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第九十八話
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「やだ―――っ! ボクも行く―――っ! 二十年前は我慢したんだから、今回は行くの―――っ!」
駄々をこねているのが三歳児なら、なんの問題も無い。
・・・が、三十歳児では、問題がありすぎる。
そもそも三歳児が、二十年前のことを明確に記憶していて根に持っていることはありえない。
ベアトリスを幸せにするって自信満々で言い切ったの、忘れたんですか? と、奈々実は言いたかったけれど、言える立場ではないかなと思って黙っている。
セヴランは苦虫を噛み潰したような顔でそっぽをむいている。駄々をこねる三十歳児、という、情けなさの極みのような生き物が自分の兄だなんて思いたくない、他人になりたい、という心の声が聞こえてくるようだ。
「行かせてくれないんだったらフライング・ソーサーはあげないもん! 椅子つきのだって作ってあげないんだからねっ!」
なんなんだそのお子ちゃまの理論はっ。呆れてものも言えない。
「エル。だから何度も言ったでしょう? 身体を鍛えなさいって。剣術も馬術も学堂卒業前のレベルでしょ? ついでに言うなら体力もそのレベルだよね? 二十分以上馬に乗れたこと、無いよね? この国を出る前に熱出して引き返すのが、目に見えるようだよ? ワガママ言うともう・・・してあげないよ?」
そのボヤかした部分は何を言ったんですか殿下!
聞きたいような、聞いたら激しく後悔するから聞かないほうが身のためであるような。
麗しの王太子殿下が白皙の美貌の駄々っ子を抱き寄せて耳元に口を寄せて、その時点でBでLのただならぬ世界のニオイがするのに、その口調、そのセリフ、意味深すぎて砂を吐きそうです! わたしは腐女子ではありませんので免疫がありませんっ! ・・・という奈々実の心の声は、誰にも聞こえない。
「ナナミ。そろそろ行こう。早くしないとポートタウンに着く前に日が暮れてしまう」
セヴランは見たくないものはまるっと無視する主義であるらしい。王太子と実兄とがくりひろげている香ばしい世界を完全に見なかったことにして、奈々実を馬車に乗せてさっさと帰途につく。来た道なら一時間だが、街道を馬車で戻るとなると、三時間以上かかるのだ。セヴランはそんな時間の無駄は極めて不本意だったが、怪我をしているニケに無理をさせたくないので、仕方がない。
アンリが遣アルヴィーン使に任命される件に関しては、奈々実はセヴランから聞いた。そのこと自体は承認されたことで、特に秘密にするようなことではない。マルセルの軽い口から、軍人たちの間に広まることは目に見えている。
完全に部外者、そもそもベルチノアの民ですらないリュドミラの耳にも、遣アルヴィーン使の話は入った。するとリュドミラは、わざわざセヴランのもとに足を運び、改めて丁重な礼を述べた上で、自分が知っていることを話してくれた。セヴランの知っていることよりも少しだけ新しいアルヴィーンの情報として、それは些細なことかもしれないが、伝えることで役に立ちたいと思ったらしいリュドミラの気持ちが、ありがたいものだとセヴランは思った。
『アルヴィーンのイングリッド王女が異世界からの迷い人を保護されていることはつとに有名ですけど、ご寵愛の噂は真っ赤な嘘ですわ。だって、保護しているのは一人だけ、それも王女と同世代の女性だそうですもの』
リュドミラがハヴィガンを離れる少し前に、ハヴィガンに地質調査に来たアルヴィーンの人間から聞いた話であるという。男メカケを何人も囲っている、などという下卑た噂は、ヴィクトリア王太女の取り巻きが流している悪質な流言飛語であるらしい。いずれにしても、噂は噂でしかないからなんとも言えないが、少しはラガルドの胃痛を緩和する情報になるだろうか。
