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第1章過去と前世と贖罪と

8・お風呂が無い

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「酷い目にあった…」

道を歩きながら、私はため息をついた。
空間魔法を人前で使ったら、
他の冒険者から熱烈な勧誘を受けた。
まぁ何とか彼らから逃げることが出来たが、すごく疲れた。
私はスキルの影響で疲れにくいとはいえ、精神的な疲れは別だ。
やはりエドナの言うように、
空間術の力は隠しておいた方が良かったかもしれない。
そう思うが、もう何もかもが遅い。
これからまた何かある度に、
あの勧誘を受けるかと思うと憂鬱でならない。

「まあいいや、済んでしまったことは仕方がないし…」

それよりもそろそろ日も暮れてきた。
時計が無いので、今が何時かわからないが、
多分5時か、6時ぐらいかな。
暗くなる前に、早く宿を探さないと…その時、私はハッとした。
私…この世界のお金の価値分かんないじゃん…。

一応、私は地獄神からお金は貰っているが、
それが日本円にしてどれぐらいの価値があるのか分からない。
宿の料金って、日本だと安くても5000円ぐらいした気がする。
とりあえず、しばらくこの町に滞在する予定だから、
宿の料金はかなり必要になる。
それだけのお金を私は持っているのか…?

私はとりあえず人気のない路地に入ると、
アイテムボックスからカバンを取り出し、
中からお金が入った袋を取り出す。
袋の中を開けてみると、硬貨が全て袋で小分けに入れられてあって、
金色の硬貨と、銀色の硬貨と、茶色の硬貨が入っていた。
ちなみに金色の硬貨がかなりの割合を占めている。
これってひょっとして、金貨とかそういうの?
日本円にしてどれぐらいの価値があるんだろう。
…そうだ、手帳に何か書かれていないかな。
そう思って手帳を開くと、
目次のこの世界についてという項目の隣に、追記ありと書かれていた。
追記…そう言えば手帳の内容は自動的に更新されるんだった。
私は手帳をめくる、すると中には地獄神の口調でこう書かれていた。

『この国の貨幣は、君の世界で言うところの紙幣は無いよ。
この国では全部、硬貨でやり取りをするんだ。
君に渡したお金はバーン王国領内なら、どこでも使えるよ。
金色のが金貨、銀色のが銀貨、茶色のが銅貨だよ。
銅貨100枚は対して銀貨1枚の価値になる。
銀貨100枚の価値に対して、金貨1枚の価値になるから覚えておいて。
あと君の頭の中を見た情報によると、
この世界の貨幣の価値は、だいたい君の世界では、銅貨1枚で100円。
銀貨1枚、および銅貨100枚で1万円。
金貨1枚、および銀貨100枚で100万円になるから覚えておいて』

…すっごく分かりやすいです。
なんかさらっと頭の中を見たとか怖いことが書かれてあるけど、
それはこの際それはどうでも良い。
地獄神よ…。その優しさに裏があると思っても良いですか?

あんた地獄の神様だろ!

何で要所、要所でこんな親切なんだよ!おかしいだろ!
てゆうか金貨袋にざっと見ただけで300枚ぐらいの金貨が入っていたんだけど。
金貨1枚で100万円だから、それが300枚ってことは3億…?

おい、おい、おいぃぃ!!

地獄神よ。もうあんた怖いよ…。
何だか私を生き返らしたのも、何か裏があるような気がする。
じゃなかったらここまでの大金を渡さないでしょ!
…それとも金銭感覚が普通の人よりずれているのかな…神様だし。

とりあえず金貨袋は取られたらマズイのでアイテムボックスに入れておいた。
まぁしばらく働かなくても、
地獄神が充分暮らしていける程のお金を持たせてくれたことに感謝しておこう。
そしてとりあえず、宿を探すことにしよう。そう思い、私は歩き出した。



私はとりあえず大通りの辺にあった宿に泊まることにした。
建物は大きく、結構繁盛してるみたいだ。
ちなみに馬車に乗っていた時は、
空間術が希少能力だと知らなかったので、何も持たずに、
身軽なままだったが、一人旅の人間が何も荷物を持っていないというのも、
怪しまれそうなので、
事前にアイテムボックスから出したカバンを肩にかけていた。
宿の中に入ると、1人の青年が出迎えてくれた。
「ようこそ。ヒナギク亭へ。お泊まりでしょうか?」
「はい、そうです。しばらく泊まりたいんですけど、良いですか?」

