なんとなく

荒俣凡三郎

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7月

お腹がすいた

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 四角い箱のような廊下なんて高校でおしまいだと思っていた。慣れていたから不自然に思わなかったけど、学校の廊下というのは独特で、均一に並んだ窓だったり、一定間隔に同じサイズの教室が並んでいたり、抗菌作用を持つリノリウムが使われていたり、と意外と学校以外で同じ空間に出会うことは少ない。俺もてっきり高校を卒業したら、この風景ともお別れだな、と思っていたが、地方にある田舎の大学に進学した俺は、おしゃれなキャンパスライフとはほど遠い、規則的で閉塞感にあふれたこれまでと同じ空間で過ごすことになる。

 高校にもう四年間通います、と考えたらどう思うだろうか。少なくとも俺は高校に進学する時点でやめることを考え始めてしまう。遊び盛りの20歳前後をこの地味な空間で過ごすのだ。大学といえば、開放的なキャンパスに自由と未成熟な洗練過程をごちゃ混ぜにして楽しむような時間だ。道行く人々はみな自由な衣服に身を包み、赤青黄色と様々な色合いのファッションを楽しみながら、構内を歩くだけで脳に刺激を与えてくれそうな、まさに学生の上級互換たる世界だったはずだ。

 それが高校と変わらない、緑のリノリウムと年季の入った白い壁、規則正しく並ぶ窓の列と教室の景色に挟まれていると、脳裏にはちらちらと卒業証書が映し出されるようになる。

 大丈夫、ちゃんと高校は卒業している。

 というのも、この大学。どうやらかつて中学校として使っていた校舎を買い取って、そのまま大学として使っているそうなのだ。一人暮らしができればどこでも入れればどこでもいい、とろくに調べることもせず、遠くの大学に入学願書を提出してしまったが、荷物を抱えていざ現地に来てみれば、あまりの驚きに電車の駅まで戻り改札を通ってしまったくらい思ってたのと違った。ああ、いろんな意味で違った。

 そんなこんなと経緯はいろいろあれど、俺は今そのリノリウムの廊下を走っていた。高鳴る靴の音に混ざり、時折「ぐぅぅ」とお腹の音がなる。昼食を食べなかったからだ。しかし、ご飯を食べる時間はない。もうすぐ午後のコマが始まってしまう。規則に厳しいのは見た目だけではない。この大学、遅刻をするとすごく面倒なことになる。

「あやや、高師さん、そんなに急いでどうしたんですか」

 吸い込まれるといえそうなほど遠く、突き当たりが暗く見える廊下、背後へ流れる風景の流れの中に突如としてひとりの少女が現れる。

 少女の身長はだいたい百五十センチほど。見た目は細く、いくら自由とはいえど限度があると突っ込みたくなるような衣装を着ている。淡い緑のとんがり帽子に、リオのカーニバルにでもこれから参加するかのような洋服だ。ハロウィーンの日に渋谷にいても目立たないが、日常にいたら明らかに浮く。ここが現実の世界であれば魔法使いのコスプレだとスマホでカメラを向けるだろう。
 それに見た目だけなら、テレビで見る芸能人のように端正な容姿をしていた。白く透き通るような肌に、外国の血が混ざった薄く青い瞳。夢の国から飛び出してきたような姿は、街で初めて見る人がいれば、足を止めてしまうだろう。

 そんな少女が隣で浮いていても、驚かない自分に不安を覚える。

「昼ご飯食ってないんだよ。でも次はベルの授業だろ。遅刻するわけにはいかないんだ」
「あー、ベルかぁ。ベル、遅刻した人一日カエルにするの好きだもんね」

 言いたいことはいろいろあるが、ぐっと言葉を飲み込んで頭の中で優先順位を整理する。

「いいからお前はどっかいけ。おまえに構っていると今晩、カエルのジャージャー麺がメニューにのることになる」

「店長、カエル探してたしねぇ」

 どうしたら二言でこんなに追い詰められた気持ちになれるんだろうか。

「よし!安心して」
 ポンと、少女ーークロードが手を打った。
「その悩み、私が解決してあげよう」
「いやいい!おまえが関わってよくなったためしがない!!」
「遠慮はいいから、えーと・・・」
 クロードはとんがり帽子の中に手を入れると、なにやらゴソゴソと手を動かした。そして目当てのものを見つけたのか、ニッコリ笑って帽子の中から取りだした鏡をこちらに差し出した。

「さぁよってらっしゃい見てらっしゃい!今から不思議な出来事、お届けするよ!」
 向けられた鏡にはもちろん俺が写っている。眉間にしわが寄っているのは、本気で急いでいるからか、本当にクロードが疎ましいのかのどちらかだ。いや両方か。

