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終章 闇の王
4.咲耶の再嫁
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予定どおり五日で武蔵国に入ると、建御雷神は府中の町外れにある草原に天鳥船を着陸させた。全長七百尺(二百十メートル)もある天鳥船を街中に下ろすことができなかったからだ。
「ここから大國霊神社までは、一刻(二時間)も歩けば到着します」
「大國霊神社……? 咲耶はそこにいるのでしょうか?」
武蔵国の総社である大國霊神社に何故咲耶がいるのか不思議に思い、磐長が訊ねた。
「大國霊神社の主神は大国主命です。武蔵国に土地勘がない咲耶は、夜叉の情報を得るために大国主に会いに行くはずです。しかし……」
(咲耶が私に連なる者だと知ったら、大国主はどうするか……? 恐らく、私に対する復讐の道具として、咲耶を利用するかも知れぬ……)
天照の命令で、建御雷神は葦原中国を大国主の手から奪い取った。そのことを大国主が怨んでいないとは思えなかった。まして、咲耶の美貌は葦原中国随一とまで言われている。ただでさえ好色の大国主が、咲耶を黙って返すとは考えられなかった。
(私としたことが、武蔵国を支配しているのが大国主であることを咲耶に忠告し忘れるとは……。どうか無事でいてくれ、咲耶……)
しかし、その願いが届くとは、建御雷神自身も思ってはいなかった。葦原中国の元支配者である大国主が、咲耶と建御雷神の関係を知らないなど楽観に過ぎたのだ。
(咲耶に手を出したら、ただでは済まさぬッ! 必ず貴様を殺すから、覚えておけッ!)
紛れもない殺気が、建御雷神の全身から沸き立った。その凄まじさに、磐長がビクンと体を震わせた。
「どうされたのですか、建御雷神さま……?」
「いや……。何でもありませぬ……」
ハッと我に返ると、建御雷神は殺気を抑え込みながら磐長に微笑を見せた。その様子を不安そうに見つめながら、磐長が訊ねた。
「大国主さまの妻問いの話は、私の耳にも入っております。姉の贔屓目ではありませぬが、咲耶はあの通り美しい娘です。ひょっとして、大国主さまに見初められることがないとは言えませぬ……」
心配そうに告げる磐長に、建御雷神は言葉を探した。まさしくそれは、建御雷神自身が心配していたことそのものだったのだ。
「ご心配召さるな、磐長さま……。武神、建御雷神の名において、何があっても咲耶はお護りいたすッ! 万一の際には、この布都御魂に賭けて、大国主を斬り殺すッ!」
左腰に佩いた布都御魂の柄を左手で握り締めながら建御雷神が叫んだ。布都御魂は十拳剣の一本で、建御雷神が愛用する神刀であった。
「建御雷神さま……」
全身から壮絶な神気を溢れさせながら告げた建御雷神の宣言に、磐長は言葉を失った。
(やはり、貴方さまは咲耶のことを……! これほどのお方に想われながら、決して結ばれることがないとは……)
咲耶に対する建御雷神の秘めた愛情を、磐長は痛いほど感じ取った。そして、咲耶と建御雷神の行く末を思って顔を曇らせた。
大國霊神社の大鳥居をくぐった瞬間、建御雷神はその精悍な顔を上げて怪訝な表情を浮かべた。本殿の奥から咲耶の神気を感じたのだが、その大きさがいつもと比べて消え入りそうに小さかったのだ。
「どうされました、建御雷神さま……?」
「咲耶の様子が、いつもと違います。何か、よくないことが起こっているのかも知れませぬ」
眉間に深い縦皺を刻みながら、建御雷神が答えた。高天原随一の武神である建御雷神の言葉に、磐長は不安を感じながら訊ねた。
「よくないこととは……? まさか、咲耶が怪我でも……?」
「いえ……。そうではなさそうだが……」
(何だ、この神気は……? 何かの力で神気が阻害されているような……?)
「とにかく、急ぎましょう。咲耶がここにいることは、間違いありません」
「は、はい……」
早足で参道を進む建御雷神の後を追って、磐長も足を速めた。二人は随神門、中雀門を通って、拝殿の前までやって来た。
「高天原の建御雷神である。大国主命に目通りを願いたいッ!」
武神としてはやや高いが、本殿の奥まで響き渡る声で建御雷神が叫んだ。拝殿の中が俄に騒々しさを増し、一人の少女が慌ただしく駆けつけてきた。
「初めて御意を得ます。私は大国主の妾で、賀夜奈流美命と申します」
人間で言えば十五、六歳にしか見えぬ賀夜奈流美のあどけない顔を見て、建御雷神は言葉に詰まった。
(このような幼い姫にまで妻問いをしておるのか? 咲耶、無事でいろよ……)
賀夜奈流美がまだ花開く前の蕾であるならば、咲耶は満開の桜の花であった。大国主がその桜を手折らずにいるとは、建御雷神には思えなかった。
「私は木花咲耶の姉で、磐長と申します。咲耶がこちらに伺っていると聞き及び、大国主さまにご挨拶にまいりました。お取り次ぎ頂けませぬか?」
厳しい表情で賀夜奈流美を見据えている建御雷神に代わって、磐長が用件を述べた。
「はい……。ただいま、大国主さまに取り次いでまいりますので、しばらくお待ちを……」
顔色を変えた賀夜奈流美を見て、建御雷神は咲耶の身に起こっていることを察した。
「その必要はないッ! このまま罷り通るッ! 止め立てする者がおらば、この布都御魂で斬って捨てるッ!」
「ひッ……!」
高天原随一の武神が発する神気に打たれ、賀夜奈流美が蒼白になってペタンと床に崩れ落ちた。それを一瞥すると、建御雷神は磐長を伴って本殿へと急いで向かった。
本殿の奥にある神域の入口に辿り着くと、建御雷神は厳しい視線で大国主の結界を見据えた。そして、左腰に佩いた布都御魂の柄を右手で掴むと、シャキンと音を当てて白刃を抜き払った。
