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第五章 私は頭が悪くなった

01.

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 お見舞いから帰った私は、汗だくになった制服を脱ぎ捨て、すぐに机を掃除した。

 マンガと、化粧品と、ロフトで買った文房具と、コンビニのくじで当てたキャラグッズと、当てられなくてネットオークションで買ったレネのクリアファイル。

 机の上に散らばった物を片付け、その隙間に溜まっていた埃を拭き取った。

 夏休み以来、学校では勉強していたけれど、家では全くしていなかった。

 掃除、洗濯、料理はしないといけないし、急に真面目に勉強しだしたら希帆さんに訝しがられるかもしれない。

 でももうそんなことどうでもいい。

 鞄をひっくり返し、教科書とノートを広げる。

 何のために勉強するのか。

 一瞬だけ、そんな問いが浮かんだ。

 だけどその問題を解くのは後でいい。今はとにかく勉強、勉強、勉強だ。



 その日から勉強漬けの日々が始まった。

 学校では授業をしっかり聞くようになった。最初は授業時間を内職に充てようとしていた。二年生一学期までの内容を理解して切れていない状態で今の授業を聞いてもついていけないと思ったからだ。けれど、内職は効率が悪いと気づくまでにそう時間はかからなかった。関係のない話をされていると集中は妨げられるし、授業では教科書に加えて先生が解説をしてくれるのだから吸収の効率がよい。足元が覚束ない状態であっても、授業中には授業を聞いてノートを作ることにした。

 放課後には遊びに行くのを止めた。そんな時間の余裕はない。鍵を借りて空き教室で一人自習をしてから、真っ直ぐ家に帰るのが日課になった。空き教室には余分なものが周りにないので勉強に集中できるし……鹿島くんと同じく、いつの間にかそこに通うのが私のルーティーンになっていた。とはいえ家事をなおざりにすることもできない。ある程度で切り上げて帰るというペースが私には合っていた。

 放課後の寄り道を止めたのは、何も勉強のためだけではない。病室前で別れて以来、安曇と口を利いていないのも一因だ。同じクラスなのだから話す機会など無数にある。でも、私も安曇も自分から話しかけようとはしなかった。

 安曇に訊きたいことはあった。もちろんあった。

 鹿島くんはどうしている? 具合は? 勉強はしていないの? ……私のことは何か言っていない?

 聞けるわけがない。

 恐らくだけど、鹿島くんは学校に来ていなかった。違うクラスだから確信はないけれど、もし来ていたら一学期の頃のようにもっと目についていたはずだ。

 安曇と話さず、鹿島くんもいない学校で、私は文字通り一人で独りだった。おかげで休み時間にはみっちり勉強ができた。



 家では家事で手が埋まっているとき、希帆さんと居るとき以外の時間を全て勉強に費やすようになった。

 掃除のときは難しいけれど、洗濯や料理のときには待ち時間が発生するので、その隙間に単語や年表など暗記科目を脳みそに詰め込むようにした。一回だけ鍋を焦がしてしまったけれど、ながら家事にもすぐ慣れた。

 希帆さんと食事をしたり、お茶をする時間だけはしっかり確保した。突然勉強しだしてどうしたのかと思われるのを避けるため、というのももちろんあった。だけどそれ以上に、勉強居合の時間が欲しかった。

 脳を休める時間。人と話す時間。そして、穏やかな時間が。

 夜、希帆さんは日付が変わる頃寝室に行く。すぐ眠りに就くのかは知らない。もしかしたら一人で何かしているのかもしれない。

 ともかく、そこからが勉強時間・夜の部だ。最近は暑さも和らいできたので、窓を開け、外気に触れながら机に向かっている。いつも二時間くらいは勉強するのだが、週に二、三回は寝落ちをしてしまう。朝起きると身体が強張ってしまっていて、朝ごはんの準備にも勉強にも支障が出る。何とかしたいとは思っているけれど……。

 そういえばここしばらく『アイスト』でライブをしていない。スタミナが溢れても気にならなくなった。一回のライブにかかる時間は三分程度。それだけあればノートが五行はつくれるし、単語が三つは覚えられる。

 ただ、一日に数回起動だけはしている。レネの顔を見るのは私のルーティーンだし、彼女が頑張っているのを見ると私も負けていられないと思えるからだ。



 お母さんからは時々連絡があった。

 『またお茶しましょう』とか『今新宿に来ているけれど、出てこられない?』とか『こないだの返事は?』とかだ。

 メッセージの通知を見るたび、舌打ちをこぼしてしまう。かかずらっている時間がもったいない。

 大概は無視するけれど、そうすると追撃がたくさん来るし、時には電話までかかって来るので、『今勉強で忙しい』とだけ返してお茶を濁すのが恒例行事となっている。



 勉強を再開してから、後悔することが増えた。

 どうして私は一年もの時間を無駄にしていたのだろう。

 私は、時間の価値を知らなかった。

 夜中に独り泣くことがある。

 できない。

 理解できない。

 だから覚えられない。

 集中が切れる。目が文字の上を滑る。

 昔はこんなじゃなかった。

 私は頭が悪くなった!

 そんな思いが去来すると、目頭が熱くなる。

 できなくて泣くなんて、レネみたいだ。レネは偉いと思っていた。泣きながら勉強を続けるレネは偉くて、自分とは違うと思っていた。

 違うことなんてないし、偉いわけでもない。いや、レネは偉いなんて褒めて欲しいわけじゃない。誰かに何かを求めているんじゃない。

 ただ、やるという意志があるだけだ。

 視界がぼやけると文字が見えない。涙がノートに落ちると文字が滲む。

 目許を拭う時間が惜しくて、泣くのは効率が悪くて、後悔なんて脳の容量の無駄遣いで……。

 頭を埋める雑念を飛ばすためにも、私は手を止めるわけにはいかなかった。

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