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終章

1 新たな標的

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(本当に助かったの……? それとも、単なる夢……?)
 救出されてから二日間、玲奈は泥のように眠り続けた。一週間以上続いた激しい凌辱と精神的な苦痛に、心身ともに休息を欲していた。
 二日目の昼前に目を覚ますと、玲奈はレオナルドの愛人アマンテであった時と同じ部屋で寝ていたことに気づいた。助かりたいという願望が見せた夢だったのかと、玲奈は急速に不安になった。あのドアからまたレオナルドが姿を現すのではないかと思うと、ガチガチと歯が鳴るほどの恐怖がこみ上げてきた。

 コンッ……コンッ……。

「ひッ……!」
 入口のドアがノックされた瞬間、玲奈は短く悲鳴を上げた。だが、入ってきたのは小柄な女性だった。
「課長、目が覚めたんですねッ! 良かったッ! お医者さんは大丈夫だって言ってたけど、ずっと寝ていたから心配したんですよ」
 早瀬はるかが笑顔を浮かべながら駆け寄って来た。

「早瀬さん……」
 レオナルドでなかったことにホッと胸を撫で下ろしながら、玲奈がはるかの顔を見つめた。
「フランソワーズさんがその起爆装置の周波数を調べて、周波数発生装置を準備してくれました。今日にでも日本に向けて発てますよ」
「日本に……」
 はるかの言葉を聞いても、玲奈はまだ夢と現実の区別がつかなかった。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、教えて欲しかった。

「早瀬さん……。あたし、本当に助かったの……? それとも、これは夢……?」
「何言ってるんですか? レオナルド=ベーカーには逃げられちゃいましたが、姫川課長はちゃんと助かりました。夢なんかじゃありませんよッ!」
 はるかが笑顔を浮かべながら告げた。しばらくの間、はるかの顔を見つめた後で玲奈が訊ねた。

「本当に助かったのね……。ありがとう、早瀬さん……。日本からはあなただけが来てくれたの?」
「違います。<星月夜シュテルネンナハト>のアラン=ブライトさん、白銀龍成さん、西園寺凛桜さんと、ゆずりは瑞紀さん、神崎純一郎さん、あたしの全部で六人です」
「神崎純一郎……純一郎が来てくれたのッ?」
 はるかの言葉に、玲奈はガバッとベッドから半身を起こしながら叫んだ。まさか、純一郎が助けに来てくれていたなどとは思いもしなかった。

「はい……。でも……」
「純一郎はどこにいるのッ? お願いッ! 会わせてッ!」
 普段の冷静な玲奈を知るはるかは、その切羽詰まった態度に驚いた。
「あの……、神崎さんは怪我をされて……」
「怪我ッ……! 大丈夫なのッ? 入院しているのッ?」
 最愛の純一郎が自分を助けに来て怪我を負ったと聞かされ、玲奈は居てもたっても居られない気持ちでベッドから起き上がろうとした。

「まだ、寝てなくちゃダメですッ! 神崎さんは今、ここに居ませんから……」
「ここに居ない……? どこに入院しているのッ?」
「落ち着いてください、課長……。神崎さんは左腕を失う重傷を負って、タオルミーナにあるインターナショナル・メディカル・センターに入院しています」
「左腕を失う……」
 驚愕のあまり、玲奈が言葉を失った。自分を助けるために純一郎が左腕を失ったと聞き、玲奈は目の前が真っ暗になった。

「昨日、付き添っているゆずりはさんから連絡が入りました。取りあえず手術は成功したそうですが、意識不明の重体らしいです……」
「意識不明……重体……」
 はるかの報告に、玲奈が呆然と呟いた。まさか、そんなことになっているとは夢にも思わなかった。

「あたしもタオルミーナに行くわッ!」
 ベッドから降り立った瞬間、足腰に力が入らずに玲奈はストンと床に座り込んだ。はるかが慌てて玲奈の体を支えながら叫んだ。
「そんな体で何言っているんですかッ? それに、日本に戻って首の爆弾を外すのが先ですッ!」
「でも、純一郎が……」
 はるかに支えられながらベッドに腰を下ろすと、玲奈が蒼白な表情で告げた。