「磐長さま、少し下がっていてください」
「は、はい……」
建御雷神が大国主の結界を破ろうとしていることを知り、磐長は言われたとおり数歩後ろに下がった。
「ハッ……!」
上段に構えた布都御魂を、裂帛の気合いとともに建御雷神は真っ向斬りに斬り下げた。
パリンッという音が響き渡り、大国主の結界が破壊された。その瞬間、艶めかしい女の嬌声が神域の奥から聞こえてきた。
「あッ、あッ……いやッ……! もう、許してッ……! おかしくなるッ……! だめッ、だめぇえッ……! あッ、あぁあーッ……!」
それは紛れもなく気を遣った女の断末魔の叫びであった。
「咲耶ッ……!」
驚愕に立ち竦む磐長をその場に残して、建御雷神が凄まじい速度で駆け出した。
「咲耶……ッ!」
神域の最奥にある部屋の扉を開け放つと、目を疑う光景が建御雷神の前に広がっていた。両腕を背中で拘束された咲耶が、美しい裸身を寝台の上で四つん這いにされて大国主に後ろから犯されていた。凄まじい凌辱を受け、その美貌を涙と涎に塗れさせながら咲耶は総身をビクンッビクンッと激しく痙攣させていた。
「大国主ッ! 貴様ぁあッ……!」
凄惨な極みに慄える咲耶の姿を見て、建御雷神の全身から壮絶な神気の炎が舞い上がった。怒髪天を衝くとの言葉どおり、長い金髪が逆立ち、鬼神さえも怯える殺気を全身から噴出した。
その超絶な神気の奔流に気づき、咲耶が黒曜石の瞳を開いた。そして、目の前に立つ建御雷神の姿に気づくと、声の限りの絶叫を上げた。
「建御雷神……さま……? いやあぁああーッ! 見ないでぇえーッ!」
大国主に凌辱されている姿を建御雷神に見られることは、咲耶にとって死よりも辛いことであった。長い黒髪を激しく振り乱すと、咲耶は力の限り暴れた。その拍子で自分を後ろから貫いていた大国主の男が抜け、咲耶は寝台の上に崩れ落ちた。
「私の妻に何をしたッ! 殺すッ!」
咲耶の後ろで驚愕している大国主に走り寄ると、建御雷神は布都御魂を大きく上段に振り上げた。
「ま、待て、建御雷神ッ……! ひぃいいッ……! た、助けてッ……!」
白銀に輝く神刀が、まさに自分の首に振り落とされようとしていることに気づくと、大国主が悲鳴を上げて命乞いをした。
「咲耶が受けた屈辱ッ……! その命で償うがいいッ! 死ねぇえッ!」
「お待ちをッ! 建御雷神さまッ!」
布都御魂を振り落とそうとした瞬間、部屋に跳び込んできた磐長が絶叫した。その真摯の叫びに、建御雷神が手を止めた。
「咲耶ッ……!」
「姉上……? どうして、ここに……?」
黒曜石の瞳を驚愕に見開きながら、咲耶が茫然と磐長の顔を見つめた。磐長は自分の着ていた領巾を脱ぐと、咲耶の肩に掛けて裸身を包み込んだ。そして、真剣な視線で建御雷神を見つめると、有無を言わせぬ口調で告げた。
「建御雷神さまと言えども、葦原中国に大恩ある大国主さまを手に掛けて、無事では済みますまい! それに貴方さまは咲耶を妻と呼んでくださいました。夫であるならば、傷心の妻を慰める方が先ではございませぬか?」
「姉上……」
磐長に肩を抱かれながら、咲耶は恥ずかしさと悔しさに涙を溢れさせた。建御雷神に妻と呼ばれたことは嬉しかったが、同時に彼にこのような恥辱を知られたことには耐えられそうになかった。
「咲耶……。私はお前が望むのであれば、迷わずに大国主を殺すッ! お前が受けた恥辱を晴らしたければ、今すぐにそう申せッ!」
ガクガクと慄えている大国主を凄まじい視線で睨みつけながら、建御雷神が告げた。その右手に持つ布都御魂の切っ先は、いつでも大国主の心臓を貫けるように微動だにしていなかった。
「建御雷神さま……。貴方さまは私を妻と呼んでくださいました。それだけで十分です……」
黒曜石の瞳から涙を溢れさせながら、咲耶が建御雷神を見つめた。その視線に込められた様々な想いを感じ取り、建御雷神が布都御魂を剣鞘に戻した。
「大国主ッ! 二度と咲耶に手を出したら、絶対に許さぬッ! その時にはお主を膾に切り刻んでやるから覚えておけッ!」
「わ、分かった……」
ペタンと床に腰を落とすと、大国主は恐怖に震えながらガクガクと頷いた。その様子を一瞥すると、建御雷神は再び布都御魂を抜き払った。
「ひッ……!」
大国主が蒼白な表情で悲鳴を上げた。だが、建御雷神は咲耶に近づき、彼女を拘束している縄を布都御魂で斬り裂いた。そして、布都御魂を納刀すると、寝台の上に座っていた咲耶を横抱きに抱き上げた。
「建御雷神さま……」
「許して欲しい、咲耶……。今回のことは、大国主のことを言い忘れた私の責任だ。辛い思いをさせて悪かった」
金色の瞳に激しい後悔を映しながら、建御雷神が謝罪した。その真摯な態度に深い愛情を感じ取って、咲耶は小さく首を横に振った。
「私は大国主さまに穢されました。薬を使われたとはいえ、私は建御雷神さまを何度も裏切りました……」
大国主によって数え切れないほど歓悦の頂点を極めさせられたことを、咲耶は正直に告げた。噛みしめた唇が白くなり、真紅の血が滲んだ。
「咲耶……。それもすべて、私の責任だ。大国主と私の確執にお前を巻き込んでしまった。お前は被害者であり、何も責任を感じる必要はない」
建御雷神が優しい眼差しで咲耶を見つめながら告げた。その金色の瞳にたしかな愛情を実感しながら、咲耶は両手を建御雷神の首に廻してその耳元で囁いた。
「穢れを……落としとうございます。建御雷神さまのご加護を頂けませぬか……?」
「当然だ……。お前は私の妻だ。妻の穢れを落とすのは、夫の役目だ……」
その言葉を聞くと、咲耶は嬉しそうに建御雷神に抱きついた。
(やはり、咲耶も建御雷神さまを愛している……。しかし、今世で二人が夫婦になれるとは思えませぬ。このことを他の神々が知ったら……)
