ドルススタッドの鐘を鳴らして

ぜじあお

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2章 無垢な黒

移動は誰と【エイラス】

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「トニー、厩に行きましょう」
 エイラスがトニーの手を引いた。トニーは引きずられるようにして厩の前に着くと、エイラスは馴れた手つきで馬を出して手綱を握る。

 騎士団の集団に合流するとエイラスはトニーに手綱を持たせた。エイラスは御者台に登ったジブの元へと向かって行く。二、三言葉を交わすと、ジブが進行の号令をかけた。
 エイラスは人をかき分けながら手綱を受け取って馬に乗った。
「さあ」
 騎乗したままトニーに向かって手を差し出す。だた、トニーは固まったままエイラスの手のひらと顔を交互に見るしかできない。

 目の前にいる背の高い馬には鞍がない。『裸馬』だ。馬の後方にエイラスが座っているからその前には人一人が入れそうなスペースが空いているーーいやスペースがあるのは理解できるが、そもそも騎馬の経験もないのに、鞍のない馬にどう跨ればいいのかトニーには皆目見当もつかなかった。
「俺たちは先行部隊ですよ。出発しないと。早く乗ってください」
「……一緒に乗る必要はないだろ。俺は歩く」
 トニーは差し出された手を無視して歩こうとしたが、ふいにエイラスは厳しい顔で顔を上げた。いつもと違う様相にトニーも緊張が走る。

「後ろ、危ない!」
 鋭く放たれたエイラスの声に、反射的にトニーは危険を避けようとした。数歩前に出て馬に近づく。
「わっ……」
 振り返る間もなく、脇腹を掴まれる感触とともに体が浮いた。気が付けば、馬の背の上に腹ばいに乗せられて足が空を掻く。
「じっとしてください。腹を蹴ったら馬が走りだしますよ。落馬したくないでしょう」
 頭上から聞こえたエイラスの声に、トニーの足がピタリと止まった。エイラスはそのままトニーを抱えこんで引き上げる。ここまでくるとトニーは諦めた様子だった。エイラスの指示通りにたてがみを握り、足を前に回して馬に跨った。

 トニーが太ももで馬の背を挟んだことを確認すると、エイラスは馬の腹を軽く蹴った。
 木漏れ日が二人の髪に当たる。
「……エイラス、お前。本当に性格悪いな」
 迫る危険などなかった。トニーを馬に乗らせるために適当に言っただけの嘘だ。
 体の一部でも乗せれば、騎乗したことのないトニーがエイラスの指示に従うことは想像がついていただろう。トニーはまんまとしてやれた。
「すみません。こうでもしないと乗ってくれないと思いまして」
 トニーは少し顔を顰めたものの、それ以上何も言わなかった。いつもより数段高い視線に踏ん張りも効かない足。トニーは体を支えることで精一杯だった。彼が今、頼れるのはたてがみを掴んだ手と、ぐわりと開けた太ももだけだ。
「支えますね」
 エイラスは左腕でトニーを抱きかかえて体を密着させた。意外にもしっかりと鍛えら挙げられた体が背中に触れるーーが、必要以上に強く抱きしめた左腕が腰を撫でている。
「お前、変態だって言われないか」
 呆れたような声を出して、トニーがエイラスに尋ねた。
「はい。言われ慣れてます。もう気にしてません」
「え?」
 トニーは振り替えようと軽く首をひねるが、思ったよりもエイラスの顔は近い。このまま振り返ればあらぬ距離であることをまざまざと自覚するだけなので、トニーは栗毛色の馬のたてがみを掴んだままでいた。

「座学。覚えてます? 第二騎士団のことは何と習いました?」
「……王族の護衛のみをする部隊だと」
「そうです。第二騎士団は本当に眉目秀麗な方ばかりで。自慢ではないですが俺も所属してました」
「してた、か。なんで辞めたんだ?」
 トニーの疑問に、エイラスは囁いた。
「第二騎士団は式典や催事の護衛とは名ばかりの……簡単に言えば王族の伽のため奴隷です。顔が良いのもスタイルが良いのも当たり前ですよね。それでまぁ。俺は才能があったんですよね。端麗王と呼び声高いヒューレス王のお気に入りになりまして。彼だけと関係を持つことを条件に第三騎士団に転属させてもらったんですよ」
 エイラスがトニーの太ももに触れた。指先は服の皺を均すようにじっくりと投げ上げる。太ももの上半分、内側に触れた時、トニーの茶色い髪がかすかに揺れた。
「まあ、これは首都第三騎士団には周知の事実ですから」
「……」
「こんな話はどこでもあります。いいことではないですけどね」
 手の位置を直し、エイラスは腕の力を強めた。自慢できるような過去ではないが、隠すような端とも思わない。ただトニーが¨複雑な事情¨を抱えた人間にどう対応するのかは知りたかった。彼は俯いて情報を咀嚼しているようだった。
 ふと、俯いたトニーの後頭部、彼の髪のごく一部が汚れていることにエイラスは気づいた。黒に近い濃い赤色の塊が少量だが髪にこびりついている。
 ーー血だ。出血して時間が経って固まっている。
 エイラスがトニーと最後に会ったのは集会所だった。ルガーの指示でジブとトニー以外は退室させられている。トニーが事故で怪我をしたのであれば犬が騒ぐか、カタファに診てもらうかしたはずだが、トニーは何もしていない。退出させられる寸前の話を思い出すに、犬が騒いで飼い主のトニーがぶちのめされたのだろう。

