した。特に本家はその傾向が顕著で、代々近親婚を繰り返している。
長く近親婚を繰り返した結果、血脈が濃くなった弊害が現れる頻度が増えていった。それは、肉体面よりも精神面に生じることが多い。そのため、シュナーベル本家では、現当主に血脈の弊害が見られた場合にのみ、最も重要な分家である『シュナーベルの刃』と呼ばれる一族から優秀な男子を選び次期当主として迎え入れると定めていた。
ヘクトール兄上が『シュナーベルの刃』から本家の次期当主に選ばれたのは、現当主の父上に、血脈の弊害が見受けられたせいである。
「ヘクトール兄上は、シュナーベル本家の次期当主に選ばれたことを重荷とお考えですか?」
「そうではないよ、マテウス。領地運営や処刑案件を纏める職務が、俺には向いていたようだ。『シュナーベルの刃』の中では、弟のアルミンのほうが余程処刑人としての腕が良かったからね」
俺は幼馴染の名を聞き、思わず笑顔になった。アルミンの顔を思い浮かべつつ口を開く。
「シュナーベル本家の次期当主に選ばれたのがヘクトール様で本当に良かったです! もしもアルミンが選ばれていたなら、シュナーベルの領地運営は即座に破綻していたに違いありません!」
ヘクトール兄上が俺の言葉に微笑みを返す。そして、優しく俺の髪に触れた。
「弟のアルミンは、いずれ『シュナーベルの刃』を統括する立場になると思う。あいつは不真面目ではあるが、処刑人としての才能だけは群を抜いているからね」
「『シュナーベルの刃』は実力主義ですものね。領地でアルミンが罪人の首を斧で刎ねるところを見ました。美しい所作で一刀のもと、罪人も苦しむことなく亡くなりました」
「アルミンは皆の希望により『シュナーベルの刃』を纏めるだろう。だが、俺はシュナーベル本家の血脈を薄めるためだけに選ばれた存在にすぎない。時々、自分の存在意義に戸惑うよ」
ヘクトール兄上の視線が庭園に向けられる。その瞳は複雑な感情に揺れているように見えた。
「……ヘクトール兄上」
「お前を励ますつもりが、愚痴を言っているね。申し訳ない、マテウス」
「『シュナーベルの刃』で最も優秀な人物が、シュナーベル家の次期当主に選ばれると聞いております。それに、濃い血脈を薄める役目はとても大切なものです、ヘクトール兄上!」
俺はヘクトール兄上に身を寄せると、その体にしがみ付くようにして話し続ける。自然と声は硬くなり、同時に体が震え出した。
「シュナーベル家現当主である父上には、明らかな血脈の弊害が見られます。私とカールの産みの親であるグンナーは、父上の腹違いの弟だったのですよ? なのに、父上は伴侶には全く関心を示さず彼を生家に返すと、腹違いの弟を三度も孕ませた。その挙句、グンナーは三度目の妊娠で子宮が裂けて……子も自らの命も流してしまった」
ヘクトール兄上が俺を落ち着かせようと肩を抱き寄せる。俺は息を整えようと深呼吸した。ヘクトール兄上は俺の背中に手をあてがい、呼吸のリズムを整えてくれる。
「マテウス、落ち着け」
「ヘクトール兄上……私もカールも、濃い血脈の澱みから生まれました。カールの異常な行動は、血脈の弊害の影響があったに違いありません。何時か私にも血脈の弊害が現れるかもしれません」
俺の言葉に兄上が敏感に反応した。俺の唇に自らの指を押し当てる。
「たとえ人払いをしていても、このような会話は王城内では相応しくないよ……マテウス」
「……確かにそうですね」
そして、会話を切り上げると俺から身を離した。その際に、俺の上着のポケットに手紙を差し込む。俺が視線を送ると、彼は僅かに笑った。
「シュナーベル家の現状を手紙に書いた。読んだ後は燃やしてくれ、マテウス」
「承知しました、ヘクトール兄上」
ヘクトール兄上と別れ自室に戻った俺は、渡された手紙を早速読むことにした。
封を切り便箋を取り出すと、封筒の中から押し花がはらりと卓上に落ちる。俺は思わずにやつきながら、それを拾い上げた。
あの端正で美丈夫なヘクトール兄上の趣味が押し花作りだということは、おそらく彼の婚約者も知らないことだろう。
