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第5章 火焔の王

4 破魔の迷宮

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 再び小さくて熱い感触と、甘い味を感じてバッカスは意識を取り戻した。同時に苦みのある液体がゆっくりと流し込まれてきた。
(こういう起こされ方も悪くねえな……。また寝ぼけた振りをして、少し楽しむか?)
 挿し込まれた舌の甘さを味わいながら、バッカスは甘さと苦さが混ざり合った液体をゴクリと飲み込んだ。

 二回目の液体が流し込まれるまで、少し時間が空いた。こっそりと薄目を開けて様子を見ると、顔を赤く染めたアトロポスがじっとこちらを睨んでいた。
(やべえ、バレたかな?)
 慌てて目を閉じると、バッカスはそのまま意識のない振りをした。しばらく待っていると、唇が押しつけられて舌が差し込まれた。ポーションの苦みに甘い唾液を混ぜ合わせるように、バッカスはネットリと舌を絡ませた。

「んくっ……ん、んぁ……んっ……んやッ……」
(姐御の舌、美味いな……)
 調子に乗って濃密に舌を絡ませると、ビクンと震えながらアトロポスが唇を離した。舌先に残った甘い感触に満足しながら、バッカスはゴクリと喉を鳴らしてポーションを飲み込んだ。

(完全にバレちまったかな? 三回目はねえかもな?)
 その考えを裏付けるかのように、アトロポスの怒ったような声が聞こえてきた。
「バッカスさん、起きてるでしょッ! いい加減にしてくださいッ!」
(今、起きたらさすがにやべえよな? 寝たふりするか……)
 閉じた瞼の向こうから、アトロポスの刺すような視線を感じて、バッカスは狸寝入りを決め込んだ。

「クロトー姉さん、これ、絶対に起きてますよ! 人が心配してポーションを飲ませてやってるのに、調子に乗っちゃって……!」
「そうね。こういう馬鹿にはお仕置きが必要ね」
「え……? お仕置き……?」
 クロトーの告げた言葉に、アトロポスはカアッと顔を赤らめた。シルヴァレートとの甘く激しいお仕置きが脳裏に甦ったのだ。

「腕の一、二本斬り落とせば、完全に目が覚めるんじゃないかな?」
「そ、そうですね……。上級回復ポーションも持ってきているし、そうします!」
 頭上から聞こえる物騒な会話の後、シャキンっと<蒼龍神刀アスール・ドラーク>を抜刀した音が聞こえた。
(じ、冗談じゃねえッ!)

「うわッ! 姐御、待ったッ!」
 ガバッと眼を開いた瞬間に見えた光景は、<蒼龍神刀アスール・ドラーク>を上段に構えて今まさに振り落とそうとしているアトロポスの姿だった。バッカスは慌てて半身を起こすと同時に、アトロポスから後ずさった。

「やっぱり、起きてたッ! バッカスさん、今度は寝ぼけてたなんて言い訳は聞きませんよッ!」
 アトロポスは仁王立ちになりながら、<蒼龍神刀アスール・ドラーク>の切っ先をバッカスの喉に突きつけた。赤く染まった顔の中で、怒りを秘めた黒曜石の瞳が真っ直ぐにバッカスを睨んでいた。

「す、すみません、姐御ッ! あんまり、姐御が可愛かったんで、つい……」
「え……? か、可愛い……?」
 バッカスの言葉に、アトロポスが真っ赤に顔を染めた。普段は微動だにしない<蒼龍神刀アスール・ドラーク>の切っ先が、動揺で震えていることにバッカスは気づいた。
(これだ! この線しか助かる道はねえッ!)

