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第1章 女豹蹂躙

2 櫻の華

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「瑞紀さんとデートできるなんて、感激っす!」
「ありがと。私もトシ君が一緒に来てくれて嬉しいわ。女一人だとちょっと入りづらいところだから……」
 嬉しそうな笑顔で告げた水島俊誠としまさの顔を、瑞紀は意味ありげな流し目で見つめた。憧れの女性の思わせぶりな態度に、俊誠の期待は嫌でも高まった。
(女一人で入りづらいって……まさか、ラブホテル? さすがに、それはないか……?)
「ど、どこに行くんですか……?」
 思わず声が裏返ったことに気づくと、俊誠はカアッと顔を赤らめた。

 姉の水島麗華に紹介されて初めて瑞紀を見た瞬間、俊誠はガラにもなく一目惚れをした。真っ直ぐに背中まで伸ばした艶やかな黒髪……。小さめの顔は陶器のように色白で滑らかだった。黒曜石のような瞳は意志の強さと優しさに輝いており、細く通った鼻筋に続く唇はぷっくりとした淡い紅色だった。

 百六十五センチと女性にしてはやや長身だが、百七十二センチの俊誠と並ぶと、理想的な背丈だった。白いブラウスを盛り上げる胸は大きく、スキニージーンズを履いた腰から尻に掛けてのラインは女性らしい丸みを帯びていた。手足はすらりと長く、指先に塗った淡い薔薇色ローズ・ピンクのマニキュアが美しさの中にも可愛らしさを演出していた。

 麗華から、瑞紀が事務所を開くから働いてみないかと言われたとき、俊誠には断るという選択肢はなかった。何の事務所かも聞かずに、即日承諾の返事をするために瑞紀に会いに行った。それが探偵事務所であると知ったときには意外に思ったが、瑞紀と一緒に働けるのであれば不満はなかった。

 <ゆずりは探偵事務所>の開設日には、俊誠以外の所員はまだいなかった。これから瑞紀と二人で事務所を盛り上げていくのだと思うと、俊誠のモチベーションは最高潮に達した。開設祝いには、瑞紀の元職場である<星月夜シュテルネンナハト>から大勢の人々が来ていた。その中の一人の男と笑顔で話している瑞紀を見て、俊誠は不安と嫉妬の感情を抱いた。

 その男は長身でガッシリとした体つきをしており、男の俊誠から見ても精悍な顔をしていた。瑞紀が彼にボディタッチをする回数が多すぎるように思い、俊誠は柱の陰からそば耳を立てた。すると、お互いをファーストネームで呼び合っている仲睦まじげな様子が伝わってきた。俊誠は開設祝いに来ていた姉のところに行き、それとなくその男の素性を訊ねた。

「ああ、白銀さんね。瑞紀の元相棒バディよ。<星月夜シュテルネンナハト>のトップ・エージェントなのよ、彼……。独身だし、狙っている娘も多いわよ」
 シャンパングラスを片手にそう告げると、麗華は瑞紀の上司だった男に挨拶に行くと言って俊誠を置き去りにした。俊誠は白銀という男を勝手にライバルとして認定した。

 白銀がライバルではなく、瑞紀の恋人だったと知ったのは昨日のことだった。俊誠が仕事を抜け出して買い物に出かけている間に、事務所に銃弾が撃ち込まれた。瑞紀はすぐに白銀に助けを求めたらしい。連絡を受けてから五分と経たずに白銀は事務所に駆け込んできたそうだ。それも、第一声が「瑞紀、無事か?」だったと言う。

 知りたくもないその時の様子を、アルバイトの七瀬美咲は興奮しながら詳しく話して聞かせてくれた。美咲の話には彼女の主観が入りすぎていたが、冷静に考えても白銀と瑞紀は特別な関係にあるとしか思えなかった。
 その瑞紀が今日、俊誠をデートに誘ってきたのだ。

