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第四章『この私が狼の牙をへし折ってご覧にいれますわ』

ジャッカルは目をつけた

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「お嬢様、私そろそろ買い出しに向かいますよ。忙しいのでお昼は適当にパンでも食べていてください」

その言葉を最後に扉が閉まる。暗い粗末な物置小屋のような部屋。小さなベッドの上。それだけがエミリーにとっての全てともいえた。兄が行方不明となり、両親が死亡してしまった日以来エミリーの人生は大きく変わった。
大切な家族と別れも言えなかったばかりか、両親や兄の不手際を理由に田園や財産、屋敷などの財産や貴族としての身分を王によって取り上げられてしまい、今ではかつてのメイドであるセリーナに面倒を見てもらう日々である。

セリーナは優しい。監禁された後に面倒を見てくれたという理由で現在は一日中ベッドの中に閉じこもる自分の面倒を見て、仕事に行って自分を養うための金を稼いでくれているのだから。
今だって休日であるにも関わらず、外に出ることができない自分の代わりに買い出しに出てくれている。

だが、エミリーは素直に感謝する気にはなれない。今の状況に慣れたいとも思わない。エミリーが思い返すのはあの幸せな日々ばかりである。両親がいて、兄がいて、叔父と叔母がいて、義従姉妹であるマルグリッタに囲まれた平穏で幸福な日々。それらの想い出がもう手に入らないことはエミリーは頭では理解できていた。しかし、感情がそのことを拒否した。いずれ自分は貴族としての身分に帰りつき、行方不明となった兄ロバートを探し出し、再び幸福に暮らすのだ。

エミリーはシーツを頭から被り暗い部屋の中で妄想に耽っていた。
妄想の世界には大好きな人たちが揃っていて、綺麗な部屋で美味しいものを食べて笑い合っているのだ。

平民の身分に落ちてからというもののエミリーはこのようなくだらない妄想ばかりしている。
今日もセリーナが仕事を終えて家に戻り、夕食を持って部屋に向かうまでは好きなだけ妄想の世界に逃げ込めたはずだ。

だが、今日に限っては妄想の世界から強制的に現実の世界へと引き戻された。
暗くて粗末な部屋。小さなベッドの上に蹲る自分。そんな姿が太陽の光によって晒し出されたのだ。
エミリーは咄嗟に悲鳴を上げた。慌てて辺りを見渡すと、そこには見知らぬ男が立っていた。

どこかシャープな顔立ちでエミリーよりも肩二つ分高いような男だ。
体格もいい。かつて屋敷を警備していた兵士たちのようなごつごつとした体型だ。
エミリーが事態を理解できずに呆然としていると、男が穏やかな笑みを浮かべて頭を下げた。

「お初にお目にかかりますマドモアゼル……私はオークスと申します。オークス・ドレイジア。以後お見知り置きを」

相手が誰であれここまで名乗ったのだ。エミリーとしても淑女の礼を返さなくてはなるまい。

「初めまして、私はエミリー。かつてはハンセン公爵家にて令嬢をしておりました」

エミリーは挨拶の最中に自ら公爵令嬢であることを過去形で語ってしまっていたことに気が付き、咄嗟に口元を抑えた。
そんなエミリーに対してオークスという男は柔らかい笑みを浮かべながら囁くように言った。

「突然ですが、マドモアゼル。あなたは貴族の令嬢に戻りたくはありませんか?」

「えっ」

エミリーにとってオークスが差し出そうというものは自ら渇望して止まないものであった。
そのため出会って少しでしかない勝手にどこからか部屋に入ってきた怪しげな男の言葉であるにも関わらず、エミリーはなんの躊躇いもなく首を縦に動かしていた。
男は満足な表情を浮かべながらエミリーを褒め称えていく。

「流石はマドモアゼル。素晴らしい心意気だ。あなたの勇気に敬意を表しましょう」

見知らぬ怪しげな男の言葉とはいえ素直に褒められれば悪いものではない。
エミリーは照れくさそうに頭をかいた。

「勇敢なマドモアゼル。あなたに対して要求することは一つです。この街に住むヒューゴ・ド=ゴールという男を始末してもらいたいのです」

「ひゅ?その方は何を?」

「あなたが詳しく知る必要はありません。とにかく、ヒューゴという男を始末して欲しいのです。そうすれば我々の口添えであなたを貴族に戻してあげましょう」

エミリーは男の言葉を聞いて悩んだらしい。いくら貴族の身分に戻れるとはいえやることは倫理に反することだ。
もし、この時の相手がかつて彼女の家が持っていた領地に住まう農民ならば少しは罪悪感も薄れただろうが、王都に住む相手というのならば話は別なのだ。
国王の目があるので貴族からすれば領地に住まう人々よりは価値が高く思えるのだ。

