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第2部
ゆううつ
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湿った土の匂いとぱらぱらという雨の音。それに合わせたかのように学生居室の雰囲気もどんよりとしている。
研究結果がうまく出ないし、後輩との関係も相変わらずあまり良好ではない。
もう1人の同期とはあまり話さないが、彼も疲れている様子だ。
こういう時、少し考えが悲観的になる。例えば誰かがついたため息が自分に対してのものに聞こえたり、ふとした時に誰かの視線を感じたり。
「風間君、実験の調子はどうだい?」
帰ろうと思って席を立ち上がった時、教授にふと呼び止められた。
「すみません、なかなかきれいなデータがとれなくて。」
「そうか。まあ焦ることはないが、できれば10月の学会には出られるようにしたいねぇ。」
素っ気ない口調で言われ、罪悪感が募る。
「はい。すみません…。」
教授は何も言わずに先ほどまで読んでいた論文に視線を落としたので、俺は頭を下げ、逃げるようにしてその場を後にした。
俺の研究室の教授の話し方は素っ気ない。
いつもなら、それでもあまり気にならないが、今日はなんだか怒られたような気がして、心がさらに沈んでしまった。
薄暗い帰り道、水溜りを避けながらコンクリートを歩いていく。
次第に強まってきた雨が折り畳み傘を打ち、ばらばらと音を立てた。
学校と家を行き来する際に通る道を変えてから、あのDomとは会っていない。
今日みたいな帰りの遅い日に由良さんとすれ違う望みもなくなってしまったけれど。
“できれば10月の学会には出られるようにしたいねぇ”
教授の言葉が脳内で再び再生される。
…これからどうなるんだろう、俺。
単位を取って、実験して、研究報告して、就活して。
大学院まで出してもらったのに、そうやって何も得られないまま修論を書いて卒業するのかな。
「あれ、幹斗君?」
後ろから声をかけられ振り向くと、後ろに由良さんが立っていた。
「由良さん…?」
…うそ、由良さんの通り道じゃないはずなのに…。
驚いて目をぱちぱちとする俺に、由良さんは柔らかく笑って。
「今日は仕事が早く終わったから少し寄り道していたんだ。一緒に帰ろうか。」
凛とした甘い声でそう言った。
奇跡的に彼と出会えたことをうれしく思う一方で、こんなに完璧な人と中途半端な自分では不釣り合いだと感じ苦しくなる。
通り沿いのショーウィンドウに映る、並んで歩く俺と由良さんの姿。由良さんが綺麗に微笑む横で、俺は固く唇を結んでいる。
「幹斗君、何かあった?」
歩きながら、撫でるようにそっと尋ねられた。
「…実は、いろいろ上手くいってなくて…。」
「僕でよければ話を聞くよ。」
「研究がうまく進まなくて、それで後輩も… 」
由良さんに言っても仕方がない。そうわかっているのにぽつぽつと話し始めたら止まらなかった。
「そっか、それは苦しかったでしょう。僕は理系ではないから実験の辛さはわからないけれど、大変なんだね。話してくれてありがとう。ひとまず帰ったらゆっくり休もうか。」
全てを受け入れてくれそうな優しい声が、言葉が、上から降ってくる。
「ありがとうございます。
…なんだか甘えたですみません…。」
話を全て聞いた上で大変さを認めてもらえたこと、休んでいいのだと言われたことで、心がひどく軽くなった。
けれどしっかりと働いてお金を稼いでいる由良さんにこんな甘えた話を聞かせるなんて…、と、後から罪悪感が湧いてくる。
「どうして?幹斗君の話を聞けて僕は嬉しかったよ。」
「…嬉しい?」
「うん。幹斗君が抱え込まないで話してくれることが嬉しいんだ。」
…やっぱりすごいな、と思う。
由良さんはいつも俺が欲しかった以上の言葉をくれる。性格も本当に格好いい。
そう思ったら、急に彼の顔を近くで見たくなった。
夜の闇と傘のせいでよく見えないのがもどかしい。
「一緒に入る?」
「えっ…?」
由良さんに言われ、一瞬その意味がわからなかった。
