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第四章『この私が狼の牙をへし折ってご覧にいれますわ』
狼の牙はもう使い物になりませんわ
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「よもや、ここでの痛手を負うとは思ってもいなかったな。相手に罠に掛けるはずがこちらが損害を負うとは流石の私も予想外だ」
と、マクシミリアンは真っ直ぐな嫌味をフレアへとぶつけた。
マクシミリアンの瞳はジオラーデ子爵邸の中心に位置する塔のてっぺんに設けられた真っ暗な部屋の中にある一つだけ用意された蝋燭の炎を揺らすほどであった。
マクシミリアンの険しい瞳はフレアを通り越して、彼女の背後にある壁に飾られている剣に向けられていた。下手をすればあの剣で粛清するつもりであるのかもしれない。
粛清までも視野に入れられたのでは流石のフレアもその目の恐ろしさと反論が難しさとに沈黙を余儀なくされ、気まずそうに目線を逸らしていたのであった。
「まぁ、いい。しかし、生き残ったのは私と卿だけだ。こうなれば計画もままなるまい」
マクシミリアンは窓際に用意された座り心地の良い一人用のソファーに腰を沈めながら言った。
「まだよ!まだいけるわ!」
対するフレアは強気の態度を崩さなかった。本来であるのならば壊滅状態に等しいとい状況であるはずだが、彼女には絶対的な自信があった。
彼女の自身の所以となっていたのはクリストフの婚約者エミリー・リバリー男爵夫人である。
お飾りの爵位とはいえども門閥貴族であることは間違いない。
フレアとしては自身の地位や人脈のみならずリバリー男爵夫人としての地位や人脈も活用して国取りを行うつもりでいた。
だが、マクシミリアンはフレアの思い付きに対してどこか冷ややかな視線を向けていた。
「卿の考えには少し無理があるのではないのか?」
「そ、そんなはずないわ!今度は内から貴族たちを大量に離反させてーー」
「悪いが、卿の作戦案はもう信じられぬのだ。これまでに三度も失敗を重ね、その上最高死刑執行官であらせられるサンソン閣下まで死に追いやった。そんな奴の計画など失敗するに決まっておる」
マクシミリアンの口調は淡々としたものであった。だが、その言葉の中にはあからさまな弾劾の意図が込められている。
フレアはその意見に対して口を尖らせながら大きな声で反論するより他になかったのだ。
「ふ、ふざけないでッ!あの時にカーラが勝てたのは運が良かったからよッ!また、奴らに運が味方しなければあたしは勝てたのよッ!」
拳を握り締めながらの大きな声にもマクシミリアンは怯むこともなかった。彼は眉一つ動かさずに淡々とした口調で言い返した。
「それは仮定論に過ぎぬ。大事なのは結果だ。卿は結果として負けた。それだけが大事なのだ」
「じゃ、じゃあどうすればいいのよッ!」
フレアは必死な声で反論を叫んだ。その声が掠れていることから彼女も必死であるということが伝わってきた。
マクシミリアンはフレアの必死な様子を察したのか、先ほどよりも温もりを感じさせる声で自身の考えを告げたのである。
「……私に別の考えがある。クリストフの後釜を彼の父上に継いでもらうのだ」
マクシミリアンの考えとしては自分たちの傀儡として扱う次の国王にクリストフの父親を推挙し、その邪魔者となるフィンを除去するという従来の計画に少しだけ変更点を加えたものであった。
マクシミリアンの焼き直しとも言えるようないい加減な計画に眉間を寄せながら怒鳴り散らしたのはフレアである。
「何よッ!私の計画とちっとも変わらないじゃあないッ!いや、むしろ私の計画の方が現実味があるわ!」
「だが、計画には一貫性があった方が良いのだ。しかし、私の計画は以前のものに少しだけ色を足すことになる。卿が閣下にお送りされた書状の中にはガーネットなるメイドの証言があったな。先代国王に毒を盛ったのは医者のレキシーだと」
「えぇ、そうだけど、でもフィンには突っぱねられたわ。それにゴシップとしてもイマイチなネタよ、今更なんの役にも立たないわ」
「いいや、『火のないところに煙は立たぬ』という諺をご存知かな?力で押すのが無理ならば今度は風説を用いてあやつを嵌めるのだ」
ここまできたところでフレアにはマクシミリアンの意図を察した。つまるところ、自分やエミリーを用いて社交界で噂を流し、フィンの悪評を高めた後でマクシミリアンが次の国王としてクリストフの父親を推挙しようというものだ。
王家の直系としてはフィンが最後となる。つまり、フィンを失脚し、秘密裏に始末してしまえば王家の直系は途絶え、後はホワインセアム家が直系の王家に代わりクライン王国の王家として君臨することになるのだ。
あとは婚姻なり脅迫なりを用いてホワインセアム家を従えさせれば王家はいつまでも支配され続けていくことになる。
悪くない考えだ。それに噂話の破壊力というのは侮れないものだ。
どこかの言葉で『中傷も百度言い続ければ事実となる』というのを聞いたことがある。
今まではもったいぶった理由を付けてこうした計画を試すことはなかったのだが、実行してみる価値があるのではないだろうか。
フレアが口元の端を緩め、顔に悪どい笑顔を浮かべていた時だ。
不意に玄関から騒ぐ声が聞こえた。フレアとマクシミリアンが言葉を交わしていたのは屋敷の中央部に備える塔のてっぺんである。
