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第二十三章 一番星
一番星
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穏やかな時が流れていた。夢中になって砂をかき集めて、顔や腕や足に付いた砂なんて気にも止めずにはしゃいでいた。
夕陽が空を橙色に染め始める。砂浜に座ったまま、あたし達は並んで沈みゆく夕陽を眺めていた。
「あ、そう言えば、お土産」
突然、光夜くんが思い出したように言って立ち上がると、少し離れた場所に置いていた鞄から袋を取り出して持ってきた。
「……ごめん、急いで買ったから、二人で分けて」
そう言って、あたしと春一の真ん中で申し訳なさそうに眉を下げて、袋の中からお土産を取り出した。
「お、これ美味いよな」
すぐに手を伸ばして春一が受け取ると、「ありがとう」とお礼を言う。
あたしも「ありがとう」と言って、春一の手元を見ると、ジャガイモのポテトスナック。確かに、美味しいやつだ。と、定番のお土産に嬉しくなる。
すぐに、千冬の前に移動した光夜くんは、膝を抱えて小さく座って見上げてくる千冬に、微笑んだ。
「千冬には、約束してたこれ」
袋の中から、さらに紙袋が出てくる。
千冬が受け取ると、光夜くんは千冬の隣に座った。
「開けてみて、いい?」
「うん」
確か、千冬が光夜くんにお願いしていたお土産は、ラベンダーだったはず。あたしは病室で光夜くんが北海道に行く前に千冬がお願いしていたことを思い出す。
ゆっくり丁寧に袋の封を開ける。
覗き込んだ千冬の瞳が、こちらからでも煌めいたように感じた。
「……かわいい」
取り出した千冬の手元には、細い瓶。中にはラベンダーのドライフラワーとポプリが入っていた。
「お土産どうしようか悩んでた時にサイトで見つけてさ、千冬に絶対これあげたいって思って。アゲハさんには迷惑かけちゃったけど……気に入った?」
千冬の為に、千冬に喜んでもらいたくて、きっと、光夜くんはそう思いながら、北海道での一週間を過ごしてきたんだろう。
夕陽がちょうどよく二人を照らす。千冬の目が潤んでいるように見えて、光夜くんの千冬への想いの強さに、あたしまでじんわりと目元が熱くなった。
「……ありがとう、光夜くん。嬉しい、とっても気に入ったよ」
「そっか、良かった」
ホッとしたような表情をして、光夜くんは笑っていた。
「ちょー、と……飲み物でも買ってこようかな。ほら、なずなも付き合って」
「え、あ、うん」
スッと立ち上がった春一が、わざとらしく言うから、二人がいい雰囲気になったことに、邪魔をしてはいけないと離れようとしているのがわかった。あたしもすぐに立ち上がって、春一について行く。
千冬が一瞬驚いた顔をしていたけれど、あたしが小さく手を振ると、困ったように、だけど、照れ笑いをして嬉しそうに頷いてくれた。
ゆっくり歩きながら二人から距離を取る。
海辺に並んだシルエットを眺めていると、春一が足を止めた。
「千冬、今、幸せかな?」
「……うん、きっと」
「まだ、不安かな?」
「……うん、それも、きっと」
寄り添うように千冬の体が光夜くんにもたれかかるのを見て、ずっと二人がそうしていられたらいいのにと、願ってしまう。
千冬の未来が、このまま終わってしまうことなくずっと、続いたら良いのにと、願ってしまう。
星に願いをかけたら、叶えてくれるのかな?