「トシ君、今日これから時間ある? ちょっと行きたいところがあるんだけど付き合ってくれないかな?」
「はいッ! 大丈夫ですッ! どこに行くんですか?」
 即答した俊誠を楽しそうに見つめながら、瑞紀が悪戯っぽくウィンクした。
「ちょっとね……。私と一緒に楽しいところに行きましょう」
 俊誠は、やはり白銀のことは美咲の勘違いだと思った。期待に胸を膨らませながら、俊誠は瑞紀の後に続いて<ゆずりは探偵事務所>を後にした。


「着いたわ、ここよ……」
「み、瑞紀さん、ここって……?」
 入口に掲げられた白木の表札には、墨字で大きく<櫻華会おうかかい>と書かれていた。どこからどう見ても暴力団の事務所以外には見えなかった。
「こ、こんなとこに、何の用なんですか……?」
 思わず声が震えたが、男の自分が瑞紀を守らなければと思いながら俊誠は緊張して訊ねた。

「ちょっとね……。本当はオリさんに一緒に来てもらいたかったんだけど、どうしても外せない約束があるからって断られちゃったのよ。でも、女一人だと舐められちゃうから、トシ君に声をかけったってわけ……」
 コンビニにでも誘うような口調で、瑞紀が笑いながら告げた。俊誠が何も言えずに顔を引き攣らせていると、入口付近にいた二人の男が近づいてきた。

「お前ら、うちに何か用か?」
 男の一人がギロリと俊誠を睨みながら、ドスの利いた声で訊ねた。背丈は百八十センチを優に超え、横幅もプロレスラー並みにガッシリとした男だった。短めに刈り上げた金髪に、両耳と唇のピアスがいかにもその男の素性を物語っていた。年齢は思ったよりも若そうで、二十二歳の俊誠よりも年下に見えた。

「神崎さん、いるかしら……? 瑞紀が訊ねてきたって伝えて欲しいんだけど……」
若頭かしらに来客があるなんて、聞いてねえな。あんた、どこの店の女だ?」
 もう一人の男が瑞紀の体を舐めるように見つめながら訊ねた。どこかのクラブかスナックの女だと思ったようだった。

 こちらの男は、俊誠と同じくらいの背丈で、どちらかと言えば痩せ型だった。だが、紫色に染めた髪をポマードで固めて逆立て、両耳には大きな金の輪をはめていた。素肌の上に黒い革ジャンを着崩し、首には太い金のチェーンを着けていた。一見するとどこかのパンクかロックバンド崩れのように見えた。

「残念ながら、こう見えても堅気なの。案内してくれる気がないなら勝手に通るけど、いいかしら?」
「はぁあ……? 姉ちゃん、ここがどこだか知ってるのか?」
 呆れたような表情を浮かべながら、パンクが言った。大男の方は入口の扉の前に移動し、瑞紀の行く手をふさぎながら睨みつけてきた。

「どこって、<櫻華会おうかかい>って書いてあるじゃない? あなたたち、字も読めないの? よかったら、私がフリガナ振ってあげましょうか?」
「ち、ちょっと……瑞紀さん……」
 笑顔で男たちを挑発した瑞紀に驚いて、俊誠が慌てて彼女の左腕を掴んだ。だが、瑞紀は心配するなとでも言うように頷くと、右手で俊誠の左手首を握ってきた。
「痛ッ……!」
 思いの外に強い握力に驚いて、俊誠が瑞紀の左腕から手を離した。

「てめえッ! 舐めた口聞いてると、女でも容赦しねえぞッ!」
 瑞紀の挑発に乗って、パンクが凄みながら叫んだ。だが、瑞紀はそれを聞き流して、世間話でもするように告げた。
「あれってビールの空き缶かしら? あなたたちが飲んだの? だめよ、道端に捨てちゃ……」
「何言ってやがる……?」
 男二人が瑞紀の視線を追って後ろを振り返った。確かに自分たちが飲んだビールの空き缶が十メートルほど先に二本転がっていた。

 ダンッ、ダンッ……!

