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第六章 その傷は絆になる

03.

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 十一月半ばの土曜日。

 私は朝から電車に乗ってお母さんに会いに行った。

 最後に会ったのは九月だったから、もう二ヶ月が経っていた。

 その間お母さんからは何度もメッセージを受け取っていた。

 『また会いましょう』、『美味しいものでも一緒にどう?』、『ちょっと聞いてよ。あの人ったら』、『今渋谷にいるんだけど』などといったメッセージには、『忙しいから』と返事をしたりしなかったりしていたのだが、ついに先日、看過できない文面のものが送られてきたので、しっかり対応せざるを得なくなってしまった。

 『何か困ってるの? 家に行きます』と、流石にこれは無視できない。

 希帆さんに迷惑がかかるし……これまでお母さんと連絡をとっていたと知られていまう。

 だから今日、私はわざわざ電車に乗って神奈川県の、お母さんが済んでいるという街にまでやって来た。

 武蔵小杉は写真のような街だった。

 電車の中吊り広告でたまに見る写真だ。

 触ったらすべすべしていそうな高いマンションが幾棟も立ち並び、煉瓦風の歩道は広く、街路樹は整った形をしている。

 こういう街で子どもを育てたいと、きっと世のお父さんお母さんは思うのだろう。

 いつか家を離れ独り立ちした子どもが思い出す風景は、こんな風景であって欲しいと願ったのだ。

 不意に呼吸が苦しくなった。

 きっとお父さんも、そんなことを考えて吉祥寺のマンションを買ったのだろうと思うと……。

 歩道や小さな公園には、家族連れの姿が多い。今朝はよく晴れている。

 しかし、遠く西の空はに雲の影がある。予報でも、午後は天気が崩れるという。

 お母さんとの話は早く終わらせよう。早く帰って、勉強しよう。



「もう、遅いじゃない」

 お母さんは詰るような調子でそう言った。

「大体時間通りでしょう」

 相手にせず、向かいの席に座る。

「それより煙草」

「……まったく」

 お母さんは雑な手付きで煙草を灰皿に押し付けた。

 清潔で清浄なこの街にもまだあるんだ、と呆れるような古ぼけた喫茶店が、お母さん指定のお店だった。どこに行ってもこんなお店はまだあるし、お母さんみたいな人もいるんだろうなと軽く鼻で笑ったら、それが気に障ったようで、お母さんはますます苛々したような口調で言った。

「ねえ、いつまで待たせるの?」

 そっちの勝手な都合で呼びつけておいてそれ?

 とは思ったけれど、流石にそれは直接的過ぎる。会う必要があるのはお母さんの方だけど、私にだってここに来る理由がある。希帆さんの
めに、私は我慢しないといけない。

「まだ考える時間が欲しいなんてことはないでしょう?」

「ん……」

「どんな暮らしになるか不安? 不安があるならうちに来ればいいわ。すぐそこだから」

 ああ、それで今日お母さんはこの街に呼んだのか。

 以前言っていた、タワーマンションの最上階、ワンフロア全部を専有した部屋。きっと内装も家具も清潔で清浄で、でも煙草の臭いが染み付いている。

 行きたくない。いつかは行かなといけないのかもしれないけれど、今はまだ。

「……今日は無理。最近勉強で忙しくて」

「勉強?」

 お母さんは、『何を言ってるの?』と言わんばかりの顔をした。

「そう、勉強。……あ、すみませーん。アイスコーヒーお願いします」

 カウンターから出てこないヒゲのお爺さんにそう注文すると、お爺さんはちらりとこちらを見て頷いた。

 視線を戻すと、お母さんは何か考え込むようにテーブルを見ていた。

 それから、徐にこう切り出した。

「……男?」

「は?」

 思わず声が大きくなってしまった。

 どういう思考回路をしていたら、そこに行き着くというのか。

「男でしょう? 忙しいって言うときは大体そうなのよ。何か変わったときもそう。男に合わせてるのよ。ねえ、そうでしょう?」

 お母さんはそう決めつけ、問い詰めてくる。

 と、そのときちょうどお爺さん店員が、テーブルの脇に立った。

「……お待たせいたしました」

 テーブルにグラスを置かれる。来るのが早くないか。缶コーヒーをそのままグラスに注いだだけなのでは? と思うくらいに早く、それは来た。

 とはいえ文句はない。どうせ味には何も期待していないし、お母さんの追及をいなし、落ち着きを取り戻すにはベストなタイミングだった。

 よく安曇は私に『察しがよい』と言うが、それはお母さんにこそふさわしい言葉だ。これまで私は鹿島くんのことを匂わせる発言などしていない。記憶している限り、一度もだ。

「どんな男なの?」

 私が何も応えないにも関わらず、お母さんは自分の想像を事実と疑うことなく話を続けた。

 まあ、間違ってはいないのだけれど。

「弱い男じゃないでしょうね?」

 アイスコーヒーに伸ばそうとしていた手を、思わず震わせてしまう。

「ああ。そうなのね、やっぱり」

 と、私の動揺を見てとったのか、お母さんは独り勝手に納得したようだった。乗り出していた身を背もたれにつけ、わざとらしく肩でため息をついた。

「……何がやっぱりなの?」

「だってそうじゃない? 私の初恋と同じだもの」

「初恋? お母さんにそんなのあったの?」

「そりゃあるわよ。女は皆初恋をするものなの」

「生まれたときから不倫してたのかと思った」

「舞夕、あなた滅茶苦茶なこと言うわね」

「お母さんもね」

 お母さんは薄く笑った口許にカップを持っていった。

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