三階建ての建物であり、建物の入り口までは庭が広がっている。
それ故建物の中心部にある窓を開くことで庭を一望できる設計となっているありがたいものだ。
フレアが職人の優しさによって作られたシステムを利用して、窓を開けると、そこには例の一網打尽計画の現場に現れた老剣士、オットーの姿が見えていた。
「ば、バカな……なんであいつが」
フレアの目には絶望の色が浮かんでいた。あの老剣士の強さは一網打尽にするはずの決闘の場で嫌というほどまでに見てきたのだ。
屋敷の中に待機している私兵だけでは防ぎ切れまい。腕に差が開き過ぎている。
フレアが焦った様子で忙しなく辺りを動いていると、マクシミリアンがすっと椅子の上から立ち上がったのだ。
それから部屋の扉を開いたのであった。
「何をしておる。このまま裏口からでも逃げるぞ。我々の身さえ無事であれば計画などいつでも遂行できるのだからな」
「いいえ、あなた方の計画はもうここで終わりよ」
闇の中から声が聞こえた。二人が慌てて闇の中へと目線を向けると、そこには針を構えたカーラの姿が見えた。
いや、カーラばかりではない。その隣には同じく腰に剣を下げたヒューゴの姿まで見受けられた。
恐らくオットーを正面で暴れさせ、その隙に乗じて自分たちを仕留めるつもりでいたのだろう。恐らく屋敷の中にいた私兵や使用人たちはレキシーやヴァイオレットといったこの場にいない駆除人たちが片を付けたのだろう。今頃は夢の世界にでも旅立って、さぞかし心地の良い夢を見ているのだろう。
フレアは自身がまんまと毒牙に掛かってしまったことを理解したのであった。拳を震わせたかと思うと、机の上に置きっぱなしにしていた自身の得物を取り出す。
それから窓を勢いよく開いたかと思うと、屋根の上へと登っていったのだ。
フレアは屋根の上から逃げるつもりであるに違いない。元駆除人であるフレアだからこそ出来た芸当だろう。
だが、逃しはしない。カーラもそれを追って屋根の上を駆けていく。
登っている間は隙だらけである。そのことを理解していたマクシミリアンは部屋の壁に飾られていた剣を手に取り、カーラを仕留めようと目論んだのであるが、その前にヒューゴが斬りかかってきたのである。
ヒューゴの剣をマクシミリアンはやっとの思いで受け止めた。覚悟を決めた獣ほど怖いものはない。
マクシミリアンは自身の腕が痺れるたびにそんな思いを抱いていたのである。
小さな蝋燭が照らす狭い部屋の中で二人は対峙していた。
「……腕を上げられましたな、殿下」
マクシミリアンとしては素直にヒューゴの上達の具合を素直に褒め称えたつもりでいた。
だが、ヒューゴには嫌味に取られてしまったらしい。
「オレの家族を殺した機関の一員に言われても嬉しくはないな」
と、ヒューゴは至極不機嫌な様子で剣を構えながら嫌味を返す。それから後は無言であった。狭い部屋の中で互いに睨み合い、剣を構えて互いの隙を窺っていたのである。
一方で、屋根の上に登り詰めた二人の駆除人もまた互いに睨み合っていた。フレアが逃げなかったのは逃げられないと腹を括ったからだろう。フレアは下唇を噛み締めながら二本の刃物をカーラへと突き付けていく。
夜風が二人の間に降り注ぎ、なんとも言えない空気を作り上げていたのだ。
二人はしばらく互いの得物を片手に睨み合いを続けていたが、やがてフレアは耐えきれなくなったのか、口を開いた。
「さぁ、もう逃げも隠れもしないわ。駆除人らしくここで決着を付けましょう。カーラ」
「心得ましたわ。あなたにしては陳勝なお心掛けではなくて?」
「フフッ、もう嫌なのよ、毎度毎度あんたに負けた上で尻尾を巻いて逃げ出すのはねッ!」
と、フレアは声を荒げて叫び声を出した後で二本の刃物を突きつけながら勝負を仕掛けてきたのである。
二本の刃物を一斉に突き出し、カーラを串刺しにしようと目論んだのである。
カーラは己の体を捻って二本の刃物による串刺しを防ぎ、そのままフレアの背後へと回ったのである。
そのままフレアに対して針を突き刺そうと目論んだのだが、やはりフレアも手だれであることには変わらない。
フレアは己の体を捻り、反対にカーラの背中を取ったのである。
しかし、カーラとしてもここで怯むわけにはいかなかった。自身の背中を鋭利な刃物で脅しているフレアの手を両手で取り、地面に向かって叩き付けようと目論んだのである。
フレアは叩き付けられる寸前に宙の上を飛び上がり、その上で回転して着地することで屋根の上から落ちるという最悪の事態を防いだのである。
だが、動揺は隠せなかったらしい。フレアは声を震わせながら問い掛けた。
「な、なんなの!なんのよ!今の技は!?」
「……お祖父様から昔習った武術である、とだけ言っておきますわ」
カーラは針を突き付けながら言った。交友関係の広い祖父が昔誰かに習ったものを覚えており、それを祖父のリーバイによって行われた修業期間の間に仕込まれたのだが、カーラはその名称を忘れてしまっていた。
深く思考していけば思い出せるかもしれないのだが、今の状況にあってはそんなことを思い出している余裕がないので思い出すのは後にすることにした。
カーラはそのまま針を構えながらフレアへと突っ込んでいく。
フレアはカーラの針を二本の刃物を使って防ぎ、彼女を二本の刃物を使って一度弾いた後で自身の得意技を用いたのである。もう一本の刃物を暗い空の上へと放り投げた後で花の茎の中に仕込んだ刃物をカーラへと突き刺さそうと目論んだのである。
