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第四章『この私が狼の牙をへし折ってご覧にいれますわ』
エミリー嬢の幸せな一日
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玉座の上に腰を掛けたオルレアンス王国の国王、アンリナ一世は酒瓶を片手に不愉快と言わんばかりに眉を顰めながら部下からの報告に耳を澄ませていた。
「となると、やはり『ジャッカル』の連中は全滅したのか」
アンリナ一世は玉座の前で跪く報告係の男に対して苛立ちを表すかのように肘掛けの上に人差し指をコツコツと叩きながら問い掛けた。
「は、はい!全員が倒されたとしか言い表せませぬ!更に現地の協力者ごと葬り去られた模様でしてーー」
「よい。余は気にしておらぬ。裏を使って始末することができなくなっただけに過ぎぬのだ」
アンリナは面倒くさげに手を払いながら部下に向かって言い放った。
肝心の部下は意味が理解できなかったらしく、首を傾げながらアンリナ一世に問い掛けた。
「と、仰られますと?」
「……わからぬか?今度は余自らが打って出ようというのだ」
アンリナ一世は反応の遅い部下に苛立たったのか、玉座の肘掛けの上に人差し指をトントンと叩きながら回答を発していた。
だが、部下の男は不機嫌な王の様子を察することができなかったらしい。空気の読めない大きな声を上げながら問い掛けた。
「陛下が自らその御身を危険に晒されるというのですか?」
「そうだ。だが、オレにも考えがあってのことだ。そのためにはオレ自身が行かねばならぬのだよ。オレは正攻法を用いて我が弟をそれから害虫駆除人なる悪党を片付けてやるつもりだ」
アンリナ一世はそれだけ吐き捨てると、男を下がらせ、代わりに手を叩いて大臣を呼び出す。
「へ、陛下、何の御用でございましょうか?」
「余はしばらくこの国を留守にする。その間の内政を卿に任せたいのだ」
「ど、どちらに向かわれるのですか!?」
アンリナはしばらく無言であった。だが、すぐに西の方角を指差して言った。
「クラインだ。クライン王国に向かう」
「く、クラインですと!?何故に!?」
「理由などないわ。将軍と親衛隊を連れて来い。弟に余自らの手で引導を渡すだけよ」
アンリナ一世は意味深な笑みを浮かべて言った。無言の圧が大臣を襲っていく。それでも大臣は言葉を震わせながら王に向かって諌めの言葉を口にした。
「恐れながら申し上げます。我が国の民は誰も戦など望んではおりませぬ。何卒、それだけはーー」
「安心せい、誰が戦など引き起こすと言うた?余は弟に引導を渡しに行くだけだ」
アンリナはその後に大臣と何かを熱心に話し合っていた。そして話が終わったと思われるタイミングで大臣が止めるのも聞かず、自らの体をクルリと翻し、自身の部屋に向かい鎧と兜を羽織っていく。
それから馬小屋に向かい、軍馬として使っている黒色の毛並みをした立派な馬に腰を下ろし、親衛隊と将軍の到着を待っていた。
親衛隊と将軍が現れたのはアンリナが全ての準備を終えてから一時間後のことであった。
その場を代表してシャープな形をした将軍が謝罪の言葉を述べた。
「も、申し訳ありませぬ。このメレンザ一生の不覚でございまする」
「よい、それよりもクライン王国まで余の共をせい」
アンリナはメレンザ将軍の遅刻を寛大にも許した。馬上から自分より何歳も年上であるはずのメレンザ将軍を見下ろしながら低い声で命令を下す様からはいちいちそんな小さなことにはこだわっていられないという彼の意思のようなものも感じられた。
馬上から命令を下す国王の権威と権勢、そして権力を纏わせた一連のオーラにメレンザ将軍は全身を震わせながら膝をついた。続いて親衛隊もメレンザ将軍に続いていく。
オルレアンス王国の国旗を掲げた国王と将軍、それから親衛隊を混ぜた小規模の軍隊はクライン王国の国境を目指してひたかけに駆けていったのである。
彼らが目指すのはクライン王国の国王が住まう場所すなわち王宮であった。
「そ、そんな、ジオラーデ子爵夫人が!?」
「えぇ、二日ほど前、賊の侵入によってそのまま……」
ジオラーデ子爵夫人と繋がりの強かったホワインセアム家のメイド、ガーネットはジオラーデ子爵夫人の許報を聞き付けた瞬間に婚約者であるエミリーの元へと駆け付けずにはいられなかったのだ。
かつての子爵夫人の友人のメイドは涙を流しながら己の主人の最期をエミリーへと告げていた。
エミリーはそれを受けて両目から涙を流し、既に冥界王の元へと旅立ったフレア・ジオラーデを憐んでいたのである。
ガーネットがそんなエミリーの背中を優しく摩っていたのはこの計画に加担していたからだろう。
ガーネットは子どものように無邪気な涙を流すエミリーを優しく宥め、彼女のためにお茶を淹れ、お茶菓子を用意したのである。
ガーネットはエミリーが落ち着いた頃合いを見計らって、真剣な顔を浮かべながら言った。
「エミリー様、落ち着いて聞いてくださいませ、恐らく今回ジオラーデ子爵夫人に手を下したのは駆除人ですわ」
「く、駆除人!?どうして、そんな恐ろしい方々にジオラーデ子爵夫人が狙われなくてはいけないの!?」
「わかりません。ですが、私は思うんです。害虫駆除人というのは相手が貴族だからという理由で狙っているのではないかと」
ガーネットの言葉は的外れであった。彼女はどうして駆除人が“害虫”という冠を付けているのかを知りもしなかったからそんないい加減なことが言えたのだ。
害虫駆除人は貴族だから狙っているのではない。相手が悪人であるから狙っているのだ。それだけの話なのだ。
