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序章
5.魔の気配
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「それで、話って何……? 明日のデートのこと? もしかして、桐生先輩に告白する気になったとか……?」
持ってきたお弁当を屋上で食べ終わると、ニヤリと笑いながら凪紗が訊ねた。先ほど、咲耶が教室で突然着替えを始めたことは本当に忘れているようだった。どうやら、祝詞の効果は完璧みたいだと咲希は安心した。
「ち、違うわよ。桐生先輩のことじゃないわ。あたし自身のことを、凪紗にはきちんと話をしておこうと思って……」
実際のところ咲耶に振り回されて、明日のデートのことなど咲希の頭から抜け落ちていたのだった。咲希は気を取り直すと、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「実はあたし、昨日、強姦されそうになったの……」
「えッ……! 強姦ッ……?」
咲希の言葉に、凪紗が驚愕のあまり濃茶色の瞳を大きく見開いて叫んだ。
「うん……。帰り道、家の近くの公園で六人の男たちに囲まれて……」
「大丈夫だったのッ……? 警察には行った?」
凪紗が両手で咲希の両肩を掴みながら身を乗り出してきた。彼女が本気で自分の身を案じてくれていることに気づき、咲希は嬉しくなった。
「行っていないわ。危ないところで助けてもらったから……」
「よかった……。でも、誰に助けてもらったの? 今からでも警察に行った方がいいんじゃない?」
「警察は大丈夫……。それより、その助けてもらった相手が問題なの……」
『問題とは何じゃ? 失礼な言い方をするでないッ!』
咲希の会話を聞いていた咲耶が、不満そうに口を挟んできた。
(問題なのは間違いないでしょ? 本当のことを言えないんだから、黙って聞いていてッ……!)
咲耶を押し黙らせると、咲希は話を続けた。
「強姦されそうになったショックで、あたしの中にいるもう一人の私が目覚めちゃったの……」
「もう一人の私って……?」
咲耶の言葉の意味が分からずに、凪紗がキョトンとした表情を浮かべた。
「簡単に言えば、あたし、二重人格になったみたいなのよ」
「二重人格……?」
驚きの声を上げた凪紗を刺激しないように、咲希はゆっくりと頷いた。
「自分でもこんなこと信じられないんだけど、強姦されそうになったあたしを助けてくれたのは、もう一人の私なの……」
「え……?」
咲希の説明に、凪紗が唖然とした表情を浮かべた。突然、二重人格だと告げられた上、自分が自分の窮地を救ったなどと言われても信じられるはずはなかった。
「もう一人の私の名前は、咲耶って言うの。凄く強くて、あっという間に六人の男たちを叩きのめしちゃったの……」
「咲希、大丈夫……? やっぱり、警察……ううん、病院に行った方がいいよ。頭を強く打ったんじゃないの?」
濃茶色の瞳を見開きながら、凪紗が心配そうに咲耶を見つめてきた。
(咲耶、お願い……。ちょっと入れ替わって、少しだけ力を見せてくれない?)
『仕方ない、分かった……』
「今から咲耶に変わるわ……。実際に見てもらった方が信じてもらえると思う……」
そう告げた瞬間、咲希の意識が心の奥底に沈んでいった。そして、咲耶の意識が表面に浮上し、咲希の体を支配した。
(うそ……? 雰囲気が……?)
目の前で咲希の様子が一変したことに、凪紗は否が応でも気づいた。元々美しい少女だが、今目の前にいる咲希は、さっきまでの咲希とは明らかに別人だった。
黒曜石のように輝く瞳は深い慈愛と叡智に輝き、その全身は神々しいほどのオーラを放っていた。芸能人、いや、ハリウッドスターでさえも凌駕する美しさが、そこにはあった。
それは凪紗が初めて眼にする美の化身と言っても過言ではなかった。
(これは……人なの……?)
思いもしない疑問が、凪紗の脳裏に浮かんだ。それほどまでに、目の前に佇む咲希は美しすぎたのだ。神々に愛された究極の美しさ……。絶世の美女という言葉は、彼女のためにあると凪紗は考えた。
「私の名は咲耶……。もう一人の咲希じゃ……」
「咲耶……さま……?」
無意識に凪紗は、咲耶を敬称で呼んだ。彼女の濃茶色の瞳に映る崇拝に気づくと、咲耶は満足そうな微笑を浮かべながら咲希に告げた。
(見よ……! これが本来の人のあり方じゃ……! 咲希も見倣うがよい!)