『亡命貴族のお父上が故国での思い出話に、黒髪の女性について話されていたとか。内容まではわかりかねますが、黒髪の女性が死にかけているのを無視できないような強い思い入れがあるようだと伺いましたわ。死を待つばかりなほどに衰弱されていた迷い人を手厚く保護して、イングリッド王女の魔力で長らえさせていらっしゃるとか。それが可能な心のつながりが、場合によってはご寵愛に見えてしまうのかもしれませんわね』
副使には身分を隠したリシャールが行くのだということについては、絶対に極秘事項、セヴランは奈々実にも言わなかった。ただし、エルネストにはリシャール本人が漏らしたらしい。で、その結果があの駄々をこねる三十歳児である。二十年前、セヴランがアルヴィーンに留学することが決まった時も、同じようだったのだそうだ。駄々をこねる相手がリシャールではなくて父のフェザンディエ伯爵だったところが違うだけで、まるっきり同じようにぎゃーぎゃーうるさかった、と、セヴランが遠い目で言う。声変わりしていない少年の声だったので、今でも耳に残っているのだそうだ。
「ベアトリス・・・さん、を幸せにするよ! って、自信満々に言ってましたよねえ? それなのに『ボクも行くうー!』って、じゃあベアトリスさんをほったらかして行くつもりなんですかねえ?」
奈々実がエルネストの口真似をする様子に、セヴランは噴き出しそうになった。
「兄貴は目の前の欲望だけしか見えなくなるタイプなんだよな。子供の時からずうっと、変わらない」
「セヴラン様と、顔は似てますけど、性格は全然違いますね」
「顔も似ているとは思いたくないな」
セヴランは基本的にアウトドア派というか、仕事上も外で馬に乗っていたり剣を使うこともあって鍛錬を欠かさないから、筋肉もしっかりあるし、陽に焼けて逞しい。性格的にもそういう生活態度を反映して、質実剛健でありながら明るく誠実で優しい。アルヴィーンの学舎で規律正しい生活をしていたり、軍隊経験もあるから協調性もちゃんとあるし、紳士的だ。アルヴィーンへの旅の経験によって忍耐力も養われている。普通は長男のほうがそういうタイプで、次男がヤンチャ坊主、というパターンが多いのではないかと奈々実は思う。
エルネストはインドア派でひょろいくせに我が強くて、自分のことを客観的にも見れないほどお子ちゃまで、自分が体力が無いくせにそのことを棚に上げて、オタク的で協調性とか欠片も無い。もしもあれであの頭脳と白皙の美貌が無かったら、クラスでは絶対にハブかれるタイプだと思う。
―――イケメンって得だよねえ・・・。―――
セヴランとよく似ているけれど、エルネストの眸のあの狡猾な感じは、子供っぽくてめんどくさい。半日も一緒にいたらくたくたに疲れる。セヴランとだったら、ずうっとずうっと一緒にいたいと思うのに。
奈々実は自分がそんなふうに思うようになった、自分の変化に気づいていない。
駄々をこねているのが三歳児なら、なんの問題も無い。
・・・が、三十歳児では、問題がありすぎる。
そもそも三歳児が、二十年前のことを明確に記憶していて根に持っていることはありえない。
ベアトリスを幸せにするって自信満々で言い切ったの、忘れたんですか? と、奈々実は言いたかったけれど、言える立場ではないかなと思って黙っている。
セヴランは苦虫を噛み潰したような顔でそっぽをむいている。駄々をこねる三十歳児、という、情けなさの極みのような生き物が自分の兄だなんて思いたくない、他人になりたい、という心の声が聞こえてくるようだ。
「行かせてくれないんだったらフライング・ソーサーはあげないもん! 椅子つきのだって作ってあげないんだからねっ!」
なんなんだそのお子ちゃまの理論はっ。呆れてものも言えない。
「エル。だから何度も言ったでしょう? 身体を鍛えなさいって。剣術も馬術も学堂卒業前のレベルでしょ? ついでに言うなら体力もそのレベルだよね? 二十分以上馬に乗れたこと、無いよね? この国を出る前に熱出して引き返すのが、目に見えるようだよ? ワガママ言うともう・・・してあげないよ?」
そのボヤかした部分は何を言ったんですか殿下!