「大歓迎ですよ」

青年はそうにこやかに笑った。

「ところで身分証などはお持ちですか?」
「ギルドカードで良いですか?」
「よろしいですよ」

私は青年にギルドカードを渡した。
実はギルドカードは、こういった時に身分証明書として使えるのだ。
これは事前に手帳で得た情報だった。

「なるほど、セツナ・カイドウ様ですね。変わったお名前ですね…」
「そうですか、私のいた地方ではよくある名前でしたけど」
「どこから来られたんですか?」
「ヒョウム国から来ました」
「え? ひょっとしてこの大陸の外ですか? すごいですね」

青年は驚いたようにそう言った。

「そんなことより、この宿の料金はいくらですか?」

万が一ヒョウム国って、どんなとこ? 
って聞かれても困るから、そう聞いた。
私がそう言うと青年は料金の説明をしてくれた。
どうやら宿の料金は、食事付きで日本円にして1泊1万円ぐらいらしい。
食事抜きだと、1泊8千円ぐらい。
食事は朝と晩に2食ずつ。
1階の食堂で食べてもらうことが多いらしいが、
頼めば部屋にまで持ってきてくれるらしい。
今日のところは、疲れたので青年に部屋まで食事を運んでくれるように頼んだ。
しかし1日2食ってお腹減りそうだな。
昼はどっかで食べた方がいいかもしれない。

とりあえずしばらくこの町に滞在する予定なので、
1ヶ月分の料金を先に払っておいた。
まぁ日本円で30万円の損失だが、
これは必要なお金なので使う事は惜しまない。
てゆうかしばらく遊んで暮らせるぐらいあるからな。
お金に関しては心配しなくていい。
ちなみにお金の入った袋はカバンから取り出した。
銅貨と銀貨が入った袋は事前にカバンの中に入れておいたのだ。
これで私がアイテムボックスが使える事は、分からないはず。
いずれ私がアイテムボックスが使えることがこの青年にもバレそうだが、
出来る限り、隠しておこう。

「それと、何か注意事項ってあります?」
「そうですね…」

そう言ってみたら青年が丁寧に宿の注意事項について説明してくれた。
まぁ注意事項っていうか、他の客に迷惑かけるな、
夜間は静かにしてくれとか、
ルールというか、マナーみたいなのを守って下さいと言われた。
ちなみになんでこんな当たり前のことを言うのかというと、
その当たり前を守れない人間も多いのだという、
特に冒険者はそんな人間が多いのだという。
確かにイザベラも冒険者は気が短い人間が多いと言っていた気がする。
しかし冒険者ってこの宿にも泊まっているのか。
あの時、ギルドに居た冒険者とうっかり鉢合わせしないといいけど…。
私がこの宿に泊まっているってことが分かったら、
部屋まで押し掛けてきそうな勢いがあったからな…注意しないと。

「しかしお客様は、あまり冒険者らしくありませんね。
礼儀正しいですし、家名があるということは貴族の方ですか?」
「いいえ、私は貴族ではありません。普通の人です。
それよりも他に聞きたいことがあるんですけどいいですか?」
「何ですか?」
「お風呂って無いですよね?」
「ありませんけど?」

何を当たり前の事を、とでも言いたげに青年は言った。

やっぱりな…予想はしていたんだよ…。
日本では当たり前のようにあったお風呂だが、
この世界ではあまり浸透していないらしい。
青年に話を聞くと、お風呂に入ることが出来るのは、
貴族など富裕層だけ、
湯屋はあるが、かなり高額でそんなに頻繁にはいけないらしい。
そりゃそうだろうな…。
日本では当たり前のように蛇口をひねったらお湯が出てきたけど、
この世界では、そんなことなんて無いだろうからな…。
だったら普通の庶民はどうやって体を清めているかというと、
濡らしたタオルで体を拭くか、たらいにお湯を入れてその中に入るぐらいらしい。