『格好つけてないで、少しだけ力を見せてよ! そして、さっさと入れ替わらないと、ケーキもプリンもなしにするわよ!』
(ま、まて……! 慌てるでない! 今から見せようと思っていたところじゃ……)
咲希の言葉に、咲耶の方が慌てながら告げた。
「凪紗よ、咲希の話は事実じゃ……。今からその証拠を見せてやろう。私の力、目に焼き付けるがよい!」
そう告げると、咲耶は助走も付けずにいきなり跳躍した。そして、屋上の入口がある塔屋の上に着地をした。塔屋までの距離は十メートル、その高さは五メートル以上あった。
「そんな……!」
人間の能力を遥かに超えた跳躍に、凪紗は茫然として言葉を失った。
『バカッ! やり過ぎよッ! こんなの、あんたが人間じゃないって教えてるようなもんじゃないのッ!』
(そう言うでない。これでも、ずいぶんと力を抑えたのじゃ……。本当ならば、この建物から地上に降りて、再び戻ってこようかとも思ったのじゃ……)
『何考えてるのよッ! そんなことしたら、凪紗は気絶するわよッ!』
この校舎は四階建てだ。屋上から地上までの高さは、二十メートル近くあった。それ以前に、屋上から飛び降りた途端に、自殺したと勘違いされることは間違いなかった。
「どうじゃ? 咲希の話が本当であると理解してもらえたか?」
塔屋から再び跳躍して凪紗の前に降り立つと、咲耶が優しい笑顔を浮かべながら訊ねた。
「は……はい……、咲耶さま……」
まるで最愛の恋人を目の前にしたかのように、凪紗が熱っぽい視線で咲耶を見つめた。
「では、私は戻るぞ……。後は咲希に任せる……」
「お、お待ちを……! もう少し、お話しを……!」
思わず右手を差し出した凪紗を無視して、咲耶は咲希と入れ替わった。咲耶の意識が心の奥に沈んでいき、咲希の意識が急速に浮上した。咲希は微笑みを浮かべながら、凪紗を刺激しないように優しく告げた。
「戻ったわ。あたしは咲希よ。凪紗、大丈夫……?」
「咲希……。咲耶様はどこに……?」
潤んだ瞳で頬を赤く染めながら、凪紗が咲希に訊ねた。その様子はまるで、愛しい男性に焦がれている乙女そのもののようだった。
「咲耶はあたしの中に戻ったわ。これで、あたしの中にもう一人の私がいるって、信じてもらえた?」
「……るい……」
「え……?」
小さく囁いた凪紗の言葉が聞き取れずに、咲耶が訊ね返した。
「ずるいわ、咲希ばっかりッ!」
「凪紗……?」
突然両肩を掴まれ、咲希が驚きながら凪紗の顔を見つめた。
「あんな素敵な方と一心同体なんて、羨ましすぎるッ! あたしと替わってッ!」
「な、凪紗……」
熱い激情をぶつけてくる凪紗を見て、咲希が咲耶に文句を言った。
(どうするのよ、これ……? 凪紗、あんたに一目惚れしちゃったみたいじゃない?)
『まあ、仕方なかろう。私ほどの女神となれば、男も女もそうなるのが当然じゃ。いちいち構ってはおれぬ。それよりも、私を前にして平然としている咲希の方が余程珍しいぞ』
得意そうな口調で、咲耶が自慢げに告げた。
(何であたしが咲耶に惚れなくちゃならないのよ? それと、一つ忘れてない?)
『何をじゃ……?』
(お昼休みが終わったら、またあたしと入れ替わるんでしょ? しばらくの間は、あんたが凪紗の相手をするんだからね?)
『そ、それは……』
ニヤリと笑いながら告げた咲希の言葉に、咲耶が言葉を詰まらせた。
(こう見えても、凪紗は一途なんだから、もし泣かせたりしたらケーキもプリンもなしにするわよ……)
『そ、それとこれとは話が……』
本気で焦った口調で、咲耶が慌てだした。
(分かったわね、咲耶?)
『わ、分かった……』
咲耶が渋々と頷くのを感じて、咲希は小さくため息を付いた。
ホントに、へっぽこなんだか凄いんだか、よく分からない女神ね……。
放課後、纏わり付く凪紗を何とか引き剥がすと、咲耶は逃げるように剣道場へやって来た。
(まったく、何なのじゃ、あやつは……。しつこすぎるではないか……)
『咲耶が変に格好なんてつけるから悪いのよ。自業自得よ……』
八百万の神が人間に振り回される姿を見て、咲希が楽しそうに告げた。
『また見つからぬうちに、早く防具を着けようぞ。面を被れば、すぐに私とは気づくまい……』
(いいけど、ちゃんと女子更衣室で着替えてよ。今度、勝手に下着になったら許さないからねッ!)
『分かっておる。早う、更衣室とやらに案内するがよい』
さすがに昼間教室で着替えたことを反省しているのか、咲耶は素直に咲希に告げた。
咲希の案内で女子更衣室に入ると、咲耶は手早く剣道着と袴と防具を身につけた。洋服にはまだ慣れないようだが、教えなくても剣道着と袴には手慣れた所作で着替えていた。
(さて、早速、道場へ行くとしようか……)
竹刀袋から咲希が愛用している真竹古刀の竹刀を取り出すと、咲耶は楽しげな表情を浮かべながら告げた。
『道場に入るときは、右手奥にある神棚に向かって一礼してから入ってね』
(神棚……? 誰が祀られておるのじゃ?)
咲希の言葉に興味を持って、咲耶が訊ねた。
『さあ、どの神様だろう……? 知らないわ』
(お前たちは誰だか分からぬのに、毎日頭を下げておるのか?)
『うッ……』
咲耶が呆れた口調で告げた。それが正論だったので、咲希は文句も言えずに言葉に詰まった。
(まあ、よい……。行けば分かることじゃ……)
『行けば分かるって……?』
(神棚には御札があるじゃろう? そこにある神気を感じれば、誰だかすぐに分かるものじゃ……)
こういうところは本当に八百万の神の一柱だと、咲希は思わず咲耶を見直した。
「建御雷神と経津主神か……」
道場の入口で立ち止まり、奥の祭壇に祀られている御札を見つめながら咲耶が告げた。
(二柱も祀られていたんだ? 有名な神様なの?)