「傘。幹斗君の顔が見たいな。」
…嘘。俺が見たいって思ってるの、わかっているから言ったんでしょう。
心臓が甘く疼いて痛い。
土砂降りになった雨の中、いたずらっぽく“嫌?”、と言う由良さんの声だけがやけに大きく脳に響く。
俺は俯いたまま傘を閉じ、彼のさす傘の下へそっと入った。
「わっ…!」
躊躇いがちに由良さんの顔を見上げ、見上げた先の光景に驚く。
確か由良さんの傘は彼の髪と同じ黒に近い藍だった。
なのに傘の中には、わたあめのような雲が浮かんだ蒼穹が広がっている。
「きれい…。」
思わず立ち止まってそう言うと、由良さんは愛おしげにぎゅっと目を細め、自分たちを隠すように傘の位置を低くして、俺の唇に彼のそれを重ねた。
…不意打ち、ずるい…。
「最近買ってみたんだ。幹斗君も気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。そろそろもどろうか。」
心底嬉しそうにそう言った彼がいつもより少し幼く見えて、じんわりと心が温かくなる。
気づけば俺たちの住むマンションはとうに過ぎていて、そこで初めて由良さんが俺の話を聞くために必要以上に歩いていたのだと理解した。
「…由良さんって、俺に甘すぎます。」
照れ隠しのために拗ねたように呟くと、
「DomがSubに尽くすのは当然だよ。」
なんて返ってきて。
普通逆だ、と言い返そうとした唇は人差し指で塞がれた。
そのまま手を引かれ、行きすぎた道を今度は戻る。
「そういえば寄り道って…?」
帰宅後そういえばと由良さんに聞いてみると、彼は“ああ”、と思い出したように言いながらビニールに覆われた紙袋を俺に差し出した。
「職場で美味しいって噂になっていて、早く帰れたから並んでみたんだ。好きでしょう?」
袋の中には透明な箱が入っていて、中にラベンダー色、ピンク、クリーム色、チョコレート色の4つのエクレアが並べられている。10cm程度の小さな大きさなので、二人で分ければ食後でもすぐに食べられそうだ。
…こんなことまで俺のためって…。
俺の主人は暴力的に格好いい。格好良すぎて心臓に悪いくらい格好いい。
そしてそんな彼に愛される自分は、本当に幸せだと改めて思った。
研究結果がうまく出ないし、後輩との関係も相変わらずあまり良好ではない。
もう1人の同期とはあまり話さないが、彼も疲れている様子だ。
こういう時、少し考えが悲観的になる。例えば誰かがついたため息が自分に対してのものに聞こえたり、ふとした時に誰かの視線を感じたり。
「風間君、実験の調子はどうだい?」
帰ろうと思って席を立ち上がった時、教授にふと呼び止められた。
「すみません、なかなかきれいなデータがとれなくて。」
「そうか。まあ焦ることはないが、できれば10月の学会には出られるようにしたいねぇ。」
素っ気ない口調で言われ、罪悪感が募る。
「はい。すみません…。」
教授は何も言わずに先ほどまで読んでいた論文に視線を落としたので、俺は頭を下げ、逃げるようにしてその場を後にした。
俺の研究室の教授の話し方は素っ気ない。
いつもなら、それでもあまり気にならないが、今日はなんだか怒られたような気がして、心がさらに沈んでしまった。
薄暗い帰り道、水溜りを避けながらコンクリートを歩いていく。
次第に強まってきた雨が折り畳み傘を打ち、ばらばらと音を立てた。
学校と家を行き来する際に通る道を変えてから、あのDomとは会っていない。
今日みたいな帰りの遅い日に由良さんとすれ違う望みもなくなってしまったけれど。
“できれば10月の学会には出られるようにしたいねぇ”
教授の言葉が脳内で再び再生される。
…これからどうなるんだろう、俺。
単位を取って、実験して、研究報告して、就活して。
大学院まで出してもらったのに、そうやって何も得られないまま修論を書いて卒業するのかな。
「あれ、幹斗君?」
後ろから声をかけられ振り向くと、後ろに由良さんが立っていた。
「由良さん…?」
…うそ、由良さんの通り道じゃないはずなのに…。
驚いて目をぱちぱちとする俺に、由良さんは柔らかく笑って。
