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第9章 獅子王と氷姫

5 愛と恋

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「バッカスと話をしてくるわ。遅くなるかも知れないから、先に休んでいていいわよ」
 昨日と同じ『星光館』の二人部屋に入ると、アトロポスがイーディスに告げた。
「うん、分かった……。でも、アトロポス、戻ってくるの?」
「も、もちろん、戻るわよ……」
 イーディスの碧眼が真っ直ぐにアトロポスの黒瞳を見据えていた。アトロポスは内心を見透かされたように感じ、思わず顔を赤らめた。

「泊まってきていいわよ、アトロポス。そうしたいんでしょ?」
「そ、それは……」
 今度こそ、カアッと赤く顔を染め上げると、アトロポスは慌ててイーディスから視線を外した。

 バッカスが水龍の革鎧ヴァッサードラーク・ハルナスが似合うとイーディスを褒め称えてから、アトロポスは彼女の美しさにずっと嫉妬していた。このままでは、バッカスの気持ちが彼女に向きそうで、いてもたってもいられなくなったのだ。だからこそ、今夜はバッカスに愛されたい、彼の愛情を確認したいとアトロポスは切望した。

「アトロポス、あたしは今でもバッカスさんのことが好きよ。出来ることなら、あなたに変わってバッカスさんに愛されたいと思うわ」
「イーディス……」
 思いも掛けない本音をぶつけられ、アトロポスは驚いた。そして、今のイーディスの美しさに勝てる自信がなかった。

「でも、あなたのことも好き。それに、すごく感謝もしている。だから、あなたからバッカスさんを奪うようなマネだけはしないと心に決めているの。心配しないで、アトロポス。あたしのバッカスさんへの気持ちは、片思いよ。彼が愛しているのは、あなただけだということを、あたしは誰よりも知っているつもりよ」
 そう告げると、イーディスは優しい眼差しでアトロポスを見つめた。

「イーディス……。ありがとう……」
 そう告げると、アトロポスはイーディスに近づいて彼女に抱きついた。イーディスは一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに優しく微笑みながらアトロポスの体を抱きしめた。
「アトロポス、あなたは強いし、とてもしっかりしているわ。でも、忘れないで。こう見えても、あたしはあなたより三歳も年上なの。あなたのことを、妹みたいに感じる時もあるわ」
「うん……。私もイーディスが大好きよ」
 そう告げると、アトロポスは顔を上げてイーディスの右頬に口づけをした。

「じゃあ、行ってくるね、イーディス」
「行ってらっしゃい、アトロポス。思いっきり甘えてきなさい」
 笑顔で告げたイーディスの言葉に、アトロポスは恥ずかしそうに頷いた。そして、二人部屋の入口の扉に手を掛けると、イーディスの方を振り返った。そして、ニヤリと笑みを浮かべながらアトロポスが告げた。

「でも、イーディス。このことと訓練とは別だからね。覇気の使い方を完全に修得するまではしごきまくるわよ、お姉ちゃん」
「な……ッ! やっぱり、可愛くない妹だわ!」
 お互いに笑い合うと、アトロポスは手を振って部屋を出て行った。それを見送ると、イーディスは大きくため息をついた。

(これでいいのよ、イーディス……。バッカスさんへの気持ちは片思いのまましまっておきなさい……)
 昼間、バッカスに美しいと言われて、イーディスは自分が変わったように感じた。愛する人の言葉は、こんなにも強く自分に響くのだと初めて知った。そして、バッカスにもっと美しいと言われたいと思った。もっと自分を見てもらいたい、もっと愛されたいと思った。

 だが、その感情は間違っていることに気づいてしまった。自分がバッカスを好きになればなるほど、アトロポスが元気を失っていくことに気づいてしまったのだ。
(アトロポスに言ったことは嘘じゃない。あたしはバッカスさんのことを愛しているけど、アトロポスのことも大好きだわ。彼女を不幸にしてまでバッカスさんに愛されることを、決して望んではいけない……)

 それがイーディスの出した結論だった。きれい事だというのは、自分自身でよく分かっていた。どんな手を使っても、バッカスに愛されたいと思う自分がいるのも確かだった。実際に、媚薬を飲ませてバッカスを殺しそうになったこともある。そんな自分を、アトロポスは許してくれた。許すだけでなく、自分の人生に新しい道さえ開いてくれた。

 今も、アトロポスがバッカスに抱かれに行くと知って、どす黒い嫉妬が胸に渦巻いていた。だが、その嫉妬心に従っても、誰も幸せにはなれないとイーディスは思った。
(本音を言えば、たった一度だけでいい。あたしもバッカスさんに愛されたい。あたしの処女をバッカスさんに捧げたい)
 それは、決して見てはならない夢だった。それを正夢にしたら、アトロポスとバッカスの関係はズタズタに引き裂かれ、自分も大切な二人と別れることになる。三人の関係は、修復不可能なくらい完全に決裂してしまうのは間違いなかった。

