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第二部
突然の別れ③(静留side)
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鼻をくすぐる甘いにおいで静留は目を覚ました。
決して静留にとって不快なものではない、菓子の焼けるときに似たバターのこげた香り。
手探りで隣に寝ているであろう東弥を探し、彼の温もりがないことを不思議に思う。
先に起きてしまったのか、静留がいつもより寝ていたのか。
しかし目を開けた先で入り込んできた風景はいつもと全く違っていて、静留は大きく目を見開いた。
脳裏に悲しい記憶が蘇ってくる。
「おはよう、静留君。」
耳も目も塞いでもう一度無理やり眠ろうと思ったが、それより先に優しく穏やかな声が近くで静留に朝を告げた。
その声の先に、幹斗の姿がある。
「幹斗さん…。」
__そっか、ここは幹斗さんのおうちなんだ…。
昨夜彼は静留を家に連れ帰り、お風呂と夜ご飯を食べさせてくれて、洋服まで貸してくれて。
最初夜ご飯を食べる気力はなかったが、幹斗に“東弥が悲しんでもいいの?”、と尋ねられて口の中に入れた。柔らかい雑炊が心にまでしみて、静留の心を幾分か柔らかくしてたのを、ぼんやりと覚えている。
「東弥のところに行く前に、何かお腹に入れておこうね。食べられる?」
そう言って幹斗はベッドの近くの白いテーブルに平皿を置いた。
上にはフレンチトーストが乗っていて、いい香りがする。
首を横に振りかけて、やめた。これを作った幹斗の優しさを無駄にしてはいけない気がして。
「ありがとう…。」
「どういたしまして。あと、これもどうぞ。」
綺麗な笑みを浮かべながら、幹斗が静留にマグカップを差し出した。
口をつけると程よい温度に温められた甘い飲み物で、レモンのすっきりとした爽やかな香りが後味として鼻から抜けていった。
「おいしい…。」
「よかった。蜂蜜とレモンを溶かしただけなんだけど、おいしいよね。」
「うん。」
床の上のクッションに座り、フレンチトーストを口に含む。
おいしい、と思うと同時に、東弥が苦しんでいる一方でこんなにも幸せな自分に嫌気がさした。
大粒の涙が視界を揺らす。
「…なんでも聞くから、話してみて。誰かに言うと半分軽くなるから。」
いつのまにか隣に来ていた幹斗が静留を後ろから抱きしめながら柔らかな声で言ってくれた。
「あの、ね、…おとこのひとに、けがさせられたの…。ぼくを、うしろにかくして、…まもってくれたから…。
なのに、ぼくは、しあわせにしてて、…けがをしたのが、ぼくだったら、よかったのに、って…。」
つっかえながら途切れ途切れにつむいだから、これだけのことを言うのにとても時間がかかってしまう。
全てを真剣に聴いてくれた幹斗は、自分の目を擦る静留の手をそっと掴んで目から離し、“それはちがうよ”、と静留の目をじっと見つめながら言った。
“それはちがうよ”、の意味がわからず、静留は涙を流しながらゆっくり首を傾げる。
「好きな人が幸せでいることが、一番の幸せなんだ。だから東弥は静留君を守ることができて嬉しいし、悲しんだり苦しむより笑っていてくれた方が嬉しい。そんな奴だよ。」
「ぼくがしあわせなのが、うれしい…?」
「うん。そうだよ。だから泣かないで。」
東弥が苦しいのに自分だけ幸せなのは苦しい。でも幸せでいることが東弥の幸せなら、それは…?
ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか涙は止まっていた。
幹斗と一緒に電車で病院に行っても、まだ東弥は目を瞑ったままだった。
その白い手に、静留はそれよりさらに白い自分の手を重ねる。
「大丈夫だよ。たくさん血が出ちゃって、身体がびっくりしただけだから。」
幹斗は時折静留に優しい言葉をかけながら隣で本を読んでいたが、しばらくして立ち上がった。
「少しお手洗いに行くけど、待ってられる?一緒に来る?」
「待ってられる!」
「わかった。じゃあ少し行ってくるね。」
幹斗が行ってしまうと、病室に東弥と2人きりになる。
「東弥さん、くるしくない…?」
問いかけても当然返事はない。
以前東弥が、“静留のピアノを聴いたら元気になるかもね”、と言ってくれたことがあった。
ここにピアノがあったら試してみたい。それで東弥が起きるとも思えないけれど。
また涙があふれそうになって、静留はそれを必死で堪えた。
静留が泣いたら東弥も悲しいかもしれないと思って。
“とんとん”、ノックの音が鳴った。
幹斗が何か忘れ物を取りに来たのかもしれない。
静留が何かを答える前に、すぐにガラリとドアが開く。
ノックと1秒の差もなかった。
「…ああ、まだ目を覚さないままなのね。一体何があったのかしら。早く起きなさい。もう身体には何もないはずよ。」
長身の女性が突然入ってきて、東弥を見るなりその身体を大きく揺する。
静留はどうくればいいのかわからず固まってしまった。怖い。
「…あなた、だれ?」
ふと、静留の存在に気がついたのか彼女がこちらを向く。
静留は初めその睨むような目つきにびくりと肩を跳ねさせた。
「あなた、東弥との関係は?」
高圧的に訊ねられ、静留は怯えながら考える。
自分と東弥との関係は、どう説明すればいいのだろうか。
一緒に住んでいる。一緒にプレイをする。お互いに好きで、キスもする。
付き合っている、そうだ。その言葉が正しい。
「つきあってます。」
消え入るような声でそういうと、彼女は一瞬驚くようなそぶりを見せた後声高く笑いはじめた。
「出て行きなさい。ここから、今すぐに。」
突然手を掴まれ、病室の外へと強い力で引っ張られた。
「あの、どうして…」
怖かったけれど、出て行けと言われた理由がわからなくて、ドアを開けられたところでせめてそうたずねる。
だって東弥と離れたくない。
「あら、言ってなかったわね。東弥の母です。あなたは男の子だから子どもができることもないし、見たところcollarもつけてない。
ならちょっと遊ばれたのを勘違いしただけでしょう。ほら、あなたのためにもならないわ。分かったら帰りなさい。」
半ば突き飛ばすようにしてドアの外に放り出される。
そのまま勢いで壁に背中が叩きつけられ、静留は呻き声を漏らした。
吐き捨てるように言われた言葉。
collarをしていない、子供ができない。遊ばれただけ。
内容のほとんどを理解することができなかったけれど、東弥のお母さんに東弥とつきあってはいけないと言われたことだけは理解した。
彼と一緒にいられないのならば、静留はこの先どうやって生きていけばいいのだろう。
今まで誰かに従うことで生きてきた静留にとって、いつも静留を大切にしてくれる東弥の、そのさらに母親の言うこととくれば、それはもう絶対に等しいことだった。
ここは7階。窓の外に目をやると、地面のコンクリートは遥か遠くに見える。
半ば無意識に窓を開け、窓の外に手を伸ばす。
風が冷たい。
いっそ、この風に溶けてしまえたなら。
そんなことを思っていたとき、突然後ろから抱きしめられた。
振り返ればそこに幹斗の姿がある。
彼は悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。
「…何があったか教えて。」
静かな、けれど芯の通った声で言われ、静留はじっと彼の瞳を見る。
「…東弥さんのおかあさんに、collarをしてない?子供ができない?あそばれた?って、言われて、…もう、つきあっちゃだめって…。」
「そう。それでここから飛び降りようとしたの?」
今度は冷たい声だった。
飛び降りようとしたという明確な意思はなかったけれど、結果的に幹斗が来なければ静留はここから飛び降りていたのかもしれない。
うなずいた静留の前で、幹斗は苦しげに微笑む。