見上げた空は、まだ陽が落ちる前で星は見えない。
夕空が、やがて、夜を連れてくる。
あたしの願いを叶えてくれる星が輝く前に、千冬は──
「春一ぃ!! なずなぁーー!!」
静かな海に、突然響く光夜くんの声。
体が震えて反応した瞬間、春一がすぐ横を走って行くのが視界に入った。
とても、とても、スローモーションに見えた。
「千冬!? なぁ、千冬っ!!」
足が上手く動かせない。千冬の名前を叫ぶ光夜くんの悲痛な声が響き続ける。
「なずな! 千冬の親に連絡して! 早く!!」
春一の怒鳴るような声まで響き渡る。
ようやく、震えが止まらない手で、スマホをポケットから取り出して、何度も、何度も、表示を開き間違えては、あたしは千冬のお父さんの番号を見つけ出して電話をかけた。
もう、何が起きたのかなんて、分からなかった。
ただ、怖かった。
現実が、千冬の病気が、残り一ヶ月と宣告された余命が、全部。
全部嘘だったら良いと思っていた、少し前の自分に、戻りたかった。
叶うのならと、願いをかける前に、時間が止まれば良いのにと思いたかった。
千冬のお父さんに繋がった電話に、あたしは上手く答えられていただろうか? 知らない間に通話は終了していて、遠く、救急車のサイレンの音が聞こえ始めて、目の前では千冬の名前を呼び続ける光夜くんと春一がいて。
これは、現実なのかと受け止めるのに、酷く時間がかかった。
担架に載せられて運ばれていく千冬に、ようやくあたしは声を発することができた。
「千冬っ!!」
追いかけることもできずに、ただ、立ち尽くす。
夕暮れが静かに、ゆっくりとやってくる。聞こえてくるのは、海が運ぶ波の音。誰もいない砂浜に、三角の大きな砂の城がポツンと置き去りにされていた。
寄せては返す波に、徐々に攫われていく姿を眺めていたら、どうしたって、目の前の海も、波も、空も、全部。もう、全部、ゆらゆらと揺らめいてしまって、戻れないと知った瞬間に、あたしは声をあげて泣いていた。
遠く、そんなあたしを見守るみたいに、夕焼けと夜の狭間で、空に輝く一番星が現れる。
願いを叶える為に現れて欲しかった。
叶わない願いは、もう口にしたって、叶わない。
その日千冬は、一番星になった──
*
「あたしの夢はね、一番星になること」
「え? なんだよそれ。小学校の時の夢はお嫁さんじゃなかった?」
「うーん、それはもう……叶わなそうだからさ。だから、あたしはキラキラ輝く一番星になりたい」
「一番星……かぁ」
千冬と二人きりしかこの世に居ないんじゃないかと思うくらいに静かだった。夕陽が海に半分呑まれていくのを眺めながら、徐々に夜に変わっていく海を見つめた。
千冬とこのままずっと、時が止まってただただひたすらに、海を眺めていられたら良いのにと、本気で願ってしまう。
そんな俺の願いとは裏腹に、夕陽は沈むことをやめてはくれない。
陽の光がもうじき無くなる直前、千冬が首元のビーズのネックレスをそっと握りしめた。ラベンダーのガラス瓶の匂いを嗅いで、息を吸っては吐いてを、小さく繰り返す。
「ずっと、見守っているからね、光夜くんのこと。なずなちゃんや、春一くんのこと。だからね、もう、心配しないでね、あたしは、広い空でみんなのこと、見守っているから」
徐々に弱々しくなる声色に、不安になる。
「……なんか、最後の別れみたいなこと言うなよ。まだまだやりたいことやりきってないだろ? 俺、千冬にもっと見せたい景色があるんだよ。北海道の写真も戻ったら見せるからな、今日の写真だって……千冬……?」
「あたしね……幸せだったよ……ありがとう……」
「千冬? え? なぁ、千冬?」
細くて軽くて、さっきまでは飛んで行ってしまいそうだと思うくらいに弱々しい千冬に心配していたけれど、肩に、腕に寄りかかる千冬の重みが俺に全てを預けているように、重たく感じた。
それなのに、静かな海に、さっきまで弾むように聞こえていた言葉も、吐息も、ラベンダーを嗅ぐ呼吸も感じない。千冬の全てが無くなったように静まり返るから、一気に怖くなった。
千冬の身体は全身の力が抜けてしまったように、砂浜目掛けて倒れ込もうとするから、必死に抱き止めた。暗がりで顔色がよくわからないけれど、穏やかに微笑む千冬の顔に、一気に感情が湧き上がる。溢れ出てくる涙と共に、春一を、なずなを、助けを求めて叫んでいた。
千冬が亡くなってから数日後、光夜くんが千冬と最期に二人きりで話したあの日の海でのことを、話してくれた。