「どちらも日本を代表する武の神じゃ。特に建御雷神は神々の中でも素戔嗚尊と一二を争うほどの武神じゃ」
(素戔嗚尊なら知ってるわッ! 八岐大蛇を退治した神でしょ?)
やっと知った名前が出て来て、咲希は得意そうに告げた。
(天照皇大御神の弟に当たるお方じゃ。高天原随一の荒神で、暴風の神と恐れられておる。天照が天岩屋戸に隠れられたきっかけを作ったのも、素戔嗚じゃ……」
『そうなんだ……』
素戔嗚が天照の弟であることや、天岩屋戸伝説の原因となったことを、咲希は初めて知った。
(私の<咲耶刀>は、天照のもう一柱の弟である月詠尊から賜った神刀じゃ。三種の神器である<草薙剣>に勝るとも劣らぬ力を持っておる。じゃが、<咲耶刀>を使っても今の私では無手の素戔嗚や建御雷神には勝てぬ……)
『そんなに強いんだ……』
咲耶の話を聞いて、咲希は驚愕した。
咲希が知る咲耶の強さは、この世のものとは思えないほどだった。何十メートルもの距離を跳躍し、眼にも留まらぬ速さで移動して、一瞬で何人もの男を倒すところを実際に見ているのだ。だが、その咲耶が神刀<咲耶刀>を手にしても、無手の素戔嗚や建御雷神に勝てないという。
剣道三倍段が神々に当てはまるかどうかは不明だが、その理屈からすれば素戔嗚や建御雷神の強さは、咲耶の三倍以上だということだった。
(まあ、いざとなれば勝てる方法がなくもないがのう……)
『え……? どんな方法があるの?』
自分より遥かに強い相手に勝つ方法があるのなら、ぜひ知りたいと咲希は思った。もしかしたら、自分の剣道に活かせるかも知れないからだ。その考えを読み取ったかのように、咲耶がニヤリと笑いながら告げた。
(女の武器を使うのじゃよ……)
『女の武器……?』
(そうじゃ……。じゃが、咲希にはまだ無理じゃな。男を知ったら、教えてやってもよい)
『男を知ったら……って!』
咲耶の言う意味がハニートラップであることに気づき、咲希は真っ赤に染まった。
(ハッ、ハッ、ハハッ……! では、無駄話はこの辺で終わりにして、道場に入ろうぞ!)
楽しそうな笑みを浮かべると、咲耶は道場の敷居をまたいで中へ入っていった。
咲希は羞恥で顔を赤くしたまま、一言も反論できなかった。
(ふむ……。道場全体に、建御雷神の気が満ちておる。これは、部員の誰かに建御雷神に近しい者がおる証拠じゃの)
道場に足を踏み入れた瞬間、咲耶が真面目な表情で道場内を見渡しながら告げた。
『それって、建御雷神が守護神の生徒がいるって言う意味……?』
(直接の守護を受けているかどうかまでは、会ってみなければ分からん。じゃが、少なくてもその者の身近に建御雷神が守護神となっている者がおるのは間違いない)
(この道場で、咲希よりも強い者は誰じゃ?)
『一番強いのは、顧問の齋藤先生で四段よ。次は男子部主将の桐生先輩……』
(桐生というのは、明日デートとやらをする男か?)
『うん……』
咲耶の言葉に、咲希はカアッと顔を赤らめた。
(他には……?)
『あとは、男子部副主将の西条先輩だけど、あたしと同じくらいの強さかな?』
(では、その齋藤と桐生のどちらかじゃな、建御雷神の守護を受けておるのは……)
咲希の説明に頷きながら、咲耶が告げた。
「打ち合い、止めぇえッ……!」
入口近くにいた髙杉という二年生の男子生徒が、道場全体に響き渡る大声で叫んだ。その声で、道場内にいた全員がその場で直立し、左手で竹刀を持って入口に向かって礼をした。顧問の齋藤四段が入ってきたのだ。
咲耶も皆に倣って、左手に竹刀を携えながら齋藤に向かって頭を下げた。
『あれが齋藤先生よ。週に二日、調布警察署から聖光学院に教えに来ていただいているの』
(確かにそれなりの腕はあるが……違うのう……。彼奴からは、建御雷神の気が感じられぬ)
咲耶が真っ直ぐに齋藤を見つめながら告げた。
齋藤は四十代前半で、百八十センチを超える堂々とした長身の男だった。角張った強面の顔に、短く刈り上げた頭髪と鋭い目つきが印象的な男だ。黒い剣道着と袴の上に波形の刺繍が入った漆黒の胴と籠手を身につけ、見るからに有段者という貫禄を見せていた。垂れには『警視庁 齋藤』と白字で書かれていた。
『あたし、実はあの先生、ちょっと苦手なんだ。何かにかこつけて、すぐに髪や体を触ってくるのよ。何かイヤらしくて……』
(そうか……。やはりのう……)
『やはりって……?』
咲耶が告げた言葉に驚きながら、咲希が訊ねた。
(奴からは昼間の澤村と同じ気を感じる……)
『澤村君と……? もしかしたら、齋藤先生が妖魔だってこと……?』
(いや、澤村と同じじゃと言ったであろう。あの齋藤という奴も、妖魔の影響を受けておるだけじゃ。あの程度であれば、私の気を流し込んですぐに浄化することができる)
ニヤリと笑みを浮かべると、咲耶が自信に満ちた口調で告げた。
『そんなことができるなら、何で澤村君は放っておいたの?』
簡単に邪気の浄化が可能ならば、ソフトボールの後にでも澤村も浄化してやればよかったのにと咲希は考えた。
(邪気を浄化するには、<咲耶刀>などで相手を打って私の気を流し込む必要があるのじゃ。今なら<咲耶刀>の代わりに竹刀が使えるが、あの時はそのようなものが手近になかった。まさか、バットでぶん殴る訳にもいくまい)
『そう言われれば、そうだけど……。まさか、これから齋藤先生と地稽古をするつもりじゃ……?』
地稽古は、一対一で行う実戦を想定した互格稽古だ。咲希は剣道四段の齋藤相手にまだ一度も勝てたことがないが、咲耶の実力であれば余裕だと思われた。それどころか、余程手加減をしてやらないと、齋藤の身が危険だった。
(地稽古というのは、試合と同じ形式の稽古という意味で合っておるか?)
