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前文(Prologue)

前文

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 ひどく寒い夜のこと、はらりと雪が降っており、外には誰もいなかった。
 慶尚南道釜山にある住宅街はしんしんと寝静まっており、街灯はほんのりと灯っていたが、高霊氏朴姸兒の住まう、赤い煉瓦造りの家もまた闇の中にあった。
 この西洋風の玄関から入って10時の方向に木造の階段が見え、ここから2階にあがると、あおぐらい廊下が右手のほうに続いており、彼女が寝ている部屋はその奥にある。この廊下の床にも、部屋の入り口や床にも、欅木の板を使っているようで、彼女の部屋は南北に2間と3尺余り、東西に2間弱ほど伸びており、茶褐色のフローリングを白い壁と天井で上から覆っているような構造をしている。机や本棚を見ると、世界あまねく食文化に関する本が多い。
 去年まで5つ上の兄・髭面の大賢が使っていたが、彼が大学卒業後、首爾に行ってしまったので、彼女の大学進学と同時に貰うことになったらしく、床に白い傷があるのは引っ越しの際についたものだ。
 窓際にある寝台の上で寝息を立てている女の子が姸兒である。
 静謐な闇夜に寝返りを打つ。その童顔は母・猫目の金美淑から譲り受けたものらしい。つるっとした卵のような輪郭はぶ厚い布団に包まれて、頬はほんのりと赤く染まっている。もちもちしていて柔らかい。黒い髪は短くばっしりと揃えられている。
姸兒の寝顔はひとつの陶芸であり、広がる髪はひとつの芸術だった。
 姸兒の口からすぅっと涎が垂れる。

 ぱすっと命を止める音がした。ぎゅっぎゅっと細長い金具を出し入れして、すばやく魚の脊髄を破壊する。
 広い青空の下、広い草原の真ん中で、姸兒はトッポギを食べていた。目の前には板前の恰好をした少女が眉を顰めつつ、まな板に横たわる夏魚の胸びれにすっと包丁を入れ、ごきゅりと中骨を切断し、そのまま身を裏返して頭をぱっぱと切り落とす。
 姸兒は膝を立てて座し、その手際のよさに感心する。ぬくもり溢れる草原の上で身体全体が包まれたように温かい。
 しばらくして、板前はゆるんだように微笑んで、「お客さん、できたよ」とスタッカートがかかっているように姸兒を呼ぶ。
 金の縁で飾った皿を姸兒の前に置いて、その上に切り干し大根をさっさと添えて、刺身をたんまり盛り付ける。姸兒は体をもっと前に倒し、お皿の中を覗きこむ。
 破顔、海に夕焼けが差したようにサーモンの表面が輝いている。
 「醤油はありますか?」と姸兒が投げた質問に板前は「醤油はございません、辛味噌に漬けるとおいしいですよ」と丁寧に答え、味噌の入った壺を姸兒の前に置く。姸兒はその返事にいささか驚いたが、その後ころっと納得したようで、銀製の細長いフォークを握ると、「たぁんと召し上がれ」と乙女が言う。そのまま辛味噌にたっぷり漬けて頬張った。
 彼女は布団の中でとびっきりの笑顔を見せてまた、すやりと寝息を立てた。彼女の幅広の鼻がより膨らむ。
 乾いた行芝をたしかに踏む音がした。姸兒の背後に何かがいるらしい。姸兒が振り返ると、つゆも見知らぬ男が大地に立っていた。その男が誰だか分からない。儒学者のような衣服に身を包みつつも、中東人のように掘りが深く褐色の肌をしており、波打つ長い髪がビロードのように美しかった。初老ほどの彼は2頭の牛を左右に引き連れており、その頭の後ろには天使の輪のごとく展開される光があって、姸兒は自然と自分が教会の中にいるような気分になった。気温が下がり、それにつれて周囲が暗くなる―しかし、秋の昼のように涼しいし、日の光はいぜんとして灯されている。ゆっくりと胡坐を解いて、そのままくるりと体を曲げて立ち上がる。
 自分の重みを感じる―久しぶりの感覚なのだ。
 すぐさま、かくんと両膝を曲げ、当然のように膝小僧を地につけ、指を組んで祈る。湿り気のある土はひんやりと柔らかいとはいうものの、膝が大地の反発を受け、じんわりと痛い。それでも姸兒はその男に跪かなければならなかった。
 10拍ほどの沈黙を断って厳かな男が口を開き、2頭の牛が行芝をはみだした。

人、魂なりと見ゆ
魂、道なりと見ゆ
道、神なりと見ゆ
古人曰く、道は一つ、賢者はそをさまざまに呼びなす、と
人、神と我とは違ふものなりと信ず
そは誤りなり
我は神なり
汝も神
善人、悪人いづれも神
畜生、木石だに神
況んや世界をや、宇宙をや
あぁ、我が内にぞ神ある
汝の内にこそ神あれ
ああ、汝が汝の神と倶にあらむことは
汝が汝の神なるは理なり