「誰か来てくれる?」
「はい、マテウス様」
部屋の端で控えていた小姓が一人、俺に近づく。俺はヘクトール兄上から貰った数枚の押し花を彼に手渡して命じた。
「この押し花を活かしたしおりを作りたいのだが、可能だろうか?」
「紙職人に頼めば良いしおりができると思います、マテウス様」
「では、頼む」
「承知いたしました」
押し花を丁寧にハンカチに包んで懐に収めた小姓だが、まだ何か言いたげに俺の顔を見ている。
「どうした?」
「まだ、先触れはございません。ですが、今宵はヴェルンハルト殿下より、マテウス様に閨への誘いがあるかもしれません」
「お前は曜日を勘違いしているよ? 今日は、殿下は後宮で側室と過ごされる日のはず」
「マテウス様の体調が回復されたとお聞きになった殿下が、後宮行きを取りやめになさったと聞き及んでおります。前準備などはどういたしましょう、マテウス様?」
うーん、まじか。
後宮に住む側室達は、下級貴族や庶民出身の者ばかりだ。だが、国中から選び抜かれた彼らは、誰もが麗しい美貌の持ち主。もっとも、彼らが子を孕んでも妃にはなれない。ただ、妃候補に子ができなければ、側室の産んだ子が『王』になる可能性はゼロではない。
そのため、側室達は常に着飾り、美貌を保つための努力を怠らなかった。
俺のような冴えない男をわざわざ抱かずに、ヴェルンハルト殿下は後宮の美男子達と楽しく過ごせばいいと思う。まあ、俺が妃候補である以上は、殿下の命令に従うしかないけどね。
「では、前準備を進めなくてはならないね。湯浴みの準備を頼む。知らせてくれてありがとう」
「感謝の言葉、痛み入ります」
部屋の小姓達が一斉に準備に取り掛かる。
小姓達への態度を改めてから僅かな日数しか経過していないのに、明らかに彼らが友好的に接してくれるようになった。やはり、日頃からの行いは大切だ。
相変わらず衛兵の態度は悪いものの、これは処刑人一族出身者への偏見のせいだろう。
「……無駄なことを考えても仕方ないな」
手紙には兄上の言っていた通り、シュナーベル家の現状が書かれていた。
シュナーベル家現当主のアルノーはシュナーベルの別邸で静養しているらしい。まあ、実際にはヘクトール兄上によって、監禁されたってところかな?
父は溺愛していた息子のカールを亡くして半ば正気を失い、介護が必要な状態なのだろう。兄上は食事制限を父に課して、衰弱死させる気かもしれない。息子カールの死を嘆いて食事も喉を通らず……その末の病死か。
不意に虚しい気分になって、その気持ちを紛らわすために手紙の続きを読む。
「ヘクトール兄上は忙しそうだな」
以前から、次期当主のヘクトール兄上は、シュナーベルの領地運営と王城での勤めを兼任している。領地は王都と隣り合っており交通の便は良いが、負担は大きいはずだ。体調を崩さなければ良いのだが。
手紙には、『シュナーベルの刃』の現状にも触れていた。シュナーベル家の処刑人『シュナーベルの刃』は、現在、叔父一家が一手に担ってくれている。叔父のループレヒト・シュナーベルは父上の弟であり、幼馴染のアルミンの父親だ。そして、ヘクトール兄上の実父でもある。
「そろそろ、私も将来のことを考える頃合いかもな?」
妃候補に選ばれた『孕み子』が期間内に子を孕まなかったものの、王太子殿下に傍に望まれた場合。その時は、殿下の側近として王城に留まる。殿下の話し相手が主な仕事だが、時には閨を共にすることもあった。但し、殿下の子を孕まないように、王家秘伝の避妊薬を飲む。
この避妊薬は毒性の強い植物から作成されているらしく、多用すると早死にする羽目になる。
逆に、王太子殿下に傍にいることを望まれなかった場合。俺の場合はこちらだろう。その時は生家に戻り、家が定めた相手と婚姻を結んで子を孕むことを求められる。まあ、シュナーベル家は血族婚だろうから、顔見知りと婚姻するのだろう。
「王太子殿下の使いの者が参りました。今宵、殿下はマテウス様と寝所で共に過ごすとのことです」
