ドルススタッドの鐘を鳴らして

ぜじあお

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3章 戦士の心は

眠る獣に鉄錆の安堵と修道士の祈りを

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 音や匂い、温度、振動は目で見る以上の情報を与えてくれる。
 否応なしに光のない世界に閉じ込められたエンバーは、目が治癒された今でも瞳を閉ざす癖が抜けずにいる。

 エンバーはベッドに腰掛け、今日から一時的に相部屋の住人となるトニーを待っていた。
 彼にはお願いしなければならない事がある。それをしなければ寝ることすら出来ない。
 かぶりを振ったエンバーは深呼吸し、固く閉じた目蓋の裏の世界を探った。足全体を着地させる独特の癖のある音を探す。
 ーー見つけた。
 足取りは宿舎に隣接する生活棟からこちらへ向かってきている。足取りは、若干重い。だが数分もしないうちに部屋にたどり着くだろう。エンバーはそのままトニーが来るのを待った。

 その小さな足音は扉の前で止まった。足音の主は鍵を探しているのか小さなごそごそとポケットを漁っている。
 エンバーは立ち上がり、扉を開けた。今度は壊さないように優しくドアノブを回すことを忘れずに。
 目の前の人物ーートニーが一瞬、息を呑んだのが分かった。
「……扉、普通に開けられるようになったんだな」
 静かな声にはわずかに甘い酒の匂いが混じっている。それと石鹸の香り。風呂の後で体温が上がっているのもあるが、緊張しているのであろうか、呼吸は少し早い。
「さすがにもう壊すことはない」
 エンバーは一言告げてから部屋に入り、ベッドに腰掛けた。続いて不安そうな足取りが対面するベットに向かって行ったが、すぐにこちらに向かってきた。
「エンバー。なんで目を瞑ってるんだ」
 語尾が若干震えている。不信感を与えてしまってもしかなたないと、エンバーは目を開けた。


「見えなくてもわかる。必要がないから開かなかった」
 真っ直ぐにこちらを捉える黄金の瞳にトニーはたじろいた。視覚に頼れない分、他の感覚を集中させる環境だった事が起因しているのか、彼は対象物から目を逸らすことをしない。遠慮や恥はなく、五感の全てを相手に向けるから、相手方は面食らってしまうのだ。トニーもそれに漏れず、一直線に注目を注がれてどうしようにも動けない。
 指一本でも動かしたら何か言われるのでは――そう思うほど、エンバーの眼差しは真っ直ぐだ。

 勝手に緊張を覚えるトニーを尻目に、エンバーは足元に置いてあった袋をひょいと掴んでトニーに差し出した。 
「これを」
「分かっ……!」
 カチャリと金属の擦れる音がトニーの耳に届き、差し出した両手に袋が乗った。エンバーが手を離した瞬間、ずっしりと袋が重くなった。こぼれ落ちそうになったのをトニーは両手両足を踏ん張って何とか受け止める。抱え込むようにすれば持てなくはないがーー少なくともひょいと掴んで人に渡すには重すぎる。
「……すまない」
 トニーが両腕で抱き抱えているのを見て、エンバーは片腕で袋をつかみ上げ、腰掛けたベッドに置いた。軽々と持ち上げる様を見ているとトニーは自分が非力なのかと勘違いしてしまいそうになるが、ガチャンと鈍く重量感のある音とともに袋がマットレスが沈み込むのを見ると、やはりエンバーが規格外の怪力なのだと思った。
 じんわりとかいた額の汗をトニーが拭っていると、エンバーは袋の中身を一つ一つ取り出して床に置いた。


