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第7章 戦慄の悪夢

1 バッカスの過去

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 バッカスが冒険者になったのは、十五歳の時だった。冒険者だった両親を四歳の時に魔獣に殺され、それ以降は親戚をたらい回しにされながら育った。当然のことながら厄介者のバッカスを愛してくれる者など誰もおらず、十歳になる頃にはいっぱしのワルになって家にも寄りつかなくなっていた。

 女を初めて抱いたのは十三の時で、相手は十歳も年上の娼婦だった。そのジェーンという名の娼婦は、何故かバッカスを可愛がり、衣食住すべての面倒を見てくれた。バッカスも反発しながらもジェーンを愛し、盗みを働いては彼女に食料や衣服を渡してやった。

 そのジェーンが殺されたのは、バッカスが十四歳の時だった。いわゆる痴情のもつれというやつで、相手はレウルーラの裏社会を牛耳る組織のボスだった。ジェーンはその男ガイゼルの求愛を拒み続け、拉致監禁された上に輪姦された。そして、薬物を投与されて客を取らされたあげくに急性中毒死したのだった。

 バッカスはジェーンの敵討ちを誓い、あらゆる手を使ってガイゼルの行動を調べた。常時ボディーガードを何人も連れているガイゼルが単身になる機会を探ったのだ。そして、ガイゼルに女がいることを突き止めた。その女は貴族や大商人などの富裕層を相手にする大酒家の女主人だった。バッカスは身分を偽り、その酒家に下働きとして雇われた。

 バッカスは半年の時間を掛けて、再びガイゼルの行動を調べ尽くした。ガイゼルは週に一度、必ず女主人に会いに来ていた。店で飲んだ後、ガイゼルは三階にある女主人の部屋で彼女を抱いた。その時には、ガイゼルのボディーガードは部屋の中には入らずに、扉の前でガイゼルを護衛していた。

 ある日、金を掴ませていた店の女からガイゼルが来ることを聞いたバッカスは、剣を携えて女主人の部屋に忍び込んだ。バッカスはクローゼットの中に身を潜め、ガイゼルと女主人が寝台で抱き合うのを剣を握りしめながら待った。

 しばらくすると、女主人が酔ったガイゼルを連れて部屋に入ってきた。衣擦れの音がし、やがて女主人の艶めかしい喘ぎ声が聞こえてきた。寝台がきしみ、女主人が歓喜の頂点を告げる声を放った瞬間、バッカスはクローゼットを飛び出した。そして、ガイゼルの背中から心臓を突き刺し、悲鳴を上げようとした女主人の喉を斬り裂いた。

 騒ぎを聞きつけたボディーガードが部屋に駆け込んできた瞬間、バッカスは窓を蹴破って三階から大通りへと飛び降りた。着地の衝撃で左肩を脱臼したが、痛みを堪えながらバッカスは人混みの中を走り続けた。

 追っ手をまいたのか、最初から追ってこなかったのかは分からなかったが、バッカスはセント・アルトン教会の裏手にある物置小屋に辿り着くと、ホッとため息をついた。同時に、生まれて初めて人を殺した感触が甦り、両手の震えが止まらなくなった。

 バッカスは三日間、その物置小屋に身を隠し続けた。水は教会の井戸から汲み上げ、食料は女神サマルリーナの供物を盗んで食べた。生まれてから一度も神に助けられた覚えなどないバッカスは、女神に対する信心など持ち合わせていなかった。

 三日目の早朝、陽が昇る前にバッカスは井戸の水を汲み上げ、体にこびりついた返り血や血まみれの剣を洗い流した。上着の血は洗っても落ちなかったため、裏返しにして着込んだ。

 ジェーンの仇討ちという目標を達成したバッカスは、これから先どうやって生きていくかを考えた。女主人の店は首都レウルーラの西地区にあったため、当分の間は足を踏み入れるつもりはなかった。本来であればレウルーラを離れる方が良いに決まっていたが、バッカスは銅貨一枚さえ持っていなかった。

 食べ物を盗むことも考えたが、街を出るだけの金が貯まる間ずっと盗み続けることは不可能だった。何とか職に就こうと東地区を彷徨さまよっている時、バッカスは冒険者ギルドの建物を眼にした。以前に金貨一枚さえ払えば、誰でも冒険者になることが出来るとバッカスは聞いたことがあった。だが、冒険者でなくても、魔獣の魔石や皮などを買い取ってもらえるかも知れないとバッカスは考えた。そうであれば、その金で冒険者登録をしようとバッカスは思った。