「分かった。湯浴みと前準備を急ごう」
「承知しました」
俺はヘクトール兄上からの手紙を燃やすと、殿下と閨を共にするための前準備に取り掛かった。
◇◇◇◇◇
ヴェルンハルト王太子殿下の寝所に召されて、俺はその異変に気が付いた。
数人の小姓が部屋の片隅に控えてはいるが、何時もより人数が少ない。俺は違和感を覚えながらも、妃候補として殿下の相手を務める。
今宵の殿下は、何故か激しく猛っていた。何時もは義務的に抱くのに、激しく俺を抱き寄せ体内を貫く。
「ぁあ……ひぁ、やぁん、殿下ぁ……はぁ、はぁはぁ……あぁ!」
「はぁはぁ……はぁ……はぁ」
体内をペニスで貫かれ、俺は快感と同時に痛みに身を震わせる。
うつ伏せにされ殿下に腰を強引に引き寄せられ、あられもない姿で激しくペニスを挿入された。幾度もペニスで擦られた腸壁の襞からジワリと体液が溢れ、ヴェルンハルト殿下のペニスをきつく締め上げる。
殿下は快感の息を吐きながら激しく腰を動かし、体内に射精した。
「くっ……!」
「ぁあ、殿下……はぁはぁ……んあっぁ……」
精液を体内にとどめる処置をするためには、ペニスを抜いてもらわないといけない。だが、殿下は体を繋いだまま、ペニスを抜く気配を見せなかった。
腹部に苦しさを覚えた俺は、殿下に許しを請う。
「はぁはぁ、ぁ……殿下……ぁあ……もうお許しください、ペニスを抜いていただき処置を……」
「まだだ、マテウス……体位を変える」
「んぁ……ひぁ!」
挿入されたペニスが、いきなり体内から引き抜かれた。そして俺は、うつ伏せから仰向け状態にされベッド上で転がされる。その拍子に、体内に溜まっていた精液が太ももに流れ出るのが分かった。
精液に濡れた太ももを殿下に掴まれ、引き寄せられる。大きく脚を開かされ片足を殿下の肩に乗せられた。
羞恥心から体を熱くしながらも、俺は次の衝撃に備えてシーツをギュッと握りしめる。
「あぁっ、あんぁ‼」
「くっ」
再び体内に突き込まれたペニスは、腸液で潤み始めた直腸を滑るように最奥を貫いた。
何時の間にか俺は涙目になり、意識が途切れがちになる。体は快感に溺れきっていて、ペニスで前立腺を擦られた瞬間に、俺は射精していた。殿下の腹部を自身の精液で穢してしまったことに愕然として、朦朧としつつも謝罪する。
「はぁはぁ……も、申し訳ございません……殿下、精液が……腹部にっ、んあぁ……」
「構わん、俺も限界だ……くっ‼」
「はぁん……中があたたかい……」
無意識に呟いてしまって、俺は慌てて口を閉ざす。
だが、妃候補の役目として、今度こそ殿下の子種が流れ出ぬようにする必要がある。体を繋いだままの殿下の体にそっと触れると、囁いた。
「殿下……処置を……」
「……」
「ヴェルンハルト殿下?」
「その必要はない。処置をする小姓は、寝所にはいない。マテウス……抜くぞ」
「んっぁ!」
アナルからペニスが抜かれ、とろりと精液が流れ出てベッドのシーツを濡らす。流れ出る殿下の精液を肌に感じながら、寝所に入室した時の違和感の正体にようやく気が付いた。
子種を体内から出さぬ処置をする小姓が、見当たらなかったのだ。
つまり、俺は妃候補ではなくなったということなのだろう。
体を起こそうとして眩暈を起し、俺は殿下に抱きとめられた。
「大丈夫か、マテウス?」
「申し訳ございません、ヴェルンハルト殿下。早々に寝所より退出いたします。これまでの数々のご無礼をどうぞお許しください、王太子殿下」
「待て、しばらく俺の傍にいろ。ベッドに横になると良い。体を楽にしろ、マテウス」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
確かに体は疲れ切っていた。
殿下の言葉に逆らっても仕方がないので、俺はベッドに横になる。
それにしても、ヴェルンハルト殿下も人が悪い。俺が妃候補でなくなったのなら、もう抱く必要はないはずだ。なのに激しく抱くから、少しは殿下に気に入られたのかと勘違いしてしまった。快感に溺れ、殿下に向かって射精した自分が恥ずかしい。