二人の様子を見つめていた磐長が、ふと大国主の存在に気づいた。今日のことを根に持った大国主が、このことを他言しないとは限らなかった。
「建御雷神さま……。大国主さまに口止めを……」
「……ッ!」
磐長が告げた言葉の意味を、建御雷神はすぐに理解した。そして、咲耶を両手に抱いたまま、大国主を厳しい視線で睨めつけながら告げた。
「大国主ッ……! 咲耶が私の妻であることを誰かに告げたら、ただではおかぬッ! 櫓櫂の及ぶ限り追い詰めて、必ずやお主の息の根を止めるから覚えておけッ!」
櫓櫂の及ぶ限りとは、どんな小さな孤島に逃げても船で行ける限り追い詰めるという意味だ。建御雷神の言葉に、大国主は竦み上がって何度も頷いた。
(これで、当面は二人のことを知る者はいなくなるはず……。後はいつまでこの秘密を守りきれるか、運を天に任せる他はない……)
磐長はホッと胸を撫で下ろしながら思った。だが、この騒動の一部始終を見つめていた眼があることには気づかなかった。廊下の柱の陰から、賀夜奈流美命が興味深そうに部屋の中を覗いていたのであった。
天鳥船に戻ると、咲耶は身を清めるために湯浴みをさせてもらった。この時代の風呂は蒸し風呂であり、高天原に住む天津神でさえ月に一度湯浴みをすればいい方であった。普段は川などで水浴することが一般的だったのだ。天上宮のような王宮か建御雷神の屋敷のような豪邸にしか風呂は設置されていなかった。
(さすがに建御雷神さまじゃ……。天鳥船にまで風呂を持っているなど、普通では考えられぬ……)
大国主に塗られた秘薬も洗い流し、身も心もゆったりと寛いで咲耶は満足そうな笑みを浮かべた。湯上がりで火照った体に冷えた果実酒が心地よく、辛い経験も忘れて幸せな気分に浸ることができた。
着替えを済ませて居間に入ると、豪華な食卓を囲んですでに建御雷神と磐長が席に着いていた。その席次を見て、咲耶は驚いた。部屋の奥側の上座に磐長が座っていたのだ。建御雷神は下座に座し、その左横に咲耶の席が設けられていた。
「ゆっくりとできたか、咲耶……?」
「はい、ありがとうございました。ところで、何故建御雷神さまがこちらの席に……?」
磐長と建御雷神の顔を交互に見渡しながら、咲耶が訊ねた。建御雷神は天津神であり、天照皇大御神の信任も厚い高天原最強の武神だ。それに対して、磐長と咲耶は国津神に過ぎなかった。
「何を言っておる? お前を娶るからには、磐長さまは私の義姉となられるお方だ。義姉上を差し置いて、上座などに座れるはずがなかろう……」
「わ、私を娶る……?」
席次などよりも、建御雷神が告げた言葉に驚いて、咲耶は茫然と立ち尽くした。
「そのようにおっしゃって、無理矢理こちらの席に座らされてしまいました。大変心苦しいのですが、今日だけというお約束なので咲耶もそのつもりでいてください」
「は、はい……」
緊張のあまり咲耶の心臓は早鐘を打ち始めた。卓上に並べられた豪華な料理は、どうやら婚儀を意味しているようだった。
「では、磐長さま……。ご挨拶を頂戴できますか?」
「はい……。僭越ながら、一言だけ申し上げたき儀がございます。祝詞を詠む前によろしいでしょうか?」
「もちろんです。何なりと申しつけください」
心から磐長を立てた態度で、建御雷神が告げた。その様子を誇らしげに見つめながら、咲耶が思った。
(さすがに姉上じゃ……。建御雷神さまからも崇拝されるとは……。私も姉上を見倣って、いつかキンキン頭を顎で使うようにならねば……)
咲耶の勘違いを嗜めるように、建御雷神がジロリと睨んできた。
「お二人が夫婦になられたことを知るのは、私と大国主さまだけです。大国主さまについては、建御雷神さまが口止めをされたのでお二人のことを口外する怖れはないと思われます……」
(まるで、私が建御雷神さまの妻になることに反対されているような口ぶりじゃが……)
咲耶は磐長が何を言いたいのか分からずに、怪訝な表情を浮かべた。
「咲耶、貴女の立場はこれまでどおり、瓊瓊杵尊さまの妻だと言うことを忘れてはなりませぬ……」
「姉上ッ……? それは……」
驚きに黒曜石の瞳を大きく見開きながら、咲耶が文句を言おうとした。だが、それを遮ったのは、他ならぬ建御雷神であった。
「当然です、磐長さま……」
「た、建御雷神さま……!」
夫になるはずの建御雷神からそのように告げられ、咲耶は声を荒げた。
「静まりなさい、咲耶……。これは大切なことです。高天原は当然のこと、葦原中国においても女神の再嫁は認められておりません。このしきたりを破ったら、貴女は女神としての資格を失うものだと肝に銘じなさい」
真剣な眼差しで咲耶の黒瞳を見つめながら、磐長が厳しい口調で告げた。
「つまり、私は建御雷神さまと正式に婚儀を結ぶことができないとおっしゃるのですか?」
女神が再嫁することに想像以上の障壁があることを、咲耶は初めて知った。せいぜいが陰口を叩かれる程度だと思っていたのだ。
「その通りです。実態はともかく、お二人の立場は今までどおりとしなくてはなりませぬ。これが守れぬのであれば、私は二人の婚儀に反対です」
「姉上……!」
磐長の宣言に、咲耶は茫然として言葉を失った。
「磐長さまのおっしゃることは、当然のことです。だからこそ、私は咲耶が黄泉の国に赴く以前から、彼女に婚儀を申し込めずにいたのですから……」
「た、建御雷神さま……」
黄泉の国に旅立つ前から建御雷神がそのようにと考えていたことを、咲耶は初めて知った。
「しかし、今回の件で咲耶が私にとってどれ程大切な存在か、身に染みて分かりました。たとえ瓊瓊杵さまの妻という立場であったとしても、咲耶が私の妻であることに変わりはありませぬ」
「建御雷神さま……」