 バッカスは入口にある観音扉を押して、冒険者ギルドに入った。初めて見る冒険者ギルドは、思ったよりも広かった。正面の受付には、美しい受付嬢たちが座っていた。だが、バッカスは左側の壁にある掲示板に向かった。どんな依頼でどのくらいの報酬が得られるのか、相場を調べるためだった。

 冒険者登録に必要な金貨一枚以上の報酬は、D級依頼からだった。討伐対象は、アーサー・ゴブリンやゴブリン・ジェネラル、ゴブリン・ナイト、ゴブリン・メイジなど、いずれもゴブリンの上位種のようだった。上位種と言っても、所詮はゴブリンだと思い、バッカスはそれらのいる『風魔の谷』という迷宮に行く決意をした。

 『風魔の谷』は、首都レウルーラの近くにあるザルーエクという街から馬でニザンだった。だが、ザルーエクまでは馬で六ザンの距離があった。バッカスはレウルーラから直接『風魔の谷』に向かおうと思った。そうすれば、馬で六ザン半くらいで到着するはずだった。だが、馬を借りる金もないので、徒歩で行かなければならなかった。馬のおよそ三倍の時間がかかるとして、休憩を含めると『風魔の谷』まで丸一日は歩き続ける必要があった。

 一日最低二食として、『風魔の谷』までの往復で少なくても四食分の食料が必要だった。当然、水も必要となり、それらを入れる袋か鞄もなくてはならなかった。
 剣は売るわけにはいかなかった。武器なしではゴブリン相手でも危険すぎるからだ。バッカスは、食料は教会の貢ぎ物を盗むことにし、袋は上着で包むことで代用することにした。問題は水筒だった。二日間、水なしでゴブリン討伐など出来るはずがなかった。

 バッカスは受付嬢に、ギルドで水筒の貸出をしていないかを訊ねた。当然のことながら、そんなことをしているはずはなかった。だが、受付嬢はバッカスに同情したのか、自分の水筒を貸してくれた。久しぶりに人の優しさに会い、バッカスは思わず涙を流しながら感謝した。そして、夜中になるのを待って教会に忍び込み、貢ぎ物の果物を六つ盗むと『風魔の谷』に向けて出発した。

 ダンジョンに入るだけで金貨一枚が必要になることを、バッカスは初めて知った。金貨一枚を得るために入るのに、金貨一枚払わなければならない理不尽さに、バッカスは怒りと呆れを感じた。当然のことながら、夜になって管理事務所が閉まるまで待ってから、こっそりとダンジョンに入った。ダンジョンの中は薄らと壁が光っていて、松明がなくても進めることに、バッカスは胸を撫で下ろした。

 一階層から出て来たゴブリンを、バッカスは剣の一閃で倒すことが出来た。だが、魔石も小さく金にならないと判断し、死体はそのまま放置した。四階層あたりから、ゴブリンの質が変わってきた。名前は分からなかったが、今までのゴブリンと少し外見が違い、強さも数段上だった。何度か危ない眼に遭ったが、バッカスは何とかそのゴブリンを倒すことが出来た。今までのゴブリンよりも魔石が大きく、バッカスは上着のポケットに魔石だけを入れた。

 六階層で出逢ったのは、ゴブリン・メイジだった。初めて魔法を使うゴブリンを相手に、バッカスは一度目は逃げ出した。だが、これを倒さなくては金貨が手に入らないと思い、岩陰に身を隠しながら接近して奇襲によって何とか倒すことが出来た。次に遭ったのはゴブリン・ナイトだった。ドロップ品と思われる剣と盾を手にしたゴブリンは、剣技でバッカスを圧倒した。剣を避けた時に足を滑らせて、バッカスは地面に背中を打った。ゴブリンナイトの剣が振り落とされる瞬間、バッカスは思わず眼を閉じて剣を突き出した。

 偶然にもバッカスの剣がゴブリンナイトの頸に突き刺さり、バッカスは九死に一生を得て倒すことが出来た。D級魔獣であるゴブリン・メイジとゴブリン・ナイトの討伐に成功したバッカスは、『風魔の谷』を出て首都レウルーラを目指した。運悪く途中で十匹以上の狼の群れと遭遇し、無我夢中でそれらを殲滅した。持てるだけの狼の毛皮を剥ぐと、バッカスはその肉を焼いて貪るように食べた。

 冒険者ギルド・レウルーラ本部に辿り着くと、バッカスは入口の観音扉を開けた瞬間に、安心のあまり気を失ってしまった。目を覚ますとギルドの二階にある会議室で寝かされていた。水筒を貸してくれた受付嬢が、心配そうにバッカスの顔を覗き込んでいた。