◇◇◇◇◇
現在、ヴェルンハルト王太子殿下の妃候補は俺を含めて三人いる。だが、二人の妃候補が孕んだとは耳にしていない。
彼らと競い合っていたつもりは、俺にはなかった。だが、俺が一番の新入りであり、妃候補としての期間はまだ十分に残されている。その俺が真っ先に不要だと殿下に判断されるとは、不甲斐なくて情けない気分になってきた。
まあ、冴えない容姿の男を抱くのは、ヴェルンハルト殿下にとって苦痛だったに違いない。
俺はこのまま生家に戻されるのだろう。これからの人生設計を、早急に立てる必要がありそうだ。
これからの生活について考えていると、不意に殿下に髪を撫でられる。俺は思考をいったん停止させた。
冴えない容姿の男でも、ベッドの上で微笑めば……少しは可愛く映るかもしれない。
俺は控えめに微笑み、殿下に視線を送る。殿下はなんとも愛おしそうに俺の髪を撫でていた。そして、目を細め柔らかく微笑む。
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「愛らしいカール。カールは大好きな殿下と同じ髪色になりたいと思ったのではないでしょうか? カールは殿下の髪色が大好きだと、何度も私に申しておりました。青空の下では黄金色に輝き、その凛々しいお姿に惹かれてやまないと……顔を赤らめて申しておりました」
「カールがそのようなことを言っていたとは知らなかった」
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幼い頃は、常にカールが隣にいた記憶がある。だが、産みの親のグンナーが亡くなると、父はカールだけを連れて別邸で暮らし始めたのだ。それ以来、弟と会う機会は年に数えるほどになった。成長したカールとは、長く会話をした記憶がほとんどない。
なので、カールが自身の髪色を嫌っていた理由など、俺が知るはずもなかった。
それにしても、ヴェルンハルト殿下はカールを想いながら俺の髪を撫でていたのか。先ほどまで激しく抱き合っていた相手に別の男の名前を出されるとは、なんとも切ない。
でも妃候補として、ヴェルンハルト殿下の想い出話には快く付き合うべきだろう。
「弟のカールとは産みの親が同じです。容姿は全く似ていませんが、この赤茶色の髪だけはカールとそっくりです。なので、この髪に触れると……カールとの思い出が溢れ出します」
「俺もお前と同じだ。マテウスの髪に触れると、カールとの想い出が幾つも溢れて止まらなくなる。マテウス、もう少し髪に触れていても良いか?」
「殿下、どうぞ触れてください」
ヴェルンハルト殿下が優しく髪に触れる。
それは構わないのだが、俺はこれからの身の振り方が気になって仕方がない。そろそろ殿下に妃候補を正式に外されたのかどうか、確認しよう。
俺はタイミングを見計らって、慎重に話し掛けた。
「ヴェルンハルト殿下、私は正式に妃候補ではなくなったのでしょうか?」
そう尋ねると、ヴェルンハルト殿下は不意に真顔になり髪を撫でるのを止める。そして、俺の顔を覗き込むようにして言葉を紡いだ。
「マテウス……お前は、傲慢さを演じることで自分を守ってきたのか?」
ん? なんだその質問は?
殿下にそう真顔で聞かれても、返事のしようがない。
前世に目覚める前の俺は、確かに傲慢な人間だった。それが演技なのかと聞かれても、なんのために演じる必要があるのかと問い返したい。まあ、聞かないけど。
「それはどういう意味でしょうか、殿下?」
殿下は俺の髪に一瞬触れたが、その手は遠のいていく。苦い表情を浮かべて、ゆっくりと話し出した。
「カールはお前を傲慢な人間だと評していた。『マテウス兄上は傲慢な振る舞いを重ねたせいでシュナーベル家の使用人達にも嫌われてしまった』『マテウス兄上が産みの親が同じ弟の僕にも傲慢に振る舞うので辛くて悲しい』……カールはそう嘆いていた」
シュナーベル家で傲慢に振る舞った記憶はない。カールは俺を貶めることで何か得るものがあったのだろうか?