だが、勝手な推察によって怒りを感じたエミリーは自らに起こった悲しみを押し殺し、椅子の上から立ち上がったかと思うと、自身の決意をガーネットに向かって表明したのである。
「私ッ!やりますッ!必ず害虫駆除人を仕留めて、お友達だったジオラーデ子爵夫人の無念を晴らさせていただきますの!」
エミリーは両目から涙を溢しながらもその決意を表明していたのである。
それに今回の件に関してはフレアだけではない。婚約者のクリストフ、兄のロバート、それに両親も全て害虫駆除人の手によって亡くしているのだ。
エミリーは駆除人の手によって家族を奪われた悲劇のお姫様であった。
実のところ、彼女の決意の中からはそうした類の酔いが感じられた。
だが、決意を固めたのはいいものの、どうやって害虫駆除人を仕留めるのかはまるで頭になかった。
クリストフもフレアも既に冥界王の元へと旅立ってしまった上に昨日の一件で『ジャッカル』そのものも壊滅しており、彼女に復讐の手立てはなかった。
純粋培養でおめでたい世界で暮らしてきたためか、そうした裏社会におけるコネクションもない。
言うなれば詰みの状況にあった。どうすれば良いのかと頭を悩ませていた時だ。
扉を叩く音が聞こえた。
「失礼致します。セリーナです。お茶が入りまして」
エミリー付きのメイドであるセリーナの姿が見えた。以前エミリーを世話していた時に着ていた平民の女性が着る服装ではなく、貴族の家に仕える女性たちが着用するエプロンドレスを身に纏っていることがその最大の証明であったともいえた。セリーナが採用されているのは自分が貴族としての地位を剥奪され、路頭に迷っていたところを礼節を持って世話してくれていたからという面が大きい。いうならばセリーナに対する恩返しであるともいえた。
もちろん、セリーナ自身の忠誠心もエミリーは高く評価している。彼女がいなければ自分は生きていなかっただろう。
一度は首を切られたはずのセリーナがお付きのメイドとして雇用された理由はこの二つの要因からなる。
この二つの理由からエミリーはセリーナに関しては他の人物よりも柔らかい声で接していた。
「ありがとう。セリーナ、そこに置いておいてちょうだい」
エミリーは机の上を指指す。セリーナはエミリーの指示に従って、机の上へとお茶を置いた。
それからエミリーの方へと興味深そうな顔を向けて、
「お嬢様、ガーネットと何か妙なお話をされていたようですね。よろしければ教えていただけないでしょうか?」
と、問い掛けたのである。
「あなた、話を聞いていたの?」
エミリーが目を丸くしながら問い掛けた。
「えぇ、扉の向こうでお茶をお持ちしようとした時に小耳に挟んでしまい……申し訳ありませんでした」
「聞いてしまったのならば致し方がありません。セリーナさんにもお仲間に加わっていただけないでしょうか?」
ガーネットは意外にも盗み聞きを肯定してくれるようだ。肯定的な言葉を口にし、セリーナも計画に加わるように指示を出した。
目的は害虫駆除人の排除。その一つしかなかった。セリーナにとっても馴染みのある言葉であった。それ故に同調した。
三人が仲良く話を練っていた時だ。屋敷の執事が扉を開いて、エミリーの元へと訪れた。
「大変です!隣国オルレアンスの軍隊が国境付近に現れたということで!現在各屋敷で武装が叫ばれております!」
「い、いやぁ!」
エミリーはその言葉を聞くなり、悲鳴を上げて耳を塞いでいく。動揺のためにコップを地面の上に落としてさえいた。
そうした行為を行ったのはエミリーの中に存在する軍隊や兵士に対する恐怖心が彼女をそう追い詰めたからであった。
付き合いの長いセリーナはその対応を分かっていたから慌てて優しい声で慰めてやらねばならなかったのだ。
ガーネットはこの報告を受け、直ちにホワイアンセアム公爵家の屋敷へと戻らなくてはならなかった。
その日エミリーは頑丈な地下室に篭り、食事は全てセリーナが運ばなくてはならないことになった。
これでは害虫駆除人の話どころではあるまい。セリーナは頭を抱えていた。
実際オルレアンス王国の侵攻によって人々の間からはジオラーデ子爵夫人の一件は完全に打ち消させれる羽目になってしまったのだ。
現国王フィンはこの事態を打開するために国境付近に現れたアンリナ一世と同じように軍隊を引き連れ、アンリナ一世の率いる軍の側へと向かっていったのである。
しばしの間両者は睨み合っていたのだが、両軍から遣わされた使者の往還によって交渉がなされていく。
数時間に及ぶ交渉の末にアンリナ一世は武装を解除した。代わりにアンリナ一世並びにメレンザ将軍と親衛隊を王宮へと引き連れていかねばならなかったのだ。
フィンとアンリナ一世とは王宮の応接室にて交渉を行なっていた。
もてなしのためのお茶とお菓子が用意された状況の中で、話し合いは行われたのだが、アンリナ一世が出した要求はフィンの予想を大きく上回るものであった。
というのも、アンリナ一世は今回わざわざ自らが持ってきた条件というのがクライン王国に亡命したヒューゴをオルレアンスに引き渡すこととアンリナ一世を主君、オルレアンス王国を宗主国としてそれらの主君や君主に貢物をするという形での貿易を行うことを提示したのである。フィンは当然席の上から立ち上がり、抗議の言葉を叫んだ。
「そ、そんなことを急に言われても困るッ!」
「フフッ、困るのはそちらの方だろう?」
アンリナ一世は意味深な笑みを含めて笑っていた。本来であるのならば王宮の中に囲まれて人質に取られているアンリナ一世の方が不利であるに違いないなかったのだが、アンリナ一世からはそうした不利な様子は確認できなかったのだ。
アンリナ一世の計画としてはもし、クライン王国で自分の身に何かが起きるなどの緊急事態が生じた場合にはそれを口実にオルレアンスの軍隊が攻め入る算段となっているのだ。
