跪くのはあなただけ

沈丁花

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ep36

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「んっ… 」

目を開ければ、隣に寝ている主人の端正な寝顔が目に入る。

彼はいつも通りずっと一葉のことを抱きしめていたようで、一葉の背の下には紅司の片腕が通されていた。

枕元にある時計を手に取り6時であることを確認すると、一葉は主人を起こさないよう細心の注意をはらってベッドから抜け出す。

結局、紅司を撃った犯人はまだ見つかっていない。あまりおおごとにしたくはないという当主の意向から迷宮入りになりつつあるのだ。

正式なパートナーになってからも、一葉の生活は仮のパートナーだった時とさほど変わらない。

3日に一度プレイを行い、それ以外は仕事を手伝ったり、身の回りの世話をしたり。

紅司はプレイの後、アフターケアとしてとびきり甘いキスをしたり、抱きしめて添い寝をする。だから、今日のようにプレイをした次の日は、こうして紅司のベッドから目覚めることが多かった。

…それにしても、だ。

よく狂わないなと、彼を見て一葉は思う。

かれこれ半年以上もの間、彼は愛染家の屋敷内から出ていない。

パートナーがいるのならクラブに行く必要もないのだから、取引先や部下とはスカイプで連絡を取り、一切屋敷外に出るな、との当主からの命令で。

だから、妹の桃香ともあれ以来会うことがかなわず、桃香とも、仕事が忙しいといいながら、スカイプでのみ会話していた。

…離れには使用人が何人か働いているが、彼らは紅司と接触しないように気をつけているため、実質彼が直接会っているのは一葉だけ。

この箱庭のような空間で、じっと息を潜めて、雑務をこなして。

せめてそのことを感じさせないように気丈に振る舞うしか一葉にはできない。

「おはようございます、紅司様。」

「…んっ…

ああ、朝か。おはよう。」

少し気怠げに目をこすりながら、紅司は一葉に身体をもたれかけた。

外は土砂降り。気圧差に弱いのか、こういう日の紅司は目覚めが悪く、着替えも一葉にされるがまま。

寝具を脱がせ、紅司にシャツを着せていく。

外に出ていないから鈍るといって、地下の機械で鍛えている身体は以前よりさらに逞しくなった。

「何か付いているか?」

上から降ってきた声に、はっと我にかえる。ボタンを留めながら紅司の身体に見惚れぼうっとしてしまったのだ。

「…いえ…、申し訳ありません、見惚れておりました。」

「なら鍛えた甲斐があったな。」

くすくすと楽しそうに彼が笑う。

気まずくなった一葉は、慌てて全てのボタンを留めて下も着替えさせた。

でも、こんな顔は久しぶりに見た。彼は一葉を見ていつでも優しく笑うけれど、こんな風に楽しそうな顔をしたのはいつぶりだろう、嬉しくて。

「一葉。」

思わずにやけてしまった一葉の首輪に紅司がそっと人差し指をかけ、一葉の顔を引き寄せた。

鼓膜を震わせた低い声の余韻が残りふわふわした頭で、ゆっくりと彼の顔が近づいてくるのをぼんやりと見つめる。

「んっ… 」

一葉の唇からゆっくりと侵入した、どこまでも優しい紅司の舌。

それが、右の奥歯から順番に、丹念に上の歯列をなぞっていく。

やがて一周し終えると、それは生き物のように一葉の喉の奥まで入り込み、ナカの奥深くを侵した。気道がふさがる感覚だが、それは紛れも無い快感で。

‘プルルルル’

激しい熱を持った交わりを、スマホの着信音が妨げた。一葉のものではなく、紅司のものだ。

構わない、といったそぶりで熱烈なキスを続けようとする紅司をそっと押しのけ、一葉は出るように促した。

…なにか、嫌な予感がする。確信があるわけではないが、胸がざわざわして。

ただの気のせいであってほしい。

そう願いながら、紅司の電話に耳を傾ける。

「妹を預かった。お前のSubにメールした指定場所に、13時半までに2人で来い。

10分以上早くても、1秒以上遅刻しても妹の命はないと思え。もちろん、誰かに口外したり、1人できたり、3人以上できても即アウトだ。」

ひどく、無機質な声だった。…なんの感情も感じられない、淡々と、ただ冷酷な事実だけを告げる。

ぶちっ、と雑に相手の声が途絶えたのと、一葉のスマホにメールが届いたのが同時だった。

「一葉、俺だけでいく。そのメールを転送してほしい。」

冷静に、紅司が一葉に言い放つ。

「嫌です。俺1人で行くか、2人で行くかです。

紅司様が1人で行くと言うのなら、俺は場所を教えません。」

紅司はおそらく一葉に危険が及ぶのを恐れている。でも、2人でいかなければ紅司の妹の命に関わりかねない。

…それに、もうごめんだった。ずっと護られてばっかりいる自分が、本当に情けなくて。

「一葉、pass渡せ. 」

「…嫌、です…。」

commandコマンドを使われ、あっけなく渡してしまいそうになる。しかし一葉はそれをしなかった。

心臓が締め付けられるように痛くて、目眩がする。

それでも差し出しそうになる右手を左手で止め、食い込むほど強く爪を立てた。なんとか意識を保つために。

「…もし、こんなときっ…すらっ…、役に立たないのならっ……!…、俺はっ…、いる意味っ…がっ…、ないっ… 」

悔しくて、涙が溢れた。何がパートナーだ。俺はただ護ってもらうだけなのかと。

…連れて行ったら紅司の足を引っ張る枷となると、紅司に判断されたのかと。

「…悪かった。でも、俺の事情で一葉を危険に晒したくなかった、それだけだ。

付いてきてもらった方が、本当は心強い。…一葉、手を貸してくれ。」

Sure勿論. 」

こんな状況だというのに、紅司は大して取り乱してはいなかった。いつも通り食事をとり、仕事をこなして。

しかしそれは勘違いだと、2人で行く車の中、一葉は理解する。

約束の場所への運転中、一葉の肩に触れた紅司の右手は、確かに震えていたのだ。

…そう、ただ彼は、気丈に振る舞っていただけ。

滝のような雨が車を打ち付けて、視界は驚くほど滲んでいた。

…これほど泣いても、疲れないのだろうか。

昼間の空には、青空が一ミリも見えなかった。
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