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第四章『この私が狼の牙をへし折ってご覧にいれますわ』
母が娘を叩く理由
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「何度言ったらわかるんだい!?あたしの元に来るんじゃあないよッ!」
「だって、だって、パパのところに居たくないんだもん」
「わからない子だねッ!ここには来るなって言っているじゃあないかッ!」
平手打ちを行う母親の顔は憎悪に見舞われていた。その顔を見るだけで、カーラの頭には実母でありながら養子の娘を優先し、自分を虐げてきた母親の顔が思い浮かんでいた。
もし、この時にレキシーが強い力でカーラの腕を掴んでいなければカーラは何の躊躇いもなく母親の延髄に針を突き立て、女の子を助けていただろう。
物陰のカーラの耳に平手打ちの音が聞こえるたびにカーラはレキシーが自らを止めていることに苛立って仕方がなかったのだ。
カーラを抑えるためにレキシーは母親と少女が立ち去った後で駆除人の掟を改めて叫ばねばならなかった。
カーラは頭ではその理屈に納得していた。だが、心の中では到底納得などできるはずがなかった。
依頼者からギルドマスターを介した前金をもらうことで、初めて動くというのが駆除人というのならば自分が依頼人となり、あの母親を自らの手でその延髄に針を埋め込んでやりたい。
カーラの腹の中でその思いは治療のために店へ通い、あの母親と顔を合わせるたびにより一層強くなっていくのであった。
そんな義娘の心境を思い計ってか、レキシーは店の主人の診療中に何気ない雑談を交えて母親のことについて尋ねてみた。
「そういえばご主人、最初に会った時に水筒をもらったあのねえさんだけどさ、どういう人なんだい?」
「あぁ、オリビアのことかい?いい人だよ。よく働くし、よく気がきくし、それに誰に対しても優しく接するんだ。大帝国の時代に酷い男に翻弄されて、泣かされる女神のような女性を扱った悲喜劇が流行ったけれど、私からすればオリビアはその悲喜劇に出てくる女性みたいだよ」
「へぇ」
「あぁ、暴力を振るう酷い男から逃げ出してきたみたいでね。いつか娘さんを迎えにいくって張り切ってる。フフ、健気なもんだ」
「そいつは偉いねぇ」
レキシーは感心したような口調で答えた。その反面診療の手助けをしていたカーラの心境はというとレキシーとは対照的に怒りに満ち溢れていた。
昔から家族に暴力を行う人間はいわゆる外面はいいものであると聞いていたが、あのオリビアという女性はまさしくその典型的な性格ではないのだろうか。少なくともカーラにはそう思えてならない。
娘を迎え入れるなどいう言葉も自分を体良く見せるための嘘に過ぎないのだ。
自分の母親が自分という存在をよく見せるため、あるいはお家発展のためのアクセサリーとして扱っていたからこそ皮肉にもオリビアの主張が理解できるのだ。
要するに自分をよく見せるために子どもをダシに使っているに違いない。
だが、表立ってそのようなことをいえば不信を買うのは自分の方だ。
オリビアは表向きは人々に好かれているのだから。
そのように言い聞かせた後で、カーラはレキシーを手伝い、仕事に打ち込むことでオリビアのことを忘れようとしていた。
そのまま二人して店から帰ろうとした時だ。主人が二人を呼び止め、お茶とお菓子を食べるように勧めた。
レキシーは遠慮なく主人の勧めを受け、主人と雑談を交わしながらお茶とお菓子のもてなしを受けることに決めた。
カーラも折角であるから主人の勧めを受け、ご馳走になることを決めた。
だが、持ってきた相手がいけなかった。よりにもよって部屋にお茶とお菓子を持ってきたのはオリビアであったのだ。
診療の最中に雑談にオリビアの名前を出した主人などは上機嫌でオリビアを迎え入れ、仕事中の彼女を掴まえて雑談を始めていくのだった。
「先程、レキシー先生と話していた時にお前の話が出てな。その時にお前は甲斐甲斐しく働く素晴らしい人だと褒めていたんだよ」
「あら、やだ。そんなあたしはまだまだですよ。ご主人様に学ばせていただいていることも多いのに」
「謙遜するな。素直に受け取っておけよ。あっ、そうだ。思い出した。私はこの後に教会に行く必要があるんだが、お前さん共としてついてきてくれるか?」