「ホントです! 姐御の可愛さに魔が差したって言うか……痛ッ!」
 ゴツンと頭を殴られ、慌てて振り向くとクロトーがニヤリと笑いながら魔道杖を構えていた。
「バッカスッ! あんまり調子に乗ってると、S級魔獣の群れの中に突き落とすよ!」
「す、すんませんッ!」
 笑みを浮かべている『妖艶なる殺戮ウィッチ・マダー』の黒瞳には、笑いの欠片もなかった。バックスは本気でビビりながらクロトーに頭を下げた。

「バッカスさん、今度やったら本当に腕を斬り落としますからねッ!」
 揶揄からかわれたと知って、アトロポスは怒りと恥ずかしさが混ざり合った視線でバッカスを睨みつけた。
「はい……。すみませんでした……」
 バッカスは二人に頭を下げながら、クロトーの恐ろしさを骨身に刻んだ。
(『妖艶なる殺戮ウィッチ・マダー』の二つ名は伊達じゃねえ。あのすべてを見透かすような黒い瞳……。マジでやべえ……)

「ところで、クロトー姉さん、どうするんですか?」
 ジロリとバッカスを睨みながら、アトロポスが訊ねた。
「まあ、覇気ちからは問題ないけど、この調子じゃねえ……」
「そうですよね……」
 『妖艶なる殺戮ウィッチ・マダー』と『夜薔薇ナイト・ローズ』のクラスS二人から見据えられ、バッカスはゾッと鳥肌を立てた。
(何だ……? 何の話だ……?)

「まあ、あたしは急がないから、あなたが決めなさい」
「いいんですか?」
「いいわよ。でも、なるべく早いうちに結論を出してね」
「分かりました」
 意味不明の会話を終えると、アトロポスがバッカスに栓の開いた小瓶を押しつけてきた。

「最後の一口は、自分で飲んでください」
「はい……。すみませんでした、姐御……」
 もう一度、アトロポスに頭を下げると、バッカスは三分の一ほど残った上級魔力回復ポーションを一気に飲み干した。

(姐御とは一緒にいたいが、『妖艶なる殺戮ウィッチ・マダー』のいるパーティに入るのだけはごめんだな……。近くにいると寿命が縮むぜ……)
 バッカスのはかない希望が打ち砕かれる未来は、目前に迫っていた。


 『破魔の迷宮』は、六十階層まで確認されている上級ダンジョンだ。その五十一階層から下が深層と呼ばれ、出現する魔獣もA級かS級に限られていた。
 今いる五十六階層に至るまでの間、バッカスは二十体を超えるA級魔獣と戦い、何とかそのすべてを撃破していた。途中で四回も魔力切れを起こし、その都度アトロポスに口移しでポーションを飲ませてもらったが、さすがに悪戯はせずに流し込まれたポーションを素直に飲んでいた。

 S級魔獣の強さは凄まじく、先ほど五十二階層で遭遇した竜人ドラゴニートとの戦闘では、バッカスは左腕を斬り落とされた上、強靱な竜爪で腹部を貫かれるという重傷を負った。アトロポスが助けに入らなければ、そのまま殺されていたことは間違いなかった。

「さすがにS級魔獣相手だと、バッカスには荷が重そうね。ここから先はローズがメインで倒してあげて」
 クロトーの指示により、メインアタッカーの座をアトロポスに譲ったバッカスは、彼女の強さに驚愕した。自分が瀕死の重傷を負ったドラゴニートはもちろんのこと、全高二十メッツェ以上もある巨大なロックゴーレムや怪鳥コカトリス、サラマンダーなどの名だたるS級魔獣をほとんど瞬殺だったのである。

(凄え……。姐御が強いことは知っていたが、こんなの次元が違うじゃねえか?)
 クロトーが張った防御結界の中でアトロポスの戦いを見ながら、バッカスは呆然とするしかなかった。

 アトロポスがまとう漆黒の黒炎は高さ二十メッツェを超えて燃え上がり、周囲の大気さえ灼き焦がしながら、大地を抉り取って巨大な陥没を造った。凄絶な覇気を吸収した<蒼龍神刀アスール・ドラーク>の刀身は闇色の輝きを放ち、そこから放たれる漆黒の神刃しんじんは怪鳥コカトリスの首を瞬時に切断した。