命に違いに差がないことは明白であるが、長年の貴族政治というものは倫理観というものも歪めてしまうのだろう。
エミリーは頭の中で歪んだ価値観があることを前提に深く悩んでいたが、僅かな道徳心よりも貴族に戻れるという事実が勝ったのだろう。
エミリーは男の申し出を呆気なく了承したのである。

今から自分は男から伝えられるヒューゴなる人物を始末するのだ。そうすれば自分は貴族に戻れる。
この瞬間にエミリーの中で貴族に戻るということは他の何よりも大きな価値観となったのだ。

エミリーの固い決意を見たオークスは内心ほくそ笑んでいた。
ジャッカルの一員として街のことを調べていくうちにエミリーの情報が耳に入ってきたのだ。財産と身分を剥奪された哀れな元公爵令嬢に興味を持ったオークスは個人的に詳細を突き止め、彼女を暗殺者として仕向けることを画策したのである。

目の前に餌がぶら下げられた生き物というのは与し易いものなのだ。
案の定エミリーは簡単にオークスの手に乗った。後はそれ相応のものを仕込むだけである。わざわざ鍵をこじ開けて侵入した甲斐があったというものだ。
オークスは勝者に相応しい微笑を浮かべた。




















「すまぬ。今日も来てもらって、さぞ遠かったであろう」

「なぁに、気にしないでください。これも医者としての務めですからねぇ」

レキシーはフィンへの診察を行いながら言った。診察は相手の体を触りながら行うのだが、レキシーが触ったところではフィンが前よりもストレスに苛まれているということがわかった。
国王であるフィンの両肩にはクライン王国の命運そのものがのしかかっているのである。それは荷も重くなるだろう。むしろなって当然である。

レキシーは内心フィンに同情していた。フィンはこれまでの国王には見られないような斬新な改革を打ち出し、保守的な多くの貴族たちから睨まれている。
とりわけ権威と権力とを重要視する門閥貴族たちからはフィンは敵と見做されていてもおかしくはない。

保守的な貴族に対する警戒心などもストレスには大きく影響している。こうして診察に来ることでフィンが好いているカーラと触れ合って少しでもそのストレスが和らげばいい。
レキシーから過去フィンに対して感じていたジェラシーのようなものは消し飛んでいた。
今も憧れと恋とが入り混じった目で診察を手伝うカーラを見つめている。
レキシーは少しフィンとカーラを二人きりにするため気を利かせてやることにした。

「陛下、私少しお願いがあるんですけれども」

「願い?なんだ?」

「えぇ、どうも日頃の心労が祟ったのか、肩が凝ってしまいましてねぇ。よろしければ城内の大浴場をお貸し願えませんかねぇ?」

「いい。レキシー先生にはいつもお世話になっているからな」

フィンは手元のベルを鳴らす。同時にお世話役と思われる若いメイドが姿を現した。フィンはメイドに大浴場の件を言い付けると、診察が終わるまで部屋の側に待機するように言い付けた。

「そうですか!じゃあ診察が終わり次第、あたしは一風呂浴びさせてもらいますよ!」

レキシーは満面の笑みを浮かべて言った。診察は順調に進んでいき、レキシーは診察を終えた褒美として大浴場の使用を許された。
カーラも後ほど入ることになっている。これに関しては一緒に入ればよかったのだが、レキシーは広い風呂を独り占めにしたいのだと言い張り、カーラに残るように言い付けたのである。

そのタイミングを逃すことなくフィンがカーラをお茶に誘った。
自身の書斎を使っての小さな茶会だ。だが、お茶は普段カーラが飲んでいるものとは比較にならないような高価な茶葉であるし、菓子も城に勤める一流の職人が作った芸術品のような上等の菓子ばかりだ。

カーラは恐る恐るお茶を啜る。鼻腔を心地の良い匂いが刺激する。城下にある茶葉では味わえないような上等なものである。
続けて口をつける。上品な味が舌の上に染み渡り、そのまま飲み込むのを躊躇しそうになるほどであった。
公爵令嬢であった頃には当たり前のように飲んでいたお茶であるが、現在となってはそのありがたみがわかる。
向かい側に座るフィンは久し振りのお茶に感動を覚えているカーラに向かって思い出話を振った。

他愛もない昔話だ。だが、フィンにとっては大事な思い出である。幼き頃の思い出を熱心に語るフィンをカーラは微笑ましいと言わんばかりの柔和な態度で見つめていた。
以前ならばカーラはあまり熱心に耳を傾けていなかったかもしれない。

