嫌われ悪役令息は王子のベッドで前世を思い出す

月歌(ツキウタ)

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第四章

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◆◆◆◆◆◆


目覚めて初めて目にしたものは、シュナーベル邸の自室の天井だった。可愛い花々が描かれたその天井をぼんやりと眺めていると、俺の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

胸がきゅっと締め付けられるような感覚と同時に、穏やかな安堵の気持ちが広がりはじめる。涙に滲む天井を見つめながら、俺は知らず呟いていた。

「わたしは・・帰ってきた」

「マテウス」
「・・兄上?」

俺はヘクトール兄上の声にはっとして、天井から視線を移した。兄上はベッド傍に椅子を置き、俺の左手をしっかりと握っていてくれた。俺は涙を零したまま、ベッドから上半身を起こした。体がふらつき全身に力が入らない。それでも、俺はヘクトール兄上にもっと近づきたくて右手を力いっぱい伸ばした。

「ヘクトール兄上、私・・戻りました」
「マテウス、お帰り」

ヘクトール兄上が、俺のふらつく体をしっかりと支えてくれた。そして、俺を優しく抱きしめてくれた。ヘクトール兄上の体温に包まれて、俺の張り詰めた緊張が解けていく。

「ヘクトール兄上の元に、私は戻れた」
「迎えが遅くなりすまなかった、マテウス」

「いえ、あにうえ。あの・・私はこのまま、シュナーベルの邸に留まっても、大丈夫なのでしょうか?兄上の迷惑になりませんか?」

俺の言葉に、ヘクトール兄上は少し切なげに目を細めた。そして、力強い言葉を俺にくれた。

「マテウスが傍にいる事が、俺の迷惑になるなどあり得ないよ。マテウスのいない日々は、とても苦しく辛かった」

「ヘクトール兄上。ですが、ヴェルンハルト殿下が・・」

「それについては問題ないよ、マテウス。陛下より、お前と赤子をシュナーベルの邸に連れ帰る許可は頂いている。マテウスは俺の婚約者であり、産まれた子はシュナーベル家現当主の俺の子である事も認めて頂いた。陛下の許可が下りている以上・・王太子殿下でも、マテウスを無理に王城に連れ戻すことはできない。シュナーベルの邸は、お前の家だ。ゆっくりと体を休めて欲しい、マテウス」

「はい、ヘクトール兄上」

安堵から、俺はヘクトール兄上の背に手を回していた。だけど、俺は兄上の肩越しに、見慣れない小さなベッドを見つけた。俺の体は自然と震え出していた。俺はヘクトール兄上に抱き付いたまま、それを見つめ続けた。その様子に気が付いたヘクトール兄上が、俺にゆっくりと話し掛けてきた。

「マテウス、よく聞いて欲しい」
「・・・・」
「マテウス」
「は、はい・・兄上」

兄上は優しく俺の髪を撫でながら話し始める。

「俺はこれから、赤子を連れてシュナーベルの領地に向かうつもりだ。再会したばかりのマテウスと、しばらく離れなくてはならない。王太子殿下の精神が正常ならば、陛下の決定を翻して、赤子を奪うような無謀な真似はしないだろう。だが、俺はヴェルンハルト殿下を信用していない。なにより、一時でも、王家の墓地に埋葬される様な事は我慢ならない。マテウスが目覚めて、すぐに話すような内容ではないが、急を要する問題でもある。そばを離れる事を許してくれるかい、マテウス?」

ヘクトール兄上の言葉に、俺はすぐには答えられなかった。小さなベッドに、俺の視線が釘付けになる。あのベッドに、俺の産んだ赤子が眠っている。

眠っている?
そう、息をせずに眠っている。

「兄上・・」
「どうした?」
「ベッドに眠るのは、私の赤子ですね?」
「・・ああ、そうだ」
「・・・」
「マテウス」

本当は抱きしめて、頬を撫でて、亡くなった我が子を慈しみたかった。そうして、赤子を見送ってあげたかった。なのに、いくつもの見えない壁が立ちふさがり、俺と赤子との距離は縮まらない。