カーッと顔を赤らめながら、咲耶が隣に座る建御雷神の顔を見つめた。建御雷神が自分に対する気持ちをここまで正直に告げてくれたことは、初めてだったのである。
「建御雷神さまのお心はよく分かりました。咲耶の方はどうなのです?」
「私ですか……?」
突然話を振られて、咲耶は戸惑った。だが、磐長と建御雷神の二人から見つめられて、正直な気持ちを話す決意を固めた。
「私は、建御雷神さまが大嫌いでした。陰険で意地悪で、いつも私のことを虐めてましたから……」
「さ、咲耶……!」
咲耶の独白に、磐長が建御雷神の顔を見つめながら驚いて声を上げた。だが、建御雷神は面白そうに笑みを湛えながら、咲耶の話を聞いていた。
「このキンキン頭め、いつか仕返ししてやるッ! と、毎日のように思っておりました」
「キ、キンキン頭……」
咲耶の暴言に、磐長は言葉を失って固まった。高天原随一の武神に対して、そのようなことを告げる者は咲耶をおいて他にはいないと思った。
「しかし、黄泉の国へ旅立つ前日に、建御雷神さまは錬気神丹という貴重な丸薬を私にくださいました。その時に、建御雷神さまが私を大切に思ってくださっていることに気づいたのです」
「錬気神丹よりも大事なものを与えたはずだが……?」
ニヤリと口元に笑いを浮かべながら、建御雷神が告げた。
「し、知りませぬッ! そういうところが、私は嫌いなのですッ!」
カアッと真っ赤に顔を染め上げて、咲耶が建御雷神を睨んだ。建御雷神は楽しそうに笑いながら肩を竦めた。
「黄泉の国での修行は、想像を遥かに超えて苛酷でした。いつしか、二年に一度錬気神丹を届けに来てくださる建御雷神さまを、私は心待ちにするようになっておりました。六十年にもわたる黄泉の国の修行を終えることができたのも、建御雷神さまのお陰です」
「六十年……?」
咲耶が実家である大山祇神の屋敷を出てから、まだ三十年であった。磐長は首を傾げながら、咲耶の顔を見つめた。
「黄泉の国では、時間の流れが違うのです。現世の三倍の速さで時間が流れます。咲耶が黄泉の国で修行をしていたのは二十年ですが、向こうで修行をしていた時間は三倍の六十年に当たるのです」
磐長の疑問に答えるように、建御雷神が説明した。
「それでは、咲耶は建御雷神さまの修行を十年した後に、黄泉の国で六十年間も修行をし続けていたのですか?」
驚きに黒瞳を見開きながら、磐長が訊ねた。
「そうなのです、姉上……。こう見えても、私は結構強くなったのですよ。そうですよね、建御雷神さま……?」
横に座る建御雷神の顔を見つめながら、咲耶が自慢げに告げた。
「そうだな……。あの大雷殿が皆伝を言い渡すのだから、それなりに強くなったのは間違いないな。今ならば、高天原でも五本の指に入るかも知れぬ……」
「そ、それほどに……?」
建御雷神の言葉に、磐長が驚愕の表情を浮かべた。だが、それが磐長を安心させるための虚言であることに咲耶は気づいていた。高天原においては素戔嗚と建御雷神の力が隔絶しており、三位以下の武神たちには大きな力の差はなかったのだ。
「建御雷神さま、夜叉を倒したら天照さまから何か褒美をいただくことは叶いませぬか?」
「褒美……? それは難しいかも知れぬぞ。討伐軍の派遣を取りやめて、お前が夜叉と闘うことを認めてくれたこと自体が褒美のようなものだからな。その上、すでに<咲耶刀>もいただいているではないか……」
黒曜石の瞳を輝かせながら告げた咲耶の真意が分からずに、建御雷神が眉を顰めながら告げた。
「そうですか……。もし褒美をいただけるようであれば、私の再嫁を認めて貰おうと思ったのですが……」
「再嫁をッ……!」
「それはまずいッ!」
咲耶の言葉に、磐長と建御雷神が身を乗り出しながら叫んだ。
「え……? 何故です?」
「女神の再嫁を禁止したのは、他ならぬ天照さまだッ! 再嫁を認めろと言うことは、天照さまの決定に真っ向から反発することになるぞッ!」
「天照さまの逆鱗に触れたら、貴女だけでなく火照や火須勢理、火遠理の三人までもが罪に問われますッ! 口が裂けても、そんなことを申し上げてはなりませぬッ!」
二人の剣幕に、咲耶は顔を引き攣らせながら頷いた。
(世の中、そんなに甘くないようじゃ……。しばらくは内縁の妻の立場に甘んずるしかないか……)
天照に逆らうことなど思いも寄らず、咲耶は無理矢理自分を納得させた。
だが、大國霊神社の中で、建御雷神が木花咲耶を娶ったという噂が流れ始めていたことを、咲耶たちはまだ知らなかった。箸が転んでもおかしい年頃である賀夜奈流美命が、これほどの秘密を暴露せずにはいられなかったのである。
「ここから大國霊神社までは、一刻(二時間)も歩けば到着します」
「大國霊神社……? 咲耶はそこにいるのでしょうか?」
武蔵国の総社である大國霊神社に何故咲耶がいるのか不思議に思い、磐長が訊ねた。
「大國霊神社の主神は大国主命です。武蔵国に土地勘がない咲耶は、夜叉の情報を得るために大国主に会いに行くはずです。しかし……」
(咲耶が私に連なる者だと知ったら、大国主はどうするか……? 恐らく、私に対する復讐の道具として、咲耶を利用するかも知れぬ……)
天照の命令で、建御雷神は葦原中国を大国主の手から奪い取った。そのことを大国主が怨んでいないとは思えなかった。まして、咲耶の美貌は葦原中国随一とまで言われている。ただでさえ好色の大国主が、咲耶を黙って返すとは考えられなかった。
(私としたことが、武蔵国を支配しているのが大国主であることを咲耶に忠告し忘れるとは……。どうか無事でいてくれ、咲耶……)
しかし、その願いが届くとは、建御雷神自身も思ってはいなかった。葦原中国の元支配者である大国主が、咲耶と建御雷神の関係を知らないなど楽観に過ぎたのだ。
(咲耶に手を出したら、ただでは済まさぬッ! 必ず貴様を殺すから、覚えておけッ!)