 彼の仰せはいにしえの言の葉で拵えられていた。とうぜん、71年生まれ、朴姸兒にはすこしも理解できなかった。
 彼は姸兒の表情に気が付いたのか、慌てて「私は先ほどこのように語ったのだ」と述べ、咳払いをひとつ置く。
 「人類は神と自分自身とは異なるものである、と信じているが、それは間違いで、人は魂であり、魂は道であり、道は神である、と考えざるをえない。昔の人は『道はひとつだが、賢者はその道をさまざまな名前で呼んできたのだ』と言ったことはその証左である」と大河のごとくよどみなく話した。
はぁ、と姸兒は要領が得られないといった顔をした。それでも言葉の運河は続く。
 「私は神だ、君も神だ、善人も悪人もすべからく神だ、動物、植物、はてに石さえ神なのだ。もちろん、世界も宇宙も神だ。そして、私の中に神がおり、君の中に神がいる、君が君の神と一緒にいることは、君が君の神であることは当然のことなのだ」
 人と人とが織り成す結果としての命運というものがこの世の流れの中にあるのだ、と付け加えると、男は眉間に皺寄せながら、しししと笑った。姸兒の祖母は聡明の尹玟卿というが、男の笑うその様子はまさに、かの玟卿のようである―いや、よく見ると、その他のところもも尹玟卿女史に似ているかもしれない―目元の皺の様子なんかもそっくりだ。彼は傍らにいる牛の後頭部をそれぞれ軽く叩くと、2頭の牛は草を食むのをやめて姸兒を凝視するようになった。
 姸兒は男がやむごとなき御方であるとようやく頭で理解した。高貴な男は語る。
「姸兒や姸兒、君に神託を授けよう」
 草原がさらさらと音を立てて歓喜する。姸兒の前髪はふわりと上がる。男の声が高くなり、女のそれになっていく、玟卿の顔に化けていく…すでにこの世にいないのに、あの抑圧的な表情になっていく。
「今、青き獣たちが神への嘆願の末、人となり、狂戦士となって、大罪の剣を以て世界を征服しようとしている」
 女は高らかに叫び、
「8人の猫が神の使徒としてこれに対抗するが、神の定めたる運命はゆめゆめ変えられぬ。1999年の7月6日、天上にて必ずや剣に貫かれ、猫たちはことごとく死ぬ」
となんの躊躇もなく予言を言い放つ。
「しかし、8人の猫すべてがこの地上に人間として生まれ変わるであろう」
 姸兒にとって彼の話の中に出てくる『狂戦士』だとか、『8人の猫』だとか、そんな言葉たちが自分に馴染みのない暗号とか記号とかの類に聞こえて、なんの話か微塵も分からなかった。
「汝に息子を授ける。喜べ、縁起が良い。8人が猫の1人、白猫―これに侍る竜である」
 玟卿はそう言うと、2頭のうち右方の1頭のお尻を叩いた。牛が駆けだして、姸兒の下腹部に体当たりした・・・・・・姸兒が驚いたかと思えば、牛はどこかに消えた。姸兒は周囲を見渡し、牛の居所を探そうとしたが、お腹の内側で蹴られる感触があった。
「汝の兄、大賢は娘を授かる。これは8人が猫の1人、虎猫である」
 ごうっ、ごうっ、と風が吹き出し、次第に強くなる。
「汝は今すぐに博多に行け、運命が動き出す」
 姸兒は大学を卒業したら東京に飛ぼうと思っていた。そのため、
「私は日本に飛んでいくつもりではありますが、博多ではなく、東京に行きたいので・・・・・・」
と、ここまで言っておいて、少し考える、博多には豚骨拉麺があったのではないか、と。姸兒はこれも運命だろうと思って、博多に行くことに決めた。

 夢はその瞬間、途切れてしまった。姸兒は起床後、父・敬虔の英数と母・美淑とに夢のあらましを語ると、英数は姸兒に休学していますぐ博多に行くように言った。釜山から東京へ行くよりも、釜山に近い博多に行く方が安心だろう、という判断がいくぶんか働いたのかもしれないが、神の思し召しだから、という理由が大きかった。姸兒の祖父・禿がしらの壽根は博多と東京との違いが分からず、結局、姸兒は日本に行くのだ、とだけしか理解できなかった。このことから、姸兒は「雪の預言者」と呼ばれるようになる。


 物語はこれより始まった。

読み方
・慶尚南道釜山 キョサンナムド・プサン
・朴姸兒 パク=ヨナ
・大賢 デヒョン
・首爾 ソウル
・金美淑 キム=ミスク
・尹玟卿 ユン=ミンギョ
・英数 ヨンス
・壽根 スグン
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