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第二章 勉強なんてしてどうするの

03.

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 翌日も、その翌日も、空き教室には鹿島くんが先にいた。

 私は、カフェには寄らなかったけれど、コンビニでアイスコーヒーを買っていった。鹿島くんにも「お世話になってるし」と差し入れに同じものを持っていった。鹿島くんは一口飲んで「苦い」と呟いた。見た目からは聡明で怜悧な印象を受けるけれど、これで結構な子供舌なのかもしれない。

 次の日からはアイスのカフェオレにした。私だけアイスコーヒーをブラックで飲んでいたら、恨めしそうな顔をされたので、私もカフェオレを買っていくことにした。

 空き教室には、時々安曇が来た。

「どう、やってるー?」

 と、安曇は赤のれんでも潜るようなノリでやってきて、鹿島くんや私にちょっかいを出していった。

「私? 教室で友だちと勉強してるよー」

 安曇はそう言っていたが、まあ、勉強しているわけがない。ただ遊びに来ているだけだろう。安曇のことだから、ご飯を買ってきたり、カフェで甘いものを買ってきたりして、おしゃべりしているに決まっている。

 それにも飽きたタイミングで空き教室を覗きに来ているのだろう。来るときは日に数回来るし、来ないときは数日来なかったりした。気まぐれにも程がある。私なんか毎日朝八時二五分にちゃんと登校しているというのに!



 試験範囲がどこかを教わってからは、自分で教科書を読んだ。現代文も世界史も英語も、読めはするけど何も頭に残らない。印刷された文字が、黒いインクのまま目を滑っていく。意味が引っかからない。おかしい。昔はこんなじゃなかったはずなのに。脳の皺がとれてツルツルになったみたい。

「……この単語、どんな意味だったかな」

 鹿島くんに聞こえるように一人言を呟き、スマホを取り出して『アイスト』を起動する。集中できないのは、スタミナが溜まっているからだ。きっとそう。これは勉強のために必要なのだ。仕方ない。

「……検索すれば出てくるかなあ」

 脳みそと分離した口で適当なことを呟きながら、スマホをたぷたぷと操作する。お気に入りの曲を選び、レネをセンターに据えたユニットでライブを開始。音は出さない。音など聞かなくても目押しでクリアは余裕なので。こういうゲーム、何て呼べばいいんだろう。もう音ゲーではない気がする。

「……なあ」

 隣の席から、鹿島くんの声がする。

「何ですか」

 その程度で私の集中は途切れない。音がなかろうと目押しでノーツは余さず拾う。

「単語を検索するのに、君はスマホを横に持つのか」

「この方が文章読みやすいの」

「そんなに忙しなく指を動かす必要あるのか」

「この辞書テンポが早くて」

 不意に気配を感じた。側頭部、空気の動く感触。

 正面に据えたスマホごと横を見る。

「鹿島くん!?」

 すくそこに顔があった。鹿島くんの横顔が、五センチ先に。

「何が単語だ! やっぱりゲームじゃないか!」

 すぐそこで響く鹿島くんの声。その顔には怒りと呆れとを足して二で割らなかったような表情が浮かんでいた。

 思わず立ち上がると、椅子ががたんと音をたてた。

「びっくりした! 人のスマホ覗くなんてマナー違反!」

「人に教えを請うているのにサボってゲームはマナー違反じゃないとでも?」

「……や、いやね、これは集中を取り戻すための息抜きでね」

「嘘をついたのは?」

「う」

 鹿島くんの真っ直ぐな視線から顔を逸らす。スマホの画面が目に止まる。ライブは失敗に終わっていた。しまった。失敗なんていつぶりだろう。授業中だろうとこんな失態を演じたことはないというのに!

「まったく」

 鹿島くんは自席に戻っていった。さすがに機嫌を損ねているようだ。

「……ごめんなさい」

 謝罪の言葉にも、鹿島くんは反応しない。もしかしてやばい?