 二発の銃声が響いた瞬間、二本のビールの空き缶が着弾の衝撃で宙を舞った。そして、五メートルほど先に落下するとコロコロと転がってゴミ捨て場で止まった。
 再びこちらを振り向いた男たちが眼にしたのは、右手にベレッタM93Rを構えた瑞紀の姿だった。

「なッ……!」
「ひぃッ……!」
 大男が驚愕の表情を浮かべながら二歩後ずさった。パンクはペタンと尻餅をついて蒼白な表情で瑞紀を見上げていた。

「案内してくれるかしら?」
 硝煙の匂いが漂うベレッタM93Rを構えたまま、瑞紀がニッコリと微笑んだ。男たちがガクガクと頷いた時、ビルの扉がバタンと開いて一人の男が姿を現した。
「か、若頭かしら……」
 パンクが縋り付くような視線で出て来た男を見上げた。その目には恐怖と安堵のあまり、涙が滲んでいた。

 右目の横に五センチほどの切り傷が縦に刻まれている、三十過ぎくらいの鋭い目つきをした男だった。髪はオールバックで、その顔は端正と言えるほど整っていた。若頭かしらと呼ばれたことから、この男が<櫻華会>のナンバー2であることは間違いなかった。男は若い二人の顔に視線を這わせた後、ベレッタM93Rを構えた瑞紀を見てニヤリと口元をほころばせた。

「神崎さん、お久しぶりです……」
 何事もなかったように男に挨拶すると、瑞紀はベレッタM93Rの安全装置をロックしてエルメスのバーキンにしまった。
「相変わらずぶっ飛んだ女だな、瑞紀……。まあ、入れ……」
「はい、ありがとうございます。
 笑顔で神崎に礼を言うと、瑞紀は彼に続いて<櫻華会>のビルに向かった。

「そうだ、お前たち……」
 ドアノブに手を掛けた神崎が、振り向きながら怯えている二人に告げた。
「この女はゆずりは瑞紀……。あの<狗神会《こうじんかい》>をぶっ潰した女だ。土手っ腹に風穴を空けられたくなければ、顔くらい覚えておけ……」
 大男とパンクが驚愕の表情を浮かべながら、瑞紀を見つめた。

「神崎さん、そんな昔のことをほじくり返さなくても……」
「お前が謙遜するほど殊勝なタマか? おい、そこのあんちゃん……。瑞紀の付き添いか? 茶くらい出してやるから一緒に来い」
 瑞紀の言葉を笑い流すと、神崎が呆然と突っ立っていた俊誠に声を掛けた。
「は、はい……」
 ハッと我に返ると、俊誠は慌てて瑞紀の後を追いかけていった。

(瑞紀さんって……いったい、何者なんだ……? いきなり拳銃をぶっ放して……? 若頭わかがしらって言ったら、たしか親分の次に偉い人だよな? そんな人と知り合いだなんて……。それに、<狗神会《こうじんかい》>を潰したって……?)
 俊誠の中で瑞紀のイメージが塗り替わっていくことに、瑞紀本人は気づきもしなかった。


「それで、お前がわざわざ俺に会いに来たってことは、俺の女房になる気になったってことか?」
 マルボロのパッケージから一本取り出して口に咥えると、神崎はデュポンのガスライターで火をつけた。そして、大きく吸い込むと、瑞紀に煙が当たらないようにやや右を向いて煙を吐き出した。神崎なりに一応は気を遣っているようだった。

「女性の前でタバコを吸うときは、吸っていいいか訊ねるのがマナーですよ」
「それは悪かった。吸ってもいいか?」
「お断りします。私はタバコの臭いが大嫌いなので……」
「そうか……。気が合うな。俺も嫌いなんだ……」
 ニヤリと笑って瑞紀の顔を見つめると、神崎はもう一度マルボロを吸い込んで煙を吐きながらもみ消した。俊誠は瑞紀の隣りに腰掛けながら、二人のやり取りをハラハラしながら見つめていた。