カーラは闇の上から自身の頭を目掛けて刺さってくる刃物を大きく前方へと飛び上がることで交わし、その後のフレアによる攻撃を己の針を使うことで受け流したのである。
カーラは流れるままにフレアの胸元を狙って針を突き刺そうとしていく。
フレアは慌てて地面を蹴り己の身を滑らせ、カーラの両足を蹴ることでそのバランスを失わせて彼女から戦闘における優位な立ち位置を奪うことに成功したのである。
しかし、それに伴って自身も戦闘における優位な立ち位置を失い、屋根の上で座り込む羽目になってしまったのだ。
転落は防いだものの、新たに屋根のてっぺんへと登るのに苦労しているカーラを見ると、フレアはまだ優位な立ち位置にあったといえる。
そこまで考えたところで、フレアの中に妙案が思い浮かんだ。それは天啓にも等しい妙案であった。このまま必死な思いでぶら下がっているカーラを突き落としてしまえばいい。
カーラさえ始末してしまえばあとのことはどうとでもなる。ヒューゴが恐ろしいのならば別の窓に繋がる場所から戻ればいいのだし、裏口なりなんなりを活用すればレキシーやヴァイオレットにも会うことはないはずだ。
フレアは自身が助かるため、そして自身が長年培っていた鬱憤を晴らすため転落寸前のカーラの元へと己の身を這わせながら近付いていく。
あと少しだ。あと少しで忌まわしき悪役令嬢が地面の上に叩き付けられるのだ。
フレアがカーラの元へと近付いていった時だ。カーラの姿が自身の前から消え去っていったことを悟った。
目の前には屋根の上に深々と突き刺さった針だけが残っている。フレアが慌てて背後を見上げると、そこには自身の真上から飛び掛かってくるカーラの姿が見えた。
慌てて起き上がろうとしたが、屋根の上這っていたことが敗因となり、フレアは咄嗟に起き上がることができなかった。
そして、そのままカーラに組み伏せられていく。そのまま揉み合う中で、フレアはカーラによって足場のない闇の空間の中へと放り投げられてしまった。
フレアは悲鳴を上げながら闇の空間から地面の上へと落とされていく。
そして、闇の空間から地面の上へと叩き付けられていくのであった。それが子爵夫人フレア・ジオラーデの最期となった。
屋根の下からはオットーと交戦していた兵士たちが悲鳴を上げているのが聞こえてきた。
「ジオラーデ子爵夫人!?」
「ご、ご主人様!?」
闇の中であるので屋根の下のことはわからないが、私兵たちの狼狽えた具合からフレアが仕留められたことは確実であった。
カーラは屋根の上に突き刺した針を回収した。すると、固い屋根を無理矢理壊した弊害ともというべきか針の先端が大きく壊れて使い物にならなくなっていたことがわかった。
だが、それでも証拠を残すわけにはいかないので、針を袖の下に回収し、カーラはヒューゴの加勢へと向かって行ったのである。ヒューゴの加勢に向かう主な理由としてはヒューゴこそが『ジャッカル』の最終的な目標であり、ヒューゴが仕留められてしまえば彼らの目的は達成される羽目になってしまうからである。それだけは避けたかったのだ。
カーラのそうした考えは的中していた。実際カーラが様子を伺って塔の中心部にある部屋の中を覗き込むと、そこにはマクシミリアンとヒューゴによる壮絶な斬り合いが繰り広げられ、既に蝋燭の光は潰え、部屋のあちらこちらに傷が付いていた様子が見えていたのだ。
もし、カーラが介入していたとすればすぐに巻き添えとなって、冥界王の元へと旅立っていたに違いない。カーラは思わず生唾を飲み込んだ。
それ程までに壮絶な状況であるにも関わらず、マクシミリアンは未だに冷静な表情を崩していない。
冷や汗一つかいていない姿にヒューゴは改めて恐怖させられた。
そんなことを考えていた弊害か、ヒューゴはマクシミリアンによって剣を弾かれてしまった。
慌てて地面の上に落ちた自身の剣を拾い上げようと手を伸ばしたところに剣先を突き付けられてはたまったものではないだろう。
ヒューゴは抵抗する代わりにマクシミリアンを険しい目で睨み付けたのであった。
そんなヒューゴに流石のマクシミリアンも苛立ったのか、マクシミリアンはヒューゴの手を強い力で踏み付けたのである。
「クソッ、覚えてやがれ」
「フフッ、覚えていろ?もうすぐ冥界王の元へと旅立たれる殿下にどのような報復ができるというのですか?」
マクシミリアンの言葉にはあからさまな嫌味が含まれていた。いや、見下してさえいたというべきだろう。そんな状況であるにも関わらず、敬語を使っていたことが嫌味さに拍車を掛けていた。
絶対的に優位な自分の有利さを鼻にかけていたのだ。
そのままマクシミリアンはヒューゴの手を踏み続けた。
「さて、先ほども申し上げました通り、殿下には冥界王の元へと旅立っていただきます。向こうの世界で御両親と……いいや、閣下は駆除人であらせられましたな、いやはや失礼しました。駆除人ならば魔犬にその魂を喰われる宿命にあります。残念ながら再会は難しいですな」
「かもな、オレは家族には会えぬだろうよ、しかし、お前の方はどうだ?魔犬の胃袋の中で愛しのシャルルと再会できるんじゃあないのか?」
ヒューゴは荒い息を吐きながら答えた。
「……私を怒らせようとしても無駄ですぞ、そんなことに気を取られる私ではないのだから」
マクシミリアンの声からは怒りが感じられない。あまりにも冷静な態度で臨まれるのでヒューゴとしても困ったものであった。
