跪くのはあなただけ

沈丁花

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ep9

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「ぐっ…ぅっ…、うぅっ…ぅぇぇぇぇっ……!!」

…とめどない吐き気はいくら吐いても襲ってくる。吐くものが胃液しか無くなってもなお、ひどい胸焼けは止まらなかった。

「薬、飲み直さなきゃ… 」

ふらふらとトイレから抜け出して、再び薬の蓋をあける。何かを口に入れたってどうせ吐いてしまうだけだと、水とともに薬だけを流し込んでいく。

抑制剤を飲み続け、副作用による体調不良を隠しながら紅司のそばにいる。

馬鹿みたいに思えるかもしれないが、一葉はこの生活が嫌いじゃない。

紅司が倒れてから仕事の手伝いをするようになり、彼について少しずつ色々なことがわかってきた。

彼は、当主の4人の息子の中で一番若いらしい。しかしそのハンデを覆すほどの努力を重ねたのだろう。当主は彼を跡取りに選んだ。

本当に尊敬に値する人だと、一緒に仕事をしていて思う。

まず、采配が上手い。

どの人材をどこに配置するのか、Skype等でそのことについて話している時、必ずもっともな理由をつけて答える。

そして話し相手の様子から、彼が部下から非常によく慕われていることがわかる。

もともとの量が尋常じゃないため常に仕事に追われているが、作業はかなり速く、また何かを教えるのも上手い。

例えば一葉が何時間もかかるだろうと踏んでいた作業を、1つ2つの簡潔なアドバイスをくれ、30分で終わるようにしてくれたことがあった。

自分に厳しく、他人に優しいところも垣間見え、次第に彼に仕えることを誇りに思うようになってきて。

口端から零れる水をハンカチで拭い、仕事のために部屋を出る。かれこれ1ヶ月、ずっとこんな生活を続けている。

「おはようございます、紅司様。」

洗面器とタオルを渡し、洗顔を済ませてもらってから、着替えを渡し、

彼が身支度をすませる間に、一葉は書斎で簡単な朝食の準備をする。

夜綺麗に片付けたデスクの上に、並べるのは使用人の運んできた和朝食。

書斎に用意するのは、広い食卓での英国式の朝食はやめてほしいと、紅司から指示されたから。

こつこつと足音が聞こえてくる。彼が入って来るタイミングで茶を入れ、一葉はその足音の主に礼をした。

「いただきます。」

一言告げて、彼が食事に手をつけた。彼が何かを求めるまで、一葉は後ろに立ち、空気のように息をひそめる。

「今日は外で用事があるから警護人の手配を頼む。」

脳内で今日のスケジュールを反芻していると、紅司がお茶を飲みながらそう問いかけてきた。

飲むたびに上下する喉仏とわずかに唇についた水滴が、一葉の目にはやけに艶かしく映る。本当に絵になる男だ。

それにしても、珍しい。身の安全のこともあり、愛染家の当主も紅司もほとんど屋敷の外には出ない。よっぽど大事な用なのだろう。

「かしこまりました。どのような要件でしょうか。」

「◯◯社と契約を結びたいんだが、トップが俺に来いと言って聞かなくてな。13時にこの住所へと。12時半にはここを出る。」

「私も同行したほうがよろしいですか?」

「ああ…

いや、俺だけでいい。」

いらない、と言われているようで少し寂しくて、でも、その言葉にホッとする自分がいた。

今日は少し、ゆっくり休もう。

正直こうして今、静かに立っているだけでも辛いのだから。

「では、手配しておきます。」

「よろしく頼む。」

食器を下げ、使用人が洗っている間に一葉は屋敷の警護人と連絡を取った。幸いほとんど手が空いており、そのうち2人をつけてもらうことにする。

食器の手入れと使用人達の見回りを終え、紅司の仕事を少し手伝ってから警護人を連れた彼を送り出して…

休む前に散らかった書斎の机の上を整理しようとよろよろと部屋に戻った段階で、一葉は自らを呪った。

机の上に今日契約先との会談に使うという資料の束が置かれている。そして、差し入れとして用意した洋菓子もまた、一緒に置かれていて。

約束は13時だったか。

外は土砂降り。車で10分の距離だが、ついてから気づいて取りに戻っては間に合わない。

気づいてもらえるだろうか、入れ違いになる確率を下げるために紅司にメールを入れ、一葉は滝のような雨の中、荷物に傘をさしながら自らの車へと急いだ。

ああ、本当に気持ち悪い…頭がいたい…

でも、そんなこと言っていられない。信用なんて梅の花のように一瞬でこぼれてしまうものだ。

責任感からか意識だけはやけにはっきりとしていて、目的地には難なく着くことができた。駐車場には愛染家の車がとまっている。

エントランスへと走る途中、濡れた髪の重みで髪の結びが解けた。

自動ドアに映った自分があまりにびしょ濡れで、滑稽さに思わず笑いたくなる。それでも荷物は濡れていない。

「あの、何かご用ですか…?」

受付の女性が少し驚いた表情で尋ねてくる。この濡れ鼠では当たり前だ。

「こちらに愛染家の者が来ていると存じますが、忘れ物を届けに。緊急なのですぐに渡して欲しいのですが… 」

「かしこまりました。ではお渡ししておきます。」

あ、やばい。

手が触れた瞬間吸い込んだ彼女の強い香水の香に、吐き気がこみ上げてきて反射的に口を押さえる。

「あの、顔色が… 」

吐き気をこらえた結果湧き出た生理的な涙で視界が揺らぐ。荷物を受け取った彼女の心配そうな顔が、次第に靄がかっていった。

「大丈夫ですかっ!?」

彼女が駆け寄ってくれば、香水の匂いはより強くなる。

…だめだこのまま吐いたら…

執事の失態の責任は、主人が負うことになるだろう。

紅司に迷惑はかけられないから、ぐっと指を噛み口に手を押し当てる。

その反動でよろめいた自らの身体を、倒れるなら何もない場所にと一葉は意図的に重心をずらした。

もしあの床に叩きつけられたら痛いだろうな。大した恐怖もなく、やけに冷静にそんなことを考える自分がいて。

ぐらりとよろめいた一葉の身体が、それでも床に叩きつけられることはなかった。

代わりにトスッ、と音を立て、一葉の身体が何か覚えのある香りに包まれる。

瞬時にそれが何なのか理解して、一葉は視線を上へと移動させた。

目の前に移ったのは、心配そうに揺らめく紅司の黒い瞳。

「…忘れ物をお持ちしました。俺なんかに構って立ち止まったら許しませんから…」

戸惑いの表情を浮かべる彼を、睨みつける。

抑制剤のためglareが放たれることはなく、また放たれたとしても彼に効くものではないのだが、それでも気持ちとして、伝わって欲しくて。

「…わかった。

蘭、一葉を頼む。」

「かしこまりました。」

彼が小さく舌打ち、赤い唇を血が出そうなほど強く噛みしめるのが見えた。

それでも紅司はそばにいた警護人の1人に一葉を預け、去っていった。
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