千冬は幸せだったんだ。それだけは確かなことを知って、あたしは潤んでくる目元を静かに拭った。
── 一年後
『星と花』
著者・ハルイチ 装丁イラスト ・ナズナ
【僕たちが出逢ったのは、僕たちが出逢えたのは、かけがえのない大切な宝物で、キラキラと輝く“奇跡”なんじゃないかなって、思うんだ。】
書店入り口付近に大きく飾られたハルイチの新刊。表紙には、あたしが描かせてもらった千冬、あたし、光夜くん、春一の後ろ姿と夕陽のグラデーションが海に映るイラスト。
あれから、あたしは街中マーメイドのオープン初日を手伝いながら、由花さんに地元に帰ることを伝えた。もう、あたしには東京にいる理由がなくなったから。バイトの募集は常にしていたようで、あたしが居なくなっても「大丈夫だから安心して」と言ってもらえた。
少し寂しかったけれど、由花さんが「海沿いマーメイドにいつでも遊びにきてね。バイト探すなら紹介するからね」と言ってくれた。
春一は無事に千冬の恋愛小説を書き上げて、ひと足先に東京を離れた。広海さんとの思い出のあるマンションを出る時には、スッキリした気分だと笑って言っていた。
きっと、春一はまたハルイチとしてこの先も、小説を書き続けるんだろうと思った。
帰る前に姉に電話を入れる。意外にもワンコールで出てくれたことに驚いた。
「あたしね、一回実家に戻ろうかと思うんだけど」
『ああ、それはいいかも。お母さん待ってると思うよ?』
「え……?」
『ずっとなずなのこと気にしてたから。お母さんさ、まだ新しい恋人と別居したままなんだよ?』
「……え!?」
姉に帰る報告をしながら実家の話になると、思わぬことを聞いてしまって、あたしは驚いた。
「もしかして、あたしが離婚を反対したから?」
『うーん、まぁ、なずなが反対したからってよりは、認めてもらえなかったからって言った方が良いのかな。やっぱり、娘には再婚相手のこと認めてほしいんじゃない? あたしは良いと思うよ、あの新しい人。あたしと八つしか年が違わないのがめちゃくちゃ引いたけどね』
ケラケラと笑う姉の声に、あたしは呆然としてしまう。母よ、そんな若い人をどうやって新しい恋人に? なんだかよく分からない。
『まぁさ、愛はあるから良いんじゃない? 年齢とか関係ないよ。そばにいてほしいかどうかじゃん? あ、ごめん、撮影始まるからまたね!』
「あ、うん。忙しいのにありがとう」
忙しなく通話が終了する。
そばにいてほしいかどうか。か。
頭の中に、春一の顔が浮かんで、すぐに首を振った。
あたしは書店に足を踏み入れて、ハルイチの本を手に取る。迷わずにレジへ行き書籍を購入すると、書店から出て秋晴れの空を仰いだ。
風がひんやりと冷たくなった。
もうすぐ、冬が来る。
千冬が見ていた東京の冬は、どんなだったのかな。
今は、もう聞けなくなってしまったけれど、きっと千冬なら、「雪だるま作りたいなー」なんて、たまに降るわずかな雪を眺めながら言っていたのかもしれない。
千冬の物語は、ハルイチが書き続ける限り、永遠に繋がれていくよ。
あたしはずっと忘れない。
短い夏に、千冬と過ごしたたくさんの思い出を。
夏が来るたびに思い出すの。星と花のオルゴールに、大切な思い出をみんな詰め込んでおくね。
千冬、あたし、千冬に会えてよかった。
空に一際輝く一番星。
見上げて見つける度に、見守っていてくれると思うと、頑張れるんだよ。
ありがとう。
あたしも夢に向かって、一歩を踏み出すよ。
fin.
夕陽が空を橙色に染め始める。砂浜に座ったまま、あたし達は並んで沈みゆく夕陽を眺めていた。
「あ、そう言えば、お土産」
突然、光夜くんが思い出したように言って立ち上がると、少し離れた場所に置いていた鞄から袋を取り出して持ってきた。
「……ごめん、急いで買ったから、二人で分けて」
そう言って、あたしと春一の真ん中で申し訳なさそうに眉を下げて、袋の中からお土産を取り出した。
「お、これ美味いよな」
すぐに手を伸ばして春一が受け取ると、「ありがとう」とお礼を言う。
あたしも「ありがとう」と言って、春一の手元を見ると、ジャガイモのポテトスナック。確かに、美味しいやつだ。と、定番のお土産に嬉しくなる。
すぐに、千冬の前に移動した光夜くんは、膝を抱えて小さく座って見上げてくる千冬に、微笑んだ。
「千冬には、約束してたこれ」
袋の中から、さらに紙袋が出てくる。
千冬が受け取ると、光夜くんは千冬の隣に座った。
