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第二章 勉強なんてしてどうするの

04.

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 翌朝登校すると、鹿島くんはいつものように自分の席で教科書を広げていた。そして何事もなかったかのように「おはよう」と挨拶をしてきた。だから私も「今日も早いね」と返事をした。

 前日置きっぱなしだった教科書や辞書が使われているのを見て、思わずほっと息を吐く。昨日は鹿島くんがいつ戻ってくるか分からず、そもそも戻ってこない可能性もある状況で、その忘れ物を届ければいいのか放っておけばいいのか分からず悩んでいたから、当然のように昨日と同じく教科書を広げている鹿島くんの姿を見て、『放っておいて正解だった』と胸をなでおろしたというわけだ。

 そして、『昨日は何もありませんでしたよ』という顔で真面目に勉強をするというのが、きっと今日の正解だ。

 だから私は、教科書の復習をして、分からないところを鹿島くんに教わって、お弁当を食べるときには教科書を読んでいる鹿島くんの邪魔をしないようにした。

 それは、午後になって数学の演習問題を解いているときのことだった。

 鞄から、突然唸り声があがった。スマホのバイブだ。

「おい」

「ごめん。サイレントにし忘れてた」

 睨みつけてくる鹿島くんに詫びを入れ、スマホを取り出す。

「え」

 画面を見て、思わず声を出してしまった。鹿島くんが動く気配がする。けれどそちらを見ている余裕はない。視線は画面に釘付けで、着信、表示された名前は、何で今更、何の用があって、そういえば連絡先消してなかったし、番号は変えてないみたいで、どんな声で、何を言ったら……。

「出なくていいのか?」

 鹿島くんの声で我に返る。そうだ。とにかく話をしないと。まずはそれからだ。

「ごめん、ちょっと行ってくる」

 席を立つ。廊下に向かう。途中の机を蹴ってしまう。小さな舌打ち。こんな姿、見られたくない。

 教室に比べると、廊下は薄暗かった。スマホの黒い画面、そこに浮かんだ発信元、私が登録した名前、私の呼び方、私から見たその人。

 お母さん。

 通話開始の緑のボタン、そこへ向かう指が震える。気を抜いていると、赤いボタンに手が伸びる。

 何とか緑のボタンをタップする。

「……もしもし?」

『舞夕? もう、中々出ないからどうしたのかと思っちゃったわよ』

 数年振りに聞く声が、私の耳朶にまとわり付いた。



「ああ、舞夕! こっちよ、こっち!」

 こもった空気の向こうから、声が聞こえる。奥の方の席でお母さんが手を振っている。その手には小さな白い棒。口の中で小さく舌打ちを鳴らす。

 お母さんが待ち合わせに指定したのは、吉祥寺の古い喫茶店だった。普段安曇と行くカフェとは違う。ラテアートもカップの落書きもないし、お店のページには分煙と書いてあったけど、実際には壁も仕切りもなくて、禁煙席とは名ばかりの罰ゲーム席しか用意されていなかった。どちらにしろお母さんは喫煙席でぷかぷか煙を吐いているので関係ないけれど。

「お母さん、吸うようになったの?」

 席につきながら尋ねると、お母さんは「嗜み程度にね」と答えた。

 私は昔から煙草が嫌いだ。幼い頃には喘息があって、その頃私を苦しめた咳が今でも怖いし、目が乾くし、髪や服に嫌な匂いがつく。

「昔は吸わなかったのに」

 と口にした瞬間、ある記憶がフラッシュバックした。

 確かにお母さんは煙草を吸ったりしなかった。『お母さん』だった頃は。でもその末期、お母さんはしばしばその気配を纏っていた。

 お父さんが入院したのは、私が小学四年生の頃だった。当初、お母さんはよくお見舞いに来た。だけど次第にその頻度は減っていった。ある日、病院から帰った私が家の玄関を開けると、三和土に見知らぬ男が立っていた。その男は目を見開いて驚いた後、慌てて家の中へ振り返った。上がり框に立ったお母さんは『お父さんがお仕事でお世話になってる方よ。心配して来てくださったの。舞夕もご挨拶なさい』なんて、平然とそう言ってのけた。男は『早くよくなるといいなあ』とか抜かし、急いで立ち去った。すれ違いざま、男からは嫌な臭いがした。玄関にも廊下にも台所にも寝室にも、そこかしこに嫌な臭いが漂っていた。でも、一番臭いのはお母さんだった。

 我ながらよくこんな細かいところまで覚えているものだ。臭いで記憶を呼び起こされるなんて。どうせなら紅茶とマドレーヌがよかった。それならもう少し綺麗な思い出が甦ったろうに。