聞きたいような、聞いたら激しく後悔するから聞かないほうが身のためであるような。
麗しの王太子殿下が白皙の美貌の駄々っ子を抱き寄せて耳元に口を寄せて、その時点でBでLのただならぬ世界のニオイがするのに、その口調、そのセリフ、意味深すぎて砂を吐きそうです! わたしは腐女子ではありませんので免疫がありませんっ! ・・・という奈々実の心の声は、誰にも聞こえない。
「ナナミ。そろそろ行こう。早くしないとポートタウンに着く前に日が暮れてしまう」
セヴランは見たくないものはまるっと無視する主義であるらしい。王太子と実兄とがくりひろげている香ばしい世界を完全に見なかったことにして、奈々実を馬車に乗せてさっさと帰途につく。来た道なら一時間だが、街道を馬車で戻るとなると、三時間以上かかるのだ。セヴランはそんな時間の無駄は極めて不本意だったが、怪我をしているニケに無理をさせたくないので、仕方がない。
アンリが遣アルヴィーン使に任命される件に関しては、奈々実はセヴランから聞いた。そのこと自体は承認されたことで、特に秘密にするようなことではない。マルセルの軽い口から、軍人たちの間に広まることは目に見えている。
完全に部外者、そもそもベルチノアの民ですらないリュドミラの耳にも、遣アルヴィーン使の話は入った。するとリュドミラは、わざわざセヴランのもとに足を運び、改めて丁重な礼を述べた上で、自分が知っていることを話してくれた。セヴランの知っていることよりも少しだけ新しいアルヴィーンの情報として、それは些細なことかもしれないが、伝えることで役に立ちたいと思ったらしいリュドミラの気持ちが、ありがたいものだとセヴランは思った。
『アルヴィーンのイングリッド王女が異世界からの迷い人を保護されていることはつとに有名ですけど、ご寵愛の噂は真っ赤な嘘ですわ。だって、保護しているのは一人だけ、それも王女と同世代の女性だそうですもの』
リュドミラがハヴィガンを離れる少し前に、ハヴィガンに地質調査に来たアルヴィーンの人間から聞いた話であるという。男メカケを何人も囲っている、などという下卑た噂は、ヴィクトリア王太女の取り巻きが流している悪質な流言飛語であるらしい。いずれにしても、噂は噂でしかないからなんとも言えないが、少しはラガルドの胃痛を緩和する情報になるだろうか。
『亡命貴族のお父上が故国での思い出話に、黒髪の女性について話されていたとか。内容まではわかりかねますが、黒髪の女性が死にかけているのを無視できないような強い思い入れがあるようだと伺いましたわ。死を待つばかりなほどに衰弱されていた迷い人を手厚く保護して、イングリッド王女の魔力で長らえさせていらっしゃるとか。それが可能な心のつながりが、場合によってはご寵愛に見えてしまうのかもしれませんわね』
副使には身分を隠したリシャールが行くのだということについては、絶対に極秘事項、セヴランは奈々実にも言わなかった。ただし、エルネストにはリシャール本人が漏らしたらしい。で、その結果があの駄々をこねる三十歳児である。二十年前、セヴランがアルヴィーンに留学することが決まった時も、同じようだったのだそうだ。駄々をこねる相手がリシャールではなくて父のフェザンディエ伯爵だったところが違うだけで、まるっきり同じようにぎゃーぎゃーうるさかった、と、セヴランが遠い目で言う。声変わりしていない少年の声だったので、今でも耳に残っているのだそうだ。
「ベアトリス・・・さん、を幸せにするよ! って、自信満々に言ってましたよねえ? それなのに『ボクも行くうー!』って、じゃあベアトリスさんをほったらかして行くつもりなんですかねえ?」
奈々実がエルネストの口真似をする様子に、セヴランは噴き出しそうになった。
「兄貴は目の前の欲望だけしか見えなくなるタイプなんだよな。子供の時からずうっと、変わらない」
「セヴラン様と、顔は似てますけど、性格は全然違いますね」
「顔も似ているとは思いたくないな」
セヴランは基本的にアウトドア派というか、仕事上も外で馬に乗っていたり剣を使うこともあって鍛錬を欠かさないから、筋肉もしっかりあるし、陽に焼けて逞しい。性格的にもそういう生活態度を反映して、質実剛健でありながら明るく誠実で優しい。アルヴィーンの学舎で規律正しい生活をしていたり、軍隊経験もあるから協調性もちゃんとあるし、紳士的だ。アルヴィーンへの旅の経験によって忍耐力も養われている。普通は長男のほうがそういうタイプで、次男がヤンチャ坊主、というパターンが多いのではないかと奈々実は思う。
エルネストはインドア派でひょろいくせに我が強くて、自分のことを客観的にも見れないほどお子ちゃまで、自分が体力が無いくせにそのことを棚に上げて、オタク的で協調性とか欠片も無い。もしもあれであの頭脳と白皙の美貌が無かったら、クラスでは絶対にハブかれるタイプだと思う。
―――イケメンって得だよねえ・・・。―――
セヴランとよく似ているけれど、エルネストの眸のあの狡猾な感じは、子供っぽくてめんどくさい。半日も一緒にいたらくたくたに疲れる。セヴランとだったら、ずうっとずうっと一緒にいたいと思うのに。
奈々実は自分がそんなふうに思うようになった、自分の変化に気づいていない。
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