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後
しおりを挟む目を開くと、彼女は水の中にいた。
同じ水の底のほうには、もうひとり、少女が落ちている。意識はないようだ。赤い血が頭から流れ、細い糸のように水中を漂っていた。イヴェットは磨き上げた魔力で水を押しやり、その腕を捕まえる。そのまま水中を出て、岸にあるあずまやへ。
つかんだ骨ばった細い腕には、あざが残っている。三日前に戯れで鞭で打ったあとだ。淡い桃色の髪の毛は水と血で色濃く変わり、青ざめた顔に張りついている。
くたりと脱力した体を抱きしめ、古代魔法で傷跡一つ残さずに治癒した。自分自身も含めて水や汚れをふき飛ばし、乾燥させた。これで熱を出すこともないだろう。
きれいになった少女の頭を自身の膝にのせて、しばし、見分する。痩せているのは、もともと貧しい家にいたからだ。
父がかつて手を出した女がいつの間にかこの娘を生んでいたのだ。その女が死に、それなりに魔力を持つ娘だったので、父は引き取ることを決めた。
けれど、卑しい生まれと育ちの娘が、公爵家の「唯一の娘」であるべきイヴェットの立場を脅かすなど、許しがたい。だから当然徹底的にいじめた。
それでも公爵家で世話をされていた娘は次第に美しくなっていった。ふわふわとした髪の毛、すべらかな頬。生きている人間の心地よい質感に、イヴェットは少女の顔を指先でたどる。頬から口元、顎、それからまた頬から目元へ。まなじりをつつき、瞼を押す。びくびくとうごめくのを感じて、指を離した。
どんな宝石よりも、これをえぐり出したら、美しいのではないかしら。指先がうずく。ゆっくりと瞬き、開いたトパーズの瞳がさらに大きく見開かれたのは、恐怖か動揺か。幼いせいか、顔立ちに比べて大きすぎるその瞳は、猫を思わせた。
猫、そう、猫だ。
「お、ねえ、さま」
「なあに、ミネット」
ようやく思い出した名前を呼べば、見事に硬直する。起き上がることもできないらしい妹を、そのまま、魔法で浮かせた。息をのむような悲鳴。もしイヴェットが魔法を解けば、固い地面にたたきつけられる。そういうことももう、わかっているのだろう。
とはいえ、七歳の目線の高さだから、大した高さではない。それでも、ぎゅっとこぶしを握りこんで恐怖に耐えている姿は、微笑ましいとイヴェットは思った。ゆっくりと自由になった両手でその首筋を掴むようにして、撫でさする。猫にするように。
あ、う、ひぃ、あ、と奇妙な鳴き声をあげるのがおかしくて、手を止めて笑った。かわいいけれど、変な声。
「え、あ、おねえ、さま……?」
「いい子ね、でも、鳴いてはだめよ」
艶然と微笑みかけると、妹は消音の魔法をかけられたように口をつぐんだ。
わずかに頬を赤らめるのを、首をかしげて眺めていると、遠くから誰かがやって来る。
そういえばさっきまで婚約者たちが遊びに来ていた。混ざりたそうにしていた妹を見咎め、それで、この池に突き落としたのだ、と思い出す。そのときに、腕を引っ張り込まれた。
そう、助けようと思ったわけではなかった。殺そうと思ったわけでもないけれど。
騒ぎになるのは面倒だから、妹はさきに部屋に返すことにした。魔法で、自室の、中庭に面した窓を開き、そのまま浮遊させた妹を放り込む。
それから婚約者たちを、気まぐれな姫らしく早々に屋敷から追い出した。いぶかしんでいたが、彼らはイヴェットの機嫌を損ねればどうなるか、よくわかっている。
逆に彼女の機嫌がよければ、彼らには思いつかない新しい遊びを教えてやるのだから、いずれにせよ逆らうのは損だ。子どもはみな残虐なことが大好きだから、最初は戸惑っても、最後には誰もが楽しそうに参加した。
その中には下女の恰好をさせた妹を的にしたものもあったけれど、もうアレを行うつもりはない。まあ、移り気な子どものことだから、彼らもきっとすぐに忘れてしまうだろう。そんな遊びのことも、そんな少女がいたことも。
そういうものだと、イヴェットはもう知っている。
部屋では、放置された妹が床で震えていた。寝台の上に落としたつもりだが、自分で床に控えたのだろう。行くあてもなくうずくまる姿は、ほんとうに猫のようだ。そうか、とイヴェットは気づいた。猫なら、首輪をつければいい。
「あなた、今日からここで暮らしなさい」
「え?」
理解が遅い妹を無視して、勝手に外を出歩かないよう、魔法で行動領域の縛りをつける。バスタブもトイレもあるから、この部屋と続き部屋だけでいい。あわせて、イヴェット以外の人間は入れないように、部屋を鎖せば完璧だ。
それから転移魔法で、かつて行ったダンジョンの下層から首輪を持ち帰った。獣化の首輪。獣人と睦みあうために皇女が使ったものだ。込めた魔力で、装着者を段階的に獣の姿に変えることができる。
とりあえず、体躯はそのままに、耳としっぽを出させる。髪の毛と同じ薄桃色がよく似合う。出現した獣の耳がぴたりと後ろ倒しになっているのが面白くて、指先で摘まみ上げた。薄い。ぴくぴくと動くさまが、かわいらしい。
もっと魔力を込めれば、意識まで猫に変えることもできると説明すると、いらないと首を振った。ほんとうの猫みたいに鳴けるようになるのよ、と囁けば、口を開いて、ミャアと。
「あら、うまいわね」
かわいらしい鳴き声を褒めて首元を撫でてあげると、イヴェットの猫はなきながら笑う。ああ、トパーズの瞳が蜂蜜みたいにとけてしまいそうだ。寝台の上に抱きよせ、その早鐘のように打つ心臓の音に耳を寄せる。
そしてイヴェットは猫を抱いて眠り、もう夢は見ない。
かつて妹を殺した罪悪感に押しつぶされて歪み毒姫と化した女は、かつて罰を恐れて品行方正な聖女となって世界を救った女は、いまはもう、どんな罪にも罰にも囚われない。
世界を毒することも救うこともなく、ましてや、周囲の男達が立場故のプレッシャーに追われて救いを求めていても、あるいは子供じみた正義感を発揮するための悪役を求めていても、見むきもしない。
子どもの行いを咎めだてもせず、正しもせず、ただ目の前の厄介ごとを覆い隠して、自分たちにいいようにだけ解釈して何もかもなかったことにする家族のことなど、気にもとめない。
孤児の少年が劣悪な環境に殺されても。
里を追われた少数民族が数を減らすまま消えても。
魔と人の間にいつまでも争いが続き、愛する者同士は結ばれず、国同士はいがみ合い、世界中に不幸があふれても。
それらすべてよりも、このトパーズのほうが彼女には価値があるとわかったから。
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