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第7章 戦慄の悪夢
3 緑魔大蛇
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「何だ、こいつは……!?」
目の前にそびえ立つ巨大な魔獣を見上げて、バッカスは愕然とした。
全高は二十メッツェ近くもあり、火龍を遥かに超えていた。一見すると、巨大な大蛇のような胴体に続く長い尾を持っていた。大蛇と違うのは、人型の頭部と四本の腕があることだった。全身が緑色の鱗に覆われており、その頭部には虹彩のない黄色く光る眼と、びっしりと牙が生えそろった耳まで裂けている口があった。
(こんな奴、見たこともねえぞッ!)
冒険者になって九年になるバッカスは、今まで様々な魔獣と対峙してきた。その彼を持ってしても、初めて遭遇する魔獣だった。
アトロポスの言うとおり、その魔獣からは火龍なみの魔力を感じた。外見だけを見ても、バッカスの胴よりも太い腕に掴まれたら人間などあっという間に肉片に変えられ、巨大な尾の衝撃は岩なども簡単に粉砕しそうであった。
グッギャアアァア……!!
化け物が真っ赤な口を大きく開き、大気を震撼させるほどの咆吼を放った。同時に、その牙で覆われた口腔に蒼い魔素が急速に集まり、渦を巻いているのが見て取れた。
(衝撃波? やべえ……ッ!)
バッカスが左へ大きく飛び退いて、全力で駆けだした。その瞬間、蒼青色の魔覇気が螺旋を描きながら巨大な奔流となって放たれ、今までバッカスがいた地面に激突した。その瞬間、大地を揺るがす轟音とともに、直径十メートルにも及ぶ巨大な円形状の穴を残して、地面が溶解した。
「……! 溶かすのかッ!? あんなの喰らったら、跡形も残らねえぞッ!」
シューシューと音を立てながら立ち上る白煙を見て、バッカスは蒼白になった。四大龍序列第四位の木龍は、その衝撃波で全ての物を粉砕し崩し去る。だが、この化け物の衝撃波は崩すのではなく、溶かし去るようだった。
「こんなの、まともに相手にしてられるかッ! ハァアアッ!」
バッカスは両手で<火焔黒剣>を上段に構えると、裂帛の気合いとともに一気に振り抜いた。漆黒の刀身から深江色の神刃が放たれ、化け物めがけて凄まじい速度で襲いかかった。
キンッ!
高い金属音とともに、化け物の鱗に神刃が弾かれた。バッカスの濃茶色の瞳が驚愕に大きく見開かれた。
「何だと……!? 覇気が通じないッ?」
バッカスは再び<火焔黒剣>を振り抜いた。今度は左下から右上に逆袈裟で斬り上げた。深江色の神刃が、化け物の顔めがけて飛翔した。鱗に覆われていない顔を狙ったのだ。
だが、化け物は四本の腕のうち左上の腕を振ると、煩わしそうにバッカスの神刃を叩き落とした。それを見て、バッカスは立て続けに<火焔黒剣>を振り、深江色の神刃を三回放った。顔、胸、腹を同時に狙ったのだ。
しかし、三本の腕が動き、うるさい蠅でも追い払うようにそれぞれの神刃を払いのけた。そして、化け物が再び壮絶な咆吼を上げた。
グゥガァアアア……!
鋭い剣のような牙が生えた口腔から、蒼青色の魔覇気が螺旋を描きながら奔流となってバッカスに襲いかかった。
「……!」
バッカスが全力で右に跳び退き、辛うじてその衝撃波を避けた。先ほどと同様に、バッカスが直前までいた場所が溶解し、巨大な円形状の穴と化した。
「バッカスッ! 下がってッ!」
背後からアトロポスの叫びが聞こえた。だが、バッカスは後ろも振り向かずに吠えた。
「来るんじゃねえッ! 俺一人でやるッ!」
(何が何でもこいつを倒して、アトロポスの信頼を取り戻さないと……ッ!)