「……さようですか」
「俺はカールを妃にと望んでいた。そのカールが兄から酷い扱いを受けているなら、俺はマテウスを罰するべきだと考えた。そして、シュナーベル家の内情を調べるように臣下に命じる。残念ながら、シュナーベル家の密偵に阻止され、表面上の情報しか得られなかったがな。だが、その情報の中に望むものはあった。マテウスはシュナーベル家で傲慢な振る舞いなどしていなかった」
「ヴェルンハルト殿下……」
「カールは俺に嘘をついていた。だが、その事実を受け入れるのは容易ではない。実際、マテウスには悪い噂があったからな。お前は王立学園に通っていた時期があったな?」
「確かに、私は王立学園に通っておりました。ですが、卒業することなく退学しております」
「その当時の噂が今も貴族間で話題にあがる。マテウスは学園で下位貴族に対して傲慢に振る舞い、学園の生徒達から疎まれていたと耳にした。また、お前が学園内の空き教室に生徒や教師を誘い込み、淫らな行為を行っていたとの話も流れている」
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「ぁ……その、殿下」
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それでも、ヴェルンハルト殿下に尋ねられた以上は理由を話すしかない。
「シュナーベル家の次期当主であるヘクトール兄上は、王立学園を首席で卒業しました。私は兄上に憧れ、シュナーベル家の反対を押し切り王立学園に入学しました。ですが、私は学園に入学して初めて、処刑人一族であるシュナーベル家への偏見に晒されたのです。私はシュナーベル家で大切に守られて育ち、現実を全く知りませんでした。生徒や教師が蔑む眼差しを毎日私に向けてきました。ヘクトール兄上はその環境下でも首席で卒業しました。私もそうありたかったのです。ですが、私は心が折れてしまいました。そして、私を蔑む下位貴族に傲慢な態度を取るようになったのです。その行為が私の立場を更に悪くすると気が付かないほど……私は平常心を失っておりました」
涙が滲み出て、俺はシーツを手繰って王太子殿下から顔を隠す。
「マテウス……」
殿下の声に反応して、俺はシーツから顔を上げた。
目が赤くなっているだろうが構わない。どうせ、妃候補を外されたのだ。殿下とプライベートな会話をするのも、これが最後かもしれない。ならば、思ったことや感じたことを全て伝えればいい。そのせいで罰せられても構わなかった。
但し、カールを殺害した罪だけは、絶対に話してはいけない。大丈夫、今の俺は冷静だ。
「私に退学をすすめたのはヘクトール兄上です。兄上は私を醜いと評しました。確かにその通りです。高位貴族も下位貴族も、教師さえも、処刑人一族の私を蔑みました。ですが、私が傲慢に振る舞ったのは、下位貴族にのみです。私は地位の弱い者に溜まった怒りをぶつけていました。その心根を、兄上は醜いと評したのです。私はヘクトール兄上の指示に従い、学園を退学して領地に戻りました。その後、領地を馬で駆け自然に触れて、私は再び以前の心を取り戻したのです」
今すぐにシュナーベルの領地を馬で駆けたい。美しい自然と優しい一族の皆の笑顔が恋しい。
「だが、亡くなったカールの身代わりとして、お前は妃候補となり再び王都に来ることになった。王城での生活はお前にとって辛いものだったのか、マテウス?」
「ヴェルンハルト殿下。王城での生活は、私にとって王立学園での生活と同じでした。妃候補として迎えられた私ですが、処刑人一族への蔑みの眼差しは避けられませんでした。そして、私は再び傲慢な態度を取るようになりなした。その矛先は、私の身の回りの世話をする小姓達に向けられました。醜い心根が……私を、また支配したのです」
ヴェルンハルト殿下が不意に俺の頬を撫でた。その苦しげな表情に、俺まで苦しくなる。
「カールは俺の初恋だ。カールがシュナーベル家の出自と知った側近は、俺から強引に引き離そうとした。だが、俺の想いは変らなかった。俺は焦りを募らせ、王家の慣習を無視したんだ。そして、強引にカールを妃として王城に召し上げようとした。その行為は明らかに側近や貴族達の反感を買う。そして、反感は怒りとなり……その矛先がカールに向いてしまった」
「殿下‼」
「妃に迎える直前に、カールは攫われ酷い殺され方をしたのだ。妃にと望んだことが、カールに死をもたらしたとしか思えない。カールの死の真相について調べるよう、俺は側近に指示を出した。だが、結局は何も掴めていない。側近達は、シュナーベルの血脈が王家に流れることに反対していた。そんな彼らが真剣にカールの死の真相を調べたとは到底思えない。俺は何を信じ、誰を信じれば良いのか……分からなくなってしまった」
