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いざ、戦場の中へ

出陣前夜

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―――

 初めての出陣(この世界では初陣ういじんというらしい)を言い渡された蘭は、心配する蝶子を作り笑いで抑え、一人で自分の部屋に帰ってきた。戸を閉めた瞬間、足がガクガクしてそのまましゃがみ込む。

「マジかよ……」
 さっき稽古で戦う恐ろしさを身を持って知ったばかりだ。実際は模造刀だったけど、真剣だと思っていたからあんなに必死に逃げていたのだ。まともに剣を交えるなど、到底できなかった。

 しかしそれもしょうがない事だった。何故なら蘭は剣どころか竹刀一本、バット一本、包丁一本持った事のない男なのだから……

「いくら信長の側にいるだけでいいったって、恐いもんは恐いって……」
 蚊の泣くような小さい声で呟く。そして先程の信長の言葉を思い返した。

『安心しろ。お前はずっと俺の側にいるだけでいい。それに……俺はまだ死なんのだろう?』

「確かに死なないけどさ~……俺まで死なないとは限らないじゃんかよ。」
 子どものように口を尖らすと、膝を抱えた。

 この弟との戦いの事は知らなかったが、信長が死ぬのは本能寺で間違いない。だから信長と一緒にいれば安全、と思われるけどここはパラレルワールド(仮説)なのだ。いつ何時、予想もしなかった事が起きないとも限らない。

「はぁぁぁ~~……」

 真剣だと思っていたのが実は偽物で、斬られたと思ったらただの打撲だった。ホッとひと安心したのも束の間、今度は本当の戦場へと行く事を強要された……

「早く帰りてぇ……」

 思わず出てしまった本音は、誰にも拾われる事なく空中に消えた。



―――

「話とは?あぁ、もしや誘っておるのか?だったら俺の部屋に移動……」
「誘ってないから!バカじゃないの!!」
 顔を真っ赤にさせながら怒鳴る蝶子をニヤけた笑みで見ながら、信長は座った。

「冗談だ。それで話とは?蘭丸の事か?」
「そ、そうよ。どういうつもり?」
「どう、とは?」
「……っ!」
 完全に遊ばれている。そう思った蝶子は、唇を噛んだ。

 ついさっき蘭がふらふらした足取りで部屋を出ていった後、廊下にいた信長を『話がある』と言って引っ張り込んだのだ。我ながら軽率だったかなと後悔したが、言わなければいけない事があったので、思い切って口を開いた。

「どうしてそんなに蘭に構うの?未来を知ってるから?」
「そうだ。」
「でもあいつはただの学生で……つまり勉強の途中で、歴史にそんなに詳しくないの。それにあんな……剣を向けられて逃げてばっかりの弱虫に、貴方の家来なんて務まらないわよ!」
「…………」
「もう勘弁してあげてよ。ここで生きていくって決めたんだから、なるべく波風立たない生活を……」
「一生台所番で終わらせるのか?」
「え……?」
 突然響いた信長の声に、蝶子がパッと顔を上げる。

「男に生まれてきたからには、あいつにも本能があるはずだ。強くなりたい。大事なものを守りたい。この思いはこことは違って何もかも手に入って平和な世であろうとも、人間が必ず持っている感情だ。特に男はそうだ。現に、あいつはここに来て何度かお前を守ろうとしていたじゃないか。」
 信長の言葉に蝶子は思い出した。

 裏山で秀吉らに囲まれた時、信長に扇子を投げられた時。
 蘭はさりげなく守ってくれた。それに頼りないところは多々あるけれど、自分が弱気になった時は蘭が言葉で励ましてくれた。

 情けなくて弱くて頼りなくて、でも優しくて正義感があって真っ直ぐで。

(良いところと悪いところを足したらプラマイ0になるような奴だけど、私は……)

「俺はお前達が羨ましい。」
「……え?」
 心を見透かされたかと思い、慌てて信長の様子を見る。だけど苦笑しながら腕を組んでいるだけだった。

「俺には守りたいものはない。あるのは使命感だけだ。」
「使命……感?」
「親父から受け継いだ領地を守り、かつそれを広げる事が俺の使命だ。そしていずれ天下を取る。その為にはどんな事でもやる。絶対に。」
 そう言い切った時の顔は何とも形容のしがたいものだった。般若のように燃え盛る恐ろしさなのか、能面のように底冷えのする薄ら寒さなのか……

 余りの事に固まっていると、表情を柔らかくした信長が言った。

「だがこんな俺でも、そういう感情が少しはわかってきたようだ。」
「え?」
 立ち上がる気配がして見上げると、頭に温かいものが乗った感触がした。

「明日の早朝、出陣する。見送りにきたければ来い。」

 それが信長の手であると気づいた時には、既に姿は廊下の向こうに消えていた。

「なんだ……あったかいんじゃない……」

 人の事を勝手に妻にしたり、人が大切にしてきた想いを面白がったり、弟相手に戦争したり、あんなに冷たい表情を見せるくせに。

 ……手だけは温かいなんて。

「人間らしいところあるじゃない。」

 蝶子はふっと微笑んで呟いた。



―――

 翌日、早朝。

 ついに蘭丸の初陣の時が来た。
 ガチガチに固まっている蘭の背中を蝶子が思いっ切り叩く。

「いってぇっ!」
「情けない声出さない!いい?信長の側を絶対離れない事。でも危ないと思ったらすぐ逃げる。信長なんか放っといていいから一人でも帰ってくるのよ。」
「散々な言われようだな。」
 苦笑している信長に視線をやって、蝶子は鼻を鳴らした。

「ふんっ!あんたには言いたい事がたっぷりあるんだから、そっちこそ死ぬんじゃないわよ!」

『ふ~~!』と外野が囃し立てるが、蝶子は平然と腰に手を当てて仁王立ちしている。それを見ていた市が小さく拍手を送った。

「さすがですわ。濃姫様。それでこそお兄様、織田信長の正室でいらっしゃいます。」
「やめてよ、市さん。もう……私の気持ち知ってるくせに。」
 そう返すと市は微笑んだ。

 この前蘭に言った通り、この二人は共通の話題で急速に仲良くなっていた。それはいわゆる『恋バナ』である。

 蝶子が蘭の事を好きだと市に気づかれてから、事あるごとに相談に乗ってもらっているのだ。しかしお題はもっぱら蝶子の方からで、市は自分の話はあまりしなかった。
 聞きたい気持ちはあるが無理に聞くのも悪いと思い、いつか打ち明けてくれる事を期待している。

「さて皆の者、準備は整ったな?」
「はい!」
 信長の緊張を帯びた声にハッとする。いつの間に移動したのか、蘭は信長の隣で強張った表情で立っていた。

「ではいざ、出陣!」

「「「おーーー!!」」」

 甲冑と剣が擦れる聞き慣れない音が辺りに響く。ザッザッという足音が砂埃の向こうに消えていく様を、蝶子は茫然と見つめた。

(お願い……!帰ってきてね!!)

 知らず知らずの内に両手を組んで胸に当てていた蝶子だった……



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