マクシミリアンとしては一時の怒りに身を任せて襲い掛かるよりも今この場でヒューゴを仕留めた方が組織としての目的を果たせると考えたのだろう。
どこまでも合理主義的な考えで動いているマクシミリアンの考えそうなことだ。
恐らく、このままヒューゴを始末し、彼の兄アンリナ一世に事の次第を報告するつもりでいるのだろう。
そうすればマクシミリアンは次の最高死刑執行官になれるし、場合によっては高い爵位を与えられるに違いない。
ヒューゴは自身の真上から振り上げられてくる剣を見据えながらそんなことを考えていた。せめて一思いにしてくれと両目を閉じた時だ。急にバンッと大きな音が聞こえたかと思うと、マクシミリアンの方から何かに対して動揺する声が聞こえた。
恐る恐る両目を開くと、そこにはマクシミリアンの背後にまとわりつくカーラの姿が見えた。
そして、そのまま袖から壊れた針を取り出し、マクシミリアンの両目を狙っていた。
マクシミリアンの両目を狙っていたのは針の先端が折れ曲がってしまっているせいだろう。
それ故に目を狙っていたのだが、マクシミリアンは乱暴にカーラを引き剥がし、そのまま壁へと叩き付けたのである。
「とんでもない奴だ。だが、私をその針で刺せなかったのは痛かったな。待っていろ、ヒューゴよりも先に貴様の方を仕留めてやる」
この時全ての意識がカーラへと注がれていたのは合理主義者であるマクシミリアンに相応しくない失敗であったともいえた。
ヒューゴはマクシミリアンに気取られないように剣を拾い上げ、背後に向かって突っ込んでいくのであった。
マクシミリアンは剣を受けた後で悲鳴を上げて地面の上へと倒れ込む。
「ば、バカな……わ、私が……そうか、全てはヒューゴの始末を仰せつかったことが全ての元凶だったというのか」
マクシミリアンはその後も何かを言おうとして口をパクパクと動かしていたが、やがて事切れてその場に倒れてしまった。もう動くことはないだろう。
カーラは先端が使いものにならなくなった針を袖の下に戻し、ヒューゴに向かって勢いよく抱き着いたのである。
「ヒューゴさん!無事でようございましたわ!」
「……ありがとう。カーラ」
ヒューゴは両目から涙を流しながらカーラへと感謝の言葉を述べていた。
ヒューゴは願うことならばそのままずっと抱き着いていたかったのだが、レキシーとヴァイオレットの両名が勢いよく扉を開いたことでその願いはあっさりと断ち切られてしまったのであった。
「何をやっているんだい!警備隊や自警団の連中が来る前にここを逃げるよ!」
その言葉を聞いて二人は黙って首を縦に動かし、暗い屋敷の中、裏口を目指して走っていくのであった。
裏口を勢いよく開き、そのまま四人の駆除人は夜の闇の中へと消えていった。
同じ頃、オットーもジオラーデ子爵家の私兵たちを圧倒して正面口からその姿を消していた。
五人が逃げ出した先はかねてからの計画通りにレキシーの自宅であった。
五人は無事に襲撃が成功したことを祝い、レキシーのとっておきだという丸くて太い瓶に入った赤色の蒸留酒を取り出し、各々のカップの中に注いでいくと、楽しげに会話を交わしていく。
五人中でも一番饒舌であったのは今回の襲撃における最大の功労者であるオットー・ダルダスであった。
彼は酒を片手に大きな笑い声を上げながら己の生い立ちやこれまでのことなどを語っていた。
「わしはな、クラインやオルレアンスよりも更に向こうにあるプロントニアと呼ばれる国で産まれてな、そこでわしの家は元々侯爵の地位にあったのじゃ」
ぽつりぽつりと語るオットーの背中はどこか寂しげに見えた。
貴族時代に何か思い入れがあったのだろう。一同が真剣な目で見守る中で何が起こったのかを語っていく。
今よりも70年以上前プロントニア王国に君臨していたのは改革派の国王であり、その国王による容赦のない首切り政策によって無能な貴族たちは次々と爵位を剥奪されてしまい、市井の身へと落とされてしまったのだという。
その中にはダルダス家の存在もあった。
だが、先代のダルダス当主は市井の身に堕ちたとしても己の身の振り方を省みることなく、贅沢な生活を続け、とうとう借金取りに連れて行かれてしまったのそうだ。
オットーはそんな父の姿を反面教師とし、日々を学問と剣術に打ち込んでいたのであった。
また、道徳や倫理といった人間が持つ当たり前のものを身に付け、貴族としての選民意識を消しさせることに成功もしていた。
そして、立派な一角の剣客となったオットーは各地を放浪し、最終的には先代国王に銃士として召し上げられ、再び貴族としての生活を体験することになったのだ。
だが、その家族の生活に嫌気が差したこと、自分が生涯独身であり、家を継ぐ者が居なかったことを理由に銃士を辞め、各貴族の家で剣術の教師を行っていたのだ。
そんな中でたまたま居合わせた居酒屋でカーラたちの計画を聞き、己の正義に従って味方をしたというのが理由であった。
「本当にオットー様には感謝しておりますのよ、もし、オットー様が味方をしてくださらなければ私どもはどうなっていたか」
カーラはそこまで聞いたところで改めて頭を下げたのであった。
「いいや、気になさるな、古い言葉に『分かち合えば喜びは倍増し、悲しみは半減する』という言葉がありましてな、わしはその言葉に従っただけのことでございますよ」
「じゃ、じゃあ、せめて私たちの手で王都の外まで送らせてください。マルリアの一件で下手をしたら今すぐにでも兵士たちが集まっているかもしれませんもの」