おい…ふざけんな。そう怒鳴りたくなったが我慢した。
だってお風呂大好き日本人としては、お風呂の無い環境は耐えられない。
私は別に潔癖症ではないが、
それでも当たり前のようにあったお風呂に入れないのはキツい。
3日ぐらいなら我慢出来るが、それ以上ともなると…発狂するかもしれない。
いや発狂しなくても、ストレスは溜まりそうだ。

ちなみに青年にトイレの場所を教えてもらったが、
見た感じやっぱりぼっとんトイレだった。
それはまあ別にいい、あるだけマシだ。
だってさ…中世ヨーロッパってさ。
トイレ事情がかなり最悪だったんだよ…。
どれぐらい酷かったかと言うと、窓の外から排泄物を捨てるぐらい酷い。
今みたいに各家庭に1つずつトイレは無かったからな。
特にヴェルサイユ宮殿なんて……あ、これは知らない方が幸せかもしれない。
まぁ清潔好きの日本人からしたら考えられない程、
不衛生だったと言っておこう。
だからこの町に入る時、実はかなりビクビクしていたんだ。

リアル中世ヨーロッパみたいな感じだったら、どうしようかと…。

でもそんなことがなくて良かった。
もしもそうだったら…すぐに町を出て、
そのまま帰ってこなかっただろう。
ちなみになんで私が中世ヨーロッパのトイレ事情に詳しいかというと、
フープスカートかわいいー、
と思って調べてみたら、そういった情報が出たのだ。
そしてフープスカートの真の用途を知って、絶望した。
まさか立ちションするためのものだったなんて、誰も思わないだろ…。
誰だよ発明したの…。

と、まぁかなり脱線したが、そんなこんなで青年と少し話すと、
彼に案内されて、2階の部屋に通された。

「それでは、これが鍵です。何かあったら、下まで来てください」

そう言うと青年は部屋を出ていった。
ふむ。なかなかの広さだな。
部屋にはベッドとテーブルと椅子。
そしてクローゼットや、引き出しのある家具があった。
あと天井にはヒモに吊るされた丸い何かの物体があった。
触ってみたら、光り始めたので、どうやらこれは照明の魔道具らしい。
魔道具というのは、魔力が込められた魔法の道具で、
この世界には科学はあまり発展していないが、
こういった道具が普及しているらしい。

とりあえずカバンを地面に下ろすと、私はベッドにダイブした。
うっは、ふかふかだぜ。こういうのって修学旅行を思い出すよ。
みんなでトランプしたり、恋バナしたりして、夜を過ごしたな…。
みんなどうしているだろうか。
私が行方不明になってしまって、心配してるだろうな…。

――――そういえば、お母さんはどうしているだろうか。
たぶん何かの事件に巻き込まれたと思っているかもしれない。
警察は今頃、総力を挙げて捜索しているだろうし、
マスコミは情報提供を呼びかけているかもしれない。
でもそういった努力が実ることはない。

何故なら私は異世界に居るから…。

「お母さん――――」

出来ることなら、今すぐにでも会いに行きたい。
きっとお母さんは1人で悲しんでいるだろうから。
私は母子家庭で育ったけれども、お母さんが居たから全然寂しくなかった。
確かに仕事で家に居ない事は多かったけど、
それでも私のことを大切に思ってくれていたのは分かっていたから、
それなのにもう二度と会えないなんて――――。

「っ…」

いや、違うんだ。私はカルマを全て消すんだ。
そしてお母さんに会いに行くんだ。
絶対に絶対に、元の世界に帰るんだ。
そのためなら、例えどんなことがあったとしても、
何を犠牲にしたって――――。

でもそれまでに一体どれ程かかるだろうか。本当に元の世界に帰れるのだろうか。
――――そんな不安が、胸を締め付けた。

「う…く…」

堪えようと思っても、次々に涙が出た。
ひょっとしたらずっと不安だったのかもしれない。
いきなりこんな世界に来て、カルマを背負わされ、
そしてようやく落ち着ける場所に来て、緊張の糸が切れてしまった。

私は――――望んで、この世界に来たわけじゃないんだ。
確かに当たり前のように続く、学校生活に少し飽きていた。
将来のことを考えると、漠然と進学としか思い浮かばない程、
未来に対して夢や希望を抱いていなかった。
だってこのご時世、何が起こるかなんて分からないもの。
お菓子作りだって、やっていて楽しいけど、
パティシエになろうとは思わなかった。
ゲームに関しても、そう。
ゲームはやるのは好きだけど、実際にその仕事に携わってみたいとは思わない。
で、それなら何になりたいのと聞かれても、何も思い浮かばない。
ただ安定を、ただ進学を、そうやって引き延ばしにしていたかっただけなんだ。