「高師さん分裂!!」

 クロードがそう言うと鏡の中の景色が変わった。対峙していた俺の顔が徐々に遠のいていき、やがて鏡の中で走りだした。

「見てて、高師さん!!」

 走ったまま鏡の中を見つめていると、同じように走っている俺が突如廊下を右に曲がった。それから食堂の看板が目に入る。どうやら食堂に向かったみたいだ。

 鏡の中の俺はお尻のポケットから財布を取り出し、食堂の入り口にある券売機で食券を購入していた。それを見たクロードは一瞬驚いたように口をあけるが、すぐに表情を引き締めて、力強い瞳でこちらを振り向いた。

「お金は高師さんの財布からとってるからね!!」
「ふざけんな! やめさせろよ!」

 ここの食堂のおばちゃんは優秀だ。食券を出せばものの十秒もせずに食事がでてくる。鏡の中でも当然すぐに食事が出てきた。でてきたのはカツカレーうどんだ。思わず腹の中が「ぐぅ」と鳴る。

 鏡の中でカツカレーうどんがアップされる。あれは食堂のテーブルだろう。その上にまさに手を伸ばせばすぐに手に取れそうな大きさでカツカレーうどんが映し出されている。

「まさか、食べれるのか」

 俺は思わず、足を止めクロードを見つめた。
 クロードは先ほどと同じように力強い瞳で頷いた。

 チャイムが鳴るまで残り三分、目当ての教室はもう目の前で三十秒とかからないだろう。二分あれば、食べきれる。そう思い、鏡へ向かって手を伸ばすと、鏡の中でも同じようにカツカレーうどんへと手が伸びた。
「・・・・・・鏡からとれるわけじゃないのか。クロード、これどうやって食べるんだ」
「心配しないでください。鏡の中の高師さんは高師さんそのものなので」
「なるほど。じゃあ鏡の中でこいつが食べれば、俺も食べたことになるのか」
 だが、クロードの言い方に妙な違和感を感じて、眉をひそめる。鏡の中では、もう一人の俺がガツガツとカツカレーうどんを食べ始めていた。しかし、俺の胃からは変わらず「ぐぅぅぅ」と音が鳴っている。むしろ食べ物を前に、それも自分そっくりの人間が食べている様に胃が勘違いして余計胃液を分泌し始めている。

「おい、鏡の中の俺と俺はリンクしてるんじゃないのか」

「クロードーー」

 クロードは宙に浮いたまま腕を組み、じっと鏡の中の様子を真剣な様子で見つめている。

「もう少し待ってください」

 俺はせり上がる急ぐ気持ちを抑えながら、もう少し様子を見てみることにした。クロードが浮かべるその表情が真剣そのものだったからだ。きたるべき、突然の満腹感に備え、ゆっくりと深呼吸をする。

 その時だ。画面の中で俺がスプーンをおいた。

「高師さん!」

 クロードが叫ぶ。
 ついに来るのか、俺は身構えながら得体の知れない胃への衝撃に備えた。

「食べるの早いですねーっ! 食べ切っちゃいましたよ! すごいっ!」

 満面の笑みがこちらを向いた。
 俺はたまらず、流れるような動きで手提げバッグから教科書を取り出すと素早く丸め、金髪の頭へ向けて振り抜いた。見る人が見れば達人級の動作といえよう。

「いたっーー痛いです!」
「全く使えねぇじゃねぇか!」
「食べたじゃないですか!すごい早さでした、目を見張りました!」
「お腹すいたままだ」
「当たり前じゃないですか!食べたのは鏡の中の高師さんなんですから」
「それじゃ意味ねぇだろうが!」
「み、見てください!」
 クロードが鏡を差し出す。そこには満足げに微笑む俺の姿が。
「鏡の中の高師さんは、こんなにも満足気ですよ?」
「だからどうした! 俺がおなか空いたままだろ!」
 もう一発はたく。
「いた、いたいーっ! 暴力、反対ーっ!」
「カツカレーうどんのお金とられただけじゃねぇか。俺はいったい誰に奢ったことになるんだ・・・?」
「高師さんです」
「どの高師だよ!!」

 授業の開始を知らせるチャイムが学校に鳴り響いた。
「しまったっ!」
「へんっ。私を叩いてる場合じゃないんですよ。神よ、この暴力男によくぞ天罰を与えてくださいました。ありがとうございます」
 胸の前で十字をきって、そのままの動きでこちらへ手のひらを指しだした。
「どうぞカエルになりなさい」
 俺は悪党のボスの下っ端に一人はいる他人の力で悦にひたる子悪党感全開の顔を見て肩を落とした。
「お前も同じ授業だろうが・・・」
「な」
 真珠のように透き通った丸い瞳が大きく開かれる。
「なんだってぇ・・・・」

 この日、街の中華料理店では、数量限定でカエルのジャージャー麺がディナーで提供されたそうだ。
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