「そうしてくれるとありがたいかな」
クライン王国からオルレアンスの内通者の一掃に協力した英雄は照れくさそうに頭を掻きながら言った。
と、マクシミリアンは真っ直ぐな嫌味をフレアへとぶつけた。
マクシミリアンの瞳はジオラーデ子爵邸の中心に位置する塔のてっぺんに設けられた真っ暗な部屋の中にある一つだけ用意された蝋燭の炎を揺らすほどであった。
マクシミリアンの険しい瞳はフレアを通り越して、彼女の背後にある壁に飾られている剣に向けられていた。下手をすればあの剣で粛清するつもりであるのかもしれない。
粛清までも視野に入れられたのでは流石のフレアもその目の恐ろしさと反論が難しさとに沈黙を余儀なくされ、気まずそうに目線を逸らしていたのであった。
「まぁ、いい。しかし、生き残ったのは私と卿だけだ。こうなれば計画もままなるまい」
マクシミリアンは窓際に用意された座り心地の良い一人用のソファーに腰を沈めながら言った。
「まだよ!まだいけるわ!」
対するフレアは強気の態度を崩さなかった。本来であるのならば壊滅状態に等しいとい状況であるはずだが、彼女には絶対的な自信があった。
彼女の自身の所以となっていたのはクリストフの婚約者エミリー・リバリー男爵夫人である。
お飾りの爵位とはいえども門閥貴族であることは間違いない。
フレアとしては自身の地位や人脈のみならずリバリー男爵夫人としての地位や人脈も活用して国取りを行うつもりでいた。
だが、マクシミリアンはフレアの思い付きに対してどこか冷ややかな視線を向けていた。
「卿の考えには少し無理があるのではないのか?」
「そ、そんなはずないわ!今度は内から貴族たちを大量に離反させてーー」
「悪いが、卿の作戦案はもう信じられぬのだ。これまでに三度も失敗を重ね、その上最高死刑執行官であらせられるサンソン閣下まで死に追いやった。そんな奴の計画など失敗するに決まっておる」
マクシミリアンの口調は淡々としたものであった。だが、その言葉の中にはあからさまな弾劾の意図が込められている。
フレアはその意見に対して口を尖らせながら大きな声で反論するより他になかったのだ。
「ふ、ふざけないでッ!あの時にカーラが勝てたのは運が良かったからよッ!また、奴らに運が味方しなければあたしは勝てたのよッ!」
拳を握り締めながらの大きな声にもマクシミリアンは怯むこともなかった。彼は眉一つ動かさずに淡々とした口調で言い返した。
「それは仮定論に過ぎぬ。大事なのは結果だ。卿は結果として負けた。それだけが大事なのだ」
「じゃ、じゃあどうすればいいのよッ!」
フレアは必死な声で反論を叫んだ。その声が掠れていることから彼女も必死であるということが伝わってきた。
マクシミリアンはフレアの必死な様子を察したのか、先ほどよりも温もりを感じさせる声で自身の考えを告げたのである。
「……私に別の考えがある。クリストフの後釜を彼の父上に継いでもらうのだ」
マクシミリアンの考えとしては自分たちの傀儡として扱う次の国王にクリストフの父親を推挙し、その邪魔者となるフィンを除去するという従来の計画に少しだけ変更点を加えたものであった。
マクシミリアンの焼き直しとも言えるようないい加減な計画に眉間を寄せながら怒鳴り散らしたのはフレアである。
「何よッ!私の計画とちっとも変わらないじゃあないッ!いや、むしろ私の計画の方が現実味があるわ!」
「だが、計画には一貫性があった方が良いのだ。しかし、私の計画は以前のものに少しだけ色を足すことになる。卿が閣下にお送りされた書状の中にはガーネットなるメイドの証言があったな。先代国王に毒を盛ったのは医者のレキシーだと」
「えぇ、そうだけど、でもフィンには突っぱねられたわ。それにゴシップとしてもイマイチなネタよ、今更なんの役にも立たないわ」
「いいや、『火のないところに煙は立たぬ』という諺をご存知かな?力で押すのが無理ならば今度は風説を用いてあやつを嵌めるのだ」
ここまできたところでフレアにはマクシミリアンの意図を察した。つまるところ、自分やエミリーを用いて社交界で噂を流し、フィンの悪評を高めた後でマクシミリアンが次の国王としてクリストフの父親を推挙しようというものだ。
王家の直系としてはフィンが最後となる。つまり、フィンを失脚し、秘密裏に始末してしまえば王家の直系は途絶え、後はホワインセアム家が直系の王家に代わりクライン王国の王家として君臨することになるのだ。
あとは婚姻なり脅迫なりを用いてホワインセアム家を従えさせれば王家はいつまでも支配され続けていくことになる。
悪くない考えだ。それに噂話の破壊力というのは侮れないものだ。
どこかの言葉で『中傷も百度言い続ければ事実となる』というのを聞いたことがある。
今まではもったいぶった理由を付けてこうした計画を試すことはなかったのだが、実行してみる価値があるのではないだろうか。
フレアが口元の端を緩め、顔に悪どい笑顔を浮かべていた時だ。
不意に玄関から騒ぐ声が聞こえた。フレアとマクシミリアンが言葉を交わしていたのは屋敷の中央部に備える塔のてっぺんである。
三階建ての建物であり、建物の入り口までは庭が広がっている。
それ故建物の中心部にある窓を開くことで庭を一望できる設計となっているありがたいものだ。
フレアが職人の優しさによって作られたシステムを利用して、窓を開けると、そこには例の一網打尽計画の現場に現れた老剣士、オットーの姿が見えていた。