紛れもない殺気が、建御雷神の全身から沸き立った。その凄まじさに、磐長がビクンと体を震わせた。
「どうされたのですか、建御雷神さま……?」
「いや……。何でもありませぬ……」
ハッと我に返ると、建御雷神は殺気を抑え込みながら磐長に微笑を見せた。その様子を不安そうに見つめながら、磐長が訊ねた。
「大国主さまの妻問いの話は、私の耳にも入っております。姉の贔屓目ではありませぬが、咲耶はあの通り美しい娘です。ひょっとして、大国主さまに見初められることがないとは言えませぬ……」
心配そうに告げる磐長に、建御雷神は言葉を探した。まさしくそれは、建御雷神自身が心配していたことそのものだったのだ。
「ご心配召さるな、磐長さま……。武神、建御雷神の名において、何があっても咲耶はお護りいたすッ! 万一の際には、この布都御魂に賭けて、大国主を斬り殺すッ!」
左腰に佩いた布都御魂の柄を左手で握り締めながら建御雷神が叫んだ。布都御魂は十拳剣の一本で、建御雷神が愛用する神刀であった。
「建御雷神さま……」
全身から壮絶な神気を溢れさせながら告げた建御雷神の宣言に、磐長は言葉を失った。
(やはり、貴方さまは咲耶のことを……! これほどのお方に想われながら、決して結ばれることがないとは……)
咲耶に対する建御雷神の秘めた愛情を、磐長は痛いほど感じ取った。そして、咲耶と建御雷神の行く末を思って顔を曇らせた。
大國霊神社の大鳥居をくぐった瞬間、建御雷神はその精悍な顔を上げて怪訝な表情を浮かべた。本殿の奥から咲耶の神気を感じたのだが、その大きさがいつもと比べて消え入りそうに小さかったのだ。
「どうされました、建御雷神さま……?」
「咲耶の様子が、いつもと違います。何か、よくないことが起こっているのかも知れませぬ」
眉間に深い縦皺を刻みながら、建御雷神が答えた。高天原随一の武神である建御雷神の言葉に、磐長は不安を感じながら訊ねた。
「よくないこととは……? まさか、咲耶が怪我でも……?」
「いえ……。そうではなさそうだが……」
(何だ、この神気は……? 何かの力で神気が阻害されているような……?)
「とにかく、急ぎましょう。咲耶がここにいることは、間違いありません」
「は、はい……」
早足で参道を進む建御雷神の後を追って、磐長も足を速めた。二人は随神門、中雀門を通って、拝殿の前までやって来た。
「高天原の建御雷神である。大国主命に目通りを願いたいッ!」
武神としてはやや高いが、本殿の奥まで響き渡る声で建御雷神が叫んだ。拝殿の中が俄に騒々しさを増し、一人の少女が慌ただしく駆けつけてきた。
「初めて御意を得ます。私は大国主の妾で、賀夜奈流美命と申します」
人間で言えば十五、六歳にしか見えぬ賀夜奈流美のあどけない顔を見て、建御雷神は言葉に詰まった。
(このような幼い姫にまで妻問いをしておるのか? 咲耶、無事でいろよ……)
賀夜奈流美がまだ花開く前の蕾であるならば、咲耶は満開の桜の花であった。大国主がその桜を手折らずにいるとは、建御雷神には思えなかった。
「私は木花咲耶の姉で、磐長と申します。咲耶がこちらに伺っていると聞き及び、大国主さまにご挨拶にまいりました。お取り次ぎ頂けませぬか?」
厳しい表情で賀夜奈流美を見据えている建御雷神に代わって、磐長が用件を述べた。
「はい……。ただいま、大国主さまに取り次いでまいりますので、しばらくお待ちを……」
顔色を変えた賀夜奈流美を見て、建御雷神は咲耶の身に起こっていることを察した。
「その必要はないッ! このまま罷り通るッ! 止め立てする者がおらば、この布都御魂で斬って捨てるッ!」
「ひッ……!」
高天原随一の武神が発する神気に打たれ、賀夜奈流美が蒼白になってペタンと床に崩れ落ちた。それを一瞥すると、建御雷神は磐長を伴って本殿へと急いで向かった。
本殿の奥にある神域の入口に辿り着くと、建御雷神は厳しい視線で大国主の結界を見据えた。そして、左腰に佩いた布都御魂の柄を右手で掴むと、シャキンと音を当てて白刃を抜き払った。
「磐長さま、少し下がっていてください」
「は、はい……」
建御雷神が大国主の結界を破ろうとしていることを知り、磐長は言われたとおり数歩後ろに下がった。
「ハッ……!」
上段に構えた布都御魂を、裂帛の気合いとともに建御雷神は真っ向斬りに斬り下げた。
パリンッという音が響き渡り、大国主の結界が破壊された。その瞬間、艶めかしい女の嬌声が神域の奥から聞こえてきた。
「あッ、あッ……いやッ……! もう、許してッ……! おかしくなるッ……! だめッ、だめぇえッ……! あッ、あぁあーッ……!」
それは紛れもなく気を遣った女の断末魔の叫びであった。
「咲耶ッ……!」
驚愕に立ち竦む磐長をその場に残して、建御雷神が凄まじい速度で駆け出した。
「咲耶……ッ!」
神域の最奥にある部屋の扉を開け放つと、目を疑う光景が建御雷神の前に広がっていた。両腕を背中で拘束された咲耶が、美しい裸身を寝台の上で四つん這いにされて大国主に後ろから犯されていた。凄まじい凌辱を受け、その美貌を涙と涎に塗れさせながら咲耶は総身をビクンッビクンッと激しく痙攣させていた。