 受付嬢はディジーと名乗り、バッカスの怪我に包帯を巻いてくれた。バッカスは礼を言うと、ディジーに魔石や狼の毛皮の換金を依頼した。全部で金貨三枚と銀貨七枚を手に入れたバッカスは、ディジーに金貨一枚を渡して冒険者登録をしてもらった。

 晴れて冒険者となったバッカスは、パーティを組まずに単身で『風魔の谷』に入ってはゴブリンを狩って金を稼いだ。その金でディジーを食事に誘い、彼女の喜びそうな物を贈った。バッカスにとって、ディジーが初恋の女性になった。

 ディジーを初めて抱いたのは、彼女と知り合ってからおよそ三ヶ月が過ぎてからだった。それまでのバッカスは、女は会ったその日に無理矢理にでも抱くものだと思っていた。だが、ディジーに対してはそういう気になれず、彼女の気持ちが自分に向くまで辛抱強く待った。バッカスは金のかかる宿屋暮らしをやめて、ディジーが借りている小さな部屋に移った。そして、昼間は『風魔の谷』でゴブリンを狩り、夜は毎日のようにディジーを抱いて過ごした。

 そんな生活を続けて半年が経った頃、バッカスは盾士クラスDのデュークという冒険者がリーダーをしている固定パーティに誘われた。<北斗の星ポールスター>というランクDパーティで、デュークの他に三人の男のメンバーがいるパーティだった。

 ギルドの依頼は自分のクラスかパーティのランクより一つ上まで受注できる。剣士クラスEに昇格したばかりのバッカスにとって、C級依頼で得る報酬は魅力的なものだった。
 デュークは金回りが良くなってきたバッカスに、賭博や娼館の女を紹介した。初めての賭博に勝利して味を占め、バッカスはデュークの思惑通りのめり込んでいった。そして、娼館の美しい女にも溺れていき、バッカスはディジーの部屋に帰る日も少なくなっていった。

 ある朝、娼館で女を抱いた帰りに、バッカスは久しぶりにディジーの部屋を訪れた。そこで見た光景は、バッカスを逆上させるにあまりあるものだった。ディジーが犯されていた。いや、四人の男たちに代わる代わる輪姦されていた。その男たちこそが、デュークを初めとする<北斗の星ポールスター>のメンバーだったのだ。

 最初からデュークたちはディジーが目的でバッカスに近づいたのだった。バッカスはデュークたちを叩きのめし、ディジーの部屋から追い出した。ディジーの身を案じるバッカスに、彼女はこうなった責任はバッカスにあると泣きながらなじった。バッカスはディジーを残して部屋を出て行かざるを得なかった。それ以来、ディジーはバッカスと口も聞いてくれなくなった。荒れ果てたバッカスが賭博と娼館に入り浸っている間に、ディジーはギルドを辞めて故郷に帰ってしまった。

 <北斗の星ポールスター>を追い出されたバッカスは、何かにつけ冒険者たちと喧嘩を繰り返し、いつしか『猛牛殺しオックス・キラー』と呼ばれるようになった。固定パーティにも何度か誘われたが、その度にメンバーと衝突してクビになった。バッカスは冒険者ギルド・レウルーラ本部における最大の問題児となっていった。

 そんなバッカスの前に現れたのが、長い黒髪に黒曜石の瞳をした小柄な美少女だった。その日、バッカスは博打に負けてむしゃくしゃしており、たまたま横にいた彼女に絡んだ。大の男でも震え上がるバッカスの一喝を、美少女は笑っていなした。それどころか、ギルド内で大声を出すと迷惑だから、喚きたいのなら山奥にでも籠もっていろと言い返してきた。

 売った喧嘩を買われたと思ったバッカスは、美少女に掴みかかろうとした。その時、たまたまそこにいたグランド・ギルドマスターであるアルフレードが仲裁に入った。そして、バッカスに美少女との模擬戦を命じ、彼女に傷一筋でも入れられたら明日の昇格試験を待たずに剣士クラスAにしてやると言ってきた。

 思いも寄らぬ幸運に、バッカスは諸手を挙げて喜んだ。目の前の小柄な美少女に勝つことなど、造作もないことだと思った。だが、地下の闘技場に移った後で、アルフレードは美処女が剣士クラスSで『夜薔薇ナイト・ローズ』の二つ名を持つと告げた。それだけでなく、単独でSS級魔獣の混沌龍カオス・ドラゴンを討伐した実力者であるとさえ言った。