「開けてみて、いい?」
「うん」
確か、千冬が光夜くんにお願いしていたお土産は、ラベンダーだったはず。あたしは病室で光夜くんが北海道に行く前に千冬がお願いしていたことを思い出す。
ゆっくり丁寧に袋の封を開ける。
覗き込んだ千冬の瞳が、こちらからでも煌めいたように感じた。
「……かわいい」
取り出した千冬の手元には、細い瓶。中にはラベンダーのドライフラワーとポプリが入っていた。
「お土産どうしようか悩んでた時にサイトで見つけてさ、千冬に絶対これあげたいって思って。アゲハさんには迷惑かけちゃったけど……気に入った?」
千冬の為に、千冬に喜んでもらいたくて、きっと、光夜くんはそう思いながら、北海道での一週間を過ごしてきたんだろう。
夕陽がちょうどよく二人を照らす。千冬の目が潤んでいるように見えて、光夜くんの千冬への想いの強さに、あたしまでじんわりと目元が熱くなった。
「……ありがとう、光夜くん。嬉しい、とっても気に入ったよ」
「そっか、良かった」
ホッとしたような表情をして、光夜くんは笑っていた。
「ちょー、と……飲み物でも買ってこようかな。ほら、なずなも付き合って」
「え、あ、うん」
スッと立ち上がった春一が、わざとらしく言うから、二人がいい雰囲気になったことに、邪魔をしてはいけないと離れようとしているのがわかった。あたしもすぐに立ち上がって、春一について行く。
千冬が一瞬驚いた顔をしていたけれど、あたしが小さく手を振ると、困ったように、だけど、照れ笑いをして嬉しそうに頷いてくれた。
ゆっくり歩きながら二人から距離を取る。
海辺に並んだシルエットを眺めていると、春一が足を止めた。
「千冬、今、幸せかな?」
「……うん、きっと」
「まだ、不安かな?」
「……うん、それも、きっと」
寄り添うように千冬の体が光夜くんにもたれかかるのを見て、ずっと二人がそうしていられたらいいのにと、願ってしまう。
千冬の未来が、このまま終わってしまうことなくずっと、続いたら良いのにと、願ってしまう。
星に願いをかけたら、叶えてくれるのかな?
見上げた空は、まだ陽が落ちる前で星は見えない。
夕空が、やがて、夜を連れてくる。
あたしの願いを叶えてくれる星が輝く前に、千冬は──
「春一ぃ!! なずなぁーー!!」
静かな海に、突然響く光夜くんの声。
体が震えて反応した瞬間、春一がすぐ横を走って行くのが視界に入った。
とても、とても、スローモーションに見えた。
「千冬!? なぁ、千冬っ!!」
足が上手く動かせない。千冬の名前を叫ぶ光夜くんの悲痛な声が響き続ける。
「なずな! 千冬の親に連絡して! 早く!!」
春一の怒鳴るような声まで響き渡る。
ようやく、震えが止まらない手で、スマホをポケットから取り出して、何度も、何度も、表示を開き間違えては、あたしは千冬のお父さんの番号を見つけ出して電話をかけた。
もう、何が起きたのかなんて、分からなかった。
ただ、怖かった。
現実が、千冬の病気が、残り一ヶ月と宣告された余命が、全部。
全部嘘だったら良いと思っていた、少し前の自分に、戻りたかった。
叶うのならと、願いをかける前に、時間が止まれば良いのにと思いたかった。
千冬のお父さんに繋がった電話に、あたしは上手く答えられていただろうか? 知らない間に通話は終了していて、遠く、救急車のサイレンの音が聞こえ始めて、目の前では千冬の名前を呼び続ける光夜くんと春一がいて。
これは、現実なのかと受け止めるのに、酷く時間がかかった。
担架に載せられて運ばれていく千冬に、ようやくあたしは声を発することができた。
「千冬っ!!」
追いかけることもできずに、ただ、立ち尽くす。
夕暮れが静かに、ゆっくりとやってくる。聞こえてくるのは、海が運ぶ波の音。誰もいない砂浜に、三角の大きな砂の城がポツンと置き去りにされていた。
寄せては返す波に、徐々に攫われていく姿を眺めていたら、どうしたって、目の前の海も、波も、空も、全部。もう、全部、ゆらゆらと揺らめいてしまって、戻れないと知った瞬間に、あたしは声をあげて泣いていた。
遠く、そんなあたしを見守るみたいに、夕焼けと夜の狭間で、空に輝く一番星が現れる。
願いを叶える為に現れて欲しかった。
叶わない願いは、もう口にしたって、叶わない。
その日千冬は、一番星になった──
*
「あたしの夢はね、一番星になること」
「え? なんだよそれ。小学校の時の夢はお嫁さんじゃなかった?」