『そうよ。試合同様に、一対一の真剣勝負よ』
大きな不安を感じながら、咲希が答えた。その不安を煽る言葉を咲耶が告げた。
(では、その地稽古とやらをやろう。それならば、打ち込むと同時に私の気を流し込むことができる……)
『ちゃんと手加減してよね……』
咲希がそう告げた瞬間、齋藤の声が道場中に響き渡った。
「神守ッ! 前に出ろッ!」
突然、名前を呼ばれて咲耶が齋藤を見つめた。
『大きな声ではいと返事して、すぐに先生の横に移動してッ!』
齋藤の顔を見つめるだけで一歩も動こうとしない咲耶に、咲希は焦りながら叫んだ。
「何をしているッ! 返事をせんかッ!」
「はいッ!」
咲耶が声を上げて答えると、齋藤に向かってゆっくりと歩き出した。その様子に、咲希はハラハラしながら齋藤の顔を見つめた。さすがに女子には手加減をするが、態度が悪いと男子部員などは指導と称して竹刀で殴打されることもあったのだ。
齋藤の側に行くと、彼は自分の横に咲耶を立たせて肩に手を廻してきた。そして、他の部員たちに向かって話を始めた。
「皆も知っているとおり、先月横浜で行われた全国高等学校総合体育大会剣道大会で、神守咲希が準優勝に輝いた。皆も神守を見倣って、これまで以上に気合いを入れて稽古をするとともに、より自分を高めてもらいたい」
自分の言葉が生徒たちにきちんと伝わっているかを確認するように、齋藤は全員の顔を見渡した。そして、満足げに頷くと、咲耶の肩を抱いたまま話を再開した。
「これから、一年生女子は神守と引き立て稽古をしてもらうッ! 一年女子、前に出ろッ!」
齋藤が声を上げると、七名の女生徒が大声で返事をしながら咲耶の前に並んだ。
(引き立て稽古とは何じゃ……?)
『高段者が初心者を相手にして、刃筋を教える稽古よ』
咲耶の質問に、咲希が目の前にいる一年生の顔を見つめながら答えた。七人の中には初段一人と一級二人がいるが、あとの四人は素人同然だった。
「そんな下らぬ稽古ではなく、私とお主で地稽古をせぬか?」
突然、咲耶が面倒くさそうな表情で齋藤を見つめながら告げた。その言葉に、咲希は驚愕して叫んだ。
『ちょっと、咲耶ッ! 何を言い出すのッ!』
(構わぬ。このような奴、一度痛い目に遭わせてくれるわッ!)
咲耶の言葉に齋藤だけでなく、道場にいる全員が茫然とした。鬼指導官の異名がある齋藤に向かって、真っ向から反対意見を述べた者は今まで誰もいなかったのだ。
「何だ……と……?」
自分の指導法を否定され、齋藤が怒りのあまり声を震わせた。その様子を見て、部員たちは齋藤が咲希に竹刀で教育をするのではないかと思った。
「それと、早くこの手を離さんか。べたべたと触りおって気持ちの悪い……」
そう告げると、咲耶は肩に回された齋藤の腕を力任せに振り払った。
「き、貴様ッ……! インターハイで準優勝した程度で増長したかッ!」
厳つい顔を怒りで真っ赤に染めながら、齋藤が咲耶を睨みつけた。
「増長? 増長というのは、相手の力量が分からぬ馬鹿者に使う言葉じゃ。仕方あるまい。引き立て稽古を付けてやる故、防具を着けるがよい」
「な……なッ……」
咲耶の言葉に、齋藤がパクパクと口を開いた。怒りのあまり、言葉を忘れたようだった。
「防具を着けたら、開始線で待つがよい。他の者は全員、場外に出よッ! 私も準備をして来よう」
道場内に響き渡る美声でそう告げると、咲耶は自分の荷物を持って場外に出た。そして、面手ぬぐいやタオルなどが入った鞄を床に置くと、その横に面を置いた。そして、身につけていた胴、籠手、垂れなどを次々に外し始めた。
『何してるの、咲耶ッ! これから先生と稽古するのに、防具を外してどうするのよッ!』
咲耶の行動に驚いて、咲希が叫んだ。
(暑いし、邪魔じゃ。此奴程度が相手なら、竹刀一本あれば十分じゃ)
『大丈夫なんでしょうね? あたしの体なんだから、無茶しないでよ……』
ハアッと大きくため息を付くと、諦めたように咲希が告げた。だが、咲耶の実力を知る咲希は、それ以上何も言わなかった。