バッカスは口先だけで人を丸め込むことが大嫌いだった。だから、アトロポスに下手な言い訳をするよりも、行動で示そうと思った。自分にS級魔獣を倒す力がないことは、バッカス自身が一番良く知っていた。だからこそ、命を賭けてS級魔獣に挑む姿をアトロポスに見せることで、どれほど本気で彼女を想っているかを伝えるつもりだった。その結果、本当に生命を落としても、彼女に軽蔑されて生き続けるよりはずっとマシだった。
「馬鹿言わないでッ! 今のあなたじゃ、あいつの相手は危険すぎるわッ!」
「うるせえッ! 男が惚れた女の信頼を取り戻すために生命を張ってるんだッ! 黙って見ていろッ!」
そう叫ぶと、バッカスは咆吼を上げながら化け物に突進した。少しでも近づいて、神刃の威力を上げようと思ったのだ。
「ウォオオ……!」
化け物に肉迫しながら、バッカスが<火焔黒剣>を降り続けた。上段からの唐竹割り、左下段からの逆袈裟、右から水平に薙ぎ払い、左上からの袈裟懸け……。それぞれの剣戟に応じて、深江色の神刃が化け物めがけて翔破した。だが、そのいずれもが緑色の鱗に阻まれ、四本の腕に払われ、一撃たりとも化け物に傷を負わせることが出来なかった。
グゥガァアアア……!
鼓膜を引き裂くほどの凄まじい咆吼とともに、直径三メッツェを超える巨大な尾が鞭のようにしなりながらバッカスに襲いかかった。
「ぐふッ……!!」
左半身に尾の直撃を受けて、バッカスが二十メッツェ以上の距離を弾き飛ばされた。大地に何度も叩きつけられ、土煙を上げながらバッカスが転がっていった。
「バッカスッ!!」
悲痛なアトロポスの叫び声が、バッカスの耳朶に響いた。
「来るんじゃ……ねえ……! ぐふ……!」
全身を襲う激痛を歯を食いしばって押さえ込むと、バッカスが血を吐きながら叫んだ。左腕はダラリと垂れ下がり、自分でもどこの骨が折れたのかさえ分からなかった。肋骨も何本か折れており、吐血したことから肺にも刺さっているようだった。火龍の革鎧を着ていなければ、即死していたことは疑う余地もなかった。
割れた額から流れ出た血が眼に入り、視界が真っ赤に滲んでいた。バッカスは<火焔黒剣>を杖代わりにして立ち上がると、凄まじい視線で化け物を見据えた。
化け物が巨大な口を開き、衝撃波を放とうとしていた。今、衝撃波を受ければ逃げることなど不可能だった。
(この<火焔黒剣>は、俺の覇気を二十倍にするって言ってたな……?)
<火焔黒剣>の鍔に嵌められている火龍の宝玉を見つめながら、バッカスはドゥリンの言葉を思い出した。
「やってやるさ……! ウォオオ……!」
両手で<火焔黒剣>を高々と上段に構えると、バッカスはすべての覇気を解放した。
バッカスの全身から深江色の火焔が放たれた。その火焔が一気に爆発するように弾けると、高さ二十メッツェを超える巨大な紅蓮の業火と化した。その膨大な覇気が<火焔黒剣>に急激に収斂していった。火龍の宝玉が直視できないほどの真紅の光輝を放ち、<火焔黒剣>の漆黒の刀身が深江色の輝きを纏った。
グゥガァアアア……!
化け物が衝撃波を放った。すべてを溶解させる死の奔流が、壮絶な螺旋を描きながらバッカスに襲いかかった。
「ウォオオオオォ……!!」
凄まじい咆吼とともに、バッカスが<火焔黒剣>を一気に振り抜いた。膨大な深江色の覇気が、超絶な奔流となって周囲を席巻した。
化け物の放った死の奔流を併呑すると、深江色の激流はその壮絶な破壊力を倍加させて化け物へと襲いかかった。
グッ、ギャアアアァ……!