「ルガー団長は……」
 件の人物の名を上げると、トニーの肩がビクついた。
「皆には内緒にしてほしいんですが、かなり高貴な出ですよ。俺よりも遠いですが王の血が流れているとか。自分は武骨で顔が良くないからそれを知られたくないらしいです。王家らしい中性的な顔つきでないだけで、彼は雄々しく精悍な顔立ちですし、外見を気にするなんて意外だと思いませんか」
 そうか、とトニーの抑揚のない声が聞こえたが、エイラスに寄りかかる力がわずかに増しており、彼の言葉に集中しているのがわかる。その反応にエイラスは口角を上げる。そしてトニーが最も動揺するであろう情報を落とすことにした。
「彼のご実家はコーソム辺境伯です。彼自身は、廃嫡されていますけどね」
 トニーは急に振り返る。バランスを崩した体をエイラスは両腕で抱き支えた。
「急に動くと危ないですよ。前を向いて」
 そのあとトニーは何も話さなかったしエイラスも口を開かなかった。揺れる茶色い髪にこびりついた血を見ては、自分が与えた情報で彼が何を考えているのだろうかと思うと背筋がぞわぞわとした。


 目的地のセレンの湖までは歩き続ければ二日で着く距離だった。途中、大きな川の流れるほとりで馬に休憩を取らせるとジブが言った。
 馬を降りたトニーはぐったりとしていた。慣れない乗馬に神経を使って疲れている様子が見て取れた。
「トニー、あれ」
 エイラスはトニーの肩に手をまわして、空いた手で少し離れたところにいる傭兵の集団を指差した。
「彼らがこれから仲間になるかもしれない方たちですよ。みんな仲間になってくれたら素敵ですね」
 会話を途切れさせないための単なる話題だった。トニーは興味を示さないだろうとエイラスは思ったが、予想に反し、トニーが驚いた顔をして歩き出そうとした。エイラスが肩を掴む手を強めて留める。体がぐっと引き戻されることになったトニーだが、目線はある一点に注がれていた。エイラスはその視線を追うと、黒髪の大男に注がれているのだと気づいた。
「お知り合いですか」
 エイラスはすぐにトニーの前に回って、視線を遮った。黒い制服に視界を覆われたトニーは細かく瞬きをしていたが、やがて小さく、いいや、と答えた。
「ああ、彼は盲目だそうですよ。カタファが言っていました」
 依然としてトニーは眉を寄せて考え込んでいるようだ。

 黒髪の大男は立てた両膝に腕を乗せた状態で座っている。かなりの高身長で、服の上からでも発達した筋肉が見て取れる。黒髪から除く巻かれた包帯は薄汚れていて目立った。
 男は周りと全く交流をとっていない。顔を隠すような長い髪と包帯、破れて汚れた服、抜きん出た体躯は全体的に暗い雰囲気を漂わせていた。

 ーー面白くない。

 エイラスの目下の目標は、神秘の力を持つトニーの心に食い込むこと。ただでさえ、番犬のような存在のジブが居るのに、これ以上、関係者を増やすのは勘弁だった。

 エイラスはトニーの手を取る。そして声色優しく話した。
「気になることがあれば教えてください。今でなくても。いつでもいいですから」
 手の甲を指で撫でると、やっとトニーの緑色の瞳と目が合った。
「忘れもしない。九ヶ月前、俺はあいつの目を治した」
 トニーの返事に咄嗟に反応できなかった。エイラスとトニーの関係性は正直良くはない。そんな相手に過去の出来事を吐露するということは、本人の中で抱えきれないほど、大男の存在が大きいということか。


 指笛が森に鳴り響いた。音の主はガヨだった。皆が注視する中、彼は出発することを告げた。
「トニー、馬に乗りましょう。行かないと」
 エイラスはにこやかに言ったが、その内心は黒く、暗かった。

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