持ってきたお弁当を屋上で食べ終わると、ニヤリと笑いながら凪紗が訊ねた。先ほど、咲耶が教室で突然着替えを始めたことは本当に忘れているようだった。どうやら、祝詞の効果は完璧みたいだと咲希は安心した。
「ち、違うわよ。桐生先輩のことじゃないわ。あたし自身のことを、凪紗にはきちんと話をしておこうと思って……」
実際のところ咲耶に振り回されて、明日のデートのことなど咲希の頭から抜け落ちていたのだった。咲希は気を取り直すと、慎重に言葉を選んで話し始めた。
「実はあたし、昨日、強姦されそうになったの……」
「えッ……! 強姦ッ……?」
咲希の言葉に、凪紗が驚愕のあまり濃茶色の瞳を大きく見開いて叫んだ。
「うん……。帰り道、家の近くの公園で六人の男たちに囲まれて……」
「大丈夫だったのッ……? 警察には行った?」
凪紗が両手で咲希の両肩を掴みながら身を乗り出してきた。彼女が本気で自分の身を案じてくれていることに気づき、咲希は嬉しくなった。
「行っていないわ。危ないところで助けてもらったから……」
「よかった……。でも、誰に助けてもらったの? 今からでも警察に行った方がいいんじゃない?」
「警察は大丈夫……。それより、その助けてもらった相手が問題なの……」
『問題とは何じゃ? 失礼な言い方をするでないッ!』
咲希の会話を聞いていた咲耶が、不満そうに口を挟んできた。
(問題なのは間違いないでしょ? 本当のことを言えないんだから、黙って聞いていてッ……!)
咲耶を押し黙らせると、咲希は話を続けた。
「強姦されそうになったショックで、あたしの中にいるもう一人の私が目覚めちゃったの……」
「もう一人の私って……?」
咲耶の言葉の意味が分からずに、凪紗がキョトンとした表情を浮かべた。
「簡単に言えば、あたし、二重人格になったみたいなのよ」
「二重人格……?」
驚きの声を上げた凪紗を刺激しないように、咲希はゆっくりと頷いた。
「自分でもこんなこと信じられないんだけど、強姦されそうになったあたしを助けてくれたのは、もう一人の私なの……」
「え……?」
咲希の説明に、凪紗が唖然とした表情を浮かべた。突然、二重人格だと告げられた上、自分が自分の窮地を救ったなどと言われても信じられるはずはなかった。
「もう一人の私の名前は、咲耶って言うの。凄く強くて、あっという間に六人の男たちを叩きのめしちゃったの……」
「咲希、大丈夫……? やっぱり、警察……ううん、病院に行った方がいいよ。頭を強く打ったんじゃないの?」
濃茶色の瞳を見開きながら、凪紗が心配そうに咲耶を見つめてきた。
(咲耶、お願い……。ちょっと入れ替わって、少しだけ力を見せてくれない?)
『仕方ない、分かった……』
「今から咲耶に変わるわ……。実際に見てもらった方が信じてもらえると思う……」
そう告げた瞬間、咲希の意識が心の奥底に沈んでいった。そして、咲耶の意識が表面に浮上し、咲希の体を支配した。
(うそ……? 雰囲気が……?)
目の前で咲希の様子が一変したことに、凪紗は否が応でも気づいた。元々美しい少女だが、今目の前にいる咲希は、さっきまでの咲希とは明らかに別人だった。
黒曜石のように輝く瞳は深い慈愛と叡智に輝き、その全身は神々しいほどのオーラを放っていた。芸能人、いや、ハリウッドスターでさえも凌駕する美しさが、そこにはあった。
それは凪紗が初めて眼にする美の化身と言っても過言ではなかった。
(これは……人なの……?)
思いもしない疑問が、凪紗の脳裏に浮かんだ。それほどまでに、目の前に佇む咲希は美しすぎたのだ。神々に愛された究極の美しさ……。絶世の美女という言葉は、彼女のためにあると凪紗は考えた。
「私の名は咲耶……。もう一人の咲希じゃ……」
「咲耶……さま……?」
無意識に凪紗は、咲耶を敬称で呼んだ。彼女の濃茶色の瞳に映る崇拝に気づくと、咲耶は満足そうな微笑を浮かべながら咲希に告げた。
(見よ……! これが本来の人のあり方じゃ……! 咲希も見倣うがよい!)