断末魔の絶叫を上げながら、化け物の全身が深江色の覇気に包まれ爆散した。轟音とともに大気が激震し、緑色の肉片が周囲に降り注いだ。
(やったぜ……アトロポス……)
すべての覇気と体力を使い果たしたバッカスの意識は、急速に闇に包まれていった。遠くで自分の名前を呼ぶアトロポスの声が聞こえたような気がした。
次の瞬間、バッカスは前のめりに地面に倒れ込み、そのまま意識を失った。
(この起こされ方も久しぶりだな……)
熱く小さな舌から流し込まれた苦みのある液体を飲み込むと、バッカスは甘い唾液を貪るように舌を絡めた。
ビクンッと震えて離れようとしたアトロポスの体を左腕で抱き寄せると、バッカスは濃厚に彼女の舌を吸い上げた。
「んっ……んくっ……んはっ……んあっ……!」
アトロポスが熱い吐息を漏らすと、細い唾液の糸を引きながらバッカスから唇を離した。そして、潤んだ瞳でバッカスを見据えると、文句を言った。
「何であんな無茶したのよ……? 死んだらどうするのよ……!」
黒曜石の瞳に涙が溢れ、白い頬を伝って流れ落ちた。その雫を右の親指で拭ってやりながら、バッカスが獰猛な笑みを浮かべた。
「これで、俺の過去は忘れてくれるか?」
「ばか……。忘れるはずないでしょ! 昔のあなたは最低の男よ! ホントに人間のクズだわ!」
「お、おい……、アトロポス……」
バッカスが焦った表情でアトロポスの顔を見つめた。彼女は泣き笑いを浮かべながら、続けた。
「でも、現在のあなたは素敵よ! 私の最高の恋人なんだから!」
そう告げると、アトロポスは残った上級回復ポーションを口に含んで、バッカスに唇を重ねた。流し込まれた苦みのある液体を飲み込むと、バッカスは再び激しく舌を絡め始めた。アトロポスも鼻にかかった甘い吐息を漏らしながら、自ら積極的に舌を動かした。
<闇姫>解散の危機は、こうして回避されたのだった。
爆散した化け物の皮や鱗、牙、爪、魔石を可能な限り回収して次元鞄に入れると、二人はアトロポスがオーガ・クイーンを倒した場所に戻った。
「オーガ・キングはゲイリーさんたちに譲ってあげましょう。私たちはさっきの化け物とオーガ・クイーンで十分よ」
「そうだな。魔石の他に、皮や牙などを持ち帰れば、それなりの金額になるからな。ゲイリーたちもいい稼ぎになるんじゃないか?」
笑顔で告げたアトロポスに頷きながら、バッカスが言った。
「どうせそのお金で、また変なお店に行くんでしょうね。バッカスも行ってきたら?」
ニヤリと笑いながら告げたアトロポスに、バッカス獰猛な笑みを浮かべながら答えた。
「俺が欲しいのはアトロポスだけだ。夜が待ち遠しいぜ」
「ば、ばか……!」
真っ赤に顔を染めながらそう告げると、アトロポスは背伸びをしてバッカスの右頬に口づけをした。
『うるせえッ! 男が惚れた女の信頼を取り戻すために生命を張ってるんだッ! 黙って見ていろッ!』
緑色の化け物と戦っている時に叫んだバッカスの言葉を思い出して、アトロポスは全身がカアッと熱くなった。
(私のために生命を賭けてくれたんだ……。大好きよ、バッカス。愛しているわ……。私も約束する。あなたのために、いつでもこの生命を賭けることを……)
心からの信頼と愛情を込めた黒瞳が、バッカスの精悍な横顔を愛おしそうに見つめていた。
ゲイリーたちがオーガ・キングの魔石や部位を回収するのを待って、アトロポスたちは『風魔の谷』から地上へと戻った。管理事務所に隣接する馬繋場で、ゲイリーがアトロポスに向かって礼を言った。
「すまねえな、ローズさん。オーガ・キングの魔石だけじゃなく、皮や牙なんかも譲ってもらって……」
「構いませんよ。私たちはS級魔獣の魔石や部位を手に入れましたから。それよりも一つゲイリーさんにお願いがあるんですが……」
「な、何だ……?」
アトロポスの視線に不穏なものを感じ取り、ゲイリーが顔を引き攣らせながら訊ねた。
「バッカスが賭場や娼館に行ったら、必ず私に教えてくださいね。その時には、本当にバッカスの手足を切り落としますから……」
「お、おい……、アトロポス……。い、行かねえよ、そんなところ……!」
ニッコリと笑って告げたアトロポスの言葉に、バッカスが慌てて叫んだ。
「あっはは……! 約束するぜ、ローズさん。この馬鹿がソフィアたちに会いに行ったら、必ずチクってやるよ!」
バッカスの様子を見て、ゲイリーたちが爆笑した。アトロポスも釣られて笑い、バッカスは頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