「ば、バカな……なんであいつが」
フレアの目には絶望の色が浮かんでいた。あの老剣士の強さは一網打尽にするはずの決闘の場で嫌というほどまでに見てきたのだ。
屋敷の中に待機している私兵だけでは防ぎ切れまい。腕に差が開き過ぎている。
フレアが焦った様子で忙しなく辺りを動いていると、マクシミリアンがすっと椅子の上から立ち上がったのだ。
それから部屋の扉を開いたのであった。
「何をしておる。このまま裏口からでも逃げるぞ。我々の身さえ無事であれば計画などいつでも遂行できるのだからな」
「いいえ、あなた方の計画はもうここで終わりよ」
闇の中から声が聞こえた。二人が慌てて闇の中へと目線を向けると、そこには針を構えたカーラの姿が見えた。
いや、カーラばかりではない。その隣には同じく腰に剣を下げたヒューゴの姿まで見受けられた。
恐らくオットーを正面で暴れさせ、その隙に乗じて自分たちを仕留めるつもりでいたのだろう。恐らく屋敷の中にいた私兵や使用人たちはレキシーやヴァイオレットといったこの場にいない駆除人たちが片を付けたのだろう。今頃は夢の世界にでも旅立って、さぞかし心地の良い夢を見ているのだろう。
フレアは自身がまんまと毒牙に掛かってしまったことを理解したのであった。拳を震わせたかと思うと、机の上に置きっぱなしにしていた自身の得物を取り出す。
それから窓を勢いよく開いたかと思うと、屋根の上へと登っていったのだ。
フレアは屋根の上から逃げるつもりであるに違いない。元駆除人であるフレアだからこそ出来た芸当だろう。
だが、逃しはしない。カーラもそれを追って屋根の上を駆けていく。
登っている間は隙だらけである。そのことを理解していたマクシミリアンは部屋の壁に飾られていた剣を手に取り、カーラを仕留めようと目論んだのであるが、その前にヒューゴが斬りかかってきたのである。
ヒューゴの剣をマクシミリアンはやっとの思いで受け止めた。覚悟を決めた獣ほど怖いものはない。
マクシミリアンは自身の腕が痺れるたびにそんな思いを抱いていたのである。
小さな蝋燭が照らす狭い部屋の中で二人は対峙していた。
「……腕を上げられましたな、殿下」
マクシミリアンとしては素直にヒューゴの上達の具合を素直に褒め称えたつもりでいた。
だが、ヒューゴには嫌味に取られてしまったらしい。
「オレの家族を殺した機関の一員に言われても嬉しくはないな」
と、ヒューゴは至極不機嫌な様子で剣を構えながら嫌味を返す。それから後は無言であった。狭い部屋の中で互いに睨み合い、剣を構えて互いの隙を窺っていたのである。
一方で、屋根の上に登り詰めた二人の駆除人もまた互いに睨み合っていた。フレアが逃げなかったのは逃げられないと腹を括ったからだろう。フレアは下唇を噛み締めながら二本の刃物をカーラへと突き付けていく。
夜風が二人の間に降り注ぎ、なんとも言えない空気を作り上げていたのだ。
二人はしばらく互いの得物を片手に睨み合いを続けていたが、やがてフレアは耐えきれなくなったのか、口を開いた。
「さぁ、もう逃げも隠れもしないわ。駆除人らしくここで決着を付けましょう。カーラ」
「心得ましたわ。あなたにしては陳勝なお心掛けではなくて?」
「フフッ、もう嫌なのよ、毎度毎度あんたに負けた上で尻尾を巻いて逃げ出すのはねッ!」
と、フレアは声を荒げて叫び声を出した後で二本の刃物を突きつけながら勝負を仕掛けてきたのである。
二本の刃物を一斉に突き出し、カーラを串刺しにしようと目論んだのである。
カーラは己の体を捻って二本の刃物による串刺しを防ぎ、そのままフレアの背後へと回ったのである。
そのままフレアに対して針を突き刺そうと目論んだのだが、やはりフレアも手だれであることには変わらない。
フレアは己の体を捻り、反対にカーラの背中を取ったのである。
しかし、カーラとしてもここで怯むわけにはいかなかった。自身の背中を鋭利な刃物で脅しているフレアの手を両手で取り、地面に向かって叩き付けようと目論んだのである。
フレアは叩き付けられる寸前に宙の上を飛び上がり、その上で回転して着地することで屋根の上から落ちるという最悪の事態を防いだのである。
だが、動揺は隠せなかったらしい。フレアは声を震わせながら問い掛けた。
「な、なんなの!なんのよ!今の技は!?」
「……お祖父様から昔習った武術である、とだけ言っておきますわ」
カーラは針を突き付けながら言った。交友関係の広い祖父が昔誰かに習ったものを覚えており、それを祖父のリーバイによって行われた修業期間の間に仕込まれたのだが、カーラはその名称を忘れてしまっていた。
深く思考していけば思い出せるかもしれないのだが、今の状況にあってはそんなことを思い出している余裕がないので思い出すのは後にすることにした。
カーラはそのまま針を構えながらフレアへと突っ込んでいく。
フレアはカーラの針を二本の刃物を使って防ぎ、彼女を二本の刃物を使って一度弾いた後で自身の得意技を用いたのである。もう一本の刃物を暗い空の上へと放り投げた後で花の茎の中に仕込んだ刃物をカーラへと突き刺さそうと目論んだのである。
カーラは闇の上から自身の頭を目掛けて刺さってくる刃物を大きく前方へと飛び上がることで交わし、その後のフレアによる攻撃を己の針を使うことで受け流したのである。
カーラは流れるままにフレアの胸元を狙って針を突き刺そうとしていく。