その前に自分と親衛隊それに将軍が王都で暴れ回り、王都の機能をある程度はめちゃくちゃにするのも計算しているのだろう。
それ故に下手にアンリナ一世に手を出せばオルレアンス王国との大規模な戦へと発展してしまうことになる。
フィンは自らがアンリナ一世の手の上で踊らせているかのように心境へと陥っていた。
アンリナ一世はどうすればいいのかが分からずに視線を逸らしている若き国王に対して上からの視線で見下ろしていくのであった。
「簡単な話だ。キミが私の出した条件を飲めばよいのだ。そうすれば今回は矛を収めてやろう」
「今回は?まだ次もあるということですか?」
フィンの声は震えていた。それは次なる戦が起こるかもしれないという恐怖によるものだ。
「それはキミ次第だ。私はいつでもクライン王国の行方次第で軍隊を進めることができるのだよ」
アンリナ一世は勝利を含んだ笑みを浮かべていた。フィンは拳を握り締めていた。爪が肉の中に食い込むほどの強い力で握っていたからか、次第にフィンを苦痛が襲うようになった。
思わず顔を顰めたが、今はそれよりも重大な悩みがある。
フィンはアンリナ一世の方を向き、恐る恐ると言わんばかりの表情で彼を見つめながら言った。
「しばらく考えさせていただけないだろうか?いくら何でもこの内容は私の一存で決めるわけにはいかないのです」
「よかろう。だが、あまり私を待たせるなよ」
アンリナ一世は用意されたお茶を飲み干し、用意された長椅子に背を埋めながら言った。
フィンは緊急で大臣を招集し、アンリナ一世の提示した条件についての話し合いを行なっていたのである。
当然大臣たちの意見は真っ二つに分かれた。
「やむを得ません。貿易によって得られる利益に民の安全を考慮すると、アンリナ一世陛下が提示された条件を受け入れるべきです!」
貿易を司る大臣は声を高くしてそう主張した。
「それはオルレアンスの軍門に我が国が降るということですぞッ!代々この国を取りまとめてきた先祖に申し訳が立たぬとは思わんのですか!?」
警備を司る大臣は以上のように主張した。両者の意見は真っ向から対決することになった。
「しかし、人の命や利益には変えられませんぞ!」
「だからと言って、これから私たちや私たちの子孫がむざむざアンリナ一世の……いいや、オルレアンスの靴を舐め続けるというのですか!?」
「安全や利益には変えられないでしょうッ!」
会議はまとまらない。最後まで沈黙を余儀なくされていたフィンであったが、ある程度までまとまってきたところで彼はようやく己の考えを発することにした。
「……オレの考えを述べよう。オレは……いいや、クライン王国はオルレアンスの下僕になるつもりはない。対等な友としての貿易ならば感謝するところだが、下僕としてその靴を舐める代わりに金を渡すような貿易ならばこちらからお断りだ」
フィンの決断は大臣たちを二つの意味で大きく湧かせた。いい意味で湧いた人もいれば、悪い意味で湧いた人もいただろう。
いずれにしろ、国王の決定であるのならば従うよりは他になかったのだ。
翌日にフィンは交渉の席でアンリナ一世に明確な拒絶の意思を示し、しばらくは捕虜としてクライン王国に滞在してもらうことを告げたのであった。ただし、その待遇は客人としてのものであり、国王や親衛隊、それに将軍は礼節を持って迎え入れられることになっていた。それがフィンに対してアンリナ一世へと行うことができるせめてもの慰めであったともいえた。
事実アンリナ一世はその処遇に満足したのか、しばらくの間はクライン王国に腰を下ろすことを決めたそうだ。
そのことを祝して、翌日の晩には国中の門閥貴族を招いての盛大な舞踏会が執り行われることになった。
舞踏会は会場の奥に国王とその婚約者が座る席が用意され、その前に専用の料理と酒が並べられていく。
これにより、国王とその婚約者は舞踏会のダンスを見守るという形になっているのだ。
そうした席が用意されていることからも分かるようにフィンとその婚約者マチルダ・バロウズが先に入室したのである。
その次が各貴族の家からなる出席者たちである。
そして、最後に入場したのは白色の正装に身を包んだアンリナ一世であった。彼は親衛隊や将軍に守られながら舞踏会に出席したのであった。
通常であるのならば舞踏会であるにも関わらず、護衛に纏わりつかれているような人物にはお近づきにはなりたくないだろう。
だが、白色の正装という高潔な衣装に身を包んでいたことや顔形の整った国王という高いスペックが舞踏会に参加した夫人や令嬢たちの心を大きく掴んだのである。
舞踏会に参加した紳士や子息たちも外交の意味もあり、声を掛けずにはいられなかった。
そうした思惑や予想外の反応などもあり、間違いなく、その日の舞踏会における主役は間違いなくアンリナ一世であった。
軍隊や兵士に拒絶の意思を示していたリバリー男爵夫人エミリーもアンリナ一世に夢中になった夫人の一人であった。
この日奇しくもエミリーはアンリナ一世と同じ白色のドレスに身を包んでいたのである。
エミリーは可愛らしい笑みを浮かべながらアンリナ一世の元へと縋っていく。
アンリナ一世は当初はエミリーに無関心であったが、彼女が自分と同じ色のドレスを身に纏っていることに強い関心を示したのである。
それから普段は見せないような優しさを浮かべた笑みを向けていると、夫人や令嬢たちは感極まった悲鳴を上げた。
だが、その笑顔がエミリーにのみ向けられていたということを知ると、一斉に嫉妬の視線を向けていったのである。
エミリーはその嫉妬の視線に怯える素振りを見せた。演技ではない。彼女にとっては素の自分自身を見せたに過ぎない。
だが、それがまた他の参加者たちからの嫉妬を買っていくのであった。