(だから、あたしは二人をずっと見守っていく。バッカスさんとアトロポスがお互いに愛し合う関係を、ずっと見つめていく。辛いけど、それがあたしのバッカスさんへの初恋なんだ)
 アトロポスが出て行った扉を見つめているイーディスの碧眼から、蒼青色に光る涙が一筋流れ落ちた。


 コン、コン……。
 ノックを二回すると、アトロポスはバッカスに意識伝達を送った。

『バッカス、開けて。今、扉の前よ……』
『……! 分かった、すぐに開ける』

 バッカスの驚いた意識がアトロポスに流れ込んできた。そして、その言葉通り、部屋の扉が開かれた。
「話があるの……。入っていい?」
「もちろんだ……」
 バッカスは体を開くと、アトロポスを部屋の中へ導いた。

「一人部屋にしては広いのね」
 五十平方メッツェは優にある室内を見渡しながら、アトロポスが告げた。上級宿だけあり、部屋に置かれた装飾品や調度品も豪奢だった。
「まあな……。鳳凰茶フェニックス・ティーでも飲むか?」
 熱い鳳凰茶フェニックス・ティーの入ったカップを取り出そうと思い、バッカスは次元鞄に手を入れた。クロトーの魔法により、この鞄の中には時間経過がないのだ。

「いいわ。いらない……。それより、そこに座って。大事な話なの……」
「分かった……」
 黒革の応接ソファに腰を下ろしたアトロポスが、目の前のソファを指した。バッカスは言われたとおり、アトロポスの正面に座って彼女の黒瞳を見つめた。

「バッカス、正直に答えて……。イーディスのことをどう思っている?」
「どうって……。大事な仲間だと……」
 バッカスの答えを遮るように、アトロポスが告げた。
「そんなことを聞いているんじゃないって分かるでしょ? 一人の女としてどう思っているの?」
 真剣な光を湛えた黒曜石の瞳が真っ直ぐに自分を見つめていることに気づき、バッカスの表情が引き締まった。

「イーディスは美人だし、女としても非常に魅力的だ。年齢よりも多少幼いところはあるが、性格も優しいし気性も真っ直ぐだ。一人の女としてどうかと聞かれれば、俺は彼女が好きだ」
 歯に衣を着せないバッカスの答えに、アトロポスはショックを受けた。彼女としては、「イーディスよりもお前のことを愛している」くらいの言葉を期待していたのだ。

「そう……。イーディスはあなたのことが好きよ。いえ、愛していると言ってもいいと思う。あんなに美しい女性から愛されて、嬉しいでしょ?」
「そうだな。だが、イーディスの気持ちには応えられないぞ」
 強面の表情に獰猛な笑みを浮かべながら、バッカスが告げた。
「どうして? あなたは彼女のことが好き、彼女はあなたを愛している。何も問題ないじゃない?」
 アトロポスは期待と不安に揺れた黒瞳で、バッカスの眼を見つめた。

「問題は大ありだな。俺がイーディスを愛したら、<闇姫ノクス・コンチュア>は解散だぞ」
「何で? 別に今まで通り、三人でやっていけるわよ」
 アトロポスが意地になって言った。
「本当にそう思っているのか? 俺とイーディスが一度でも愛し合ったら、俺とお前の関係はどうなる? イーディスとお前の関係は? どっちの関係にも大きなヒビが入るぞ。当然ながら、そうなったら責任を感じて、俺とイーディスの関係も壊れる。三人が三人ともバラバラになるぞ」

「そんなこと……ないわよ」
 アトロポスは、バッカスの言うことが正しいことを認めた。だが、素直に認めたくない気持ちが邪魔をした。
「いや、必ずそうなる。だから、俺はイーディスの気持ちに応えるつもりはないし、彼女を抱くつもりもない。それに……」
 バッカスは言葉を切って、アトロポスの黒曜石の瞳を真剣な表情で見つめた。

「それに……?」
 ドキンッとアトロポスの心臓が跳ねた。バッカスが次に何を言おうとしているのかが分かったのだ。そして、アトロポスの予想通りの言葉をバッカスが告げた。
「それに、俺が愛しているのはアトロポス、お前だけだ。そして、俺が抱きたいのもお前だけだ」
「バッカス……」
 真剣な愛の告白に、アトロポスの顔がカアッと赤く染まった。あまりの嬉しさに、アトロポスの心臓は早鐘を打ち始めた。

「いいか、よく覚えておけ。イーディスの俺に対する気持ちは、決して愛じゃない。いて言うなら、恋だ。あの一途さは、たぶん、彼女にとっての初恋なんだろう。俺の気持ちは今伝えたとおりだ。今度はお前の気持ちを教えてくれ。お前の俺に対する気持ちは、恋なのか、愛なのか、どっちだ?」
「そ、それは……」
 アトロポスはゴクリと唾を飲み込むと、バッカスの濃茶色の瞳を見据えながら告げた。

「愛しているわ。今のあなたは、私にとってこの世で一番大切な男性ひとよ」
「シルヴァレート王子よりもか……?」
 バッカスの言葉に、アトロポスは迷わずに頷いた。
「正直に言うわ。最近、シルヴァのことを思い出すことがほとんどなくなったの。私の心の中で、シルヴァがどんどん小さくなってるわ。そして、四六時中、あなたのことを考えているの。もう一度言うわ。私にとって、この世で一番大切な人はバッカス、あなたよ!」
 そう告げると、アトロポスは席を立った。そして、バッカスの横に移動すると、彼に抱きついた。