フレアは慌てて地面を蹴り己の身を滑らせ、カーラの両足を蹴ることでそのバランスを失わせて彼女から戦闘における優位な立ち位置を奪うことに成功したのである。
しかし、それに伴って自身も戦闘における優位な立ち位置を失い、屋根の上で座り込む羽目になってしまったのだ。
転落は防いだものの、新たに屋根のてっぺんへと登るのに苦労しているカーラを見ると、フレアはまだ優位な立ち位置にあったといえる。
そこまで考えたところで、フレアの中に妙案が思い浮かんだ。それは天啓にも等しい妙案であった。このまま必死な思いでぶら下がっているカーラを突き落としてしまえばいい。
カーラさえ始末してしまえばあとのことはどうとでもなる。ヒューゴが恐ろしいのならば別の窓に繋がる場所から戻ればいいのだし、裏口なりなんなりを活用すればレキシーやヴァイオレットにも会うことはないはずだ。
フレアは自身が助かるため、そして自身が長年培っていた鬱憤を晴らすため転落寸前のカーラの元へと己の身を這わせながら近付いていく。
あと少しだ。あと少しで忌まわしき悪役令嬢が地面の上に叩き付けられるのだ。
フレアがカーラの元へと近付いていった時だ。カーラの姿が自身の前から消え去っていったことを悟った。
目の前には屋根の上に深々と突き刺さった針だけが残っている。フレアが慌てて背後を見上げると、そこには自身の真上から飛び掛かってくるカーラの姿が見えた。
慌てて起き上がろうとしたが、屋根の上這っていたことが敗因となり、フレアは咄嗟に起き上がることができなかった。
そして、そのままカーラに組み伏せられていく。そのまま揉み合う中で、フレアはカーラによって足場のない闇の空間の中へと放り投げられてしまった。
フレアは悲鳴を上げながら闇の空間から地面の上へと落とされていく。
そして、闇の空間から地面の上へと叩き付けられていくのであった。それが子爵夫人フレア・ジオラーデの最期となった。
屋根の下からはオットーと交戦していた兵士たちが悲鳴を上げているのが聞こえてきた。
「ジオラーデ子爵夫人!?」
「ご、ご主人様!?」
闇の中であるので屋根の下のことはわからないが、私兵たちの狼狽えた具合からフレアが仕留められたことは確実であった。
カーラは屋根の上に突き刺した針を回収した。すると、固い屋根を無理矢理壊した弊害ともというべきか針の先端が大きく壊れて使い物にならなくなっていたことがわかった。
だが、それでも証拠を残すわけにはいかないので、針を袖の下に回収し、カーラはヒューゴの加勢へと向かって行ったのである。ヒューゴの加勢に向かう主な理由としてはヒューゴこそが『ジャッカル』の最終的な目標であり、ヒューゴが仕留められてしまえば彼らの目的は達成される羽目になってしまうからである。それだけは避けたかったのだ。
カーラのそうした考えは的中していた。実際カーラが様子を伺って塔の中心部にある部屋の中を覗き込むと、そこにはマクシミリアンとヒューゴによる壮絶な斬り合いが繰り広げられ、既に蝋燭の光は潰え、部屋のあちらこちらに傷が付いていた様子が見えていたのだ。
もし、カーラが介入していたとすればすぐに巻き添えとなって、冥界王の元へと旅立っていたに違いない。カーラは思わず生唾を飲み込んだ。
それ程までに壮絶な状況であるにも関わらず、マクシミリアンは未だに冷静な表情を崩していない。
冷や汗一つかいていない姿にヒューゴは改めて恐怖させられた。
そんなことを考えていた弊害か、ヒューゴはマクシミリアンによって剣を弾かれてしまった。
慌てて地面の上に落ちた自身の剣を拾い上げようと手を伸ばしたところに剣先を突き付けられてはたまったものではないだろう。
ヒューゴは抵抗する代わりにマクシミリアンを険しい目で睨み付けたのであった。
そんなヒューゴに流石のマクシミリアンも苛立ったのか、マクシミリアンはヒューゴの手を強い力で踏み付けたのである。
「クソッ、覚えてやがれ」
「フフッ、覚えていろ?もうすぐ冥界王の元へと旅立たれる殿下にどのような報復ができるというのですか?」
マクシミリアンの言葉にはあからさまな嫌味が含まれていた。いや、見下してさえいたというべきだろう。そんな状況であるにも関わらず、敬語を使っていたことが嫌味さに拍車を掛けていた。
絶対的に優位な自分の有利さを鼻にかけていたのだ。
そのままマクシミリアンはヒューゴの手を踏み続けた。
「さて、先ほども申し上げました通り、殿下には冥界王の元へと旅立っていただきます。向こうの世界で御両親と……いいや、閣下は駆除人であらせられましたな、いやはや失礼しました。駆除人ならば魔犬にその魂を喰われる宿命にあります。残念ながら再会は難しいですな」
「かもな、オレは家族には会えぬだろうよ、しかし、お前の方はどうだ?魔犬の胃袋の中で愛しのシャルルと再会できるんじゃあないのか?」
ヒューゴは荒い息を吐きながら答えた。
「……私を怒らせようとしても無駄ですぞ、そんなことに気を取られる私ではないのだから」
マクシミリアンの声からは怒りが感じられない。あまりにも冷静な態度で臨まれるのでヒューゴとしても困ったものであった。
マクシミリアンとしては一時の怒りに身を任せて襲い掛かるよりも今この場でヒューゴを仕留めた方が組織としての目的を果たせると考えたのだろう。
どこまでも合理主義的な考えで動いているマクシミリアンの考えそうなことだ。
恐らく、このままヒューゴを始末し、彼の兄アンリナ一世に事の次第を報告するつもりでいるのだろう。
