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包囲網を突破せよ
市の葛藤
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信長が一乗谷城の炎上を静かに見つめていたその頃、その場を音も立てずに去っていった人物がいた。その人物は白い頭巾のようなもので顔をそっと隠すと口元を緩めた。
―――
小谷城
「長政様!一乗谷城がっ……炎上しています!!」
「……っ!まさか……信長が?」
「いえ……どうやら義景様が自ら火を放った模様です……」
「そうか……」
そう言ったきり、長政はしばらく黙っていた。痺れを切らした家来が声をかけようとした時、長政がパッと顔を上げた。
「義景殿が越前に帰ったと聞いた時、私のとる行動は二つに一つと思っていたが……どうやら選択肢は一つだけとなってしまったようだ。まぁ、半分予想して覚悟していた事だが。」
「そ、それはどういう意味で……?」
「市には私の文は渡ったか。」
「え……?えぇ、女中は先程渡したと言っていましたが。」
「なら、何も心配はいらない。……家中の者に伝えよ。三代続いた浅井家の行く末を。」
―――
織田軍、本隊
一乗谷城の方を秀吉に任せた信長は、すぐに引き返した。朝倉と睨み合っていた本陣に着いた後、留守番をさせていた兵らも合わせた全員を率いて小谷城の方へ向かった。
「市様は大丈夫でしょうか?」
「心配はいらん。勝家が必ず助け出してくれるさ。」
「そうですね……」
笑顔を見せながらも市の心境を考えて複雑な気持ちになる蘭だった。
いくら兄の為と言っても夫婦として共に過ごしてきた夫の元を離れる事はさぞ辛い事だろう。時々蝶子に送られてくる文には我が子の事や夫の長政の事が書かれていた。それらの言葉には愛が溢れていて、本当に家族の事を大切に想っているのだと感じられたのだ。それが兄との戦のせいで壊れようとしている。関係のない蘭でさえ心が張り裂けそうなのに、当の市は一体今頃どんな気持ちでいるのか。
蘭は目に涙を溜めてじっと我慢している市の姿を思い浮かべて、目頭が熱くなった。
「着いたぞ。」
その時、信長の声がしてハッと顔を上げる。目の前にはいつか見た小谷城が聳え立っていた。
「まずは先導隊が門を突破し小丸を押さえろ。俺達本隊は真っ直ぐ本丸へ直行だ!」
「はいっ!」
信長が声を張り上げて言うと、500名余りの先導隊は揃って駆け出して行った。そしてあっという間に門を突破すると長政の父、久政がいるという小丸へと向かった。
「さて、我々も行くか。」
「はい。」
蘭が信長と視線を交わしたその時、遠くの方で爆発音が聞こえた。驚いて音のした方を見ると、何と本丸がみるみる内に炎に包まれていったのだ。本隊はおろか、先に行った先導隊も呆然とその有り様を見つめていた。
「……これは一体どういう事だ?一乗谷城に続いて小谷城まで炎上するとは……」
流石の信長も開いた口が塞がらない様子だ。蘭もしばらく固まっていたが、パッと信長の方を見た。
「信長様!市様は……!?」
「……大丈夫だ。きっと逃げ出した後だ。」
そう言いながらも心配そうな顔で馬から降りる。
「浅井長政……俺に反旗を翻した男であるからには意地と根性があるかと思ったが、朝倉が滅んだと知った途端このザマか。」
バカにしたように鼻で笑うと、後ろを振り返って言った。
「皆の者!これしきの炎に負けるでないぞ。燃えたのは本丸だけ。他にいる浅井の残党は女、子ども構わず打ち首だ!いいな!」
その黒い瞳に炎の残像を残しながら、信長は冷たく言い放った……
───
小谷城
その頃小谷城では──
「どういう事だ!何故本丸が燃えている!」
長政が慌てた様子で家来に聞く。だがその家来も訳がわからず、首を捻るばかりだ。
「くそっ……敗戦覚悟で織田を迎え撃つつもりだったが、まさかこのような事になるとは……」
「信長が火を放ったのでは?」
「いいや。最初に燃えたのは裏側だ。信長は正面からやってきたのだから、奴ではない。」
「では誰が……」
「考えている暇はない。お前達は織田軍の足止めを。」
「長政様は?」
「私は後から行く。」
「いや、しかし……火の回りが激しいので早くお逃げになった方が……」
「大丈夫だ。それより市はどうなった?」
「それが……いつの間にかお部屋にいらっしゃらなくて。お子と一緒に誰かと城から脱出したのだとは思いますが。」
「そうか、逃げたか……なら、よいのだ。」
悲しげに呟くと、長政は目を閉じた。
───
「勝家……もう少しゆっくり歩いて下さい。」
「でも……早く行かないと火の粉がここまできてしまいます。」
「茶々や初は自分で歩けますが、江はまだ小さいのですよ。抱きながら走るのは大変で……」
息を切らしながらそう言う市を見て、勝家は渋々歩く早さを緩めた。そして小谷城を見上げる。市もつられて城の方を見た。
「……長政様は覚悟していらっしゃいました。負け戦だとわかっていても最後まで戦うと。なので自分から火を放つなどしていないと、私はそう信じています。」
「では、まさか信長様が?」
勝家の言葉に市は首を横に振った。
「いいえ、それこそ天地が引っくり返っても無い事です。」
「そうですね。」
勝家は苦笑するとまた歩き始めた。その後をゆっくりと追いながら、市は長政からの文の事を思い出していた。
その文にはこう、記されていた。
『市へ。これは君に宛てる最初で最後の文になるだろう。私が君の兄上を裏切ってしまってから、私は何度となく悪夢を見た。それは織田信長が私を地獄の底まで追ってくるというものだ。それを見る度、私は何という事をしたのだろうと後悔に苛まれていた。しかしもう後には引けない。もうすぐ織田と浅井は戦をせねばならない。それは必然な事だ。もしその時がきたら、君は茶々と初、そして江を連れて逃げろ。後ろは向かず、君の愛する兄上の元へ。私は最後まで戦うつもりでいる。浅井長政という馬鹿な男がいたという事を君が覚えていてくれさえすれば、私はそれで満足だから。長々と書いてしまったが、これが私の君への、そして子どもらへの最後の言葉だ。さようなら。どうか無事で。』
ポタッと雫が江の頬に落ちる。不思議そうな顔で母親を見上げる江だったが、市はもう泣いていなかった。
(お兄様、必ず帰ります!)
───
岐阜城
小谷城が炎に包まれた事で本丸にいたほとんどの者が焼死し、後の者は織田軍によって全員打ち首にされた。後始末を家来に任せて岐阜城へ帰ってきた信長は、大広間で小谷城から脱出してきた市と久々に再会した。
「ただいま、戻りました。」
「……無事で何よりだ。子どもらも元気で良かった。勝家に褒美をやらんとな。」
「いえ!俺はただ任務を遂行しただけです!」
力強く言われて信長も市も苦笑する。蘭はといえば、一人感動していた。
(良かった……!本当に良かった、無事で!)
「それはそうと帰蝶様は?」
「あぁ、あいつは宇佐山城にいる。信忠と一緒にな。」
「そうでしたか……」
「会いたいなら会わせてやるぞ。明日行ってこい。そうだな、蘭丸。お前が連れて行け。」
「え?俺ですか?」
ビックリして目をパチパチさせると、信長はそっぽを向きながら言った。
「お前も会うのは久しぶりだろう。無事な姿を見せてこい。」
「はい!」
(いつもこんな優しかったらいいんだけどなぁ~……)
赤くなっている横顔を見ながら、こっそりそう思った蘭だった。
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