「今日は仕事が早く終わったから少し寄り道していたんだ。一緒に帰ろうか。」
凛とした甘い声でそう言った。
奇跡的に彼と出会えたことをうれしく思う一方で、こんなに完璧な人と中途半端な自分では不釣り合いだと感じ苦しくなる。
通り沿いのショーウィンドウに映る、並んで歩く俺と由良さんの姿。由良さんが綺麗に微笑む横で、俺は固く唇を結んでいる。
「幹斗君、何かあった?」
歩きながら、撫でるようにそっと尋ねられた。
「…実は、いろいろ上手くいってなくて…。」
「僕でよければ話を聞くよ。」
「研究がうまく進まなくて、それで後輩も… 」
由良さんに言っても仕方がない。そうわかっているのにぽつぽつと話し始めたら止まらなかった。
「そっか、それは苦しかったでしょう。僕は理系ではないから実験の辛さはわからないけれど、大変なんだね。話してくれてありがとう。ひとまず帰ったらゆっくり休もうか。」
全てを受け入れてくれそうな優しい声が、言葉が、上から降ってくる。
「ありがとうございます。
…なんだか甘えたですみません…。」
話を全て聞いた上で大変さを認めてもらえたこと、休んでいいのだと言われたことで、心がひどく軽くなった。
けれどしっかりと働いてお金を稼いでいる由良さんにこんな甘えた話を聞かせるなんて…、と、後から罪悪感が湧いてくる。
「どうして?幹斗君の話を聞けて僕は嬉しかったよ。」
「…嬉しい?」
「うん。幹斗君が抱え込まないで話してくれることが嬉しいんだ。」
…やっぱりすごいな、と思う。
由良さんはいつも俺が欲しかった以上の言葉をくれる。性格も本当に格好いい。
そう思ったら、急に彼の顔を近くで見たくなった。
夜の闇と傘のせいでよく見えないのがもどかしい。
「一緒に入る?」
「えっ…?」
由良さんに言われ、一瞬その意味がわからなかった。
「傘。幹斗君の顔が見たいな。」
…嘘。俺が見たいって思ってるの、わかっているから言ったんでしょう。
心臓が甘く疼いて痛い。
土砂降りになった雨の中、いたずらっぽく“嫌?”、と言う由良さんの声だけがやけに大きく脳に響く。
俺は俯いたまま傘を閉じ、彼のさす傘の下へそっと入った。
「わっ…!」
躊躇いがちに由良さんの顔を見上げ、見上げた先の光景に驚く。
確か由良さんの傘は彼の髪と同じ黒に近い藍だった。
なのに傘の中には、わたあめのような雲が浮かんだ蒼穹が広がっている。
「きれい…。」
思わず立ち止まってそう言うと、由良さんは愛おしげにぎゅっと目を細め、自分たちを隠すように傘の位置を低くして、俺の唇に彼のそれを重ねた。
…不意打ち、ずるい…。
「最近買ってみたんだ。幹斗君も気に入ってくれたみたいで嬉しいよ。そろそろもどろうか。」
心底嬉しそうにそう言った彼がいつもより少し幼く見えて、じんわりと心が温かくなる。
気づけば俺たちの住むマンションはとうに過ぎていて、そこで初めて由良さんが俺の話を聞くために必要以上に歩いていたのだと理解した。
「…由良さんって、俺に甘すぎます。」
照れ隠しのために拗ねたように呟くと、
「DomがSubに尽くすのは当然だよ。」
なんて返ってきて。
普通逆だ、と言い返そうとした唇は人差し指で塞がれた。
そのまま手を引かれ、行きすぎた道を今度は戻る。
「そういえば寄り道って…?」
帰宅後そういえばと由良さんに聞いてみると、彼は“ああ”、と思い出したように言いながらビニールに覆われた紙袋を俺に差し出した。
「職場で美味しいって噂になっていて、早く帰れたから並んでみたんだ。好きでしょう?」
袋の中には透明な箱が入っていて、中にラベンダー色、ピンク、クリーム色、チョコレート色の4つのエクレアが並べられている。10cm程度の小さな大きさなので、二人で分ければ食後でもすぐに食べられそうだ。
…こんなことまで俺のためって…。
俺の主人は暴力的に格好いい。格好良すぎて心臓に悪いくらい格好いい。
そしてそんな彼に愛される自分は、本当に幸せだと改めて思った。
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