「アトロポス、お前を愛している……」
「バッカス、私も愛しているわ……」
 お互いの唇が重なり、長い口づけを交わした。お互いの愛情を確認し合うように、激しく舌を絡め合った。

「今日は俺のところに泊まるとイーディスに言ってきたのか?」
 細い唾液の糸を垂らしながら唇を離すと、バッカスが優しく訊ねた。
「ええ……。イーディスも分かってくれてるわ。思いっきり甘えてきなさいって言われた……」
 トロンと官能に蕩けた黒瞳でバッカスを見つめながら、アトロポスが告げた。

「そうか……。ポーションは使わないが、今夜はずっとお前を抱くぞ」
「うん……。好きなだけ愛して……」
 二人の唇が再び重なった。長い口づけを終えると、二人はお互いの鎧を脱がせ始めた。
 凄まじい筋肉に覆われたバッカスの肉体と、陶磁のように滑らかなアトロポスの裸身が、部屋の灯りに照らされて陰翳いんえいを落とした。二つの影が寄り添いながら寝室へと向かった。

 夜のとばりが下りた寝室の中で、月明かりに照らされた二人の動きが徐々に激しさを増していった。熱い息遣いと喘ぎ声が響き渡り、二人の愛の営みは夜空が白むまで続いた。


「まったく、何やってるのよ、バッカス……」
 アトロポスが隣に座るバッカスの口元に着いた米粒を取ると、自分の口に入れた。
「お、悪いな、アトロポス」
「子供みたいなんだから。こんなに食べ散らかして……」
 甲斐甲斐しくバッカスの世話を焼くアトロポスの姿を見て、イーディスは大きなため息をついた。

「どうした、イーディス? 食欲ないのか?」
「どうしたじゃないです、バッカスさん。アトロポスも……。見ている方が恥ずかしくなるわ。昨夜、どれだけ二人が愛し合ったのか知らないけど、あたしの前でいちゃつくのは止めてくれませんか?」
「あ、愛し合った……」
 イーディスの言葉に、アトロポスの顔が見る見る真っ赤に染まった。


 暁闇あかつきやみがたゆたう中、全身を駆け巡る快悦の奔流にアトロポスはビクンッビクンッと総身を痙攣させた。随喜の涙が止まらず、歓悦の極みを告げた唇からはネットリとした涎が糸を引いて垂れ落ちた。
「こんな……すごいの……はぁ、はぁ……はじめて……」
「そんなによかったのか?」
 汗で頬に貼り付いたおくれ髪を優しく掻き上げながら、バッカスが訊ねた。アトロポスは熱い吐息を漏らしながら、コクンと恥ずかしげに頷いた。

「もうじき夜が明けそうだな。また無理をさせちまった。悪い、アトロポス……」
「ううん……たくさん愛してもらって……嬉しい……大好きよ、バッカス」
 官能に蕩けきった黒瞳でバッカスを見つめると、アトロポスは痙攣が続く体を何とか起こして、バッカスの唇に口づけをした。
 そして、幸せそうに瞼を閉じると、バッカスの腕の中で眠りについた。


「アトロポス、自分の世界に入ってないで、戻ってきなさい!」
 イーディスの声に、アトロポスはハッと我に返った。
「まったく……! あなた、<闇姫ノクス・コンチュア>のリーダーなんだから、しっかりしてよね。これから護衛依頼だって覚えてるんでしょうね?」
 呆れきったイーディスが、ため息をつきながらアトロポスに文句を言った。

「だ、大丈夫よ。それより、イーディスの馬を考えないと……」
「馬?」
 アトロポスの告げた意味が分からずに、イーディスが首を傾げた。
「そうだな。ちょうど次のセレンティアは馬の産地だ。そこで検討しよう」
「そうね。いい子がいるといいけど……」
 頷き合う二人を見て、イーディスが訊ねた。

「馬がどうしたの?」
「私たちのシリウスとエクリプスって兄弟馬なんだけど、レウルーラ王宮でも飛びきりの駿馬なの。その脚に追いつける馬を探さないと、いざという時にイーディスがついて来られないわ」
 アトロポスの説明に、イーディスが驚いた。
「王宮で飛びきりの駿馬って、そんな軍馬をどうして持ってるの?」

「詳しいことは、今度話すわ。今はもうあんまり時間がないから、そろそろ行かないと……」
「そうだな。じゃあ、会計してくるから外で待っててくれ」
 そう告げると、バッカスは羊皮紙の伝票を掴んで会計に向かった。
「私たちも出ましょう。取りあえず、今回はイーディスの馬を借りないとね」
「うん……」
(王宮随一の軍馬を持っているなんて、アトロポスって何者なのよ? 今度、じっくりと話を聞かせてもらわないと……)
 先を歩くアトロポスの後ろ姿を、イーディスの碧眼が興味深そうに見据えていた。
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