帰りはゲイリーたちの借り馬の脚に合わせて、ニザン以上かけてザルーエクに到着した。アトロポスとバッカスはシリウスとエクリプスの世話をするため、馬繋場でゲイリーたちと別れた。自らの手で汗を拭き、水を飲ませてやることが、愛馬と心を通わせるための大事な儀式なのだ。
「シリウス、お疲れ様。ゆっくりと休んでね」
「お前もな、エクリプス」
二頭は別れを惜しむかのように、それぞれの主人に鼻を擦りつけながら嘶いた。
馬繋場を出た時に、夜の六つ鐘が鳴った。辺りはすっかりと夜の帳が下りきり、街中には灯りに照らされた看板がいくつも見えていた。
「もう遅いから、ギルドに寄るのは明日にするか? 今日はこのまま『暁の女神亭』に行こう」
「そうね。じゃあ、先に部屋を予約してから食事にしましょうか」
バッカスの意見に頷いて、アトロポスが言った。
二人は大通りを北に向かって歩き、常宿としている『暁の女神亭』に入った。アトロポスたちは受付で二階の一人部屋を予約すると、隣接する食堂に入っていった。『暁の女神亭』は上級宿のため、一人部屋でも寝台は大きく、大人二人が余裕を持って横になれるのだ。
「それにしても、あの化け物は何だったんだろうな? あんな魔獣、初めて見たぞ」
「九年も冒険者をやっているバッカスが知らないってことは、未知の魔獣だったのかしら?」
バッカスの言葉に首を傾げながら、アトロポスが言った。有名なS級魔獣としてはサラマンダーやコカトリス、ロック・ゴーレムなどがあるが、アトロポスも緑色の大蛇など見たことも聞いたこともなかった。
「どうかな? 魔獣は数百種類いるらしいから、俺が知らないだけかも知れないが……」
「それにしても、あれを倒した時のバッカスの覇気は凄かったわね。クラスAを完全に超えていたわよ」
自分のことのように誇らしく、アトロポスが満面の笑みを浮かべながら告げた。
「ああ……、あれは<火焔黒剣>のおかげだよ。俺の覇気を二十倍に増幅できたから、あいつを倒せたんだ。本来の俺の覇気では、あいつの体に傷一つつけられなかった」
バッカスが苦笑いを浮かべながら告げた。実際にバッカスが放った深江色の神刃は、あの化け物の鱗にすべて弾き返されたのだった。
「武器の性能を引き出すのも本人の実力のうちよ。格好よかったわよ、バッカス」
「よせよ、面と向かって言われると照れるぜ」
強面の顔に獰猛な笑みを浮かべながら、バッカスが告げた。これが照れ隠しの笑いだと知る者は少ないんじゃないかとアトロポスは思った。
(惚れた女のために生命を張ってるなんて……、そんなこと言われたら私……)
バッカスの精悍な顔を見ているだけで、アトロポスは胸がドキドキとしてきた。無意識に頬が熱くなるのが、自分でも分かった。
「飯も食い終わったし、そろそろ部屋に行くか……?」
「う、うん……」
アトロポスの脳裏に、バッカスの言葉が蘇った。
『俺が欲しいのはアトロポスだけだ。夜が待ち遠しいぜ』
(これから私、バッカスに抱かれるんだ……)
全身がカアッと熱くなり、アトロポスは恥ずかしさと期待に真っ赤に染まった。そして、伝票を掴んで歩き出したバッカスの後を、アトロポスは俯きながらついていった。ドクンドクンと早鐘を打つ心臓の音がバッカスに聞こえないかと、アトロポスはそれだけが心配だった。
予約した部屋に入ると、バッカスはアトロポスの腰に左手を廻し、そのまま寝室へと連れて行った。そして、優しく抱き寄せながら耳元で囁いた。
「今日は思う存分、お前を抱きたい……」
「バッカス……」
アトロポスは恥ずかしさのあまり、真っ赤に染まった顔をバッカスの胸に押しつけて縋り付いた。
「昔から、生命を賭けて闘った男への報酬は愛する女だ。今日だけはポーションを使っても怒るなよ」
「うん……。私もバッカスに愛されたい……。好きよ、バッカス……」
窓から差し込む月明かりが、激しい口づけを交わす二人の姿を優しく照らした。その夜、二人はかつてないほど身も心も一つになって、暁の女神が微笑むまで愛を交わし合った。
目の前にそびえ立つ巨大な魔獣を見上げて、バッカスは愕然とした。
全高は二十メッツェ近くもあり、火龍を遥かに超えていた。一見すると、巨大な大蛇のような胴体に続く長い尾を持っていた。大蛇と違うのは、人型の頭部と四本の腕があることだった。全身が緑色の鱗に覆われており、その頭部には虹彩のない黄色く光る眼と、びっしりと牙が生えそろった耳まで裂けている口があった。
(こんな奴、見たこともねえぞッ!)