今なら分かる――――私は恵まれていた。
恵まれて、恵まれ過ぎて、何が幸せなのか、分からなくなっていた。
普通に学校に行ける幸せを、普通にお母さんが居る幸せを、
無くしてみて分かったんだ。日本での暮らしはとても幸せだったと。
それを私は失ってしまった。もう帰る場所なんて私には――――。

それから私はしばらく泣いて過ごした。
泣いて泣いて、声を殺して泣いて、
そうしていると、唐突に、ドアがコンコンとノックされた。

「お食事をお運びしました」

ああ、そうだ。
今日のところは食事は部屋まで運んでくれるように、頼んでいたんだった。
私は服の袖で顔を拭くと、ドアを開けた。
すると、青年が食事を乗ったトレイを持って立っていた。

「あれ、目が少し赤いですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

私はトレイを受け取ると、それを机の上に置いた。
すると青年は、今度は木の桶みたいなのを持ってきた。

「これって何です?」
「お湯ですよ。顔洗ったり、体をふいたりするのに使ってください」

ああ、なるほど。お風呂は無いから、これで体を清めろというわけか。
うわぁ…泣きたい。

「わかりました。ありがとうございます」
「お湯は追加が欲しければ言ってください。
これは初回ですからサービスしておきますけど、次からは有料になります」

金取るのかよ…。まぁこれも商売なんだろうけど…。
木の桶を置くと青年は部屋を出ていった。
私はトレイに乗せられた食事を見る
とりあえず食べるか…特にお腹は減ってないけど、食べないと元気も出ないし…。

トレイに乗った食事は揚げた何か肉に、
サラダと、パンと豆のスープだった。
ちょっと私には量が多かったが、
でも食べてみたら特に期待はしてはいなかったが、どれも美味しかった。
ただ味が少し濃くて、かなりこってりしていたけど、それはまぁいいだろう。
だけどパンがやたら固くて、歯が折れるかと思った。
残すのはもったいないので、アイテムボックスの中に入れておいた。
アイテムボックスの中に入れておけば、腐ることは無いから、これでいいだろう。

「はぁ…」

食べたら少し気分が落ち着いてきた。やっぱり人間の体の資本は食事。
お腹が減っていたら、良いことなんて考えない、考えられない。
とりあえず悲観していても仕方がない。
受け入れなくても、受け入れても、現実は現実で変わらない。
私が異世界にいるという現実は無くならない。
前に進むしかないんだ。進まなければ、私は地獄に落ちてしまう。
選択の余地なんてないんだ――――。
ああ、ダメだ。また暗い風に考えてしまう。
逆に考えろ。私の状況は端から見たらチャンスかもしれない。
日本生まれのごく普通の学生だった私が最強魔力を手に入れたんだ。
善行を積まないといけないと言うデメリットはあるが、
普通の人よりはるかに恵まれているんだ。

良かった探しをしてみよう。
状況を客観的に考えてみてみよう。
私の状況はそれほど不幸なのか?
本当にどうしようも出来ないのか?
確かにカルマを背負ってしまったのは不幸だけど、
助けてくれた神様が、地獄神みたいな優しい神様で良かった。
最強魔力とか、チートスキルとか、
たくさんの所持金を渡してくれたじゃないか。
もしも地獄神が親切な神様じゃなかったら、
私は生き返っても苦労していただろう。
それと出会った人も今のところ良い人達ばかりだった。
まぁ私を恐喝してきたあの男や、
熱烈に勧誘してきた冒険者達は例外として、
ほとんどは私に対して親切にしてくれた。
この世界にもたぶん治安が悪い町とか、存在しているだろうから、
このアアルという町が、そんな町でなくて良かった。
まぁお風呂が無いのは残念だけど、
我慢出来なくなったら、高額でも湯屋に入ってみよう。
それが許されるだけのお金を私は持っているのだから。