「で、どうなんだ? 俺のところに来る気になったのか……?」
「神崎さんのことは嫌いじゃありませんが、私に極妻ごくつまつとまりませんから……」
 ニッコリと笑みを浮かべながら、瑞紀は神崎の申し出プロポーズをにべもなく断った。
「それは残念だ。お前以上に極道が似合う女は滅多にいないんだがな……。まあ、あいつ・・・に捨てられたら、いつでも俺のところへ来い。お前なら大歓迎だ」
「そうならないことを願ってます……」
 笑いながら告げた神崎の言葉に、瑞紀は苦笑いを浮かべた。それを聞いて、俊誠は自分がどこにいるかも忘れて目の前が真っ暗になった。
(やっぱり、瑞紀さんは白銀と……?)

「ところで、<櫻華会>は昔気質むかしかたぎ任侠ヤクザだと聞いています。クスリは御法度でしたよね?」
「当然だ。麻薬あれがシノギになるのは確かだが、俺の目が黒いうちは絶対に手を出させねえ。扱うヤツがいたら即破門だ」
 ギラリと危険な光を浮かべながら、神崎が瑞紀の眼を見据えながら告げた。

「それを聞いて安心しました。最近、<蛇咬会じゃこうかい>の動きがうるさくなってきたみたいなので……」
「お前が<狗神会《こうじんかい》>を潰してから、一時は温和しくなったんだが……。確かにここ最近、良くない噂を聞くな……」
 眉間に皺を寄せながら、神崎が瑞紀の顔を見つめた。

「私が今扱っている案件も、どうやら<蛇咬会じゃこうかい>が絡んでいるみたいなんです。昨日、事務所にプレゼントをもらいました」
「……! 怪我人は……?」
 瑞紀の言葉に、神崎の顔が変わった。銃撃を受けたことを察したようだ。
「うちのドアは防弾仕様なので……。今、龍成が送り主を調べてます」
返礼おかえしするつもりなのか?」
「もらいっぱなしは失礼ですので……」
 ニッコリと微笑みを浮かべながら瑞紀が告げた。しばらくの間、真剣な眼で瑞紀を見つめると、神崎がフッと笑みを漏らした。

「まったく……。ヤクザより血の気が多い女だな、お前は……。分かった。俺にできることは力になってやる」
「ありがとうございます。頼りにさせて頂きます」
 嬉しそうな笑顔を浮かべると、瑞紀が神崎に頭を下げた。
「気にするな……。奴らとは一度きっちりと話をつけなければならないと思っていたからな。それよりも、俺の女房になる件も真面目に考えておいてくれ」
「龍成に捨てられたら、考えさせてもらいますね……」
 笑いながらそう告げると、瑞紀が席を立った。その言葉にショックを受けながら、俊誠も慌てて立ち上がった。

「おい、義一よしかずはいるかッ?」
「はいッ……!」
 神崎が声を張り上げると、先ほどのパンクが駆け寄って来た。
「こいつは、うちの若衆で早川義一だ。何かあったら、こいつに連絡しろ。義一、お前の連絡先を瑞紀に教えてやれ」
「はい……。これが俺の携帯です……」
 携帯番号をメモに走り書きすると、それを両手で持って義一が瑞紀に差し出した。

「ありがとう。早川君って呼んでいいかしら?」
 瑞紀はそのメモを受け取ると、リスト・タブレットに番号を登録して発信した。瑞紀の番号が義一の携帯に表示された。
「いえ……。義一で構いません、姉御ッ!」
「姉御って……」
 困ったような表情で瑞紀が神崎を見つめた。
「俺の女房になれば、あねさんって呼んでもらえるぞ」
「取りあえず、姉御でいいです……」
 笑いながら告げた神崎を睨むと、瑞紀はため息をついた。