愛らしい子猫のような振る舞いにアンリナ一世は夢中になった。これまでの人生において彼が初めて女性を好きになった瞬間であったかもしれなかった。
その証拠に擦り寄ってきた他の女性を押し除け、エミリーの元へと向かっていくのであった。
それから急に自分の元に来て動揺の色を浮かべるエミリーの手を取り、優しい声で言った。
「これはこれは美しいマドモアゼル……どうか、あなたさえよろしければ私と踊っていただけませんか?」
「は、はい、喜んで!」
エミリーは憧れの国王が自分に声を掛けてきたということに対して未だに現実が受け入れられず、声がうわずっていた。
エミリーはアンリナ一世のリードを受けて舞踏会の中央でワルツを踏んでいたのである。
アンリナ一世は実力のある国王というだけのこともあり、ダンスの鍛錬も相当に積んでいるらしい。
エミリーを上手くリードして彼は心の赴くままに彼女とダンスを楽しんでいたのであった。ダンスの間も多くの喋りを行ったことは彼にとって今日の舞踏会における最大の収穫であったとも言えた。
そうした双方にとっての楽しいダンスを中断したのはエミリーが喉の渇きを訴えたからである。
アンリナ一世は舞踏会の会場を歩いていた給仕係の男性から飲み物を奪い取ると、それを優しくエミリーに渡したのである。
「あ、ありがとうございます」
エミリーは声を振るわせながらお礼の言葉を述べた。
このまま和かな時間が進めばよかったのだが、やはりここは社交界。悪い噂も立つものだ。
「あら、リバリー男爵夫人はアンリナ一世陛下とお楽しみらしいわよ」
「昨日はまではクリストフ卿という立派な婚約者がいたというのにね、本当あのお方は乗り換えが上手ね」
「本当、あのお方は純粋無垢なフリをして本当は殿方を引っ掛けるのがお上手なのよ」
「あら、ダメよ、本人に聞こえてしまうわ」
下劣な噂話やそれに伴ってクスクスという嘲笑の音が聞こえると、エミリーは頬を赤く染めながらアンリナ一世から視線を逸らした。
その瞬間にアンリナ一世は噂をしていた二人の若い夫人の元へと向かい、そこに行くまでの道中で給仕係から飲み物を奪い取った。
それから好意的な表情で自身を出迎えた二人のドレスに向かって飲み物を放ったのである。
大切なドレスの中心に大きな汚れができ、二人の夫人は悲鳴を上げていた。
夫人の悲鳴を聞き付けたフィンが主賓席の上から立ち上がり、慌ててアンリナ一世の元へと駆け寄っていく。
「な、何をなされたので?」
驚いた表情のフィンに対してアンリナ一世は淡々とした口調で答えた。
「私の今夜の大事なパートナーをこの二人が公然と侮辱したものでね。それで当然の報復を行ったまでのことだ」
二人は泣きそうな顔をしているが、それに同情してこの場で二人の顔を立てれば不味いことになる。
それに公然と侮辱という言葉もフィンには引っ掛かっていた。そうした事情もあり、精神的な衝撃を受けた二人には退席を勧め、二人の代わりにファンが代わって非礼を詫びたのであった。
「オレはよい、それよりもエミリーの傷付いた心はもう二度と元には戻らぬのだぞ」
「な、なんとお詫びをすればいいのか」
まさか、こんなことで外交が躓くことになるとは思いもしなかった。フィンがその場で頭を下げようとした時だ。
「大丈夫です。私は平気ですから」
エミリーは可愛らしい笑みを浮かべながら言った。
そんなエミリーをアンリナ一世は抱き寄せながら甘い声で言った。
「本当か?不満なことがあったらオレに言うのだぞ」
「いいえ、本当に私は辛くありませんから」
アンリナ一世は感銘を受けていた。このような真っ直ぐな心持ちの女性がこの世にいるとは夢にも思わなかったのだ。
同時にフィンは面倒が起こらなかったということに胸を撫で下ろしていた。
そして、またしても主賓席に戻り、酒と料理を片手に舞踏会を見守ることになったのだが、その時に今度はマチルダに肩を突かれる羽目になってしまった。
「陛下、どうしてエミリーがあそこまで仲良くなっているんですか?」
マチルダは心底から訳が分からないという顔と苛立っているのか、どこか低い声でフィンに向かって問い掛けた。
それに対してどう言葉を返せばいいのか分からなかったので、フィンは沈黙するより他になかった。
マチルダはしばらく不満そうに両腕を組みながらフィンを睨んでいたが、やがて仕方がないとばかりにフィンの隣で無粋な笑顔を浮かべたまま舞踏会を見守っていた。
その後またしてもエミリーの悪口を言ったか、言わないかでのトラブルが引き起こされたが、そのような右往曲折はあろうともなんとか無事に舞踏会は終了したのであった。
しかし、翌日にはまたしても新たな問題が発生することになった。
なんとアンリナ一世は幽閉中の身であるにも関わらず、エミリー・リバリー男爵夫人に夢中となり、彼女を婚約者として迎え入れるという旨を発言したのである。
その証拠にアンリナ一世は婚約発表の当日よりエミリーを街へと連れ出していたのである。
この出来事がまた別の騒動を引き起こすことになるのである。
騒動の発端となったのは街の服飾店である。その日カーラは締切になっていたドレスを納めていたのだが、そのドレスをエミリーが欲しいと懇願したのだ。
そこまでは問題がなかった。単純にドレスが欲しいというだけの話であったのだから。
話がややこしくなってしまったのはその際にエミリーがカーラを欲しがったからである。
あとがき
またしても投稿が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
また、自分にとっても今回は妥協をしたくないということで添削などもあり、中途半端な時間に投稿することになってしまいました。
ですから自分にとって今日は筆がノリに乗った日でありまして、今後も同じような調子で書き進められるかは不安です。