それだけ考えてみて、ああ、やっぱり私は恵まれているなと思った。
そうだよ。異世界なんて普通行きたくても行けないんだ。
そんな場所に来られている私は運が良い。恵まれている。
さらには最強魔力をもらっているんだ。
これからの人生、安定しているも同然だろう。

…それでもやっぱり日本に帰れないことや、お母さんに会えないことは寂しい。
私が居ないせいで、悲しい思いをしているお母さんの姿を想像するだけで胸が痛む。
それでも私は前に進まないといけない。
お母さんがこの場にいたらきっと、頑張りなさいと言ってくれるだろうから。
このまま何もせず、ずっと悲しんで塞ぎ込んでいたら、善行なんて積めない。
そして待っている先は地獄――――。
私がもし地獄に落ちてしまうことになったら、
他の誰よりも、何よりも、お母さんが悲しんでしまうだろうから。

「よしっ! 頑張るぞ!!」

私は頬を叩くと、そう気合いを入れた。

絶対にカルマを全部消して、会いに行くから――――待っていてね。お母さん。
私はそう決意を新たにした。




「これは…思った以上に…」

闇がひたすら続く空間で、地獄神アビスはそう呟いた。
アビスの目の前には、
四角形の画面が映し出されており、そこにセツナが映っていた。
一時はどうなるかと思ったけれども、
セツナは想像以上に前向きだった。

セツナは自分が思っている以上に、不幸な人間だ。
いきなりこんな世界に来て、
さらには酷い死に方までして、
カルマまで押し付けられて…。
普通の人間ならば、おそらく自分の状況を悲観的に捉え、
心の整理が付くまで時間がかかっただろう。
けれどもセツナはそこから光を見出そうとした。

彼女は自分のことをどこにでもいるような平凡な人間と言っていたが、
アビスからすれば、それは異常だった。
そもそも自分のことを普通と言うだけで普通では無い。
なぜなら誰しも自分が特別な存在になりたいと憧れるものだからだ。
人が権力や名声を求めるのは、特別になりたいから、
そしてそういった人間に限って、
自分は世界にとって特別な存在では無いということに、
薄々気が付き、恐れを抱いている。
だからこそ、目に見えた形として主張したがるものだ。

しかしセツナは自分のことが普通だと言った。
それは自己卑下でもなく、
ただ自分の事を客観的に分析した結果がそれなのだろう。
そして何てことのないようにそれを受け入れている。
それだけで充分異常だ。
多少未熟な部分はあるが、セツナは芯のある強さを持っていると思う。
それはおそらく、母子家庭で育ったということも大きいだろう。
父親が居ない分、母親を守らないといけないという感情が、
彼女にそういった強さを身につけさせたのだろう。
その母親と別れてしまった悲しみはアビスには分からないが、
それでも前に進もうとする胆力には、驚かざる得ない。

「やっぱり、彼女を生き返らせて良かった…」
「それは、彼女が前向きだからですか?」

その時、地獄神の座る王座の影から、
1人の妖艶な雰囲気の女が音も無く現れた。
黒色のドレスを着ており、腰まである長い黒髪に金色の瞳をしている。
その容姿はアビスに負けず劣らず、美しかった。
おそらく名だたる芸術家でも、
これほど完璧な造形を生み出すことは出来まい。
こうしてアビスの隣に並んで立っていると、それだけで絵になりそうだった。

女の名は幻月神ベアトリクス。
魔法と、月を司る神で、多産の女神でもある。
そして地獄の上層にあるとされる冥府の管理者だ。
といっても冥府も実質地獄神アビスの管轄であるため、
彼女はアビスの部下だ。
だが互いに長く生きているため、その関係は主従ではなく対等に近い。

「前向きというのは確かにそうだね。
これだけ深刻な状況にも関わらず、光を見出そうとするんだから」
「あら、そうなるように少し“弄った”のでは無くて?」

ベアトリクスはクスクスと笑う。
その得体の知れない笑みは見るだけで人を虜にさせてしまう程、妖艶だった。
しかしそれを見て、アビスは顔をしかめただけだった。

「心外だね。ボクは確かに彼女の記憶は封印したけど、
元々の性格自体は変えてない。
あれは彼女自身の性質だよ」
「そうですか。随分と前向きな人間も居るものですね。
己の不幸を呪い、
呪うだけで何もしない人間など山ほど見てきましたが、
人間が皆彼女のように、前向きになれたら良いのですけどね」
「おや? ずいぶんと馬鹿げたことを言うんだね。
人間がみんな同じように同じようなことを考えていたら、
とてつもなくつまらないよ。
違うからこそ、面白いんだ。人間は誰1人として同じ人間は居ない。
多少似ている環境にあっても、捉え方はそれぞれ違う。
だからこそ、運命は人によって千差万別であり、
人1人の人生だけで物語が出来る。
全ての人が全く同じ考え方をして、
全く同じ価値観の世界が在ってごらんよ。
それは紛う方なき地獄だよ」

