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第四章
138 ヘクトール兄上のキスが欲しいです
しおりを挟む◆◆◆◆◆◆
兄上の声が聞こえる。
ヘクトール兄上の声だ。
兄上、どうしてそんなに辛そうに俺の名前を呼ぶの?俺はもうすぐ目覚めるから、大丈夫だよ。だから、そんなに辛そうに俺の名を呼ばないで。
大丈夫だから、ヘクトール兄さま。
◇◇◇◇
俺は自室のベッドで目覚めた。
仮眠室からシュナーベル家の邸に移された事に、俺は気付かなかった。でも、カールは気が付いていた。あまりにも長く俺の心の中にいて、微かな外部の気配にも敏感になったのだろうか?カールはやっぱり・・外に出たいのかな?
あぁ、駄目だ。カールの事に意識を向けると、また微睡みそうになってしまう。
「マテウス・・マテウス・・」
再び微睡みそうになった俺を、兄上の声が現実に引き戻してくれた。ヘクトール兄上の手のひらが、俺の手を包み重なっていた。兄上は重ねた手の甲に己の額を押し当て、まるで祈るように俺の名を呼んでいた。
「マテウス・・なぜ目覚めない、マテウス?」
俺はどれくらい眠っていたのだろうか?
不意に、胸が痛んだ。こんなにも、俺の目覚めを待っている人がいたのに・・自分のワガママで目覚めを遅らせてしまった。
「兄上、ごめんなさい・・」
「マテウス!!」
ヘクトール兄上は身を起こして、俺の顔を覗き込む。兄上の瞳から、一雫の涙がこぼれ落ちてきた。俺は目を見開きヘクトール兄上を見た。兄上は僅かに視線を逸らせながら、俺の頬を撫でる。次の瞬間には、俺が大泣きしていた。ポロポロと流れ出る涙を、止めることができなかった。
「兄上、心配を掛けてごめんなさい」
「いや、マテウスが無事に目覚めたのなら問題ない。それより、そんなに泣いてどうした?やはり、悪夢を見たのかい?」
「悪夢は見ていません、兄上」
俺はポロポロ涙をこぼしたまま、ヘクトール兄上を見つめていた。すると、兄上が心配そうに声を掛けてきた。
「マテウス、ならば何故泣く?」
「『春にして君を離れ』」
「『春にして君を離れ』?」
「昔読んだ・・書物の題名です。自分の存在に惑い心がチクチクする・・そんな夢を見ました」
「でも、悪夢ではない?」
「はい、悪夢ではありません」
ヘクトール兄上は、少し困った表情を浮かべた。それでも、兄上は優しく微笑んでくれた。
「では、そういう事にしておこうかな?」
「・・はい、兄上」
「ところで、マテウス。喉は渇いていないかい?お水か果実水でも持って来ようか?食欲がある様なら、軽い食事と紅茶でおなかを満たすのも良い。マテウス、何か欲しいものはあるかい?」
俺は何故だか、ためらう事なく欲しいものを口にしていた。
「ヘクトール兄上のキスが欲しいです。額にではなく・・唇に。駄目ですか、兄さま?」
俺が兄上にそう伝えると、ヘクトール兄上の方が僅かにためらいを見せた。でも、兄上は優しいキスをくれた。重なり合う唇は、深く繋がることはなかった。だけど、優しい気持ちが心に伝わってきた。
「あにうえ・・」
「マテウス」
◇◇
「えーっと、ヘクトール様?盛り上がっているところを、申し訳ないのですが・・ルドルフ兄貴の監禁を解いてもいいですかねぇ?無事にマテウス様も、目覚めたようですし。兄貴がマテウス様に打った鎮静剤の量も、すでに正常範囲内だと分かっている訳ですから?」
キスの余韻に浸る俺のふわふわ頭が、アルミンの言葉により一気に現実に引き戻された。室内には、ヘクトール兄上しかいないと思い込んでいた。アルミンにキスを見られたぁ!しかも、唇へのキスをおねだりしてる所を見られた。恥ずかしい。いや、そんな事よりルドルフおじさまの事だ!
「アルミン!ルドルフおじさまが、監禁されているって本当なの?」
「ヘクトール様に聞いてみなよ、マテウス?」
「兄上に?」
ヘクトール兄上に視線を向けると、兄上は俺の疑問に平然と答えた。
「王城の執務室で、ルドルフは俺の指示によりマテウスに鎮静剤を打った。ルドルフの説明では、マテウスもファビアン殿下も、王都の邸に戻る頃には意識が戻るはずだった。夕暮れには、ファビアン殿下は目覚めた。だが、マテウスは全く目覚める様子がなかった。俺はルドルフに対して疑いを抱いた。マテウスに打たれた鎮静剤が適量であったのかを判断するために、俺はマテウスを馬車に乗せて邸に向かった」
ヘクトールの言葉を引き継いだのは、アルミンだった。
「邸に戻ったヘクトール様は、兄貴を監禁した。で、邸付きのシュナーベル家の医師に、マテウスを診察させた。ルドルフがマテウスに打った鎮静剤の成分や分量も調べさせた。だけど異常は見つからなかった。これで、兄貴の疑いは晴れたと思ったんだけど・・ヘクトール様は、今もルドルフを監禁したままだ」
俺は驚いてヘクトール兄上を見た。俺はベッドから上半身を起こすと、兄上が俺を支えてくれた。俺はヘクトール兄上をみつめながら口を開いた。
「ヘクトール兄さま、ルドルフおじさまを疑うなんてあんまりです!今すぐに、おじさまの監禁を解いて下さい!」
「マテウスがそう望むのなら」
「よかった・・」
俺は安堵の息を付いた。ヘクトール兄上は俺の体を支えつつ、アルミンに対して命じる。
「アルミン、ルドルフの監禁を解くことを許可する。お前が行ってルドルフの監禁を解け。それと、俺の許可があるまでは、この部屋には誰も入らぬように周知しろ。しばらく、マテウスと二人で過ごす。さあ、行け」
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