「義一、姉御のお帰りだ。お見送りしてこい」
「はいッ! 先ほどは失礼しました、姉御。こちらへどうぞ……」
 義一が瑞紀たちを先導するように、出口へと向かった。
「では、神崎さん、失礼します……」
「おう。気をつけろよ……」
「はい、神崎さんも……」
 神崎に一礼すると、瑞紀たちは義一に見送られて<櫻華会>を後にした。


 歌舞伎町の雑居ビルにあるダイニング・バーで、俊誠は瑞紀と並んでカウンターに座っていた。<櫻華会>の帰りに「たまには飲みに行こうか?」と瑞紀に誘われたのだ。本来であれば小躍りするほど嬉しい誘いなのだが、俊誠の気分は最悪だった。
(瑞紀さんはやはり白銀と付き合ってたんだ……)

「どうしたの、トシ君? 元気ないわね。<櫻華会>に連れて行ったことを怒っているの?」
 俊誠の右でショートカクテルを片手に持ちながら、瑞紀が心配そうに覗き込んできた。甘いカカオの香りがするチョコレート色のカクテルだ。名前は、アレキサンダーとか言っていた。
「いえ、別に……。それよりも、瑞紀さんって白銀さんと付き……付き合い長いんですか?」
 ストレートに「付き合ってるんですか」と聞きそうになり、俊誠は慌てて言い直した。

「そうでもないわよ。知り合ってから一年ちょっとかな……? どうしたの、急に……?」
 その一年の間に、数え切れないほど龍成に抱かれたことを思い出し、瑞紀は顔を赤らめた。
「昨日、美咲ちゃんが、白銀さんと瑞紀さんの話をしていたので……」
「ああ……。龍成と私が恋人同士だって言ってたやつね……。違うって言ったのに……」
「違うんですかッ……?」
 思わず声が大きくなってしまい、瑞紀が驚いて見つめてきた。俊誠は慌てて言い募った。

「い、いえ……。お二人はお似合いだと思って……」
「そうかな……? でも、私は龍成の恋人にはなれないの。いえ、彼の恋人になる資格はないのよ……」
 思いの外に真剣な口調で瑞紀が告げた。その言葉の重みを感じて、俊誠は黙って瑞紀が続きを話すのを待った。自分から訊ねてはいけない気がしたのだ。

「トシ君、腕相撲しようか?」
「え……?」
 突然、話を変えた瑞紀に驚いて、俊誠が彼女の顔を見つめた。
「私に勝てたら、何でも言うことを聞いてあげる。ほら、右手を出して……」
「は、はい……」
 カウンターの上に右肘を立てながら、俊誠の脳裏に不埒な考えがよぎった。
(これって、もしかして誘われてるのか? いくらなんでも、男の俺に瑞紀さんが勝てるはずないじゃないか。それなのに何でも言うことを聞くって……)

「本気出してね……。いい? レディ……ゴーッ……!」
 瑞紀の合図で、俊誠は握りしめた腕に力を入れた。もちろん、相手が女性だから当然のこととして手加減をした。だが、瑞紀の右腕はピクリとも動かなかった。
(瑞紀さん、結構力あるんだ。こんな細い腕なのに……)
「それが本気……? 意外と力ないのね、トシ君って……」
 好きな女性に幻滅されるわけにはいかないと、俊誠は少し力を込めた。だが、瑞紀の右腕はまったく動く気配がなかった。

「遠慮しないで、思いっきり力を込めていいわよ」
 俊誠が手加減していることを見抜いて、瑞紀が微笑みながら告げた。
「分かりました。本気でやります」
 見かけ以上に瑞紀の力が強いことを知り、俊誠は手加減することをやめた。左手でカウンターの天板を握り締めると、全体重を右腕にかけた。
(……! そんな……? いくらなんでも、強すぎるぞ……?)
 顔を真っ赤にして力を込めても、瑞紀の右腕は少しも動いていないのだ。その上、瑞紀は平然と微笑を浮かべていた。