吐き捨てるように地獄神はそう言った。
そんなアビスをベアトリクスは興味深そうな目で見た。

「なるほど、それではどうして彼女に肩入れするのですか?
私から見ても、普通の子供にしか見えませんが…」
「子供では無いよ。彼女は」
「おや? 私とあなたの生きてきた年数からすれば、
どんな人間でも皆等しく子供ですよ」
「それを言ってしまえば、この次元にとってもボクは子供でしかない。
まだたったの数億年しか、生きてないからね」
「いえ、それ以上は確実に生きていると思います」
「あれ? そうだったっけ?」

神として長らく生きていると、
1日前と100年前の区別も付かなくなる。
普通の人間ならば数億年も生きれば、
死を渇望するか、精神が崩壊するかのどちらかだが、
神は肉体的面、精神的な面でも、人よりはるかに優れている。
それゆえ多少の年数を生きたところで、どうということはなかった。

「まぁそれはどうでもいいよ。年齢なんて数えるだけ無駄だし…。
まぁ彼女のことだけど、彼女はちょっと特別なんだ。
精神的な面ではまだまだだけれども、きっと彼女はこれから強くなる。
そしてこの世界を変えてくれるだろう。
それは大胆に、それは革新的に――――」

アビスがそう言うとベアトリクスは少し驚いたようにまばたきした。

「意外ですね。あなたが革新を望むとは…やはり飽きてきていますか?」

ベアトリクスは無表情にそう言った。
それを見てアビスは口元に笑みを浮かべた。

「いいや、別に。ただ少し面白くなってきたから、
これからが楽しみなだけ」
「なら、いいのですけど。
しかし、彼女は本当に信用出来るのでしょうか?
あれだけの魔力、能力、富を与えてしまったら、人が変わってしまいます。
タロウの時の二の舞だけは、止めてくださいよ。
今ですら超が付く程忙しいのに、あの大惨事はごめんです」
「それに関しては心配しなくていい。
何かあればすぐに地獄に叩き落とせばいいだけのことだから。
そのために監視もしてる」

アビスが何てことのないようにそう言うと、ベアトリクスは大きくため息を付いた。

「ある意味、同情しますよ。
あなたのような規格外な神に目を付けられているのですから…。
とてつもなく不運な人みたいですね。彼女は…」

そもそも運悪くこの世界に来てしまい、
他人のカルマを押しつけられた時点で、
セツナの運が悪いことは確かだ。
さらに言えば、セツナは自分のことが恵まれていると言ったが、
実を言うとかなりヤバイ状況にあった。
その気になれば地獄神アビスは、
この世界すらも簡単に滅ぼすことが出来る力を持つ。
本来であれば全世界を手中に収めることも出来る最高神の立場になることも出来る。
しかしアビスはそういった権力には興味が無かった。
そのため地獄の神という地位の甘んじているわけだが、その実力は段違いに高い。
恐らく他の神々が束になってかかったところで、絶対に勝てないだろう。
そんな末恐ろしい神に目をつけられ、
さらには監視までされているということは、
魂を握られているに等しい。
本当に不運としか言い様が無い。

――可哀想ですけど、私ではどうにも出来ませんね。
道を踏み外さなければ、良いのですけど。

すると、ベアトリクスの思考を読み取ったのか、アビスが答えた。

「そうなったら、そこまでの人間だったということさ」

そうニヤリと笑うアビスを見て、ベアトリクスはため息をついた。

――――本当に厄介な神に目を付けられてしまったみたいですね。
同情しますよ。

まさか地獄神に次ぐ実力を持つ冥府の女神に同情されているとは、
その時のセツナは夢にも思っていないのだった。
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