「うーん、それはもう……叶わなそうだからさ。だから、あたしはキラキラ輝く一番星になりたい」
「一番星……かぁ」
千冬と二人きりしかこの世に居ないんじゃないかと思うくらいに静かだった。夕陽が海に半分呑まれていくのを眺めながら、徐々に夜に変わっていく海を見つめた。
千冬とこのままずっと、時が止まってただただひたすらに、海を眺めていられたら良いのにと、本気で願ってしまう。
そんな俺の願いとは裏腹に、夕陽は沈むことをやめてはくれない。
陽の光がもうじき無くなる直前、千冬が首元のビーズのネックレスをそっと握りしめた。ラベンダーのガラス瓶の匂いを嗅いで、息を吸っては吐いてを、小さく繰り返す。
「ずっと、見守っているからね、光夜くんのこと。なずなちゃんや、春一くんのこと。だからね、もう、心配しないでね、あたしは、広い空でみんなのこと、見守っているから」
徐々に弱々しくなる声色に、不安になる。
「……なんか、最後の別れみたいなこと言うなよ。まだまだやりたいことやりきってないだろ? 俺、千冬にもっと見せたい景色があるんだよ。北海道の写真も戻ったら見せるからな、今日の写真だって……千冬……?」
「あたしね……幸せだったよ……ありがとう……」
「千冬? え? なぁ、千冬?」
細くて軽くて、さっきまでは飛んで行ってしまいそうだと思うくらいに弱々しい千冬に心配していたけれど、肩に、腕に寄りかかる千冬の重みが俺に全てを預けているように、重たく感じた。
それなのに、静かな海に、さっきまで弾むように聞こえていた言葉も、吐息も、ラベンダーを嗅ぐ呼吸も感じない。千冬の全てが無くなったように静まり返るから、一気に怖くなった。
千冬の身体は全身の力が抜けてしまったように、砂浜目掛けて倒れ込もうとするから、必死に抱き止めた。暗がりで顔色がよくわからないけれど、穏やかに微笑む千冬の顔に、一気に感情が湧き上がる。溢れ出てくる涙と共に、春一を、なずなを、助けを求めて叫んでいた。
千冬が亡くなってから数日後、光夜くんが千冬と最期に二人きりで話したあの日の海でのことを、話してくれた。
千冬は幸せだったんだ。それだけは確かなことを知って、あたしは潤んでくる目元を静かに拭った。
── 一年後
『星と花』
著者・ハルイチ 装丁イラスト ・ナズナ
【僕たちが出逢ったのは、僕たちが出逢えたのは、かけがえのない大切な宝物で、キラキラと輝く“奇跡”なんじゃないかなって、思うんだ。】
書店入り口付近に大きく飾られたハルイチの新刊。表紙には、あたしが描かせてもらった千冬、あたし、光夜くん、春一の後ろ姿と夕陽のグラデーションが海に映るイラスト。
あれから、あたしは街中マーメイドのオープン初日を手伝いながら、由花さんに地元に帰ることを伝えた。もう、あたしには東京にいる理由がなくなったから。バイトの募集は常にしていたようで、あたしが居なくなっても「大丈夫だから安心して」と言ってもらえた。
少し寂しかったけれど、由花さんが「海沿いマーメイドにいつでも遊びにきてね。バイト探すなら紹介するからね」と言ってくれた。
春一は無事に千冬の恋愛小説を書き上げて、ひと足先に東京を離れた。広海さんとの思い出のあるマンションを出る時には、スッキリした気分だと笑って言っていた。
きっと、春一はまたハルイチとしてこの先も、小説を書き続けるんだろうと思った。
帰る前に姉に電話を入れる。意外にもワンコールで出てくれたことに驚いた。
「あたしね、一回実家に戻ろうかと思うんだけど」
『ああ、それはいいかも。お母さん待ってると思うよ?』
「え……?」
『ずっとなずなのこと気にしてたから。お母さんさ、まだ新しい恋人と別居したままなんだよ?』
「……え!?」
姉に帰る報告をしながら実家の話になると、思わぬことを聞いてしまって、あたしは驚いた。
「もしかして、あたしが離婚を反対したから?」
『うーん、まぁ、なずなが反対したからってよりは、認めてもらえなかったからって言った方が良いのかな。やっぱり、娘には再婚相手のこと認めてほしいんじゃない? あたしは良いと思うよ、あの新しい人。あたしと八つしか年が違わないのがめちゃくちゃ引いたけどね』
ケラケラと笑う姉の声に、あたしは呆然としてしまう。母よ、そんな若い人をどうやって新しい恋人に? なんだかよく分からない。
『まぁさ、愛はあるから良いんじゃない? 年齢とか関係ないよ。そばにいてほしいかどうかじゃん? あ、ごめん、撮影始まるからまたね!』