そうすればマクシミリアンは次の最高死刑執行官になれるし、場合によっては高い爵位を与えられるに違いない。
ヒューゴは自身の真上から振り上げられてくる剣を見据えながらそんなことを考えていた。せめて一思いにしてくれと両目を閉じた時だ。急にバンッと大きな音が聞こえたかと思うと、マクシミリアンの方から何かに対して動揺する声が聞こえた。
恐る恐る両目を開くと、そこにはマクシミリアンの背後にまとわりつくカーラの姿が見えた。
そして、そのまま袖から壊れた針を取り出し、マクシミリアンの両目を狙っていた。
マクシミリアンの両目を狙っていたのは針の先端が折れ曲がってしまっているせいだろう。
それ故に目を狙っていたのだが、マクシミリアンは乱暴にカーラを引き剥がし、そのまま壁へと叩き付けたのである。
「とんでもない奴だ。だが、私をその針で刺せなかったのは痛かったな。待っていろ、ヒューゴよりも先に貴様の方を仕留めてやる」
この時全ての意識がカーラへと注がれていたのは合理主義者であるマクシミリアンに相応しくない失敗であったともいえた。
ヒューゴはマクシミリアンに気取られないように剣を拾い上げ、背後に向かって突っ込んでいくのであった。
マクシミリアンは剣を受けた後で悲鳴を上げて地面の上へと倒れ込む。
「ば、バカな……わ、私が……そうか、全てはヒューゴの始末を仰せつかったことが全ての元凶だったというのか」
マクシミリアンはその後も何かを言おうとして口をパクパクと動かしていたが、やがて事切れてその場に倒れてしまった。もう動くことはないだろう。
カーラは先端が使いものにならなくなった針を袖の下に戻し、ヒューゴに向かって勢いよく抱き着いたのである。
「ヒューゴさん!無事でようございましたわ!」
「……ありがとう。カーラ」
ヒューゴは両目から涙を流しながらカーラへと感謝の言葉を述べていた。
ヒューゴは願うことならばそのままずっと抱き着いていたかったのだが、レキシーとヴァイオレットの両名が勢いよく扉を開いたことでその願いはあっさりと断ち切られてしまったのであった。
「何をやっているんだい!警備隊や自警団の連中が来る前にここを逃げるよ!」
その言葉を聞いて二人は黙って首を縦に動かし、暗い屋敷の中、裏口を目指して走っていくのであった。
裏口を勢いよく開き、そのまま四人の駆除人は夜の闇の中へと消えていった。
同じ頃、オットーもジオラーデ子爵家の私兵たちを圧倒して正面口からその姿を消していた。
五人が逃げ出した先はかねてからの計画通りにレキシーの自宅であった。
五人は無事に襲撃が成功したことを祝い、レキシーのとっておきだという丸くて太い瓶に入った赤色の蒸留酒を取り出し、各々のカップの中に注いでいくと、楽しげに会話を交わしていく。
五人中でも一番饒舌であったのは今回の襲撃における最大の功労者であるオットー・ダルダスであった。
彼は酒を片手に大きな笑い声を上げながら己の生い立ちやこれまでのことなどを語っていた。
「わしはな、クラインやオルレアンスよりも更に向こうにあるプロントニアと呼ばれる国で産まれてな、そこでわしの家は元々侯爵の地位にあったのじゃ」
ぽつりぽつりと語るオットーの背中はどこか寂しげに見えた。
貴族時代に何か思い入れがあったのだろう。一同が真剣な目で見守る中で何が起こったのかを語っていく。
今よりも70年以上前プロントニア王国に君臨していたのは改革派の国王であり、その国王による容赦のない首切り政策によって無能な貴族たちは次々と爵位を剥奪されてしまい、市井の身へと落とされてしまったのだという。
その中にはダルダス家の存在もあった。
だが、先代のダルダス当主は市井の身に堕ちたとしても己の身の振り方を省みることなく、贅沢な生活を続け、とうとう借金取りに連れて行かれてしまったのそうだ。
オットーはそんな父の姿を反面教師とし、日々を学問と剣術に打ち込んでいたのであった。
また、道徳や倫理といった人間が持つ当たり前のものを身に付け、貴族としての選民意識を消しさせることに成功もしていた。
そして、立派な一角の剣客となったオットーは各地を放浪し、最終的には先代国王に銃士として召し上げられ、再び貴族としての生活を体験することになったのだ。
だが、その家族の生活に嫌気が差したこと、自分が生涯独身であり、家を継ぐ者が居なかったことを理由に銃士を辞め、各貴族の家で剣術の教師を行っていたのだ。
そんな中でたまたま居合わせた居酒屋でカーラたちの計画を聞き、己の正義に従って味方をしたというのが理由であった。
「本当にオットー様には感謝しておりますのよ、もし、オットー様が味方をしてくださらなければ私どもはどうなっていたか」
カーラはそこまで聞いたところで改めて頭を下げたのであった。
「いいや、気になさるな、古い言葉に『分かち合えば喜びは倍増し、悲しみは半減する』という言葉がありましてな、わしはその言葉に従っただけのことでございますよ」
「じゃ、じゃあ、せめて私たちの手で王都の外まで送らせてください。マルリアの一件で下手をしたら今すぐにでも兵士たちが集まっているかもしれませんもの」
「そうしてくれるとありがたいかな」
クライン王国からオルレアンスの内通者の一掃に協力した英雄は照れくさそうに頭を掻きながら言った。
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