次回はもう少し短い、それに加えてあまり面白くない話になるかもしれませんが、愛想を尽かさずに引き続き読み続けていただければ幸いです。
「となると、やはり『ジャッカル』の連中は全滅したのか」
アンリナ一世は玉座の前で跪く報告係の男に対して苛立ちを表すかのように肘掛けの上に人差し指をコツコツと叩きながら問い掛けた。
「は、はい!全員が倒されたとしか言い表せませぬ!更に現地の協力者ごと葬り去られた模様でしてーー」
「よい。余は気にしておらぬ。裏を使って始末することができなくなっただけに過ぎぬのだ」
アンリナは面倒くさげに手を払いながら部下に向かって言い放った。
肝心の部下は意味が理解できなかったらしく、首を傾げながらアンリナ一世に問い掛けた。
「と、仰られますと?」
「……わからぬか?今度は余自らが打って出ようというのだ」
アンリナ一世は反応の遅い部下に苛立たったのか、玉座の肘掛けの上に人差し指をトントンと叩きながら回答を発していた。
だが、部下の男は不機嫌な王の様子を察することができなかったらしい。空気の読めない大きな声を上げながら問い掛けた。
「陛下が自らその御身を危険に晒されるというのですか?」
「そうだ。だが、オレにも考えがあってのことだ。そのためにはオレ自身が行かねばならぬのだよ。オレは正攻法を用いて我が弟をそれから害虫駆除人なる悪党を片付けてやるつもりだ」
アンリナ一世はそれだけ吐き捨てると、男を下がらせ、代わりに手を叩いて大臣を呼び出す。
「へ、陛下、何の御用でございましょうか?」
「余はしばらくこの国を留守にする。その間の内政を卿に任せたいのだ」
「ど、どちらに向かわれるのですか!?」
アンリナはしばらく無言であった。だが、すぐに西の方角を指差して言った。
「クラインだ。クライン王国に向かう」
「く、クラインですと!?何故に!?」
「理由などないわ。将軍と親衛隊を連れて来い。弟に余自らの手で引導を渡すだけよ」
アンリナ一世は意味深な笑みを浮かべて言った。無言の圧が大臣を襲っていく。それでも大臣は言葉を震わせながら王に向かって諌めの言葉を口にした。
「恐れながら申し上げます。我が国の民は誰も戦など望んではおりませぬ。何卒、それだけはーー」
「安心せい、誰が戦など引き起こすと言うた?余は弟に引導を渡しに行くだけだ」
アンリナはその後に大臣と何かを熱心に話し合っていた。そして話が終わったと思われるタイミングで大臣が止めるのも聞かず、自らの体をクルリと翻し、自身の部屋に向かい鎧と兜を羽織っていく。
それから馬小屋に向かい、軍馬として使っている黒色の毛並みをした立派な馬に腰を下ろし、親衛隊と将軍の到着を待っていた。
親衛隊と将軍が現れたのはアンリナが全ての準備を終えてから一時間後のことであった。
その場を代表してシャープな形をした将軍が謝罪の言葉を述べた。
「も、申し訳ありませぬ。このメレンザ一生の不覚でございまする」
「よい、それよりもクライン王国まで余の共をせい」
アンリナはメレンザ将軍の遅刻を寛大にも許した。馬上から自分より何歳も年上であるはずのメレンザ将軍を見下ろしながら低い声で命令を下す様からはいちいちそんな小さなことにはこだわっていられないという彼の意思のようなものも感じられた。
馬上から命令を下す国王の権威と権勢、そして権力を纏わせた一連のオーラにメレンザ将軍は全身を震わせながら膝をついた。続いて親衛隊もメレンザ将軍に続いていく。
オルレアンス王国の国旗を掲げた国王と将軍、それから親衛隊を混ぜた小規模の軍隊はクライン王国の国境を目指してひたかけに駆けていったのである。
彼らが目指すのはクライン王国の国王が住まう場所すなわち王宮であった。
「そ、そんな、ジオラーデ子爵夫人が!?」
「えぇ、二日ほど前、賊の侵入によってそのまま……」
ジオラーデ子爵夫人と繋がりの強かったホワインセアム家のメイド、ガーネットはジオラーデ子爵夫人の許報を聞き付けた瞬間に婚約者であるエミリーの元へと駆け付けずにはいられなかったのだ。
かつての子爵夫人の友人のメイドは涙を流しながら己の主人の最期をエミリーへと告げていた。
エミリーはそれを受けて両目から涙を流し、既に冥界王の元へと旅立ったフレア・ジオラーデを憐んでいたのである。
ガーネットがそんなエミリーの背中を優しく摩っていたのはこの計画に加担していたからだろう。
ガーネットは子どものように無邪気な涙を流すエミリーを優しく宥め、彼女のためにお茶を淹れ、お茶菓子を用意したのである。
ガーネットはエミリーが落ち着いた頃合いを見計らって、真剣な顔を浮かべながら言った。
「エミリー様、落ち着いて聞いてくださいませ、恐らく今回ジオラーデ子爵夫人に手を下したのは駆除人ですわ」
「く、駆除人!?どうして、そんな恐ろしい方々にジオラーデ子爵夫人が狙われなくてはいけないの!?」
「わかりません。ですが、私は思うんです。害虫駆除人というのは相手が貴族だからという理由で狙っているのではないかと」
ガーネットの言葉は的外れであった。彼女はどうして駆除人が“害虫”という冠を付けているのかを知りもしなかったからそんないい加減なことが言えたのだ。
害虫駆除人は貴族だから狙っているのではない。相手が悪人であるから狙っているのだ。それだけの話なのだ。
だが、勝手な推察によって怒りを感じたエミリーは自らに起こった悲しみを押し殺し、椅子の上から立ち上がったかと思うと、自身の決意をガーネットに向かって表明したのである。
「私ッ!やりますッ!必ず害虫駆除人を仕留めて、お友達だったジオラーデ子爵夫人の無念を晴らさせていただきますの!」
エミリーは両目から涙を溢しながらもその決意を表明していたのである。
