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第二章 勉強なんてしてどうするの

05.

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 『何を今更』。

 そう答えればよい話だった。

 今更一緒に暮らそうだなんて、どの口が言うのか。

 即答できるはずの問い。当然口にすべき一言。

 でも、昨日の私はこう答えた。

 『考えさせて』と。

 私の頭には、季帆さんの顔が過ぎっていた。

 家ですっぴんのときには子どもっぽく見えるあの顔。

 休日に近場に出かけるときの、軽いお化粧で昔の服を着ていると女子大生にも見えるあの顔。

 お母さんとは違って目許にも口許にも皺のないあの顔。

 まだ二十九歳の顔。

 彼氏がいたっておかしくない顔。

 これからのある顔。

 季帆さんは、独りぼっちになっていた私を救ってくれた。

 『舞夕ちゃんが自分の力で生きられるようになるまでは、私がいっしょにいます』と、そう言ってくれた。

 今、私にできる恩返し。それは季帆さんを解放することだ。

 今更お母さんと暮らすなんて嫌だ。吐き気がする。しかも知らないおじさんが付いてくるなんてもう最悪だ。

 でも、私を引き取ろうとしてくれているし、聞いている限り相当に裕福な暮らしができている。お母さんは『勉強なんてしてどうするの?』と言っていたけれど、大袈裟な話ではなく、本当に勉強も仕事もせずに残りの人生を過ごせるのかもしれない。

 だとしたら……。

「おい」

 急にかけられた声に、体がびくりとはねる。振り向くと、隣の席から鹿島くんがこちらを見ていた。

「どうかした?」

「どうかしたはこちらのセリフだ。今日はおかしいぞ」

「え、何かおかしい? 大人しくしてたと思うけど」

「それがおかしいと言ってるんだ。今日は無駄口叩かないし、スマホでサボらないし、問題を解くペースもいいし、正答率も高い。変だぞ?」

 酷くない?

 とは言わない。分かっている。これが自業自得だということくらい。

 しかし、改めて考えてみると確かにおかしい。

 今日はいつもより集中できている。もうこの先勉強なんてしなくていいかもなんて、そんなことを考えているにも関わらず。

「……鹿島くんのおかげかな」

 そう呟くと、鹿島くんは「え」と口を開けた。

「集中できてるのは、ちょっと分かるようになってきたからかも。最初は何が何だかさっぱりだったから辛かったけど、意味が分かるとちょっと面白いっていうか。あと、私だってちゃんと卒業はしたい。大事な人に心配はかけたくないよ」

 つらつらと、そんな嘘が口から飛び出た。

 嘘、なのかな。心にもないことではないのかもしれない。

 留年はしたくない。卒業はしたい。季帆さんに心配かけたくない。

 何故手と頭を動かしているのか、自分でも意識できてはいないけれど、多分心の奥底にそんな気持ちがある。

 矛盾していると、自分でも思うけれど。

「……そうだな。心配はかけたくたないよな」

 と、鹿島くんは呟いた。

「で、ノート作りは進んでるか?」

 それから鹿島くんは身を乗り出して私のノートを見た。

 今私は一学期の授業を受けている。正確には、鹿島くんのノートを先生にしたバーチャル授業だ。

 自慢ではないが、私は一学期の授業を一パーセントも真面目に聞いていない。鹿島くんは、一通り試験範囲とその内容を教えた後、今度は『授業を受けているつもりで自分なりのノートを作れ』と指示を出した。『自分なりにまとめる、というアウトプットをすると理解が深まるし、どこの理解が不十分か自覚できるぞ』と鹿島くんはこの勉強法の意義を語った。

 というわけで、今私は、一学期の授業をほぼ完璧に理解しきっている鹿島先生直筆のありがたいノートを先生として自分のノートを作っている。一学期の授業をバーチャルで受けているようなものだ。

 鹿島くんは補習が必要なくらい一学期の授業を休んでいたはずなのに、どうしてノートができているのか。私がそう訊くと、彼は『ひまりが……安曇がとってくれたんだ』と目を逸らしながら答えた。

 ノート作りを初めてから、授業を聞いておけばよかったと何度も後悔した。一日に六時間とか七時間を約三ヶ月分、それだけの授業を夏休みの一ヶ月で、しかも先生無しで学習するというのは、もうどうしたって効率が悪いし、労力が多大過ぎる。

 しかも私の場合、一年生の二学期、三学期の授業内容もすっぽり抜けている。二年生の授業ともなれば、当然、一年生の内容を前提にしている。当たり前のように書いてあることが分からない、という最初の一歩での躓きも多く、これがまた辛い。

 それでも今日は集中して勉強を続けられていた。

 ……別のことを考えながらの状態を、集中できているといえるのならばだけど。

 それでも、私のノートを覗き込んでいた鹿島くんは「悪くない進みだな」と満足気に頷いた。

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