「大国主ッ! 貴様ぁあッ……!」
凄惨な極みに慄える咲耶の姿を見て、建御雷神の全身から壮絶な神気の炎が舞い上がった。怒髪天を衝くとの言葉どおり、長い金髪が逆立ち、鬼神さえも怯える殺気を全身から噴出した。
その超絶な神気の奔流に気づき、咲耶が黒曜石の瞳を開いた。そして、目の前に立つ建御雷神の姿に気づくと、声の限りの絶叫を上げた。
「建御雷神……さま……? いやあぁああーッ! 見ないでぇえーッ!」
大国主に凌辱されている姿を建御雷神に見られることは、咲耶にとって死よりも辛いことであった。長い黒髪を激しく振り乱すと、咲耶は力の限り暴れた。その拍子で自分を後ろから貫いていた大国主の男が抜け、咲耶は寝台の上に崩れ落ちた。
「私の妻に何をしたッ! 殺すッ!」
咲耶の後ろで驚愕している大国主に走り寄ると、建御雷神は布都御魂を大きく上段に振り上げた。
「ま、待て、建御雷神ッ……! ひぃいいッ……! た、助けてッ……!」
白銀に輝く神刀が、まさに自分の首に振り落とされようとしていることに気づくと、大国主が悲鳴を上げて命乞いをした。
「咲耶が受けた屈辱ッ……! その命で償うがいいッ! 死ねぇえッ!」
「お待ちをッ! 建御雷神さまッ!」
布都御魂を振り落とそうとした瞬間、部屋に跳び込んできた磐長が絶叫した。その真摯の叫びに、建御雷神が手を止めた。
「咲耶ッ……!」
「姉上……? どうして、ここに……?」
黒曜石の瞳を驚愕に見開きながら、咲耶が茫然と磐長の顔を見つめた。磐長は自分の着ていた領巾を脱ぐと、咲耶の肩に掛けて裸身を包み込んだ。そして、真剣な視線で建御雷神を見つめると、有無を言わせぬ口調で告げた。
「建御雷神さまと言えども、葦原中国に大恩ある大国主さまを手に掛けて、無事では済みますまい! それに貴方さまは咲耶を妻と呼んでくださいました。夫であるならば、傷心の妻を慰める方が先ではございませぬか?」
「姉上……」
磐長に肩を抱かれながら、咲耶は恥ずかしさと悔しさに涙を溢れさせた。建御雷神に妻と呼ばれたことは嬉しかったが、同時に彼にこのような恥辱を知られたことには耐えられそうになかった。
「咲耶……。私はお前が望むのであれば、迷わずに大国主を殺すッ! お前が受けた恥辱を晴らしたければ、今すぐにそう申せッ!」
ガクガクと慄えている大国主を凄まじい視線で睨みつけながら、建御雷神が告げた。その右手に持つ布都御魂の切っ先は、いつでも大国主の心臓を貫けるように微動だにしていなかった。
「建御雷神さま……。貴方さまは私を妻と呼んでくださいました。それだけで十分です……」
黒曜石の瞳から涙を溢れさせながら、咲耶が建御雷神を見つめた。その視線に込められた様々な想いを感じ取り、建御雷神が布都御魂を剣鞘に戻した。
「大国主ッ! 二度と咲耶に手を出したら、絶対に許さぬッ! その時にはお主を膾に切り刻んでやるから覚えておけッ!」
「わ、分かった……」
ペタンと床に腰を落とすと、大国主は恐怖に震えながらガクガクと頷いた。その様子を一瞥すると、建御雷神は再び布都御魂を抜き払った。
「ひッ……!」
大国主が蒼白な表情で悲鳴を上げた。だが、建御雷神は咲耶に近づき、彼女を拘束している縄を布都御魂で斬り裂いた。そして、布都御魂を納刀すると、寝台の上に座っていた咲耶を横抱きに抱き上げた。
「建御雷神さま……」
「許して欲しい、咲耶……。今回のことは、大国主のことを言い忘れた私の責任だ。辛い思いをさせて悪かった」
金色の瞳に激しい後悔を映しながら、建御雷神が謝罪した。その真摯な態度に深い愛情を感じ取って、咲耶は小さく首を横に振った。
「私は大国主さまに穢されました。薬を使われたとはいえ、私は建御雷神さまを何度も裏切りました……」
大国主によって数え切れないほど歓悦の頂点を極めさせられたことを、咲耶は正直に告げた。噛みしめた唇が白くなり、真紅の血が滲んだ。
「咲耶……。それもすべて、私の責任だ。大国主と私の確執にお前を巻き込んでしまった。お前は被害者であり、何も責任を感じる必要はない」
建御雷神が優しい眼差しで咲耶を見つめながら告げた。その金色の瞳にたしかな愛情を実感しながら、咲耶は両手を建御雷神の首に廻してその耳元で囁いた。
「穢れを……落としとうございます。建御雷神さまのご加護を頂けませぬか……?」
「当然だ……。お前は私の妻だ。妻の穢れを落とすのは、夫の役目だ……」
その言葉を聞くと、咲耶は嬉しそうに建御雷神に抱きついた。
(やはり、咲耶も建御雷神さまを愛している……。しかし、今世で二人が夫婦になれるとは思えませぬ。このことを他の神々が知ったら……)
二人の様子を見つめていた磐長が、ふと大国主の存在に気づいた。今日のことを根に持った大国主が、このことを他言しないとは限らなかった。
「建御雷神さま……。大国主さまに口止めを……」
「……ッ!」
磐長が告げた言葉の意味を、建御雷神はすぐに理解した。そして、咲耶を両手に抱いたまま、大国主を厳しい視線で睨めつけながら告げた。