冒険者になって九年になるバッカスは、今まで様々な魔獣と対峙してきた。その彼を持ってしても、初めて遭遇する魔獣だった。
アトロポスの言うとおり、その魔獣からは火龍なみの魔力を感じた。外見だけを見ても、バッカスの胴よりも太い腕に掴まれたら人間などあっという間に肉片に変えられ、巨大な尾の衝撃は岩なども簡単に粉砕しそうであった。
グッギャアアァア……!!
化け物が真っ赤な口を大きく開き、大気を震撼させるほどの咆吼を放った。同時に、その牙で覆われた口腔に蒼い魔素が急速に集まり、渦を巻いているのが見て取れた。
(衝撃波? やべえ……ッ!)
バッカスが左へ大きく飛び退いて、全力で駆けだした。その瞬間、蒼青色の魔覇気が螺旋を描きながら巨大な奔流となって放たれ、今までバッカスがいた地面に激突した。その瞬間、大地を揺るがす轟音とともに、直径十メートルにも及ぶ巨大な円形状の穴を残して、地面が溶解した。
「……! 溶かすのかッ!? あんなの喰らったら、跡形も残らねえぞッ!」
シューシューと音を立てながら立ち上る白煙を見て、バッカスは蒼白になった。四大龍序列第四位の木龍は、その衝撃波で全ての物を粉砕し崩し去る。だが、この化け物の衝撃波は崩すのではなく、溶かし去るようだった。
「こんなの、まともに相手にしてられるかッ! ハァアアッ!」
バッカスは両手で<火焔黒剣>を上段に構えると、裂帛の気合いとともに一気に振り抜いた。漆黒の刀身から深江色の神刃が放たれ、化け物めがけて凄まじい速度で襲いかかった。
キンッ!
高い金属音とともに、化け物の鱗に神刃が弾かれた。バッカスの濃茶色の瞳が驚愕に大きく見開かれた。
「何だと……!? 覇気が通じないッ?」
バッカスは再び<火焔黒剣>を振り抜いた。今度は左下から右上に逆袈裟で斬り上げた。深江色の神刃が、化け物の顔めがけて飛翔した。鱗に覆われていない顔を狙ったのだ。
だが、化け物は四本の腕のうち左上の腕を振ると、煩わしそうにバッカスの神刃を叩き落とした。それを見て、バッカスは立て続けに<火焔黒剣>を振り、深江色の神刃を三回放った。顔、胸、腹を同時に狙ったのだ。
しかし、三本の腕が動き、うるさい蠅でも追い払うようにそれぞれの神刃を払いのけた。そして、化け物が再び壮絶な咆吼を上げた。
グゥガァアアア……!
鋭い剣のような牙が生えた口腔から、蒼青色の魔覇気が螺旋を描きながら奔流となってバッカスに襲いかかった。
「……!」
バッカスが全力で右に跳び退き、辛うじてその衝撃波を避けた。先ほどと同様に、バッカスが直前までいた場所が溶解し、巨大な円形状の穴と化した。
「バッカスッ! 下がってッ!」
背後からアトロポスの叫びが聞こえた。だが、バッカスは後ろも振り向かずに吠えた。
「来るんじゃねえッ! 俺一人でやるッ!」
(何が何でもこいつを倒して、アトロポスの信頼を取り戻さないと……ッ!)