 エンバーは床に置かれた拘束具から鎖を掴み、トニーの眼前に突き出した。
「これで俺を縛れ」
 トニーの手に鎖を押し付けるとトニーの体が硬直した。その表情にはうっすら困惑の色が見える。感情は強く抑制されているが、内心の焦りを感じる。
「昨晩のようなことが、ないように」
 エンバーは念押しでもう一言加えたが、ひそめられた眉からも反論がくるのはわかっていた。
「同じ部屋にいなければいいだろ。俺はジブの部屋に行く……」
「俺は足音で誰がどこにいるのかを把握できる。知っての通り、扉も破壊できる。これぐらいしないとだめだ」
 乱暴に鎖をトニーに押し付け、エンバーは直ぐに手を引いた。
 神秘の力を持つトニーに触れることが自分の理性を溶かす引き金になるかもしれないーーエンバーはそれを恐れていた。
「エンバー。俺は昨日のことは全て忘れる」
 トニーの落ち着いた声は懺悔を聞く修道士そのものだった。しかしエンバーの硬い表情は崩れることはなく強い意志が瞳に宿っている。
「お前が忘れようが俺には関係ない。俺は……。俺が自分の罪を忘れることがあってはならない」
 じわり、じわりとトニーの顔に動揺が広がる。彼の薄い唇が開いた瞬間ーー静まり返った部屋がふっと暗くなる。

 消灯時間。
 長く話しすぎたか。トニーが突然の暗闇にたじろいでいると、サイドテーブルに設けられた小さな灯りがついた。丸太のように太い腕とエンバーのしっかりとした顎が暗闇の中でぼうっと浮かぶ。瞬きによって一瞬遮られた黄金の瞳も闇の中に浮かび、まっすぐにトニーを見つめていた。

 ーー暗闇など関係ない、というような強い瞳。
 トニーはもう頷くことしかできなかった。
「わかった」
 トニーが呟くと、金属音の擦れる音と手のひらに重く冷たい鎖が押し付けられた。
 猛獣を縛り付けるような荒く太い鎖。加重魔法の掛けられた拘束具たち。暴れることを防止するために内側には鋭い棘が幾重にも施されている。
 それらの一つ一つをトニーはエンバーに取り付けていく。

 冷たい金属が体を這い、手足や腹に重くのしかかっているはずなのに、着用の重みと痛みに比例してエンバーの表情に安堵が滲み出す。
「痛くないのか? それに重いだろう」
 擦れる金属音の中ではトニーの声はあまりにも小さい。だが、エンバーはしっかりと答えた。
「……痛みは、俺がまだ人間であるということを教えてくれる。重みは、俺が罪を受け入れる心があることを認める枷になる。だから問題ない」
 トニーの手がピタリと一瞬止まった。しかしーー。
「……そうか」
 そう答え、拘束を再開した。
 それは薄い紙がはらりと落ちるような軽い声色だった。腑に落ちないし納得もできないが、心情は理解した。そんな風にエンバーは受け取った。

 軽いトニーの声と反比例して、エンバーの心はやはり安堵に満ち始めていた。
 こうして拘束されればエンバーは誰も傷つけることはできない。それは他者も、そして自分をも。それに、熱を奪う無機質な痛みには慣れている。エンバーが過ごした暗闇の日々にはこの皮膚を割る痛みと冷たさが伴っていたからだ。

 常夜の光のない生活。嫌でも耳に入る誰かの悲鳴。飲まされた生暖かい液体や細く喉に絡まる毛髪。低く唸るような声は、地下室にいるエンバーたちに力を持てと囁くーー。
 蘇る地獄のような日々の中でエンバーが何より恐れたのは『自我を失う』ことだった。地下室で一切喋らなくなった者や逆に四六時中喚くようになった者、頭を壁にぶつけてぶつぶつと死を望む囁きを始めた者は間を置かず消えていき、同じ足音や声を辿ることはできなくなった。
 自我を保つこと。それは何も持たないエンバーができる唯一の抵抗だった。
 自我を忘れた人間は獣と同じ。人の心を忘れた獣になるのは、エンバーを地下に追いやり拷問をする人間と同じに成り下がるだけーー。
 だからこそ、今後は如何なる理由があろうと自我を失うまいと。自らを怖れ、自らに誓ったのだ。

「女神の導きに。良い夢を」
 鎖でがんじがらめになったエンバーが呟く。その声はひどく落ち着いていた。
「女神に導きに……良い夢を」
 トニーの呼吸は少し浅くなったが、エンバーは気にしなかった。
 その言葉は修道士のみが入眠の際に言うまじないであることをエンバーは知らなかった。トニーはエンバーが修道院に関わっていることを察しながら、彼が安眠を得られるまで側に立っていた。
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