小姓が部屋の隅で控えているが、会話は聞こえていないはずだ。だからこそ、王太子殿下は胸の内を吐露しているのだろう。
閨での会話は寝所を出たら忘れるのがマナーだ。だとしても、ヴェルンハルト殿下は俺に対して心の内を話しすぎている。
「妃候補として迎えたお前は、大人しく穏やかに見えた。だが、時が経つにつれて、王城でも傲慢に振る舞うようになった。寝所で俺が冷たい態度を取れば、お前は自室の小姓に辛く当たる。俺はそんなお前の態度を見聞きして、カールの言葉が正しかったのだと思った。カールの言った通り、マテウスは傲慢で性悪男なのだと思った。いや、そう思い込みたかった。カールが……俺に嘘をついたとは思いたくなかった」
「……殿下」
小説内のヴェルンハルト殿下は、カールに対して一切不信感を抱いてはいなかった。だが、今世の王太子殿下は、カールに対して不信感を抱いている。
小説内の殿下と今世の殿下を、同一視するのは危険かもしれない。小説内では書かれていなくても、今世の殿下がカール殺害の嫌疑を俺に向けている可能性を完全には排除できないのだ。作者の『月歌』先生が、小説内には書かなかった裏設定がそこかしこに隠されている可能性がある。
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王太子殿下はその問いには応じることなく、俺の頬を撫でた。そして、俺の耳元に顔を近づけ小声で囁く。
「マテウス、聞け。前回、ディルドの挿入に失敗した処置係の背後関係を調べた。あの小姓の推薦状を書いたのは、ディートリッヒ家に関わりのある者だ」
「ヴェルンハルト殿下。王城では上位貴族の推薦状を持った小姓のみを雇っています。侯爵家であるディートリッヒ家の推薦状を持った小姓が寝所で務めを果たしていてもおかしくはありません」
「ディートリッヒ家がシュナーベル家を敵視しているのは有名な話だ。それでも、マテウスは思うところはないのか?」
「殿下は……何を仰りたいのですか?」
「お前が子を孕まぬように……あの処置係の小姓がディルドの挿入をわざと失敗した可能性がある。ディートリッヒ家の関係者が処置係に圧力を掛けた。そして小姓が実行した。そうは思わないか、マテウス?」
「王太子殿下、私には何もお答えすることができません」
ディートリッヒ家がシュナーベル家を快く思っていないのは確かだ。だが両家は、フォーゲル王国の謀によって仲違いさせられたようなもの。なのに、王族のヴェルンハルト殿下こそ、両家の確執に何も思うことがないのだろうか?
まあいい……それより問題は、殿下がこの場でディートリッヒ家の名を出したことだ。
俺が妃候補を外された件に、ディートリッヒ家が関わっているのだろうか?
黙っていると、ヴェルンハルト殿下は俺の瞳を覗き込みながら言葉を紡いだ。
「ディートリッヒ家は『孕み子』が滅多に生まれぬ家系だ。それ故に、ディートリッヒ家に『孕み子』が生まれ無事に適齢期を迎えた場合、必ず王位継承者が無期限の妃候補として王城に迎え入れるのが習わしとなっている。そのことはマテウスも知っているな? 今回、俺はディートリッヒ家の『孕み子』を妃候補として迎えることとなった」
俺は堪え性がない。思わず皮肉を込めて殿下に祝いの言葉を述べる。
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アダムとして平和に暮らしたいアデルだが、婚約者のヴィンセントは塩対応。
初めてのデート(アデルにとって)では、いきなり店前に置き去りにされてしまい――!?
同性婚が可能な世界です。
女性も登場しますが、恋愛には発展しません。
※ 感想欄はネタバレを含みますので、お気をつけください‼︎(><)
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】
転生令息は冒険者を目指す!?
葛城 惶
BL
ある時、日本に大規模災害が発生した。
救助活動中に取り残された少女を助けた自衛官、天海隆司は直後に土砂の崩落に巻き込まれ、意識を失う。
再び目を開けた時、彼は全く知らない世界に転生していた。
異世界で美貌の貴族令息に転生した脳筋の元自衛官は憧れの冒険者になれるのか?!
とってもお馬鹿なコメディです(;^_^A
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