「ねえ、煙い」

「あら、そういえば駄目だったわね」

 手を振り文句を言うと、お母さんは煙草を灰皿に押しつけた。

「まだまだお子さまね」

 分かっている。お母さんはこういう人だ。

 自分の油断が娘の心に傷を残したと気づかないのはもちろん、娘が昔喘息だったことすら平気で忘れてしまう。

 落ち着くために深呼吸をしたいところだけど、辺り一面汚れた空気しかない中なので、息は止めているしかない。

 店員さんが寄ってきたので、メニューを見ずにアイスコーヒーを頼む。それならどのお店にもあるだろうと思ったのに、店員さんは豆の種類を選べときた。心の中で舌打ちしながらメニューを開き、適当な片仮名を指差す。こんな臭い空気の中で味の違いなんて分かるわけないのに。
「ケーキも頼んだら?」

「いらない」

「えー。このお店の、美味しいのに」

 そんなことより早く出たい。抜けたい。帰りたい。

 それに代金は自分で払うつもりでいた。変に借りなどつくりたくない。余計な出費はごめんだ。

「で、今更何の用があるの?」

 私が切り出すと、お母さんは眉をひそめた。

「今更なんて、母親に向かってご挨拶ね」

 心の中でお湯が煮立った。それこそ『今更』母親面するなんて、どういう神経してるの。

 立ち上がって帰ろうと思った瞬間、ちょうど店員さんがやってきた。そして、「こちら@・%○です」と何語かすら分からないカタカナの名前を呟いてアイスコーヒーを置いていった。

 グラスについた水滴を見て頭が冷えた。自分でも驚くくらい、熱が引いた。

 この人はこういう人だ。私こそ『今更』怒ってどうする。この人に期待なんてするだけ無駄なのに。

「で、本当にどうしたの? 用がないなら帰るけど」

 お母さんは何か言いたげに開きかけた口を、きゅっと結んだ。

 ああ、そのくらいの計算と自制はできるんだね。呼び出したからには、私に用があるはずなのだ。私に何かを話す必要が、お母さんにはある。ここで帰られては困る理由がある。

「……ねえ舞夕。あなた、まだあの女と暮らしてるの?」

 ぴり、と神経が貼り詰める。

 お母さんに理由があるように、私にも理由がある。今この場から帰れない理由、そして今この場に来た理由が。

 お母さんが今何をしているかなんてどうでもいい。私の近況を知らせようとも思わない。ただ……もしも季帆さんに害が及ぶようなら、私にはそれを食い止める義務がある。責任があるのだ。だから私は知らなくてはならない。お母さんが、何を思って私に連絡してきたのかを。

「普通に暮らしてるよ。……お陰さまでね」

 確かに会話は続けなくちゃいけない。でもこのくらいの棘を刺してもいいでしょう? 何が『あの女』だ、アバズレクソババア。

「普通ね。他人と暮らすのが普通なの? 苦労してるんじゃない?」

「別に。そういうお母さんはどうなの? 他人と暮らして」

 私が皮肉で返すと、お母さんは身を僅かに乗り出した。

「ええ、私も大変だったのよ。前の旦那も最初は羽振りがよかったのに、事業に失敗しちゃってね。苦労させられたわ。自由が丘にあった家も手放したし、パートに出てくれないかなんて言うのよ。やんなっちゃう」

 お母さんは顔を輝かせてしゃべり続けた。結局自分のことを話すのが楽しくて仕方ないのだ。私の皮肉なんてものともしない。

 というか『前の旦那』って。あの臭いおっさんは捨てたんだ。

「でもそんなとき今の旦那に出会えたの。奇跡、いえ、きっと運命だったのね。今は何の苦労もしてないわ。ちょっと遊び好きなんだけど、それも男の甲斐性ってものよね」

 この話、いつまで続くんだろう。グラスの氷は半分くらい融けている。全部融けたら帰るというのはどうだろう。早く融けないかな。

「今は武蔵小杉のマンションに住んでるんだけどね、最上階でとっても広いの。ワンフロア全部専有してるのよ? 代行さんに来てもらってるんだけど、もうお掃除が大変みたいなの。おうちのことはどうしてるの? だってその人、働いてるんでしょう?」

 水滴を数えているところにいきなりの質問が来た。これには私もびっくり。お母さん、私に興味あったの?

「家事は大体私がやってるよ。き、えっと、忙しそうだから」

 『季帆さん』と口にしかけたけれど、慌てて止めた。何となく名前を呼びたくなかった。

「あら、やっぱり大変じゃない。代行さん呼ぶような余裕はないんでしょ? 子どもに苦労させるなんて、ねえ」

「は? そんなに大変じゃないって。勉強もちゃんとやってるし」

 と、言い切ったところで気がついた。また私、頭に血が上ってる。だってそうじゃなきゃこんな嘘つかない。勉強をちゃんとやっているだなんて。

「勉強ねえ。勉強なんてしてどうするの? 学者にでもなるの?」

 お母さんがそう言って鼻で笑った瞬間、私はやっぱり怒りを覚えた。でも、それは私が馬鹿にされたからではなかった。だってそもそも私は勉強なんてしていない。私が怒ったのは、鹿島くんを馬鹿にされたように感じたからだ。

「ねえ、舞夕」

 テーブルを見下ろし、考え込んでいた私を、お母さんが呼んだ。

 そして爆弾を投下した。

「また一緒に暮らさない?」

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