『格好つけてないで、少しだけ力を見せてよ! そして、さっさと入れ替わらないと、ケーキもプリンもなしにするわよ!』
(ま、まて……! 慌てるでない! 今から見せようと思っていたところじゃ……)
咲希の言葉に、咲耶の方が慌てながら告げた。
「凪紗よ、咲希の話は事実じゃ……。今からその証拠を見せてやろう。私の力、目に焼き付けるがよい!」
そう告げると、咲耶は助走も付けずにいきなり跳躍した。そして、屋上の入口がある塔屋の上に着地をした。塔屋までの距離は十メートル、その高さは五メートル以上あった。
「そんな……!」
人間の能力を遥かに超えた跳躍に、凪紗は茫然として言葉を失った。
『バカッ! やり過ぎよッ! こんなの、あんたが人間じゃないって教えてるようなもんじゃないのッ!』
(そう言うでない。これでも、ずいぶんと力を抑えたのじゃ……。本当ならば、この建物から地上に降りて、再び戻ってこようかとも思ったのじゃ……)
『何考えてるのよッ! そんなことしたら、凪紗は気絶するわよッ!』
この校舎は四階建てだ。屋上から地上までの高さは、二十メートル近くあった。それ以前に、屋上から飛び降りた途端に、自殺したと勘違いされることは間違いなかった。
「どうじゃ? 咲希の話が本当であると理解してもらえたか?」
塔屋から再び跳躍して凪紗の前に降り立つと、咲耶が優しい笑顔を浮かべながら訊ねた。
「は……はい……、咲耶さま……」
まるで最愛の恋人を目の前にしたかのように、凪紗が熱っぽい視線で咲耶を見つめた。
「では、私は戻るぞ……。後は咲希に任せる……」
「お、お待ちを……! もう少し、お話しを……!」
思わず右手を差し出した凪紗を無視して、咲耶は咲希と入れ替わった。咲耶の意識が心の奥に沈んでいき、咲希の意識が急速に浮上した。咲希は微笑みを浮かべながら、凪紗を刺激しないように優しく告げた。
「戻ったわ。あたしは咲希よ。凪紗、大丈夫……?」
「咲希……。咲耶様はどこに……?」
潤んだ瞳で頬を赤く染めながら、凪紗が咲希に訊ねた。その様子はまるで、愛しい男性に焦がれている乙女そのもののようだった。
「咲耶はあたしの中に戻ったわ。これで、あたしの中にもう一人の私がいるって、信じてもらえた?」
「……るい……」
「え……?」
小さく囁いた凪紗の言葉が聞き取れずに、咲耶が訊ね返した。
「ずるいわ、咲希ばっかりッ!」
「凪紗……?」
突然両肩を掴まれ、咲希が驚きながら凪紗の顔を見つめた。
「あんな素敵な方と一心同体なんて、羨ましすぎるッ! あたしと替わってッ!」
「な、凪紗……」
熱い激情をぶつけてくる凪紗を見て、咲希が咲耶に文句を言った。
(どうするのよ、これ……? 凪紗、あんたに一目惚れしちゃったみたいじゃない?)
『まあ、仕方なかろう。私ほどの女神となれば、男も女もそうなるのが当然じゃ。いちいち構ってはおれぬ。それよりも、私を前にして平然としている咲希の方が余程珍しいぞ』
得意そうな口調で、咲耶が自慢げに告げた。
(何であたしが咲耶に惚れなくちゃならないのよ? それと、一つ忘れてない?)
『何をじゃ……?』
(お昼休みが終わったら、またあたしと入れ替わるんでしょ? しばらくの間は、あんたが凪紗の相手をするんだからね?)
『そ、それは……』
ニヤリと笑いながら告げた咲希の言葉に、咲耶が言葉を詰まらせた。
(こう見えても、凪紗は一途なんだから、もし泣かせたりしたらケーキもプリンもなしにするわよ……)
『そ、それとこれとは話が……』
本気で焦った口調で、咲耶が慌てだした。
(分かったわね、咲耶?)
『わ、分かった……』
咲耶が渋々と頷くのを感じて、咲希は小さくため息を付いた。
ホントに、へっぽこなんだか凄いんだか、よく分からない女神ね……。
放課後、纏わり付く凪紗を何とか引き剥がすと、咲耶は逃げるように剣道場へやって来た。
(まったく、何なのじゃ、あやつは……。しつこすぎるではないか……)
『咲耶が変に格好なんてつけるから悪いのよ。自業自得よ……』
八百万の神が人間に振り回される姿を見て、咲希が楽しそうに告げた。
『また見つからぬうちに、早く防具を着けようぞ。面を被れば、すぐに私とは気づくまい……』
(いいけど、ちゃんと女子更衣室で着替えてよ。今度、勝手に下着になったら許さないからねッ!)
『分かっておる。早う、更衣室とやらに案内するがよい』
さすがに昼間教室で着替えたことを反省しているのか、咲耶は素直に咲希に告げた。
咲希の案内で女子更衣室に入ると、咲耶は手早く剣道着と袴と防具を身につけた。洋服にはまだ慣れないようだが、教えなくても剣道着と袴には手慣れた所作で着替えていた。
(さて、早速、道場へ行くとしようか……)
竹刀袋から咲希が愛用している真竹古刀の竹刀を取り出すと、咲耶は楽しげな表情を浮かべながら告げた。
『道場に入るときは、右手奥にある神棚に向かって一礼してから入ってね』
(神棚……? 誰が祀られておるのじゃ?)
咲希の言葉に興味を持って、咲耶が訊ねた。
『さあ、どの神様だろう……? 知らないわ』
(お前たちは誰だか分からぬのに、毎日頭を下げておるのか?)
『うッ……』
咲耶が呆れた口調で告げた。それが正論だったので、咲希は文句も言えずに言葉に詰まった。
(まあ、よい……。行けば分かることじゃ……)
『行けば分かるって……?』
(神棚には御札があるじゃろう? そこにある神気を感じれば、誰だかすぐに分かるものじゃ……)
こういうところは本当に八百万の神の一柱だと、咲希は思わず咲耶を見直した。
「建御雷神と経津主神か……」
道場の入口で立ち止まり、奥の祭壇に祀られている御札を見つめながら咲耶が告げた。
(二柱も祀られていたんだ? 有名な神様なの?)
