虹色の季節

りん

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1、追憶 ――過去と現在

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―――



――10年前、6月


 その男――は、梅雨独特の蒸し暑さが充満する中、一人歩いていた。

 両手は中身がぎっしり詰まった紙袋で塞がっていて、 相当重いのだろう。足元は覚束ない。

 汗が額からこめかみから流れ落ちていた。


 その男の息は荒く目は虚ろで、体力は既にギリギリの状態である事が窺える。周りの人達は視線を向けつつも、無関心を装ってさりげなく離れて歩いていた。


「あっ……!」

 男が足元に転がっていた石に躓き、前のめりに倒れる。その拍子に持っていた紙袋は地面に散らばり、中からファイルや書類らしきものが飛び出してしまった。


「ちくしょう!」

 男は擦りむけた自分の膝を一瞥し、周りに散乱した荷物を見ると悪態をついた。ほとんど破れてしまっていて、もう使い物になりそうもない。

(こんなはずじゃ……こんなはずじゃなかったのに…!)

 周りの人達は助ける素振りもなく、蹲った男の傍らを素知らぬ顔ですり抜けていく。

 大都会で生きる人間の冷たい一面を、垣間見た気がした。

 男は呆然と天を仰ぐ。目に飛び込んできた空は、雨上がりでもないのに虹色に見えた……気がした。



―――




 研次は病院に着くと救急隊員と医者の話に耳を傾けながら、担架に乗せられているお婆さんの脇を小走りに走った。


「電車の揺れでバランスを崩し、荷台から落ちてきた荷物の下敷きになって転倒。頭を強く打った形跡はなし。」
「わかった。このまま処置室に直行!」
「はい!」

 研次は医者の後ろを走りながら必死に呼びかけていた。


「お婆さん!しっかりして下さいね!」

 お婆さんはそんな研次の声に反応したのか、薄く目を開けた。


「今から処置をします。ここでお待ち下さい。」
「はい。」

 処置室と書かれた扉の前でそう言われ立ち止まる。

 担架はそのまま扉を突き進み、医者もろともその中へ消えていった。

 近くの長椅子に腰を降ろすと、深いため息が零れる。そしてふと壁の時計を見上げた。


「12時…10分……」

 特に予定があった訳ではなかったが、つい声に出ていた。

 視線を足元に移すともう一度ため息を吐いた。


 こんな事になろうとは自分でも驚きだ。あのお婆さんの姿を見た瞬間、体が勝手に動いていたのだ。

 良い事をしたとは思ってない。当たり前の事をしたまでだ。

 しかし、自分にこんな行動力があったとはいまだに信じられなかった。


「はぁ~……」

 今度は欠伸が出た。研次は知らぬ間に強ばっていた体から力を抜き、ゆったりと背もたれに沈んだ。



―――




『キャァーーーー!』

 悲鳴が響き渡る。若い女の甲高い声、ざわざわと動揺する気配、緊迫した空気……

 昼下がりのコンビニは、この数秒の間に未だかつてない騒然とした雰囲気に呑まれていった。その場にいた全員がレジの辺りを凝視する。


「金だ!金を出せ!!」
「…えっ……」
「いいから早くしろ!」
「は、はい!」

 ナイフを突きつけた男は、上から下まで真っ黒の服に身を包み、顔には黒い覆面。典型的な強盗犯のスタイルだった。


「早くしろ!刺されてぇのか!」

 まだ若いアルバイト店員らしき男と、年配の店長風の男が必死にレジから金を出し始める。犯人の男は右手にナイフを握ったまま、左手で台に置かれた金を手当たり次第に持っていた鞄に入れていった。

 店にいた客は棚の間などに蹲りながら、心配そうにその様子を見つめている。母親におんぶされている赤ん坊は、今にも泣き出しそうな顔をしながらも空気を読んでいるのか声は出さなかった。


 佐伯透は本のコーナーの端に座り込みながら、内心ハラハラしていた。傍から見ていても、あの犯人の動揺っぷりは危険だと感じていた。ナイフを持つ手は震え、覆面は汗で所々濡れている。金を掴んでいる左手なんて思うように動かせていないようだった。