 恐慌をきたすバッカスの前で、ローズは三十メッツェも先にあるアダマンタイト製の練習人形を、漆黒の覇気で両断して見せた。そして、バッカスに覇気の使い方さえも伝授した。その瞬間、バッカスはローズに魅了され、無意識に姉御と呼んで頭を下げていた。
 ローズの特訓のおかげで、バッカスは無事に剣士クラスAに昇格できた。そして、ローズとともに過ごしている間に、二人の距離は急速に縮まっていった。今では相思相愛の恋人同士となり、二人だけでパーティを組んでいた。


 そのアトロポス=ローズが、バッカスの黒歴史を聞いて激怒していた。彼女の実力を知るバッカスは、本気で震え上がった。

『アトロポス、ご、誤解なんだ。俺は女三人となんて考えたこともないし、お前以外の女を抱きたいなんて思ってもいない!』

 だが、アトロポスはバッカスの意識伝達を故意に無視して、ゲイリーたちと楽しそうに会話していた。しかし、バッカスにはアトロポスの天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスから、漆黒の覇気がゆらゆらと立ち上っていることがはっきりと見えた。

「へえ、ゲイリーさんってお強いんですね。それだけ強ければ、女性が放っておかないんじゃないんですか?」
「まあな、娼館みせに行っても、モテまくりだぜ。そう言やあ、バッカスも俺ほどじゃねえが、それなりにモテたな。ソフィア、アマンダ、メリッサ、ベティ、サブリナ……他にも何人か手を出してやがったな。あの野郎、気に入った女を一列に並べて、片っ端からやりてえとかほざいてやがったぜ」
 ゲイリーが告げた言葉に、バッカスが蒼白になって叫んだ。

「てめえ! 何をあることないこと言ってやがる……」
 ギロリとアトロポスに睨まれ、バッカスが言葉を途切れさせた。その黒曜石の瞳からは、激しい怒りを通り越して、冷めた殺意さえ感じられたのだ。

「私、今のパーティ・メンバーとして、バッカスのことを知りたいんです。他に彼の武勇伝とかないんですか?」
「そうだなあ……。ああ、博打で負けが込んで、自分の女を賭けたこともあったな。まあ、勝てたから良かったが、負けてれば洒落にならなかったな、バッカス」
 ゲイリーが後ろを歩いているバッカスを振り向きながら、笑って告げた。
(ゲイリー、貴様、覚えていろよッ!)

「最低ですね! そんな奴、人間のクズ・・ですね!」
 もはや、アトロポスはバッカスの眼を見ようともしなかった。その代わりに、彼女の天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスを包み込んでいる覇気がますます漆黒へと変わっていった。

『ア、アトロポス……それは……』

「もし、私が彼女だったら、そんな男は手足を斬り落としていますよ!」
 バッカスの意識伝達に答えるかのように、アトロポスが叫んだ。それを聞いて、バッカスは心の底から震え上がった。
「ワッハハハ……。おっかねえな、嬢ちゃん。まあ、気持ちは分からなくもねえがな。バッカス、嬢ちゃんが単なる・・・パーティ・メンバーで良かったな!」
「ホントです! そんな話を聞いたら、百年の恋も一気に醒めます!」
 もはや、虫けらでも見るような冷え切った眼で、アトロポスがバッカスを一瞥した。

 百九十五セグメッツェの堂々たる巨体を縮こませながら、バッカスは蒼白な表情で立ち竦んだ。


「シリウス、ご無沙汰しちゃってごめんね。寂しかった?」
 アトロポスの言葉にぐいぐいと鼻を擦りつけると、シリウスは同意するようにいなないた。
「エクリプスも久しぶりね。そうそう、あんたの主人、とんでもないクズなのよ。あんな奴、途中で振り落としちゃってもいいからね」
 バッカスを一瞥すると、アトロポスはエクリプスのたてがみを撫ぜながら冷たく言い放った。

「ア、アトロポス……。違うんだ、話を聞いてくれ……」
 左腕を掴もうと伸びてきたバッカスの右手を、バシッと払いのけるとアトロポスはシリウスに飛び乗った。
「さあ、シリウス、行きましょう。『風魔の谷』までよろしくね!」
「アトロポスッ! 待ってくれ……!」
 慌ててエクリプスに乗ると、バッカスはアトロポスの後を追いかけた。だが、アトロポスはシリウスの速度をどんどんと上げ、止まる気配も見せずに『風魔の谷』を目指して一気に駆けていった。

 レウルーラ王宮で一、二を争う駿馬の疾走を、ゲイリーたちは遥か後方から呆然と見送っていた。
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