「大国主ッ……! 咲耶が私の妻であることを誰かに告げたら、ただではおかぬッ! 櫓櫂の及ぶ限り追い詰めて、必ずやお主の息の根を止めるから覚えておけッ!」
櫓櫂の及ぶ限りとは、どんな小さな孤島に逃げても船で行ける限り追い詰めるという意味だ。建御雷神の言葉に、大国主は竦み上がって何度も頷いた。
(これで、当面は二人のことを知る者はいなくなるはず……。後はいつまでこの秘密を守りきれるか、運を天に任せる他はない……)
磐長はホッと胸を撫で下ろしながら思った。だが、この騒動の一部始終を見つめていた眼があることには気づかなかった。廊下の柱の陰から、賀夜奈流美命が興味深そうに部屋の中を覗いていたのであった。
天鳥船に戻ると、咲耶は身を清めるために湯浴みをさせてもらった。この時代の風呂は蒸し風呂であり、高天原に住む天津神でさえ月に一度湯浴みをすればいい方であった。普段は川などで水浴することが一般的だったのだ。天上宮のような王宮か建御雷神の屋敷のような豪邸にしか風呂は設置されていなかった。
(さすがに建御雷神さまじゃ……。天鳥船にまで風呂を持っているなど、普通では考えられぬ……)
大国主に塗られた秘薬も洗い流し、身も心もゆったりと寛いで咲耶は満足そうな笑みを浮かべた。湯上がりで火照った体に冷えた果実酒が心地よく、辛い経験も忘れて幸せな気分に浸ることができた。
着替えを済ませて居間に入ると、豪華な食卓を囲んですでに建御雷神と磐長が席に着いていた。その席次を見て、咲耶は驚いた。部屋の奥側の上座に磐長が座っていたのだ。建御雷神は下座に座し、その左横に咲耶の席が設けられていた。
「ゆっくりとできたか、咲耶……?」
「はい、ありがとうございました。ところで、何故建御雷神さまがこちらの席に……?」
磐長と建御雷神の顔を交互に見渡しながら、咲耶が訊ねた。建御雷神は天津神であり、天照皇大御神の信任も厚い高天原最強の武神だ。それに対して、磐長と咲耶は国津神に過ぎなかった。
「何を言っておる? お前を娶るからには、磐長さまは私の義姉となられるお方だ。義姉上を差し置いて、上座などに座れるはずがなかろう……」
「わ、私を娶る……?」
席次などよりも、建御雷神が告げた言葉に驚いて、咲耶は茫然と立ち尽くした。
「そのようにおっしゃって、無理矢理こちらの席に座らされてしまいました。大変心苦しいのですが、今日だけというお約束なので咲耶もそのつもりでいてください」
「は、はい……」
緊張のあまり咲耶の心臓は早鐘を打ち始めた。卓上に並べられた豪華な料理は、どうやら婚儀を意味しているようだった。
「では、磐長さま……。ご挨拶を頂戴できますか?」
「はい……。僭越ながら、一言だけ申し上げたき儀がございます。祝詞を詠む前によろしいでしょうか?」
「もちろんです。何なりと申しつけください」
心から磐長を立てた態度で、建御雷神が告げた。その様子を誇らしげに見つめながら、咲耶が思った。
(さすがに姉上じゃ……。建御雷神さまからも崇拝されるとは……。私も姉上を見倣って、いつかキンキン頭を顎で使うようにならねば……)
咲耶の勘違いを嗜めるように、建御雷神がジロリと睨んできた。
「お二人が夫婦になられたことを知るのは、私と大国主さまだけです。大国主さまについては、建御雷神さまが口止めをされたのでお二人のことを口外する怖れはないと思われます……」
(まるで、私が建御雷神さまの妻になることに反対されているような口ぶりじゃが……)
咲耶は磐長が何を言いたいのか分からずに、怪訝な表情を浮かべた。
「咲耶、貴女の立場はこれまでどおり、瓊瓊杵尊さまの妻だと言うことを忘れてはなりませぬ……」
「姉上ッ……? それは……」
驚きに黒曜石の瞳を大きく見開きながら、咲耶が文句を言おうとした。だが、それを遮ったのは、他ならぬ建御雷神であった。
「当然です、磐長さま……」
「た、建御雷神さま……!」
夫になるはずの建御雷神からそのように告げられ、咲耶は声を荒げた。
「静まりなさい、咲耶……。これは大切なことです。高天原は当然のこと、葦原中国においても女神の再嫁は認められておりません。このしきたりを破ったら、貴女は女神としての資格を失うものだと肝に銘じなさい」
真剣な眼差しで咲耶の黒瞳を見つめながら、磐長が厳しい口調で告げた。
「つまり、私は建御雷神さまと正式に婚儀を結ぶことができないとおっしゃるのですか?」
女神が再嫁することに想像以上の障壁があることを、咲耶は初めて知った。せいぜいが陰口を叩かれる程度だと思っていたのだ。
「その通りです。実態はともかく、お二人の立場は今までどおりとしなくてはなりませぬ。これが守れぬのであれば、私は二人の婚儀に反対です」
「姉上……!」
磐長の宣言に、咲耶は茫然として言葉を失った。
「磐長さまのおっしゃることは、当然のことです。だからこそ、私は咲耶が黄泉の国に赴く以前から、彼女に婚儀を申し込めずにいたのですから……」
「た、建御雷神さま……」