バッカスは口先だけで人を丸め込むことが大嫌いだった。だから、アトロポスに下手な言い訳をするよりも、行動で示そうと思った。自分にS級魔獣を倒す力がないことは、バッカス自身が一番良く知っていた。だからこそ、命を賭けてS級魔獣に挑む姿をアトロポスに見せることで、どれほど本気で彼女を想っているかを伝えるつもりだった。その結果、本当に生命を落としても、彼女に軽蔑されて生き続けるよりはずっとマシだった。
「馬鹿言わないでッ! 今のあなたじゃ、あいつの相手は危険すぎるわッ!」
「うるせえッ! 男が惚れた女の信頼を取り戻すために生命を張ってるんだッ! 黙って見ていろッ!」
そう叫ぶと、バッカスは咆吼を上げながら化け物に突進した。少しでも近づいて、神刃の威力を上げようと思ったのだ。
「ウォオオ……!」
化け物に肉迫しながら、バッカスが<火焔黒剣>を降り続けた。上段からの唐竹割り、左下段からの逆袈裟、右から水平に薙ぎ払い、左上からの袈裟懸け……。それぞれの剣戟に応じて、深江色の神刃が化け物めがけて翔破した。だが、そのいずれもが緑色の鱗に阻まれ、四本の腕に払われ、一撃たりとも化け物に傷を負わせることが出来なかった。
グゥガァアアア……!
鼓膜を引き裂くほどの凄まじい咆吼とともに、直径三メッツェを超える巨大な尾が鞭のようにしなりながらバッカスに襲いかかった。
「ぐふッ……!!」
左半身に尾の直撃を受けて、バッカスが二十メッツェ以上の距離を弾き飛ばされた。大地に何度も叩きつけられ、土煙を上げながらバッカスが転がっていった。
「バッカスッ!!」
悲痛なアトロポスの叫び声が、バッカスの耳朶に響いた。
「来るんじゃ……ねえ……! ぐふ……!」
全身を襲う激痛を歯を食いしばって押さえ込むと、バッカスが血を吐きながら叫んだ。左腕はダラリと垂れ下がり、自分でもどこの骨が折れたのかさえ分からなかった。肋骨も何本か折れており、吐血したことから肺にも刺さっているようだった。火龍の革鎧を着ていなければ、即死していたことは疑う余地もなかった。
割れた額から流れ出た血が眼に入り、視界が真っ赤に滲んでいた。バッカスは<火焔黒剣>を杖代わりにして立ち上がると、凄まじい視線で化け物を見据えた。
化け物が巨大な口を開き、衝撃波を放とうとしていた。今、衝撃波を受ければ逃げることなど不可能だった。
(この<火焔黒剣>は、俺の覇気を二十倍にするって言ってたな……?)
<火焔黒剣>の鍔に嵌められている火龍の宝玉を見つめながら、バッカスはドゥリンの言葉を思い出した。
「やってやるさ……! ウォオオ……!」
両手で<火焔黒剣>を高々と上段に構えると、バッカスはすべての覇気を解放した。
バッカスの全身から深江色の火焔が放たれた。その火焔が一気に爆発するように弾けると、高さ二十メッツェを超える巨大な紅蓮の業火と化した。その膨大な覇気が<火焔黒剣>に急激に収斂していった。火龍の宝玉が直視できないほどの真紅の光輝を放ち、<火焔黒剣>の漆黒の刀身が深江色の輝きを纏った。
グゥガァアアア……!
化け物が衝撃波を放った。すべてを溶解させる死の奔流が、壮絶な螺旋を描きながらバッカスに襲いかかった。
「ウォオオオオォ……!!」
凄まじい咆吼とともに、バッカスが<火焔黒剣>を一気に振り抜いた。膨大な深江色の覇気が、超絶な奔流となって周囲を席巻した。
化け物の放った死の奔流を併呑すると、深江色の激流はその壮絶な破壊力を倍加させて化け物へと襲いかかった。
グッ、ギャアアアァ……!
