なんとなく

荒俣凡三郎

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幸せな料理人

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 私は幸せになりたかった。しかし、それは叶わない願いとなった。私は右腕を失った。右腕は料理をするのにとても大切なものだった。十五年かけて研ぎ澄ますように磨き続けた包丁の感覚は、肘の辺りからすっぽり失われてしまっていた。これでは幸せになれるはずもなかった。私にとって料理は人生のすべてだった。ついにその生き方が形になろうとしたとき、新品の暖簾をかける手は失われてしまったのだった。

 私が料理にかけてきた情熱は、親が子にかける情熱にも似ていた。技術を磨けば磨くほど舌の上で成長を見せる食材は私にとって、手塩に育てた子どもの活躍のように胸が満たされた。その感覚にとらわれ「もっともっと」と打ち込んできた。とある名匠に従事し、いざ自分の店を持つ所になった矢先、ほんの一つの出来事で注いできた愛情を失ってしまっていた。腕を失った私は料理の道を退き、ぷかぷかとたばこをふかし、椅子に揺られる日々を過ごしていた。そんな私の元に一人の女性が訪れた。

 女性は私に「料理を教えて欲しい」と言った。しかし私にはもう料理に向ける情熱は残っていなかった。女性にはその旨を伝えるのだが、女性はそれでも引き下がらず、自分が私の右腕であることを訴えた。右腕の話をされ、苛立つもそれこそが後悔の証拠であることを指摘され、それは自らの怒りだと言う。女性は腕をなくした原因となった人だった。私が料理をせねば自らの命を絶つと彼女は言う。そうはいかない、女性は師匠の娘だった。私はしぶしぶ料理人の世界へと戻るのだった。

 暖簾のかかったことのない私の店は、数年の時を経ても手入れがしっかりと行き届いていた。女性が毎日掃除をしていたそうだ。ただ彼女は料理ができなかった。料理界の巨匠である父に反発し続けてきた彼女は、これまで包丁も握ったことがなかった。その彼女に私は持ちうる限りの知識を総動員して、料理を仕込んだ。私は暖簾をかけるための手を失っていた。しかしなくした片手の代わりに、彼女が暖簾の片側を持った。私は失われた情熱を取り戻し始めたのだった。
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