だが、去年一年フィンと市中において近い距離で過ごしていくうちに悪くないと思い始めていた。
少なくともフィンを嫌うということは絶対にないだろう。
カーラは聞き手に徹していたが、思い出話の一つひとつに対して熱心に耳を傾けていた。

それで適度に相槌を打つものだからフィンの機嫌も良くなっていく。
思い出話が終われば歴史の話になった。互いにクライン王国や大陸各国の歴史を話していくうちに城のメイドに付き添われたレキシーが心地の良さそうな笑顔を浮かべながら湯船から戻ってきていた。
カーラはそれを見届けると、席を立ちメイドの案内のもとで大浴場へと向かっていく。

レキシーはカーラと入れ替わるようにカーラの座っていた椅子の上に腰を下ろし、フィンと向かい合う。
フィンはレキシーが座るのと同時にベルを鳴らし、別のメイドを呼び出す。
フィンはメイドにお茶とお茶菓子を片付けさせ、新しいものを運ぶように言付けた。メイドは頭を下げ、机の上に並べられたものを回収していく。

しばらくメイドを待った後に新たなお茶とお菓子を持って現れ、それらを机の上に置いていく。
お茶が目の前に置かれたところでレキシーはお茶を啜り疲労のために乾いた喉を潤していく。
喉を潤しさっぱりとしたところでレキシーは長椅子の上から身を乗り出しながら問い掛けた。

「カーラとは上手く話せましたか?」

レキシーはニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべながら問い掛けた。

「えぇ、歴史の話や昔の思い出話などを楽しく話せていただきましたよ」

フィンは困ったような微笑を浮かべながら答えた。

「そりゃあよかった」

レキシーは手を叩いて喜ぶ様子を見せた。やはり義娘が喜ぶと養母も嬉しいのだろうか。
そんなことを考えていると、レキシーが神妙な顔で言った。

「で、どうなんです?陛下にその気はあるんですか?」

「と言うと?」

「カーラにですよ。あんたがその気になればカーラとあんたはすぐにでも婚約を結べるはずでしょ?なんでしないんです?」

レキシーの物言いは礼儀作法に口うるさい貴族が耳にすれば眉間に青筋を立てるほどのものであったに違いない。

だが、フィンは気にすることなく意中の人の養母に自身が婚約を結べない理由を淡々と語っていく。
政治的な理由が主な原因だということは分かったが、それでもレキシーには納得がいかなかった。
フィンがカーラを気にしていることは見てわかる。それならば反対などを押し切って強引に結べばよいではないか。所詮国王に逆らえる者などいないのだから。

レキシーはフィンにそのことを提案してみせたのだが、フィンは首を横に振るばかりであった。
フィンの反論としては自国における過去の国王や各国の王家に前例がないわけではないらしいが、レキシーが言ったことと同じことをした国王のほとんどが惨めな末路を辿ったのだという。

ならばカーラを貴族に戻せばいいとレキシーは反論したのだが、これに関しても既にプラフティー公爵家の両親が死亡しており、家そのものが残っていないことなどを理由に不可能であるらしい。
自己の都合で王家に対して有意義な功績も上げていない者を正当な理由もなしに新たな貴族の家を創設して迎え入れようものならば反発は免れない。

レキシーは反論することができなかった。義娘一人のためにそのような政治的な対立を引き起こすわけにはいかないのだ。
王家に対しての有意義な功績というのならばネオドラビア教の教皇ことイノケンティウスを葬ったことが挙げられるが、それは公表してはならないことだ。
レキシーは改めて駆除人という稼業が日陰者であるということが実感させられた。これ以上は話していても仕方があるまい。レキシーは諦めることにした。

その後はフィンの体調に関する諸々の注意であった。医者としてこれは話しておかねばなるまい。
注意が終わったところでカーラが大浴場から戻ってきた。さっぱりとした顔の義娘を見ると、こちらまで心地の良い気持ちになってしまう。

レキシーはカーラに笑いかけると長椅子の上から立ち上がり、フィンに対して一礼を行ってからその場を後にした。
普段であるのならば城から戻った後は自由な時間を過ごせるはずだが、生憎と今日はそうもいかない。

前日にヒューゴからギルドマスターからの伝言を受けたのだ。
本日の夜に駆除人ギルドに集まるように、と。
普段のヒューゴからは見せないような慌てた顔であったので、どこかただ事ではないということが伝わってきた。

本来であるのならば貴重な休日が潰れてしまうことが嫌で仕方がなかったが、ここは我慢するしかあるまい。
二人は早めの夕食を作るために自宅への道を急ぐのであった。
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