それに今回の件に関してはフレアだけではない。婚約者のクリストフ、兄のロバート、それに両親も全て害虫駆除人の手によって亡くしているのだ。
エミリーは駆除人の手によって家族を奪われた悲劇のお姫様であった。
実のところ、彼女の決意の中からはそうした類の酔いが感じられた。
だが、決意を固めたのはいいものの、どうやって害虫駆除人を仕留めるのかはまるで頭になかった。
クリストフもフレアも既に冥界王の元へと旅立ってしまった上に昨日の一件で『ジャッカル』そのものも壊滅しており、彼女に復讐の手立てはなかった。
純粋培養でおめでたい世界で暮らしてきたためか、そうした裏社会におけるコネクションもない。
言うなれば詰みの状況にあった。どうすれば良いのかと頭を悩ませていた時だ。
扉を叩く音が聞こえた。
「失礼致します。セリーナです。お茶が入りまして」
エミリー付きのメイドであるセリーナの姿が見えた。以前エミリーを世話していた時に着ていた平民の女性が着る服装ではなく、貴族の家に仕える女性たちが着用するエプロンドレスを身に纏っていることがその最大の証明であったともいえた。セリーナが採用されているのは自分が貴族としての地位を剥奪され、路頭に迷っていたところを礼節を持って世話してくれていたからという面が大きい。いうならばセリーナに対する恩返しであるともいえた。
もちろん、セリーナ自身の忠誠心もエミリーは高く評価している。彼女がいなければ自分は生きていなかっただろう。
一度は首を切られたはずのセリーナがお付きのメイドとして雇用された理由はこの二つの要因からなる。
この二つの理由からエミリーはセリーナに関しては他の人物よりも柔らかい声で接していた。
「ありがとう。セリーナ、そこに置いておいてちょうだい」
エミリーは机の上を指指す。セリーナはエミリーの指示に従って、机の上へとお茶を置いた。
それからエミリーの方へと興味深そうな顔を向けて、
「お嬢様、ガーネットと何か妙なお話をされていたようですね。よろしければ教えていただけないでしょうか?」
と、問い掛けたのである。
「あなた、話を聞いていたの?」
エミリーが目を丸くしながら問い掛けた。
「えぇ、扉の向こうでお茶をお持ちしようとした時に小耳に挟んでしまい……申し訳ありませんでした」
「聞いてしまったのならば致し方がありません。セリーナさんにもお仲間に加わっていただけないでしょうか?」
ガーネットは意外にも盗み聞きを肯定してくれるようだ。肯定的な言葉を口にし、セリーナも計画に加わるように指示を出した。
目的は害虫駆除人の排除。その一つしかなかった。セリーナにとっても馴染みのある言葉であった。それ故に同調した。
三人が仲良く話を練っていた時だ。屋敷の執事が扉を開いて、エミリーの元へと訪れた。
「大変です!隣国オルレアンスの軍隊が国境付近に現れたということで!現在各屋敷で武装が叫ばれております!」
「い、いやぁ!」
エミリーはその言葉を聞くなり、悲鳴を上げて耳を塞いでいく。動揺のためにコップを地面の上に落としてさえいた。
そうした行為を行ったのはエミリーの中に存在する軍隊や兵士に対する恐怖心が彼女をそう追い詰めたからであった。
付き合いの長いセリーナはその対応を分かっていたから慌てて優しい声で慰めてやらねばならなかったのだ。
ガーネットはこの報告を受け、直ちにホワイアンセアム公爵家の屋敷へと戻らなくてはならなかった。
その日エミリーは頑丈な地下室に篭り、食事は全てセリーナが運ばなくてはならないことになった。
これでは害虫駆除人の話どころではあるまい。セリーナは頭を抱えていた。
実際オルレアンス王国の侵攻によって人々の間からはジオラーデ子爵夫人の一件は完全に打ち消させれる羽目になってしまったのだ。
現国王フィンはこの事態を打開するために国境付近に現れたアンリナ一世と同じように軍隊を引き連れ、アンリナ一世の率いる軍の側へと向かっていったのである。
しばしの間両者は睨み合っていたのだが、両軍から遣わされた使者の往還によって交渉がなされていく。
数時間に及ぶ交渉の末にアンリナ一世は武装を解除した。代わりにアンリナ一世並びにメレンザ将軍と親衛隊を王宮へと引き連れていかねばならなかったのだ。
フィンとアンリナ一世とは王宮の応接室にて交渉を行なっていた。
もてなしのためのお茶とお菓子が用意された状況の中で、話し合いは行われたのだが、アンリナ一世が出した要求はフィンの予想を大きく上回るものであった。
というのも、アンリナ一世は今回わざわざ自らが持ってきた条件というのがクライン王国に亡命したヒューゴをオルレアンスに引き渡すこととアンリナ一世を主君、オルレアンス王国を宗主国としてそれらの主君や君主に貢物をするという形での貿易を行うことを提示したのである。フィンは当然席の上から立ち上がり、抗議の言葉を叫んだ。
「そ、そんなことを急に言われても困るッ!」
「フフッ、困るのはそちらの方だろう?」
アンリナ一世は意味深な笑みを含めて笑っていた。本来であるのならば王宮の中に囲まれて人質に取られているアンリナ一世の方が不利であるに違いないなかったのだが、アンリナ一世からはそうした不利な様子は確認できなかったのだ。
アンリナ一世の計画としてはもし、クライン王国で自分の身に何かが起きるなどの緊急事態が生じた場合にはそれを口実にオルレアンスの軍隊が攻め入る算段となっているのだ。
その前に自分と親衛隊それに将軍が王都で暴れ回り、王都の機能をある程度はめちゃくちゃにするのも計算しているのだろう。
それ故に下手にアンリナ一世に手を出せばオルレアンス王国との大規模な戦へと発展してしまうことになる。
フィンは自らがアンリナ一世の手の上で踊らせているかのように心境へと陥っていた。