「いくら神崎さんが大事な後輩だと言っても、今は自分のことを考えてください。体力を回復させて、爆弾を外すことが最優先ですッ!」
「……」
 はるかの言うことが正論であることは、玲奈にも痛いほど分かった。だが、自分のために重傷を負った純一郎を放っておくことなどできなかった。

「お願い、早瀬さん。日本に行く前に、純一郎のところに寄らせて……」
「病院に爆弾を抱えたまま行くつもりですか? 絶対にダメですッ!」
「でも……」
 両手を掴んできた玲奈の腕を優しく引き剥がしながら、はるかが告げた。
「神崎さんにはゆずりはさんが付いています。最愛の女性が近くにいてくれれば、神崎さんも必ず良くなりますよ」

「最愛の……女性……?」
(瑞紀が純一郎の……最愛の女性……?)
 はるかの言葉に、玲奈は驚愕のあまり眼を見開いた。瑞紀と初めて会った時、玲奈は純一郎が初めての男だと告げた。だが、その時の瑞紀からは、純一郎を愛している雰囲気などまったく感じられなかった。
(純一郎が一方的に瑞紀を愛しているの?)
 だが、その考えははるかによって打ち砕かれた。

「このファヴィニーナまで二人で来て、四日間もセミスイートに二人きりで泊まってたんですよ。まるで新婚みたいにラブラブなんです、あの二人……。だから、ゆずりはさんさえいれば、神崎さんも絶対に良くなりますよ」
(四日も二人でセミスイートに泊まった……? 新婚みたいって、どういうこと……?)
 玲奈の胸に燃え上がった嫉妬の炎に気づかず、はるかが羨ましそうに告げた。

「あたしも、新婚旅行で絶対にこのファヴィニーナに来ます。二人が泊まっていた部屋にお邪魔したんですが、凄く素敵でしたよ。神崎さんったら、あたしたちの前で堂々と、『瑞紀は俺の女だ。愛し合う男と女が同じ部屋に泊まっていても、何も不思議じゃないだろう?』って言ったんですよ。あたしも、彼にそんな風に言われてみたいです」
(瑞紀は俺の女……? 愛し合う男と女って、どういうこと……? いつの間にそんな関係になったの……?)

「だから、神崎さんのことはゆずりはさんに任せて、課長は日本に行きましょう。そんな爆弾、一日も早く取ってもらいましょう」
「そうね……」
(純一郎……。必ず元気になりなさいッ! 死んだりしたら、絶対に許さないわよッ! あたしの奴隷のくせに、瑞紀を愛するなんて……! どういうことか、きっちりと説明してもらうから覚悟しておくことねッ!)
 玲奈の眼光に女豹の峻烈さが蘇った。


 レオナルド=ベーカーの別荘を襲撃してから、三日が経過した。その間、純一郎は一度も目を覚まさなかった。
 凛桜は約束通り、ファヴィニーナからインターナショナル・メディカル・センターのあるタオルミーナまで通常五十分かかるところを、空中給油を含めて四十分というコース・レコードを樹立した。そのおかげもあって、純一郎は辛うじて一命を取り留めた。

 しかし、手術は成功したが、純一郎は三日の間ずっと昏睡状態を続けていた。集中治療室ICUから一般病棟に移されたのは、単に回復の目処が立たない患者にICUを占拠させ続けられないという理由からだった。
 インターナショナル・メディカル・センターの十三階にある個室で、瑞紀は終日、純一郎の右手を握り締めていた。

(純……、お願い……。目を覚ませて……。私を一人にしないで……)
 看病の疲れから、瑞紀は何度かうたた寝をした。その度に、純一郎の夢を見た。夢の中の純一郎は傲慢で、瑞紀を怒らせてばかりいた。瑞紀がベレッタM93RMK2で脅しつけると、純一郎は慌てて瑞紀の機嫌を取り、優しく抱き締めてきた。そして、純一郎が口づけをしようとすると、瑞紀は夢から覚めるのだった。