「えっと、その、」

「鶴崎さん」

 唐突に名前を呼ばれ、「はい!」と元気に返事をしてしまった。

「そんなゲームに時間を費やして、無駄だと思わないのか?」

 なかなかにきついお言葉だった。

 口調に厳しさはなく、責めるというよりは本当に分からなくて訊いているといった感じだった。

 だけど、それが却ってきつかった。

 鹿島くんの問いは、私の心の底にまで届くくらいの、穿った問いだった。

「……鹿島くんは、報われない努力に意味ってあると思う?」

 席に座りながら、そう尋ね返す。

 鹿島くんは答えなかった。ただ私を見て、考え込んでいるようだった。誠実な人だなあと、改めてそう思った。
「ゲームにはシナリオがあるでしょ。どんなに辛くても、苦しくても、スコアをとれば必ず報われる」

 レネは今、追い込まれている。辛くて苦しい状況にある。でもハイスコアをとれば、この先必ず報われる。

「でも現実ってそんなうまくいかないよね。努力が報われる保証なんて、どこにもない。テストで良い点とって、受験勉強頑張って、偏差値高い学校行ったって、自分の努力と全然関係ないところで足場が崩れることだってあるのよ」

 東京の都心にある、名門の私立女子校。その中等部に受かったとき、お父さんは全身全霊で喜んでくれた。『中高一貫だから、高校受験なんて気にせず将来のために好きな勉強ができるし、一生ものの友だちができるぞ』とお父さんは自分のことのように誇らしげだった。

 でも、名門私立は学費が高い。病室のベッドに伏せたお父さんに『都立だって良い学校だから』と告げたとき、お父さんは『楽しい学校だといいな』と寂しげに笑った。それから『心配かけてすまん』と呟いた。

 お父さんを安心させるため、私は必死に受験勉強をした。そうして都立井の頭高校に合格してからも、私は机に食らいついた。次には大学受験が控えている。学費の安い国公立大学に行きたい。医学部に入りたい。お父さんの病気を治したい。あの頃の私は努力を惜しむことを知らなかった。

 もうすぐ一学期の中間テストが始まるというある日。高校生になって初めて受けるテストに向けて、私は授業に集中していた。三時間目の化学の授業。廊下を近づいてきた足音が、私たちの教室の前で止まり、ドアを開けた先生が蒼白な顔で『鶴崎、病院から電話が』と告げた。
「偏差値高い大学入って、良い会社でたくさん稼いで、美人と結婚して、マンション買って、娘を育てて……そんなに頑張ってても、病気になったら全部パー。いつ死ぬかなんて、分からないんだよ?」

 黙って私を見ていた鹿島くんが、ゆっくりと口を開いた。

「……一理ある」

 出てきたのは意外な言葉だった。鹿島くんは否定するだろうと、そう思っていた。だって鹿島くんは努力の人だ。こないだ安曇としていたときの発言は、今でもよく覚えている。

 『期末テストで一番になれなかったら死ぬ』と。

 それに対し、安曇はこう言っていた。『そういう覚悟ってだけだよ』と。

 こう言っては何だが、たかが期末テストだ。一番になれなかったら死ぬなんて、そんな馬鹿な話はない。例え一番になったところで、それで報われるなんてことはない。絶対にない。高校最初のテストで一番になった私が言うのだから間違いない。

 意味のない一番にこだわるのは、一番という結果に至るまでの過程、つまりは努力を大事にするから。鹿島くんはそうした価値観を持っているのだと思っていた。

「確かに、君の言うとおりだよ」

 そう言って、鹿島くんは席を立った。

「報われない努力に意味なんてない。だから……意味は見いださなくちゃいけない」

 そしてそのまま廊下へと出ていった。私には背を向けていたから、表情は伺えなかった。

 ただ、置き去りにされた分厚い国語辞書が、開きっぱなしの教科書が、彼の表情を映し出していた。

 その日、鹿島くんは戻ってこなかった。

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