断末魔の絶叫を上げながら、化け物の全身が深江色の覇気に包まれ爆散した。轟音とともに大気が激震し、緑色の肉片が周囲に降り注いだ。
(やったぜ……アトロポス……)
すべての覇気と体力を使い果たしたバッカスの意識は、急速に闇に包まれていった。遠くで自分の名前を呼ぶアトロポスの声が聞こえたような気がした。
次の瞬間、バッカスは前のめりに地面に倒れ込み、そのまま意識を失った。
(この起こされ方も久しぶりだな……)
熱く小さな舌から流し込まれた苦みのある液体を飲み込むと、バッカスは甘い唾液を貪るように舌を絡めた。
ビクンッと震えて離れようとしたアトロポスの体を左腕で抱き寄せると、バッカスは濃厚に彼女の舌を吸い上げた。
「んっ……んくっ……んはっ……んあっ……!」
アトロポスが熱い吐息を漏らすと、細い唾液の糸を引きながらバッカスから唇を離した。そして、潤んだ瞳でバッカスを見据えると、文句を言った。
「何であんな無茶したのよ……? 死んだらどうするのよ……!」
黒曜石の瞳に涙が溢れ、白い頬を伝って流れ落ちた。その雫を右の親指で拭ってやりながら、バッカスが獰猛な笑みを浮かべた。
「これで、俺の過去は忘れてくれるか?」
「ばか……。忘れるはずないでしょ! 昔のあなたは最低の男よ! ホントに人間のクズだわ!」
「お、おい……、アトロポス……」
バッカスが焦った表情でアトロポスの顔を見つめた。彼女は泣き笑いを浮かべながら、続けた。
「でも、現在のあなたは素敵よ! 私の最高の恋人なんだから!」
そう告げると、アトロポスは残った上級回復ポーションを口に含んで、バッカスに唇を重ねた。流し込まれた苦みのある液体を飲み込むと、バッカスは再び激しく舌を絡め始めた。アトロポスも鼻にかかった甘い吐息を漏らしながら、自ら積極的に舌を動かした。
<闇姫>解散の危機は、こうして回避されたのだった。
爆散した化け物の皮や鱗、牙、爪、魔石を可能な限り回収して次元鞄に入れると、二人はアトロポスがオーガ・クイーンを倒した場所に戻った。
「オーガ・キングはゲイリーさんたちに譲ってあげましょう。私たちはさっきの化け物とオーガ・クイーンで十分よ」
「そうだな。魔石の他に、皮や牙などを持ち帰れば、それなりの金額になるからな。ゲイリーたちもいい稼ぎになるんじゃないか?」
笑顔で告げたアトロポスに頷きながら、バッカスが言った。
「どうせそのお金で、また変なお店に行くんでしょうね。バッカスも行ってきたら?」
ニヤリと笑いながら告げたアトロポスに、バッカス獰猛な笑みを浮かべながら答えた。
「俺が欲しいのはアトロポスだけだ。夜が待ち遠しいぜ」
「ば、ばか……!」
真っ赤に顔を染めながらそう告げると、アトロポスは背伸びをしてバッカスの右頬に口づけをした。
『うるせえッ! 男が惚れた女の信頼を取り戻すために生命を張ってるんだッ! 黙って見ていろッ!』
緑色の化け物と戦っている時に叫んだバッカスの言葉を思い出して、アトロポスは全身がカアッと熱くなった。
(私のために生命を賭けてくれたんだ……。大好きよ、バッカス。愛しているわ……。私も約束する。あなたのために、いつでもこの生命を賭けることを……)
心からの信頼と愛情を込めた黒瞳が、バッカスの精悍な横顔を愛おしそうに見つめていた。
ゲイリーたちがオーガ・キングの魔石や部位を回収するのを待って、アトロポスたちは『風魔の谷』から地上へと戻った。管理事務所に隣接する馬繋場で、ゲイリーがアトロポスに向かって礼を言った。
「すまねえな、ローズさん。オーガ・キングの魔石だけじゃなく、皮や牙なんかも譲ってもらって……」
「構いませんよ。私たちはS級魔獣の魔石や部位を手に入れましたから。それよりも一つゲイリーさんにお願いがあるんですが……」
「な、何だ……?」
アトロポスの視線に不穏なものを感じ取り、ゲイリーが顔を引き攣らせながら訊ねた。
「バッカスが賭場や娼館に行ったら、必ず私に教えてくださいね。その時には、本当にバッカスの手足を切り落としますから……」
「お、おい……、アトロポス……。い、行かねえよ、そんなところ……!」
ニッコリと笑って告げたアトロポスの言葉に、バッカスが慌てて叫んだ。
「あっはは……! 約束するぜ、ローズさん。この馬鹿がソフィアたちに会いに行ったら、必ずチクってやるよ!」