(あの夢は、二度と純とキスができないって暗示なのかしら……)
 白く曇ったり透明になったりを繰り返す酸素マスクを見ながら、瑞紀は純一郎の右手を握り締めた。
 最新型の防弾ベストを着用していたため、5.56mmNATO弾は純一郎の体を貫通しなかった。だが、全部で三十二発の弾丸を純一郎は受けていた。左腕は肩から引き千切られ、二十四本ある肋骨はすべて骨折していた。そのうちの五本は粉砕骨折であった。

 医師からはこの三日が峠だと告げられた。三日以内に意識が戻らなければ、植物状態になる可能性が大きいと言われた。植物状態とは脳死とは違い、大脳以外の小脳と脳幹は働いているため、自発呼吸は可能らしい。だが、意識が戻る確率は非常に低いということだった。
 そして、今日がその三日目だった。

(あの時、純は玲奈さんを助けることしか考えていなかった……。私のことさえ、忘れていたみたい……)
 アランが銃口を向けた警備員から、玲奈が一番奥の牢屋にいることを告げられて、純一郎は真っ先に玲奈の名前を叫びながら走り出したのだ。
(純の心の中では、本当は私よりも玲奈さんの方が大切なんじゃないの? 何とか言いなさいよ、純……。もしそうなら、思いっきり蹴飛ばしてあげるから、さっさと起きてよ……)
 黒曜石の瞳から涙が溢れ出て、白い頬を伝って流れ落ちた。例え本当に玲奈を愛していたとしても、瑞紀が純一郎を愛していることに変わりはなかった。

(純……。いい加減に目を覚ませて……。そんなに私にダイエットさせたいの……?)
 泣き笑いを浮かべながら、瑞紀は心の中で純一郎に文句を言った。この三日間、ろくに食事もせず、十分な睡眠もとっていないため、瑞紀は五キロは確実に痩せていた。いや、痩せたというよりも、やつれたと言った方が正しかった。頬はそげ落ち、目の下にはくっきりとクマができていた。

「そうだ、純……。あなたのことだから、こうしたら目を覚ますかも……」
 瑞紀はTシャツの上から、ブラジャーのフロントホックを外した。そして、純一郎の右手をTシャツの中に入れると、手の平を左胸に充てがった。
「純……。私の薔薇の刺青タトゥが好きだったわよね……。本当は病室でこんなこと絶対にしないけど、今日だけは特別に触らせてあげるわ。だから、目を覚ましなさい……」
 純一郎の右手を左胸に押さえつけながら、瑞紀が告げた。だが、右手はまったく動きはしなかった。

「純……。私はあなたの女なのよ……。私の心も体も、全部あなたの物なのよ……。だから、起きてよ、純……。いつもみたいに、私を抱きなさいよ……。純……起きて……。お願い……純……」
 瑞紀の声が震えて小さくなっていった。黒曜石の瞳から涙が止めどなく流れ落ち、瑞紀は肩を震わせながら泣き始めた。狭い病室に、瑞紀の啜り泣く声が響き渡った。

「純……?」
 左胸に違和感を感じて、瑞紀が純一郎の顔を見つめた。だが、純一郎は先ほどと変わらずに眼を閉じていた。
(気のせい……? 手が動いたような気がしたんだけど……)
 次の瞬間、乳房がまさぐられ、指先で乳首を摘ままれた。

「純ッ! 起きたのッ? 純ッ……!」
 驚いて顔を見つめると、純一郎がゆっくりと眼を開いて瑞紀を見つめ返した。
「瑞紀……。胸、小さくなったんじゃねえか……?」
 ニヤリと笑みを浮かべると、純一郎が小さな声で告げた。そして、再び左の乳房を揉みしだき始めた。