「はい、そこまでにしようか? お疲れ様……」
 そう言うと、瑞紀は左手でポンと俊誠の右腕を叩いた。その合図で俊誠は右腕の力を抜いた。額に汗が滲んでいるのが自分でも分かった。
「瑞紀さん、強すぎです……」
「うん。私の右手、義手なの……。握力は三百キロあるわ」
「義手……!? 三百キロ……?」
 俊誠は驚いて瑞紀の右腕を見つめた。その白魚のような美しい右手には、薄らと産毛さえあった。義手だと言われなければ、まったく気づきもしなかった。

「三年前の世界同時電子テロの後に起こった爆破テロに巻き込まれて、右腕を失ったの。この腕は<星月夜シュテルネンナハト>の技術開発部が作ってくれたものなのよ」
「そうなんですか……」
 瑞紀が自分の秘密を打ち明けてくれたことが嬉しくて、俊誠は思わず頬を緩ませた。
「そして、龍成の左腕もこれと同じ義手なの……」
「え……? 白銀さんも……?」
 このことを伝えるために腕相撲をしたのだと知り、俊誠は複雑な気持ちになった。

「龍成の左腕を奪ったのは、私なの……。詳しいことは<星月夜シュテルネンナハト>との秘密保持契約で言えないけど、私のせいで龍成は左腕を失ったのよ。私、彼のことが好き……いえ、この世界の誰よりも龍成を愛しているわ。龍成のためなら、この生命を賭けることだってできる。でも、彼の恋人になる資格だけは、私にはないの……」
 そう告げると、瑞紀は半分ほど残ったアレキサンダーを一気に飲み干した。

「瑞紀さん……」
 想像もしていなかった瑞紀の想いを知って、俊誠は言葉を失った。
(こんなこと聞いたら、諦めるしかないじゃないか……)
「ごめんね、トシ君……。ちょっと酔っ払っちゃったみたい。忘れて……」
 笑顔を浮かべながら、瑞紀が俊誠の顔を見つめてきた。その黒曜石のような瞳に涙が浮かんでいることに気づくと、俊誠は無意識に自分の気持ちを告げていた。

「俺、瑞紀さんのことが好きです。初めて会った時から一目惚れでした」
「トシ君……」
 突然の告白に驚いたように、瑞紀が黒瞳を大きく見開いて俊誠を見つめた。
「でも、今の話を聞いて、俺が入り込む余地なんて瑞紀さんの中にないことがよく分かりました。だから、これからも俺は瑞紀さんの部下でいます。いえ、もっと勉強して、色々な経験を積んで瑞紀さんの役に立つ男になれるようにがんばります。だから、これからもよろしくお願いします」
 笑顔でそう告げると、俊誠は右手を瑞紀に差し出した。

「ありがとう、トシ君……。こちらこそ、よろしくね」
 瑞紀が俊誠の右手を握りしめた。
 だが、彼女がアレキサンダーを三杯も飲んでいたことが俊誠にとっての不幸だった。甘くて口当たりが良いにもかかわらず、アレキサンダーはアルコール度数が二十六パーセントもあるカクテルなのだ。

「ぎゃあッ……! 痛てててぇッ……!」
 バキッバキッという音とともに、俊誠の右手の指にヒビが入った。
「ご、ごめん、トシ君ッ! 大丈夫ッ……!?」
 瑞紀は慌てて手を離したが、すでに手遅れであった。左手で右手を庇うように抑えながら、俊誠が苦悶の表情を浮かべた。その右手が見る見るうちに赤く腫れ上がっていった。

 すぐに病院に駆けつけたが、俊誠は一ヶ月もの間、右手にギブスをはめる生活を余儀なくされた。<ゆずりは探偵事務所>において、絶対に所長と握手してはいけないという不文律が確立した瞬間であった。
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