「どちらも日本を代表する武の神じゃ。特に建御雷神は神々の中でも素戔嗚尊と一二を争うほどの武神じゃ」
(素戔嗚尊なら知ってるわッ! 八岐大蛇を退治した神でしょ?)
やっと知った名前が出て来て、咲希は得意そうに告げた。
(天照皇大御神の弟に当たるお方じゃ。高天原随一の荒神で、暴風の神と恐れられておる。天照が天岩屋戸に隠れられたきっかけを作ったのも、素戔嗚じゃ……」
『そうなんだ……』
素戔嗚が天照の弟であることや、天岩屋戸伝説の原因となったことを、咲希は初めて知った。
(私の<咲耶刀>は、天照のもう一柱の弟である月詠尊から賜った神刀じゃ。三種の神器である<草薙剣>に勝るとも劣らぬ力を持っておる。じゃが、<咲耶刀>を使っても今の私では無手の素戔嗚や建御雷神には勝てぬ……)
『そんなに強いんだ……』
咲耶の話を聞いて、咲希は驚愕した。
咲希が知る咲耶の強さは、この世のものとは思えないほどだった。何十メートルもの距離を跳躍し、眼にも留まらぬ速さで移動して、一瞬で何人もの男を倒すところを実際に見ているのだ。だが、その咲耶が神刀<咲耶刀>を手にしても、無手の素戔嗚や建御雷神に勝てないという。
剣道三倍段が神々に当てはまるかどうかは不明だが、その理屈からすれば素戔嗚や建御雷神の強さは、咲耶の三倍以上だということだった。
(まあ、いざとなれば勝てる方法がなくもないがのう……)
『え……? どんな方法があるの?』
自分より遥かに強い相手に勝つ方法があるのなら、ぜひ知りたいと咲希は思った。もしかしたら、自分の剣道に活かせるかも知れないからだ。その考えを読み取ったかのように、咲耶がニヤリと笑いながら告げた。
(女の武器を使うのじゃよ……)
『女の武器……?』
(そうじゃ……。じゃが、咲希にはまだ無理じゃな。男を知ったら、教えてやってもよい)
『男を知ったら……って!』
咲耶の言う意味がハニートラップであることに気づき、咲希は真っ赤に染まった。
(ハッ、ハッ、ハハッ……! では、無駄話はこの辺で終わりにして、道場に入ろうぞ!)
楽しそうな笑みを浮かべると、咲耶は道場の敷居をまたいで中へ入っていった。
咲希は羞恥で顔を赤くしたまま、一言も反論できなかった。
(ふむ……。道場全体に、建御雷神の気が満ちておる。これは、部員の誰かに建御雷神に近しい者がおる証拠じゃの)
道場に足を踏み入れた瞬間、咲耶が真面目な表情で道場内を見渡しながら告げた。
『それって、建御雷神が守護神の生徒がいるって言う意味……?』
(直接の守護を受けているかどうかまでは、会ってみなければ分からん。じゃが、少なくてもその者の身近に建御雷神が守護神となっている者がおるのは間違いない)
(この道場で、咲希よりも強い者は誰じゃ?)
『一番強いのは、顧問の齋藤先生で四段よ。次は男子部主将の桐生先輩……』
(桐生というのは、明日デートとやらをする男か?)
『うん……』
咲耶の言葉に、咲希はカアッと顔を赤らめた。
(他には……?)
『あとは、男子部副主将の西条先輩だけど、あたしと同じくらいの強さかな?』
(では、その齋藤と桐生のどちらかじゃな、建御雷神の守護を受けておるのは……)
咲希の説明に頷きながら、咲耶が告げた。
「打ち合い、止めぇえッ……!」
入口近くにいた髙杉という二年生の男子生徒が、道場全体に響き渡る大声で叫んだ。その声で、道場内にいた全員がその場で直立し、左手で竹刀を持って入口に向かって礼をした。顧問の齋藤四段が入ってきたのだ。
咲耶も皆に倣って、左手に竹刀を携えながら齋藤に向かって頭を下げた。
『あれが齋藤先生よ。週に二日、調布警察署から聖光学院に教えに来ていただいているの』
(確かにそれなりの腕はあるが……違うのう……。彼奴からは、建御雷神の気が感じられぬ)
咲耶が真っ直ぐに齋藤を見つめながら告げた。
齋藤は四十代前半で、百八十センチを超える堂々とした長身の男だった。角張った強面の顔に、短く刈り上げた頭髪と鋭い目つきが印象的な男だ。黒い剣道着と袴の上に波形の刺繍が入った漆黒の胴と籠手を身につけ、見るからに有段者という貫禄を見せていた。垂れには『警視庁 齋藤』と白字で書かれていた。
『あたし、実はあの先生、ちょっと苦手なんだ。何かにかこつけて、すぐに髪や体を触ってくるのよ。何かイヤらしくて……』
(そうか……。やはりのう……)
『やはりって……?』
咲耶が告げた言葉に驚きながら、咲希が訊ねた。
(奴からは昼間の澤村と同じ気を感じる……)
『澤村君と……? もしかしたら、齋藤先生が妖魔だってこと……?』
(いや、澤村と同じじゃと言ったであろう。あの齋藤という奴も、妖魔の影響を受けておるだけじゃ。あの程度であれば、私の気を流し込んですぐに浄化することができる)
ニヤリと笑みを浮かべると、咲耶が自信に満ちた口調で告げた。
『そんなことができるなら、何で澤村君は放っておいたの?』
簡単に邪気の浄化が可能ならば、ソフトボールの後にでも澤村も浄化してやればよかったのにと咲希は考えた。
(邪気を浄化するには、<咲耶刀>などで相手を打って私の気を流し込む必要があるのじゃ。今なら<咲耶刀>の代わりに竹刀が使えるが、あの時はそのようなものが手近になかった。まさか、バットでぶん殴る訳にもいくまい)
『そう言われれば、そうだけど……。まさか、これから齋藤先生と地稽古をするつもりじゃ……?』
地稽古は、一対一で行う実戦を想定した互格稽古だ。咲希は剣道四段の齋藤相手にまだ一度も勝てたことがないが、咲耶の実力であれば余裕だと思われた。それどころか、余程手加減をしてやらないと、齋藤の身が危険だった。
(地稽古というのは、試合と同じ形式の稽古という意味で合っておるか?)