アンリナ一世はどうすればいいのかが分からずに視線を逸らしている若き国王に対して上からの視線で見下ろしていくのであった。
「簡単な話だ。キミが私の出した条件を飲めばよいのだ。そうすれば今回は矛を収めてやろう」
「今回は?まだ次もあるということですか?」
フィンの声は震えていた。それは次なる戦が起こるかもしれないという恐怖によるものだ。
「それはキミ次第だ。私はいつでもクライン王国の行方次第で軍隊を進めることができるのだよ」
アンリナ一世は勝利を含んだ笑みを浮かべていた。フィンは拳を握り締めていた。爪が肉の中に食い込むほどの強い力で握っていたからか、次第にフィンを苦痛が襲うようになった。
思わず顔を顰めたが、今はそれよりも重大な悩みがある。
フィンはアンリナ一世の方を向き、恐る恐ると言わんばかりの表情で彼を見つめながら言った。
「しばらく考えさせていただけないだろうか?いくら何でもこの内容は私の一存で決めるわけにはいかないのです」
「よかろう。だが、あまり私を待たせるなよ」
アンリナ一世は用意されたお茶を飲み干し、用意された長椅子に背を埋めながら言った。
フィンは緊急で大臣を招集し、アンリナ一世の提示した条件についての話し合いを行なっていたのである。
当然大臣たちの意見は真っ二つに分かれた。
「やむを得ません。貿易によって得られる利益に民の安全を考慮すると、アンリナ一世陛下が提示された条件を受け入れるべきです!」
貿易を司る大臣は声を高くしてそう主張した。
「それはオルレアンスの軍門に我が国が降るということですぞッ!代々この国を取りまとめてきた先祖に申し訳が立たぬとは思わんのですか!?」
警備を司る大臣は以上のように主張した。両者の意見は真っ向から対決することになった。
「しかし、人の命や利益には変えられませんぞ!」
「だからと言って、これから私たちや私たちの子孫がむざむざアンリナ一世の……いいや、オルレアンスの靴を舐め続けるというのですか!?」
「安全や利益には変えられないでしょうッ!」
会議はまとまらない。最後まで沈黙を余儀なくされていたフィンであったが、ある程度までまとまってきたところで彼はようやく己の考えを発することにした。
「……オレの考えを述べよう。オレは……いいや、クライン王国はオルレアンスの下僕になるつもりはない。対等な友としての貿易ならば感謝するところだが、下僕としてその靴を舐める代わりに金を渡すような貿易ならばこちらからお断りだ」
フィンの決断は大臣たちを二つの意味で大きく湧かせた。いい意味で湧いた人もいれば、悪い意味で湧いた人もいただろう。
いずれにしろ、国王の決定であるのならば従うよりは他になかったのだ。
翌日にフィンは交渉の席でアンリナ一世に明確な拒絶の意思を示し、しばらくは捕虜としてクライン王国に滞在してもらうことを告げたのであった。ただし、その待遇は客人としてのものであり、国王や親衛隊、それに将軍は礼節を持って迎え入れられることになっていた。それがフィンに対してアンリナ一世へと行うことができるせめてもの慰めであったともいえた。
事実アンリナ一世はその処遇に満足したのか、しばらくの間はクライン王国に腰を下ろすことを決めたそうだ。
そのことを祝して、翌日の晩には国中の門閥貴族を招いての盛大な舞踏会が執り行われることになった。
舞踏会は会場の奥に国王とその婚約者が座る席が用意され、その前に専用の料理と酒が並べられていく。
これにより、国王とその婚約者は舞踏会のダンスを見守るという形になっているのだ。
そうした席が用意されていることからも分かるようにフィンとその婚約者マチルダ・バロウズが先に入室したのである。
その次が各貴族の家からなる出席者たちである。
そして、最後に入場したのは白色の正装に身を包んだアンリナ一世であった。彼は親衛隊や将軍に守られながら舞踏会に出席したのであった。
通常であるのならば舞踏会であるにも関わらず、護衛に纏わりつかれているような人物にはお近づきにはなりたくないだろう。
だが、白色の正装という高潔な衣装に身を包んでいたことや顔形の整った国王という高いスペックが舞踏会に参加した夫人や令嬢たちの心を大きく掴んだのである。
舞踏会に参加した紳士や子息たちも外交の意味もあり、声を掛けずにはいられなかった。
そうした思惑や予想外の反応などもあり、間違いなく、その日の舞踏会における主役は間違いなくアンリナ一世であった。
軍隊や兵士に拒絶の意思を示していたリバリー男爵夫人エミリーもアンリナ一世に夢中になった夫人の一人であった。
この日奇しくもエミリーはアンリナ一世と同じ白色のドレスに身を包んでいたのである。
エミリーは可愛らしい笑みを浮かべながらアンリナ一世の元へと縋っていく。
アンリナ一世は当初はエミリーに無関心であったが、彼女が自分と同じ色のドレスを身に纏っていることに強い関心を示したのである。
それから普段は見せないような優しさを浮かべた笑みを向けていると、夫人や令嬢たちは感極まった悲鳴を上げた。
だが、その笑顔がエミリーにのみ向けられていたということを知ると、一斉に嫉妬の視線を向けていったのである。
エミリーはその嫉妬の視線に怯える素振りを見せた。演技ではない。彼女にとっては素の自分自身を見せたに過ぎない。
だが、それがまた他の参加者たちからの嫉妬を買っていくのであった。
愛らしい子猫のような振る舞いにアンリナ一世は夢中になった。これまでの人生において彼が初めて女性を好きになった瞬間であったかもしれなかった。
その証拠に擦り寄ってきた他の女性を押し除け、エミリーの元へと向かっていくのであった。
それから急に自分の元に来て動揺の色を浮かべるエミリーの手を取り、優しい声で言った。