「純ッ! バカッ! 女の胸を触りながら目を覚ますなんて、どんだけイヤらしいのよッ!」
 泣き笑いを浮かべながら叫ぶと、瑞紀は純一郎に抱きついた。
「痛ててッ……! やめろ、瑞紀ッ……! マジに痛えッ!」
「あッ……ごめんなさいッ! でも、良かったッ! すぐに先生を呼ぶわッ!」
 席を立とうとした瑞紀の左腕を純一郎が掴んだ。

「その前に、お目覚めのキスくらいしてくれねえのか?」
「ばか……。そんなの、何度だってしてあげるわよ。おかえり、純……」
 長い黒髪を右手で押さえると、瑞紀は純一郎の唇に魅惑的な唇を重ねた。濃厚に舌を絡め合い、唾液の糸を引きながら唇を離すと純一郎が告げた。
「早速抱いてやりてぇが、まだ体が動かねえ……。もう何日か、我慢してくれ……」
「何言ってるのよ、この絶倫魔神は……。全治三ヶ月以上の重傷よ。完治するまで、お預けよ……」
 笑いながら告げた瑞紀の言葉に、純一郎は愕然とした表情を浮かべた。

「じゃあ、先生を呼んでくるわ。大人しく待ってなさい……」
「おい、瑞紀……。もう少し……」
 もう少し触らせろと言いかけた純一郎に向かって、瑞紀はあかんべーをした。そして、嬉しそうに個室を後にして、ナースステーションへと向かっていった。

(あんな方法で目覚めるなんて、純らしいわ……。おかえりなさい、純……)
 三日ぶりに満面の笑顔を浮かべると、瑞紀は病院の廊下を駆け出した。壁には、「I corridoi erano silenziosi(廊下は静かに)」の貼り紙が貼ってあった。


「今回は完全にしてやられたな……。だが、本当の脅威が誰だか分かったのは収穫だ」
 エグゼクティブ・デスクの上に置かれた報告書の写真を見つめながら、レオナルド=ベーカーはニヤリと笑みを浮かべた。

 そこには美しい一人の女性が映っていた。襟元で短く切り揃えた赤茶色のボブヘアと、生命力に溢れた大きな茶色い瞳が印象的な女性だった。目鼻立ちはくっきりとしており、コケティッシュな感じの美女だった。
 その写真の横には、その女性のプロフィールが書かれていた。

 氏名;西園寺さいおんじ凛桜りお
 年齢:27歳
 職業:<星月夜シュテルネンナハト特別捜査官エージェント
 前職:陸上自衛隊木更津駐屯地所属東部方面航空隊第四対戦車ヘリコプター隊
 身長:168cm
 体重:54kg
 血液型:B型
 視力:両目とも2.0
 色覚:正常
 聴力:正常
 拳銃射撃:B
 遠距離狙撃:C
 重火器操作:D
 格闘技:C
 語学:英語(TOEIC 730)
 長所:独立性、独創性、状況判断力に優れる
 短所:協調性に問題があり、直情的で自己中心的な行動が多い
 備考:ヘリコプター操縦技術に優れ、陸上自衛隊において最優秀操縦士賞を授与される

「考えてみれば、この女が操縦するAH-10Sステルス・コブラによって、<蛇咬会じゃこうかい>本部は壊滅的な打撃を受けた。今回も、彼女がいなければステルス・コブラの投入はあり得なかった。アラン=ブライトや白銀龍成、ゆずりは瑞紀よりも、この西園寺凛桜の担う役割の方が遥かに脅威だ」
 バカラのブランデーグラスにレミーマルタン・ルイ十三世を注ぐと、その芳醇な香りを楽しみながらレオナルドは一口飲んだ。

「ステルス・コブラにさえ乗っていなければ、この女の射撃や格闘技術は大したことはない。次の標的ターゲットは西園寺凛桜で決まりだな……」
 写真に写った凛桜の豊かな胸に視線を這わせると、レオナルドはニヤリと冷酷な笑みを浮かべた。
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