これほど、自分が薄情で怖がりだとは思わなかった。だけど、赤子に触れられない。心臓が激しく脈打ち、俺の心を乱す。『苦しいからこれ以上はやめて』と、心が悲鳴を上げているように思えて・・俺は、その声に逆らう気力がもうなかった。

「兄上・・赤子の・・姿を見なくても・・許されますか?」

「マテウスを許していないのは・・マテウス自身の心だけだよ。誰も、マテウスを責めたりはしない。もちろん、亡くなった赤子もね。マテウス、もう自分を許してあげなさい。自分を責めずに許してあげるんだ。マテウスは十分に苦しんだ。これ以上、自分の心を傷つける必要はないよ。ゆっくりと息を吐いて、ゆっくりと息を吸って。呼吸が乱れている。大丈夫かい、マテウス?」

俺は兄上の胸に顔を埋めたまま頷いた。ヘクトール兄上の胸の中で、俺は空想の赤子を抱いていた。赤茶色のふわりとした髪の、ヘクトール兄上に似た面差しの可愛い赤子。その空想の赤子の頬に、自らの頬を押し付けた。その時、空想の赤子が『名前をちょうだい』と言ったように思えて、俺は思わず目を見開いていた。

名前。名前。

だけど、今世では死産となった子には名を付けぬ習わしだ。墓標には、その赤子に相応しい文字を記す事になっている。でも、赤子を見ていない俺が、墓標に記す言葉を決めてもいいのだろうか?許されるのだろうか?

「ヘクトール兄上?」
「何だい、マテウス?」

「兄上・・空想の赤子が、『名前をちょうだい』と言いました」

「・・空想の赤子?」

ヘクトール兄上が俺の言葉に、僅かに不安げな表情を浮かべた。俺はそんな兄上の様子に構わず言葉を続けていた。

「墓碑に死産の赤子の名は刻めません。でも、赤子に相応しい言葉を記す風習はあるでしょ?私は赤子の姿を見ていません。でも、『名前をちょうだい』と赤子が言ったのです。あの・・私が、墓標に記す文字を決めてもよろしいですか、ヘクトール兄上」

ヘクトール兄上は、俺を抱きしめてその表情を隠した。兄上は俺が少しおかしくなったと、思っているのかもしれない。でも、今は赤子に名前をあげたい。そうしないと、本当に俺の心が、おかしくなってしまいそうで・・

「『君ありて幸福』」
「君ありて幸福?」

「赤いゼラニウムの花言葉です。カールの・・別人格のカールが、日記帳にその言葉を記していたのです。赤子が生まれたなら、まず初めにその言葉を赤子に贈りたいと書いてありました。日記を読んでいて、その言葉はすごく印象的で・・私も素敵だと思ったのです。亡くなった赤子に贈るには、相応しくない言葉かもしれません。でも、その言葉を贈りたいです。今は、赤子の姿を見る事も、抱く事もできない、情けない生みの親です。でも、全てを受け止める事が出来るようになったなら、赤いゼラニウムの花束を持って赤子の墓に参ります。その時は、ヘクトール兄上・・私の隣で、共に赤子の墓に参ってくれますか。あの・・あにうえ。私は・・おかしなことを口走っていますか?なんだか、よく分からなくて・・あの、私、おかしいですか?」

俺の言葉に、ヘクトール兄上は優しく微笑んでくれた。そして、俺の頬を撫でゆっくりと言葉を掛けてくれた。

「おかしくなどないよ、マテウス。『君ありて幸福』、良い言葉だね。それを墓標に記そう」

「ありがとうございます、ヘクトール兄上」

「マテウス、あまり顔色が良くない。もう休みなさい。ルドルフを呼ぶとしよう。これから、俺はシュナーベルの領地に向かうつもりだ。その間は、ルドルフの指示に従い、ゆっくりと休養する事。いいね、マテウス?」

「ヘクトール兄上、私は子供ではありません」
「そうだね」

ヘクトール兄上は少し躊躇った後、俺の唇に優しいキスをくれた。胸にふわりと温かい気持ちが広がった。




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