「あ、うん。忙しいのにありがとう」
忙しなく通話が終了する。
そばにいてほしいかどうか。か。
頭の中に、春一の顔が浮かんで、すぐに首を振った。
あたしは書店に足を踏み入れて、ハルイチの本を手に取る。迷わずにレジへ行き書籍を購入すると、書店から出て秋晴れの空を仰いだ。
風がひんやりと冷たくなった。
もうすぐ、冬が来る。
千冬が見ていた東京の冬は、どんなだったのかな。
今は、もう聞けなくなってしまったけれど、きっと千冬なら、「雪だるま作りたいなー」なんて、たまに降るわずかな雪を眺めながら言っていたのかもしれない。
千冬の物語は、ハルイチが書き続ける限り、永遠に繋がれていくよ。
あたしはずっと忘れない。
短い夏に、千冬と過ごしたたくさんの思い出を。
夏が来るたびに思い出すの。星と花のオルゴールに、大切な思い出をみんな詰め込んでおくね。
千冬、あたし、千冬に会えてよかった。
空に一際輝く一番星。
見上げて見つける度に、見守っていてくれると思うと、頑張れるんだよ。
ありがとう。
あたしも夢に向かって、一歩を踏み出すよ。
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※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
だいぶん時間がかかってしまいましたが、最後まで読ませていただきました。
それぞれが十年の時間をかけて、いろいろと歩み始めるお話でしたね。
悲しいことも辛いこともありましたが、最後には前を向けていたのは良かったと思います。
個人的には千冬がいなくなってからのそれぞれの気持ちをもう少し見たかったかなぁとは思いましたが、でもそうしていたら蛇足だったのかもしれませんね。言葉にしないからこその気持ちもあるので、いろいろ想像してみたいと思います。
楽しませていただきました。
ありがとうございました。
香澄さん、最後まで読んでくださり感想もありがとうございます!(*´-`)
千冬といた夏に重点を置いていたので、その後の姿は描いていませんでした。ちょっと気になってしまいますよね。予定よりも文字数も多くなったので、まだ3人のことを見てくださるのならば、もう少し先のことも書き足しても良いのかもしれないと思いました!
嬉しいです!ありがとうございます。
3人はこれからも前を向いてしっかり歩んでいくことは確実ですので、未来は明るいです。
十年という月日を越えて繋がっていく四人の男女の物語。
月日とともに、それぞれが持つ優しさが繋がっていく物語でもあるなと思いました。
印象に残ったのは東京進出の頃に、
なずなが春一の成長を目の前で見ながら
自分は一人じゃ生きていけない、自分は頑張っていることあったかな、と自問自答するところがあるのですが
三人だって一人じゃ生きていけないし、
三人にとってなずなという存在がいたからみんなが繋がった部分もあって
それをなずなが気づけたらいいのになって思いました。
春一から思いを伝えてもらい、なずなが一人じゃないって気づけたとき
千冬から教えてもらった幸せは隣り合わせにあるということを思い出す場面もすごく印象的。
主題であるオルゴールもそうであるように
長い時間を越えて誰かのもとへと繋がっていくことに気づけたとき、微笑ましくこちらも気持ちになれます。
りろさんの描く場面場面の色使いがすごく綺麗で夕陽や海の情景が浮かんでくる作者の優しさまで伝わってくる物語です。
莉都さん、読んでくださり感想ありがとうございます!
4人の思い、何よりなずなの気持ちに寄り添ってくださりとても嬉しいです。
場面の色使いや情景を感じてもらえたこともすごく嬉しいです!
場所を明確に決めて書いているわけではないのですが、なんとなくここみたいな雰囲気や風景っていう、実際の場所があったりするので、私の伝えたい描写が出来ていて、莉都さんの情景に伝わっていたらいいなと思っています。
これからも伸ばしていけるように頑張ります♪
18話まで読みました。
ここから冒頭につながっていくのですね。
どんな再会になるのか。どきどきしながら待ってます。
最新話まで読んでくださりありがとうございます(*´-`)
ここからストーリーが動いていきますのでほっこり・じんわりとしていただけたらなと思います♪楽しんでいただけますように。