 そして、バッカスが言葉を失ったのがアトロポスの放った覇気の奔流であった。闇属性特有の漆黒の覇気が、超絶な黒い激流となって螺旋を描きながら三体のロックゴーレムに襲いかかると、全高二十メッツェを超えるロックゴーレムの巨体が一撃で爆散した。それは紛れもなく冒険者ギルド最強の剣士が放った比類なき覇気攻撃に他ならなかった。

「どう、ローズの戦いを見た感想は?」
 ニヤリと微笑みを浮かべながら、横に立つクロトーが訊ねてきた。
「信じられねえ……。あれと比べたら、俺の攻撃なんて水鉄砲みたいなもんだ……」
「そうね。でも、ローズは全然本気を出してないわよ」
 クロトーの告げた言葉に、バッカスは驚愕して彼女の美貌を見つめた。
「あ、あれで……本気じゃないって……?」
「たぶん、せいぜい三、四割って感じじゃないかしら? S級と言っても相手は中位クラスだからね。S級最強の火龍と戦う時には、もう少し力を見せてくれるはずよ」

「そ、そんな馬鹿な……!?」
 今のロックゴーレムを爆散させた漆黒の覇気は、少なく見積もってもバッカスの放つ覇気の数倍、いや十倍以上の威力だった。
「それと覚えておきなさい。ローズの武器と防具の性能を……。あの<蒼龍神刀アスール・ドラーク>は、ローズの覇気を二十倍まで強化できるわ」
「に、二十倍……!?」
 バッカスは言葉を失った。ただでさえ強力なアトロポスの攻撃が、更に二十倍もの破壊力を持つことが、バッカスには想像もできなかった。

「でも、本当に凄いのはあの天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスの方よ。あの鎧は、ローズの速度と筋力を二百五十倍まで強化できる」
「に、二百五十倍って……?」
 もはや、バッカスの思考は停止した。それに続いて告げられたクロトーの言葉は、バッカスに驚愕どころか戦慄さえ感じさせた。

「つまり、二百五十倍に強化した速度と力で覇気を放ち、それを更に二十倍にする。単純計算でローズの覇気は五千倍になるということよ」
「ご、五千……」
 バッカスの全身は無意識のうちに震撼していた。そうなった時のアトロポスの攻撃力など、バッカスには想像さえもできなかった。

「本気になったローズを止められる者はこの世に存在しないわ。たとえどんな大国の軍隊であろうと、彼女の前では蟻の集団よ」
「……クロトーの姐御。何で俺にそんな重大な秘密を話すんですか……?」
 クロトーが告げた内容は、冒険者ギルドにおいて最重要機密事項であることにバッカスは気づいた。それを一介の冒険者である自分に教えるクロトーの思惑が、バッカスには理解できなかった。

「あなたにはローズの防波堤になってもらうわ。もちろん、いざという時には私も命を賭けて彼女を止めるつもりだけど、たぶん私だけでは不可能ね……。それに、こういう役目は同性よりも異性の方が適任なのよ」
「て、適任って……」
 バッカスは驚愕のあまり濃茶色の瞳を大きく見開きながら、クロトーの美貌を見据えた。

「別にローズの恋人になれと言っている訳じゃないわ。立場はどうでもいい。あなたはローズにとってかけがえのない人間になりなさい。そうすれば、ローズはあなたがいる限り、暴走したりしないわ」
 クロトーの言わんとしていることは、バッカスにも分かった。人は自分が大切にしている相手を護ろうとする。その相手に危険が及ぶようなことは、絶対にしない。つまり、バッカスがアトロポスにとって大切な人間であれば、彼女は彼がいる限り無茶なことは行わないはずだった。