「これはこれは美しいマドモアゼル……どうか、あなたさえよろしければ私と踊っていただけませんか?」
「は、はい、喜んで!」
エミリーは憧れの国王が自分に声を掛けてきたということに対して未だに現実が受け入れられず、声がうわずっていた。
エミリーはアンリナ一世のリードを受けて舞踏会の中央でワルツを踏んでいたのである。
アンリナ一世は実力のある国王というだけのこともあり、ダンスの鍛錬も相当に積んでいるらしい。
エミリーを上手くリードして彼は心の赴くままに彼女とダンスを楽しんでいたのであった。ダンスの間も多くの喋りを行ったことは彼にとって今日の舞踏会における最大の収穫であったとも言えた。
そうした双方にとっての楽しいダンスを中断したのはエミリーが喉の渇きを訴えたからである。
アンリナ一世は舞踏会の会場を歩いていた給仕係の男性から飲み物を奪い取ると、それを優しくエミリーに渡したのである。
「あ、ありがとうございます」
エミリーは声を振るわせながらお礼の言葉を述べた。
このまま和かな時間が進めばよかったのだが、やはりここは社交界。悪い噂も立つものだ。
「あら、リバリー男爵夫人はアンリナ一世陛下とお楽しみらしいわよ」
「昨日はまではクリストフ卿という立派な婚約者がいたというのにね、本当あのお方は乗り換えが上手ね」
「本当、あのお方は純粋無垢なフリをして本当は殿方を引っ掛けるのがお上手なのよ」
「あら、ダメよ、本人に聞こえてしまうわ」
下劣な噂話やそれに伴ってクスクスという嘲笑の音が聞こえると、エミリーは頬を赤く染めながらアンリナ一世から視線を逸らした。
その瞬間にアンリナ一世は噂をしていた二人の若い夫人の元へと向かい、そこに行くまでの道中で給仕係から飲み物を奪い取った。
それから好意的な表情で自身を出迎えた二人のドレスに向かって飲み物を放ったのである。
大切なドレスの中心に大きな汚れができ、二人の夫人は悲鳴を上げていた。
夫人の悲鳴を聞き付けたフィンが主賓席の上から立ち上がり、慌ててアンリナ一世の元へと駆け寄っていく。
「な、何をなされたので?」
驚いた表情のフィンに対してアンリナ一世は淡々とした口調で答えた。
「私の今夜の大事なパートナーをこの二人が公然と侮辱したものでね。それで当然の報復を行ったまでのことだ」
二人は泣きそうな顔をしているが、それに同情してこの場で二人の顔を立てれば不味いことになる。
それに公然と侮辱という言葉もフィンには引っ掛かっていた。そうした事情もあり、精神的な衝撃を受けた二人には退席を勧め、二人の代わりにファンが代わって非礼を詫びたのであった。
「オレはよい、それよりもエミリーの傷付いた心はもう二度と元には戻らぬのだぞ」
「な、なんとお詫びをすればいいのか」
まさか、こんなことで外交が躓くことになるとは思いもしなかった。フィンがその場で頭を下げようとした時だ。
「大丈夫です。私は平気ですから」
エミリーは可愛らしい笑みを浮かべながら言った。
そんなエミリーをアンリナ一世は抱き寄せながら甘い声で言った。
「本当か?不満なことがあったらオレに言うのだぞ」
「いいえ、本当に私は辛くありませんから」
アンリナ一世は感銘を受けていた。このような真っ直ぐな心持ちの女性がこの世にいるとは夢にも思わなかったのだ。
同時にフィンは面倒が起こらなかったということに胸を撫で下ろしていた。
そして、またしても主賓席に戻り、酒と料理を片手に舞踏会を見守ることになったのだが、その時に今度はマチルダに肩を突かれる羽目になってしまった。
「陛下、どうしてエミリーがあそこまで仲良くなっているんですか?」
マチルダは心底から訳が分からないという顔と苛立っているのか、どこか低い声でフィンに向かって問い掛けた。
それに対してどう言葉を返せばいいのか分からなかったので、フィンは沈黙するより他になかった。
マチルダはしばらく不満そうに両腕を組みながらフィンを睨んでいたが、やがて仕方がないとばかりにフィンの隣で無粋な笑顔を浮かべたまま舞踏会を見守っていた。
その後またしてもエミリーの悪口を言ったか、言わないかでのトラブルが引き起こされたが、そのような右往曲折はあろうともなんとか無事に舞踏会は終了したのであった。
しかし、翌日にはまたしても新たな問題が発生することになった。
なんとアンリナ一世は幽閉中の身であるにも関わらず、エミリー・リバリー男爵夫人に夢中となり、彼女を婚約者として迎え入れるという旨を発言したのである。
その証拠にアンリナ一世は婚約発表の当日よりエミリーを街へと連れ出していたのである。
この出来事がまた別の騒動を引き起こすことになるのである。
騒動の発端となったのは街の服飾店である。その日カーラは締切になっていたドレスを納めていたのだが、そのドレスをエミリーが欲しいと懇願したのだ。
そこまでは問題がなかった。単純にドレスが欲しいというだけの話であったのだから。
話がややこしくなってしまったのはその際にエミリーがカーラを欲しがったからである。
あとがき
またしても投稿が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
また、自分にとっても今回は妥協をしたくないということで添削などもあり、中途半端な時間に投稿することになってしまいました。
ですから自分にとって今日は筆がノリに乗った日でありまして、今後も同じような調子で書き進められるかは不安です。
次回はもう少し短い、それに加えてあまり面白くない話になるかもしれませんが、愛想を尽かさずに引き続き読み続けていただければ幸いです。
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