「確かにそれについて説明しなかったのについて、東弥にも落ち度があると思う。でも、静留君の選択は絶対にしちゃいけないことだよ。
東弥は静留君のことを、きっとそれに危険が伴うってわかってて守った。東弥は静留君を守るために怪我したのに、それで結果的に静留君がいなくなったら東弥の気持ちはどこに行くの?」
静留ははっとした。
こんなことすら誰かに言われるまで気づかない自分は、救いようのない愚か者なのだろう。
「ごめん、なさい…。たいせつにする…。」
静留は自分を大切にしなくてはならない。たとえ東弥と一緒にいられないとしても、東弥が命懸けで守ってくれたのだから。
また涙が溢れてきた。
正面から幹斗が抱きしめてくれる。
「うん。そうだよ。…それだけわかってくれればいいんだ。いきなり東弥のお母さんにそんなこと言われて辛かったよね。俺も強く言ってごめんね。」
宥めるような優しい声で紡がれた言葉に、静留は泣きながら何度も首を横に振った。
幹斗は悪くない。
怒るのではなく、叱ってくれのだ。静留のために。
「俺の家に戻ろう。東弥は、目覚めたら必ず俺に連絡をくれるはずだから。」
静留は素直に頷き、幹斗から差し出された手を握る。
来た道を戻る、それだけなのに、重りがついたみたいに身体が重かった。
決して静留にとって不快なものではない、菓子の焼けるときに似たバターのこげた香り。
手探りで隣に寝ているであろう東弥を探し、彼の温もりがないことを不思議に思う。
先に起きてしまったのか、静留がいつもより寝ていたのか。
しかし目を開けた先で入り込んできた風景はいつもと全く違っていて、静留は大きく目を見開いた。
脳裏に悲しい記憶が蘇ってくる。
「おはよう、静留君。」
耳も目も塞いでもう一度無理やり眠ろうと思ったが、それより先に優しく穏やかな声が近くで静留に朝を告げた。
その声の先に、幹斗の姿がある。
「幹斗さん…。」
__そっか、ここは幹斗さんのおうちなんだ…。
昨夜彼は静留を家に連れ帰り、お風呂と夜ご飯を食べさせてくれて、洋服まで貸してくれて。
最初夜ご飯を食べる気力はなかったが、幹斗に“東弥が悲しんでもいいの?”、と尋ねられて口の中に入れた。柔らかい雑炊が心にまでしみて、静留の心を幾分か柔らかくしてたのを、ぼんやりと覚えている。
「東弥のところに行く前に、何かお腹に入れておこうね。食べられる?」
そう言って幹斗はベッドの近くの白いテーブルに平皿を置いた。
上にはフレンチトーストが乗っていて、いい香りがする。
首を横に振りかけて、やめた。これを作った幹斗の優しさを無駄にしてはいけない気がして。
「ありがとう…。」
「どういたしまして。あと、これもどうぞ。」
綺麗な笑みを浮かべながら、幹斗が静留にマグカップを差し出した。
口をつけると程よい温度に温められた甘い飲み物で、レモンのすっきりとした爽やかな香りが後味として鼻から抜けていった。
「おいしい…。」
「よかった。蜂蜜とレモンを溶かしただけなんだけど、おいしいよね。」
「うん。」
床の上のクッションに座り、フレンチトーストを口に含む。
おいしい、と思うと同時に、東弥が苦しんでいる一方でこんなにも幸せな自分に嫌気がさした。
大粒の涙が視界を揺らす。
「…なんでも聞くから、話してみて。誰かに言うと半分軽くなるから。」
いつのまにか隣に来ていた幹斗が静留を後ろから抱きしめながら柔らかな声で言ってくれた。
「あの、ね、…おとこのひとに、けがさせられたの…。ぼくを、うしろにかくして、…まもってくれたから…。
なのに、ぼくは、しあわせにしてて、…けがをしたのが、ぼくだったら、よかったのに、って…。」
つっかえながら途切れ途切れにつむいだから、これだけのことを言うのにとても時間がかかってしまう。
全てを真剣に聴いてくれた幹斗は、自分の目を擦る静留の手をそっと掴んで目から離し、“それはちがうよ”、と静留の目をじっと見つめながら言った。
“それはちがうよ”、の意味がわからず、静留は涙を流しながらゆっくり首を傾げる。
「好きな人が幸せでいることが、一番の幸せなんだ。だから東弥は静留君を守ることができて嬉しいし、悲しんだり苦しむより笑っていてくれた方が嬉しい。そんな奴だよ。」
「ぼくがしあわせなのが、うれしい…?」
「うん。そうだよ。だから泣かないで。」
東弥が苦しいのに自分だけ幸せなのは苦しい。でも幸せでいることが東弥の幸せなら、それは…?
ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか涙は止まっていた。
幹斗と一緒に電車で病院に行っても、まだ東弥は目を瞑ったままだった。
その白い手に、静留はそれよりさらに白い自分の手を重ねる。
「大丈夫だよ。たくさん血が出ちゃって、身体がびっくりしただけだから。」
幹斗は時折静留に優しい言葉をかけながら隣で本を読んでいたが、しばらくして立ち上がった。
「少しお手洗いに行くけど、待ってられる?一緒に来る?」
「待ってられる!」
「わかった。じゃあ少し行ってくるね。」
幹斗が行ってしまうと、病室に東弥と2人きりになる。
「東弥さん、くるしくない…?」
問いかけても当然返事はない。
以前東弥が、“静留のピアノを聴いたら元気になるかもね”、と言ってくれたことがあった。
ここにピアノがあったら試してみたい。それで東弥が起きるとも思えないけれど。
また涙があふれそうになって、静留はそれを必死で堪えた。
静留が泣いたら東弥も悲しいかもしれないと思って。
“とんとん”、ノックの音が鳴った。
幹斗が何か忘れ物を取りに来たのかもしれない。
静留が何かを答える前に、すぐにガラリとドアが開く。
ノックと1秒の差もなかった。
「…ああ、まだ目を覚さないままなのね。一体何があったのかしら。早く起きなさい。もう身体には何もないはずよ。」
長身の女性が突然入ってきて、東弥を見るなりその身体を大きく揺する。
静留はどうくればいいのかわからず固まってしまった。怖い。
「…あなた、だれ?」
ふと、静留の存在に気がついたのか彼女がこちらを向く。
静留は初めその睨むような目つきにびくりと肩を跳ねさせた。
「あなた、東弥との関係は?」
高圧的に訊ねられ、静留は怯えながら考える。
自分と東弥との関係は、どう説明すればいいのだろうか。
一緒に住んでいる。一緒にプレイをする。お互いに好きで、キスもする。
付き合っている、そうだ。その言葉が正しい。
「つきあってます。」
消え入るような声でそういうと、彼女は一瞬驚くようなそぶりを見せた後声高く笑いはじめた。
「出て行きなさい。ここから、今すぐに。」
突然手を掴まれ、病室の外へと強い力で引っ張られた。
「あの、どうして…」
怖かったけれど、出て行けと言われた理由がわからなくて、ドアを開けられたところでせめてそうたずねる。
だって東弥と離れたくない。
「あら、言ってなかったわね。東弥の母です。あなたは男の子だから子どもができることもないし、見たところcollarもつけてない。
ならちょっと遊ばれたのを勘違いしただけでしょう。ほら、あなたのためにもならないわ。分かったら帰りなさい。」
半ば突き飛ばすようにしてドアの外に放り出される。
そのまま勢いで壁に背中が叩きつけられ、静留は呻き声を漏らした。
吐き捨てるように言われた言葉。
collarをしていない、子供ができない。遊ばれただけ。
内容のほとんどを理解することができなかったけれど、東弥のお母さんに東弥とつきあってはいけないと言われたことだけは理解した。
彼と一緒にいられないのならば、静留はこの先どうやって生きていけばいいのだろう。
今まで誰かに従うことで生きてきた静留にとって、いつも静留を大切にしてくれる東弥の、そのさらに母親の言うこととくれば、それはもう絶対に等しいことだった。
ここは7階。窓の外に目をやると、地面のコンクリートは遥か遠くに見える。
半ば無意識に窓を開け、窓の外に手を伸ばす。
風が冷たい。
いっそ、この風に溶けてしまえたなら。
そんなことを思っていたとき、突然後ろから抱きしめられた。
振り返ればそこに幹斗の姿がある。
彼は悲しんでいるようにも、怒っているようにも見えた。
「…何があったか教えて。」
静かな、けれど芯の通った声で言われ、静留はじっと彼の瞳を見る。
「…東弥さんのおかあさんに、collarをしてない?子供ができない?あそばれた?って、言われて、…もう、つきあっちゃだめって…。」
「そう。それでここから飛び降りようとしたの?」
今度は冷たい声だった。
飛び降りようとしたという明確な意思はなかったけれど、結果的に幹斗が来なければ静留はここから飛び降りていたのかもしれない。
うなずいた静留の前で、幹斗は苦しげに微笑む。
「確かにそれについて説明しなかったのについて、東弥にも落ち度があると思う。でも、静留君の選択は絶対にしちゃいけないことだよ。
東弥は静留君のことを、きっとそれに危険が伴うってわかってて守った。東弥は静留君を守るために怪我したのに、それで結果的に静留君がいなくなったら東弥の気持ちはどこに行くの?」
静留ははっとした。
こんなことすら誰かに言われるまで気づかない自分は、救いようのない愚か者なのだろう。
「ごめん、なさい…。たいせつにする…。」
静留は自分を大切にしなくてはならない。たとえ東弥と一緒にいられないとしても、東弥が命懸けで守ってくれたのだから。
また涙が溢れてきた。
正面から幹斗が抱きしめてくれる。
「うん。そうだよ。…それだけわかってくれればいいんだ。いきなり東弥のお母さんにそんなこと言われて辛かったよね。俺も強く言ってごめんね。」
宥めるような優しい声で紡がれた言葉に、静留は泣きながら何度も首を横に振った。
幹斗は悪くない。
怒るのではなく、叱ってくれのだ。静留のために。
「俺の家に戻ろう。東弥は、目覚めたら必ず俺に連絡をくれるはずだから。」
静留は素直に頷き、幹斗から差し出された手を握る。
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