『そうよ。試合同様に、一対一の真剣勝負よ』
大きな不安を感じながら、咲希が答えた。その不安を煽る言葉を咲耶が告げた。
(では、その地稽古とやらをやろう。それならば、打ち込むと同時に私の気を流し込むことができる……)
『ちゃんと手加減してよね……』
咲希がそう告げた瞬間、齋藤の声が道場中に響き渡った。
「神守ッ! 前に出ろッ!」
突然、名前を呼ばれて咲耶が齋藤を見つめた。
『大きな声ではいと返事して、すぐに先生の横に移動してッ!』
齋藤の顔を見つめるだけで一歩も動こうとしない咲耶に、咲希は焦りながら叫んだ。
「何をしているッ! 返事をせんかッ!」
「はいッ!」
咲耶が声を上げて答えると、齋藤に向かってゆっくりと歩き出した。その様子に、咲希はハラハラしながら齋藤の顔を見つめた。さすがに女子には手加減をするが、態度が悪いと男子部員などは指導と称して竹刀で殴打されることもあったのだ。
齋藤の側に行くと、彼は自分の横に咲耶を立たせて肩に手を廻してきた。そして、他の部員たちに向かって話を始めた。
「皆も知っているとおり、先月横浜で行われた全国高等学校総合体育大会剣道大会で、神守咲希が準優勝に輝いた。皆も神守を見倣って、これまで以上に気合いを入れて稽古をするとともに、より自分を高めてもらいたい」
自分の言葉が生徒たちにきちんと伝わっているかを確認するように、齋藤は全員の顔を見渡した。そして、満足げに頷くと、咲耶の肩を抱いたまま話を再開した。
「これから、一年生女子は神守と引き立て稽古をしてもらうッ! 一年女子、前に出ろッ!」
齋藤が声を上げると、七名の女生徒が大声で返事をしながら咲耶の前に並んだ。
(引き立て稽古とは何じゃ……?)
『高段者が初心者を相手にして、刃筋を教える稽古よ』
咲耶の質問に、咲希が目の前にいる一年生の顔を見つめながら答えた。七人の中には初段一人と一級二人がいるが、あとの四人は素人同然だった。
「そんな下らぬ稽古ではなく、私とお主で地稽古をせぬか?」
突然、咲耶が面倒くさそうな表情で齋藤を見つめながら告げた。その言葉に、咲希は驚愕して叫んだ。
『ちょっと、咲耶ッ! 何を言い出すのッ!』
(構わぬ。このような奴、一度痛い目に遭わせてくれるわッ!)
咲耶の言葉に齋藤だけでなく、道場にいる全員が茫然とした。鬼指導官の異名がある齋藤に向かって、真っ向から反対意見を述べた者は今まで誰もいなかったのだ。
「何だ……と……?」
自分の指導法を否定され、齋藤が怒りのあまり声を震わせた。その様子を見て、部員たちは齋藤が咲希に竹刀で教育をするのではないかと思った。
「それと、早くこの手を離さんか。べたべたと触りおって気持ちの悪い……」
そう告げると、咲耶は肩に回された齋藤の腕を力任せに振り払った。
「き、貴様ッ……! インターハイで準優勝した程度で増長したかッ!」
厳つい顔を怒りで真っ赤に染めながら、齋藤が咲耶を睨みつけた。
「増長? 増長というのは、相手の力量が分からぬ馬鹿者に使う言葉じゃ。仕方あるまい。引き立て稽古を付けてやる故、防具を着けるがよい」
「な……なッ……」
咲耶の言葉に、齋藤がパクパクと口を開いた。怒りのあまり、言葉を忘れたようだった。
「防具を着けたら、開始線で待つがよい。他の者は全員、場外に出よッ! 私も準備をして来よう」
道場内に響き渡る美声でそう告げると、咲耶は自分の荷物を持って場外に出た。そして、面手ぬぐいやタオルなどが入った鞄を床に置くと、その横に面を置いた。そして、身につけていた胴、籠手、垂れなどを次々に外し始めた。
『何してるの、咲耶ッ! これから先生と稽古するのに、防具を外してどうするのよッ!』
咲耶の行動に驚いて、咲希が叫んだ。
(暑いし、邪魔じゃ。此奴程度が相手なら、竹刀一本あれば十分じゃ)
『大丈夫なんでしょうね? あたしの体なんだから、無茶しないでよ……』
ハアッと大きくため息を付くと、諦めたように咲希が告げた。だが、咲耶の実力を知る咲希は、それ以上何も言わなかった。
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