黄泉の国に旅立つ前から建御雷神がそのようにと考えていたことを、咲耶は初めて知った。
「しかし、今回の件で咲耶が私にとってどれ程大切な存在か、身に染みて分かりました。たとえ瓊瓊杵さまの妻という立場であったとしても、咲耶が私の妻であることに変わりはありませぬ」
「建御雷神さま……」
カーッと顔を赤らめながら、咲耶が隣に座る建御雷神の顔を見つめた。建御雷神が自分に対する気持ちをここまで正直に告げてくれたことは、初めてだったのである。
「建御雷神さまのお心はよく分かりました。咲耶の方はどうなのです?」
「私ですか……?」
突然話を振られて、咲耶は戸惑った。だが、磐長と建御雷神の二人から見つめられて、正直な気持ちを話す決意を固めた。
「私は、建御雷神さまが大嫌いでした。陰険で意地悪で、いつも私のことを虐めてましたから……」
「さ、咲耶……!」
咲耶の独白に、磐長が建御雷神の顔を見つめながら驚いて声を上げた。だが、建御雷神は面白そうに笑みを湛えながら、咲耶の話を聞いていた。
「このキンキン頭め、いつか仕返ししてやるッ! と、毎日のように思っておりました」
「キ、キンキン頭……」
咲耶の暴言に、磐長は言葉を失って固まった。高天原随一の武神に対して、そのようなことを告げる者は咲耶をおいて他にはいないと思った。
「しかし、黄泉の国へ旅立つ前日に、建御雷神さまは錬気神丹という貴重な丸薬を私にくださいました。その時に、建御雷神さまが私を大切に思ってくださっていることに気づいたのです」
「錬気神丹よりも大事なものを与えたはずだが……?」
ニヤリと口元に笑いを浮かべながら、建御雷神が告げた。
「し、知りませぬッ! そういうところが、私は嫌いなのですッ!」
カアッと真っ赤に顔を染め上げて、咲耶が建御雷神を睨んだ。建御雷神は楽しそうに笑いながら肩を竦めた。
「黄泉の国での修行は、想像を遥かに超えて苛酷でした。いつしか、二年に一度錬気神丹を届けに来てくださる建御雷神さまを、私は心待ちにするようになっておりました。六十年にもわたる黄泉の国の修行を終えることができたのも、建御雷神さまのお陰です」
「六十年……?」
咲耶が実家である大山祇神の屋敷を出てから、まだ三十年であった。磐長は首を傾げながら、咲耶の顔を見つめた。
「黄泉の国では、時間の流れが違うのです。現世の三倍の速さで時間が流れます。咲耶が黄泉の国で修行をしていたのは二十年ですが、向こうで修行をしていた時間は三倍の六十年に当たるのです」
磐長の疑問に答えるように、建御雷神が説明した。
「それでは、咲耶は建御雷神さまの修行を十年した後に、黄泉の国で六十年間も修行をし続けていたのですか?」
驚きに黒瞳を見開きながら、磐長が訊ねた。
「そうなのです、姉上……。こう見えても、私は結構強くなったのですよ。そうですよね、建御雷神さま……?」
横に座る建御雷神の顔を見つめながら、咲耶が自慢げに告げた。
「そうだな……。あの大雷殿が皆伝を言い渡すのだから、それなりに強くなったのは間違いないな。今ならば、高天原でも五本の指に入るかも知れぬ……」
「そ、それほどに……?」
建御雷神の言葉に、磐長が驚愕の表情を浮かべた。だが、それが磐長を安心させるための虚言であることに咲耶は気づいていた。高天原においては素戔嗚と建御雷神の力が隔絶しており、三位以下の武神たちには大きな力の差はなかったのだ。
「建御雷神さま、夜叉を倒したら天照さまから何か褒美をいただくことは叶いませぬか?」
「褒美……? それは難しいかも知れぬぞ。討伐軍の派遣を取りやめて、お前が夜叉と闘うことを認めてくれたこと自体が褒美のようなものだからな。その上、すでに<咲耶刀>もいただいているではないか……」
黒曜石の瞳を輝かせながら告げた咲耶の真意が分からずに、建御雷神が眉を顰めながら告げた。
「そうですか……。もし褒美をいただけるようであれば、私の再嫁を認めて貰おうと思ったのですが……」
「再嫁をッ……!」
「それはまずいッ!」
咲耶の言葉に、磐長と建御雷神が身を乗り出しながら叫んだ。
「え……? 何故です?」
「女神の再嫁を禁止したのは、他ならぬ天照さまだッ! 再嫁を認めろと言うことは、天照さまの決定に真っ向から反発することになるぞッ!」
「天照さまの逆鱗に触れたら、貴女だけでなく火照や火須勢理、火遠理の三人までもが罪に問われますッ! 口が裂けても、そんなことを申し上げてはなりませぬッ!」
二人の剣幕に、咲耶は顔を引き攣らせながら頷いた。
(世の中、そんなに甘くないようじゃ……。しばらくは内縁の妻の立場に甘んずるしかないか……)
天照に逆らうことなど思いも寄らず、咲耶は無理矢理自分を納得させた。
だが、大國霊神社の中で、建御雷神が木花咲耶を娶ったという噂が流れ始めていたことを、咲耶たちはまだ知らなかった。箸が転んでもおかしい年頃である賀夜奈流美命が、これほどの秘密を暴露せずにはいられなかったのである。
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