「姐御にとって俺が大切な人間かどうかなんて、どうでもいいんですよ」
「え……?」
「俺にとってはすでに姐御は大切な人なんです。だから、姐御が俺のことをどう思っていようと、俺は姐御についていきますよ」
 強面の顔には似合わない笑いを浮かべたバッカスを、クロトーは笑顔で見つめた。
(思った以上に一途な男ね。ローズの側には、こういう男が必要ね。あとは、この男の価値にローズが気づくかどうかってところだわ)

 クロトーは近い将来、<星月夜スターリー・ナイト>のメンバーが一人増えることを確信した。


「いますね……」
 五十八階層に足を踏み入れた瞬間、アトロポスが真剣な表情で短く告げた。
「そうね。この魔気……、間違いないわね」
 アトロポスの言葉に頷くと、クロトーもその美貌を引き締めながら言った。
「これが、四大龍か……」
 二人と違い、バッカスは顔を青ざめさせながら呟いた。

 三人が感じ取った火龍の魔気は、今まで倒してきたS級魔獣が可愛く思えるほど凶悪で巨大なものだった。五十八階層全体の空気がビリビリと震え、そこに生きとし生けるものすべてを圧倒するほどの壮絶さを持っていた。
(こんなの……次元が違うじゃねえか? どうしろってんだ?)
 存在そのものの格の違いに圧倒され、バッカスは今すぐにでも逃げ出したい気持ちを懸命に抑え込んでいた。

 だが、目の前にいる妖艶な美女と漆黒の髪の少女は、何故か微笑みを浮かべながらお互いを見つめていた。
「やっぱり、首をバッサリ斬り落とすのが一番ですか?」
「そうね。できるだけ他の部位に傷をつけない方が、買取額も高くなるわよ」
「分かりました。じゃあ、一撃でやっちゃいますね」
 二人の会話が火龍の倒し方についての相談だと気づき、バッカスは驚愕した。

「あ、姐御……。一撃って……?」
「思ったより、魔気が小さいんですね、火龍って……。混沌龍カオス・ドラゴンの半分もないみたい」
 微笑みながら告げたアトロポスの言葉に、バッカスは言葉を失った。
「それはそうよ。混沌龍カオス・ドラゴンは天龍クラスのSS級魔獣だもの。火龍は所詮、S級魔獣よ。比べたら可哀想だわ」

(な、何を言ってるんだ……この二人は……? これほど凄まじい魔気なんて、初めてだぞ。それが混沌龍カオス・ドラゴンの半分以下だと……?)
 呆然として二人の顔を見比べたバッカスを見つめると、アトロポスが訊ねてきた。
「もしかして、バッカスさんがやりたいんですか?」
「はあ?」
 その言葉の意味が分からずに、バッカスが思わず声を上げた。

「いえ、折角の機会だから、火龍と戦ってみたいのかと思って……」
「な……何を……」
 予想もしていないことを告げられ、バッカスは咄嗟に言葉が出なかった。
「そうね。自分の剣の材料だものね。バッカス、やってみたら?」
「そうですね。ガルーダを倒した時の覇気があれば、何とかなりますよ」
 冗談っぽく告げたクロトーと違い、アトロポスは本気のようだった。

「む、無理だ……! 無茶言わないでください、姐御ッ!」
 蒼白な表情で叫ぶと、バッカスは必死に両手を目の前で振った。
「そうですか……? 行けると思うんだけどなぁ。取りあえず、火龍を見に行きましょうか? 私も見るの初めてなんです」
 物見遊山ものみゆさんにでも行くかのように、アトロポスが楽しそうに告げた。その様子を見て、クロトーはニヤリと笑いながらバッカスに囁いた。
「俺は姐御についていきますよ……って言ったの誰だっけ?」

「……」
 言葉を失い固まったバッカスを残して、クロトーは笑いながらアトロポスと一緒に火龍の魔気を感じる方へと進み始めた。
(姉御についていくって……、命がけじゃねえか……)
 大きくため息をつくと、バッカスは前を行く二人の後について歩いて行った。
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