虹色の季節

りん

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13、別れ――突然

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―――



 蝉の声が煩いくらいに鳴り響き、ただでさえ暑いのがますます暑く感じられる。
 透は看護師に連れられて車椅子に乗りながら中庭を散歩していた。

 入院して一年ほどが過ぎていた。もうすっかりこの車椅子での移動にも抵抗がなくなった。以前の半分も低くなってしまった視線にも……

「妹さん、夏休みに入ったんですよね?」
 不意に車椅子を押してくれていた看護師が話しかけてきた。
「えぇ、確か先々週からって言ってましたね。」
「それにしては最近お見えになってませんね。高校生ですから部活とかで忙しいんですか?」
「何か友達と一緒に保育園でボランティアをやるって言ってたかなぁ。きっとそれで来る余裕がないんでしょう。」
「まぁ、ボランティアですか?保育園っていう所が微笑ましいですね。」
「二人共子どもが好きらしいんですよ。ボランティアっていうよりただ遊びに行ってるようなもんですよ、どうせ。」
 何故か照れくさくなった透はそっぽを向いた。
 しかしその言葉の中には、最近中々来てくれない妹と、その親友への不満が見え隠れしていた。

「うちの病院にもボランティアに来てくれないかしら。」
「無理ですよ。あいつ、血が苦手だから。」
「そうなんですか、残念…」

 二人の会話の間もずっと鳴き続けていた蝉の声。ふと途切れたかと思うと、一瞬後には大きな羽音と共にどこかへ飛んでいった。

 青く澄んだ夏空の向こうへと飛んでいく蝉の姿を眺めながら、頑張っているであろう妹たちに思いを馳せるのだった。




―――



 8月に入ったというのに朝から涼しく、昼前にはポツリポツリと雨が降りだしていた。
 午後からは更に雨足が強くなり、街を灰色に染めていた。

「雨か……」
 研次は部屋の窓から外を見て呟いた。カーテンを閉め、今さっきまで寝ていた布団を雑に畳み始める。
 ふと壁に掛けておいたカレンダーが目に留まり、思わず動きが止まった。

 春香と食事をした日から一週間程経っていた。
 次の日には病院に行くと言ったし、きっときぬも待っていただろう。しかしどんな顔で春香と会っていいかわからず、結局今日まで行けなかったのだ。

 仕事を探す気にもなれずに毎日こうして夕方まで寝ては、部屋の中でボーッと過ごしていた。
 腹がすいたのでキッチンへ歩いて行き、冷蔵庫を開ける。
「何もないのかよ…」
 ため息を吐きつつ扉を閉めた。

「仕方ない…雨だけど買い物に行くか。」
 独り言を呟いて財布と鍵だけ持って部屋を出ようとしたその時、布団の中から機械音が聞こえて研次は振り向いた。

「ん?何だ?…電話か。」
 玄関で靴を履こうとしていた研次は小さくため息を吐くと、部屋に逆戻りした。

「はい、もしもし?」
「福島さん!!」
 いやに焦った様子で通話口から飛び出してきたのは春香の声だった。
 ずっと研次の頭を悩ませていた張本人の声。
 電話に出た事を少々後悔しながらも、春香のただならぬ様子に不安になりながら応えた。

「前園さん、どうしたんですか?そんなに慌てて…」
「時田さんが…とりあえず来て下さい!」
「え?時田さん?時田さんがどうかしたんですか?…前園さん?もしもし!」
 電話は既に切れていた。すぐにかけ直すが聞こえるのは無機質なアナウンスだけだった。
 研次は持っていた財布と鍵の他に携帯と傘をプラスして、急いで部屋を飛び出した。



―――

「はぁっ…はぁっ…!」
 病院の入り口で息を整えて、研次は目の前の建物を見上げた。
 走ってきたせいで足元はもちろん、全身びしょ濡れ。傘を差してはいたがほとんど意味がなかった。
 傘を入り口の傘立てに乱暴に置くと、病院の廊下を走った。

「前園さん!」
 前方に春香の後ろ姿を認め、大声で呼ぶ。
 その時になってようやくここが病院だっていう事を思い出して、慌てて走るのをやめて早歩きで春香に近づいた。

「福島さん……」
 春香は力なくそう呟いたが、表情には安堵が広がったように見えた。

「一体どうしたんです?時田さんは……」
「それが……」
 春香は一瞬困った顔をした。そして隣にいた白衣の男をチラッと見て、またこちらに視線を戻した。

「こちら、時田さんの主治医の五十嵐先生です。先生、この方が福島さんです。」
 研次は春香に言われるまでこの医者の存在を一切気に留めていなかった。よほど慌てていたのだろう。

「やぁ、君は確か時田さんが運ばれてきた時に付き添っていたね。」
「はい。あ!あの時処置をして下さった?」
「そうだよ。」
 顔を見て声を聞いて、研次はようやく思い出した。
 この低い嗄れた声は、あの日の光景を一瞬にして思い出させた。

「毎日のようにお見舞いに来てくれてたんだって?」
「えぇ、まぁ。でもここ最近は忙しくて……」
「時田さんには入院しているご主人しか家族はいなかった。たまたま助けてもらったとはいえ、毎日のように来てくれる君の事を本当の息子のように思っていたよ。時田さんは。」
『思っていた』  過去形の言葉に何だか違和感を感じ、その後は胸の中に段々と不安が膨らんでいった。心臓がドキドキと脈打っている。

 何だ?何が起きたんだ?自分が無意味な生活を送っていたこの一週間の間に……

「実は……」
 今まで黙っていた春香が少し俯き気味に話し始める。研次は覚悟を決めて顔を上げた。

「一週間前、時田さんのご主人がお亡くなりになったんです。」
「えっ!」
「もちろん時田さんにはショックを与えないように細心の注意を払いながらお伝えしました。初めは気丈に振る舞っていました。早く退院してお葬式を出してあげなきゃって……。だけどその次の日、急に体調が悪化して……」
 一筋の涙が春香の頬を伝う。その後を五十嵐医師が引き継いだ。

「一昨日、ご主人が入院していた病院に転院させたんです。ここでは手に負えないと判断して。本当は私が、出来る限りの事をしたかった。それが出来ないのならせめてもっと早く転院させれば良かった。そうすればご主人の傍にいられたのにと思うと、何と言ったらいいのか…言葉が出てこないよ……」

 最後の方はほとんど聞こえていなかった。
 研次は呆然と立ちすくみ、目の前で悔しそうに顔を歪める医師をただ眺めていた。

「先程、その病院から連絡があって…。時田さんが亡くなられたと知らされました。」
 春香が無機質な声でそう言う。

 それは遠い所から聞こえてるとしか思えず、研次はしばらく呆然としたまま廊下の真ん中に立ち尽くしていたのだった……


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