 二人の店員には申し訳ないと思ったが思わずため息が漏れた。

 何でこんな事になったのだろうか……。自分は会社の昼休みに近くのコンビニに弁当を買いに来ただけだというのに……


 透は中小企業の中堅社員。来年には課長になるのが既に決まっていた。

 とにかく真面目で自分でもその真面目くさった性格が時々嫌になるのだが、そのお陰で比較的早い昇進となったのだから逆に良かったと思っていた。

 透は今年29歳になる。何事もそつなくこなす方で、人間関係も極めて平和だった。


 両親は妹がまだ小さかった時に離婚。自分と13歳も年が離れているので、まだ小学生、9歳の時だった。

 透はその時既にここ東京で一人暮らしをしながら大学に通っていたので何の影響もなかったが、問題はその後。父親が離婚後失踪したのだ。

 体が弱かった母とまだ子どもだった妹の援助をするという約束だったのに離婚が成立して一ヶ月後くらいに夜逃げ同然で出ていき、7年経った今でも音沙汰なしだ。

 透はそんな父親の代わりに大学卒業後すぐに就職し、一生懸命働いて母と妹を助けた。

 だが残念な事に母はそのわずか2年後、病気で亡くなった。

 一人残された妹は母の姉夫婦に引き取られたがたった二人だけの兄妹、しかも年が離れていた分余計に可愛い妹の事が透は心配だった。

 だからちょくちょく連絡を取り合ったり、月に一度のペースで妹を東京に来させて会っていた。

 実は今日がその日で、夕方の電車で来る妹と駅で待ち合わせをしていたのだ。

 今日の分の仕事をさっさと終わらせて絶対残業しないで帰ってやる!なんて意気込んでいたのに………


 透はもう一度犯人の様子を注意深く観察した。とにかく今は大人しく言う事を聞くしかないようだ。下手に刺激なんてしたら、この手の犯人は何をするかわからない。

 また知らずにため息が出た時だった。


『チャリーン!!』

 という音が辺りに響き渡る。下を向いていた透はハッとして顔を上げた。

 犯人の手元が狂い、五百円玉が床に落ちたようだ。

 その場に緊迫感が押し寄せる。レジにいた二人の店員はもう顔面蒼白だ。


「おい、そこのお前!」

 その時透は犯人と目が合い、そう話しかけられた。体がビクッと反応し、嫌な汗が背中を滴り落ちる。


「………」

 無言で立ち上がると、犯人は顎をしゃくってみせた。

(拾えという事か……?)

 透はゆっくりと歩き、五百円玉が落ちている所へと近づいた。


「いいか!変な気は起こすなよ。それをさっさと拾ったらこれに入れろ!」

 台の上に残っていた札や小銭をかき集めてカバンに入れると、透の方に振り向きそのカバンを目の前に差し出した。


「……わかりました。」

 透はゆっくりとしゃがむと五百円玉を拾い、言う通りにした。


「よしっ!」

 カバンのチャックを少々もたつきながら締めた犯人は、周りにナイフを振り回しながら後退りした。


『プルルルル……』

 その時突然電話のベルが鳴り、犯人は大袈裟なほど体を震わせた。


「な、何だ!」
「で、で、電話です…!」

 アルバイト店員が涙声で答える。犯人は軽く舌打ちをすると、自分を落ち着かせるためか一度深呼吸した。


「出ろ!俺はその間にここから出る。お前らは一歩も動くなよ!」

 そう言いながらカバンを両手で抱え込んで、逃げる体勢をとった。

 
 その時だった。左側にあった棚に犯人の左腕が勢いよく当たったのだ。


「いっ……!」

 当たった左腕の肘の辺りを右手で押さえようとして、カバンが床に落ちる。そして……

 全てがスローモーションのようだった。まるで映画のクライマックスを見ているような、現実味のない感覚。時間が止まったようだった。


「…うっ…… !」

『ガタ……ガタターン!』

 突然の大きな音に全員が驚いて音のした方を見る。

 赤ん坊の限界は既に越え、辺りは大音量の泣き声に包まれた。


「……えっ?」
「……いやっ!ウソ…キャーーーー!」

 そこには信じられない光景があった。透が壁に凭れるように座っており、足には深々とナイフが刺さっていた。傍らには呆然と立ち竦む犯人の黒い影……

 電話の切れたカウンターの奥では、腰を抜かした店員二人。失神寸前の若い女に、目を逸らして自分の子を抱き抱える母親。火が点いたように泣きじゃくる赤ん坊……


 そして透は薄れゆく意識の中で、遠い過去を思い出していた。

 昔まだ幼かった妹と過ごした、今よりずっと幸せに満ちた日々の事を……



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