バッカスの様子を見て、ゲイリーたちが爆笑した。アトロポスも釣られて笑い、バッカスは頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。
帰りはゲイリーたちの借り馬の脚に合わせて、ニザン以上かけてザルーエクに到着した。アトロポスとバッカスはシリウスとエクリプスの世話をするため、馬繋場でゲイリーたちと別れた。自らの手で汗を拭き、水を飲ませてやることが、愛馬と心を通わせるための大事な儀式なのだ。
「シリウス、お疲れ様。ゆっくりと休んでね」
「お前もな、エクリプス」
二頭は別れを惜しむかのように、それぞれの主人に鼻を擦りつけながら嘶いた。
馬繋場を出た時に、夜の六つ鐘が鳴った。辺りはすっかりと夜の帳が下りきり、街中には灯りに照らされた看板がいくつも見えていた。
「もう遅いから、ギルドに寄るのは明日にするか? 今日はこのまま『暁の女神亭』に行こう」
「そうね。じゃあ、先に部屋を予約してから食事にしましょうか」
バッカスの意見に頷いて、アトロポスが言った。
二人は大通りを北に向かって歩き、常宿としている『暁の女神亭』に入った。アトロポスたちは受付で二階の一人部屋を予約すると、隣接する食堂に入っていった。『暁の女神亭』は上級宿のため、一人部屋でも寝台は大きく、大人二人が余裕を持って横になれるのだ。
「それにしても、あの化け物は何だったんだろうな? あんな魔獣、初めて見たぞ」
「九年も冒険者をやっているバッカスが知らないってことは、未知の魔獣だったのかしら?」
バッカスの言葉に首を傾げながら、アトロポスが言った。有名なS級魔獣としてはサラマンダーやコカトリス、ロック・ゴーレムなどがあるが、アトロポスも緑色の大蛇など見たことも聞いたこともなかった。
「どうかな? 魔獣は数百種類いるらしいから、俺が知らないだけかも知れないが……」
「それにしても、あれを倒した時のバッカスの覇気は凄かったわね。クラスAを完全に超えていたわよ」
自分のことのように誇らしく、アトロポスが満面の笑みを浮かべながら告げた。
「ああ……、あれは<火焔黒剣>のおかげだよ。俺の覇気を二十倍に増幅できたから、あいつを倒せたんだ。本来の俺の覇気では、あいつの体に傷一つつけられなかった」
バッカスが苦笑いを浮かべながら告げた。実際にバッカスが放った深江色の神刃は、あの化け物の鱗にすべて弾き返されたのだった。
「武器の性能を引き出すのも本人の実力のうちよ。格好よかったわよ、バッカス」
「よせよ、面と向かって言われると照れるぜ」
強面の顔に獰猛な笑みを浮かべながら、バッカスが告げた。これが照れ隠しの笑いだと知る者は少ないんじゃないかとアトロポスは思った。
(惚れた女のために生命を張ってるなんて……、そんなこと言われたら私……)
バッカスの精悍な顔を見ているだけで、アトロポスは胸がドキドキとしてきた。無意識に頬が熱くなるのが、自分でも分かった。
「飯も食い終わったし、そろそろ部屋に行くか……?」
「う、うん……」
アトロポスの脳裏に、バッカスの言葉が蘇った。
『俺が欲しいのはアトロポスだけだ。夜が待ち遠しいぜ』
(これから私、バッカスに抱かれるんだ……)
全身がカアッと熱くなり、アトロポスは恥ずかしさと期待に真っ赤に染まった。そして、伝票を掴んで歩き出したバッカスの後を、アトロポスは俯きながらついていった。ドクンドクンと早鐘を打つ心臓の音がバッカスに聞こえないかと、アトロポスはそれだけが心配だった。
予約した部屋に入ると、バッカスはアトロポスの腰に左手を廻し、そのまま寝室へと連れて行った。そして、優しく抱き寄せながら耳元で囁いた。
「今日は思う存分、お前を抱きたい……」
「バッカス……」
アトロポスは恥ずかしさのあまり、真っ赤に染まった顔をバッカスの胸に押しつけて縋り付いた。
「昔から、生命を賭けて闘った男への報酬は愛する女だ。今日だけはポーションを使っても怒るなよ」
「うん……。私もバッカスに愛されたい……。好きよ、バッカス……」
窓から差し込む月明かりが、激しい口づけを交わす二人の姿を優しく照らした。その夜、二人はかつてないほど身も心も一つになって、暁の女神が微笑むまで愛を交わし合った。
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