「もちろんです」
オリビアは太陽のように輝かしい笑みを浮かべて言った。主人の評するように誰にも優しいような素晴らしい笑顔だ。
だが、その笑顔の裏には自分が腹を痛めて生んだ娘に対する暴力があるのだ。
あの笑顔は暴力によって作られている。和やかに談笑するオリビアをカーラは憎悪の炎を宿した両目でじっと睨んでいた。
その後で、ベットの上に座っていた主人はレキシーに振り返って尋ねた。
「そういうことなんですけれど、いいですよね?レキシー先生」
「少しずつ体を動かしていくのがいいって聞きますからねぇ。許可しますよ」
「ありがとうございます!」
こうして主人の機嫌が良いまま小さなお茶会はお開きとなり、滞在先の宿屋に一旦帰ることになった二人であったが、カーラは店の物陰から出てきた女の子を指差し、レキシーに向かって頭を下げながら懇願した。
「申し訳ありません。私はこの後の十文字傷のジョーの探索に参加できませんわ」
「そりゃなぜだい?」
「あの子が私だからです」
カーラはポツリポツリと自身があの小さな少女を追いかけていくのかをレキシーに向かって語っていく。
カーラの言い分を聞いたレキシーは首を縦に動かし、カーラに付いていくことを了承させた。
承諾はしたものの、レキシーは駆除人の掟についてもう一度念を押す。
カーラは本当のところは了承できる自信はなかったが、それでも少女を追い掛けたいという思いが正直な感想よりも勝ったのでやむを得ずに首を縦に動かした。
このような不穏な思いが心の中で燻っていたものの、レキシーの承諾を得られたのは事実である。カーラは悟られないように足音を消し、気配を消し、物陰に身を隠すことで拙い尾行を続ける小さな少女を追い掛けていく。
田舎町の郊外、森の奥深くに建っている教会の門の前まで少女を追いかけたカーラは少女が上手く主人の前から抜け出したオリビアによって教会近くの森の中へと連れ出される場面を目撃していた。
少女は上手く物陰を利用して隠れていたものの、教会近くの見えやすい木に身を隠したのが仇となり、とうとう見つかってしまったのだ。
少女はオリビアによって乱暴に引っ張られ、森の奥深くへと連れ込まれてしまっていた。
「いい加減におしよッ!ここには来るなと何度も言っているじゃあないかッ!」
オリビアは激しい平手打ちを喰らわせながら自身に娘に対して叫んでいく。
その顔には厭悪の念が滲み出ていた。本当に実の娘に対して向ける感情なのだろうか。
カーラが我慢する理由などもうどこにもなかった。レキシーにいくら叱責されても構わない。このままオリビアの息の根を止めてしまおう。
カーラが殺害を決意しようとした時だ。他ならぬ少女の一言が木の陰に隠れて針を取り出そうとしていたカーラを押し留めたのだった。
「じゃあ逃げようよ!あたしとママとエミリーでッ!」
少女はそう言いながら傍に大事そうに抱えていたボロボロの手作りの人形を差し出しながら叫んだ。
エミリーというのは人形の名前のことだろう。他の可能性も検討してみたが、思い当たる存在もないので十中八九あの人形のことであるに違いない。
涙交じりの言葉とボロボロになったエミリーの姿を見て流石のオリビアも平手打ちと叱責を止め、先程よりもどこか弱々しい口調で言い返していた。
「逃げる?それができたら苦労しないよ。あいつは……あんたのパパは蛇みたいに執念深いんだ。逃げ出したってどこまでだって追い掛けてくるよ」
「やだぁ!やだぁ!あたしママと逃げるんだもんッ!ママと一緒にいたいんだもんッ!」
幼い心で少女は懸命に叫んだ。そして、少しでも母の愛情に縋り付くためその体に勢いよく抱き付いたのだった。
だが、オリビアの下した判断は冷酷なものであった。自身の胸元に抱き付く娘を張り飛ばし、一言を告げることもなくその場を立ち去ろうとしたのだ。
だが、その前に背後から声をかけられてオリビアはその場に止まらざるを得なかった。
「ヘヘッ、姐さん苦労してますね」
「言うんじゃないよ」
「ヘヘッ、こいつはどうも」
現れたのは赤い色の髪をしたどこか軽率な印象を受ける男であった。
オリビアはその赤い色の髪をした男に向かって何かが記された紙を手渡す。
軽率な印象を受ける男はどこか感心したような表情を見せて、紙を懐の中へと仕舞う。
「流石は姐さんですね。これであの商店にどんな奴が住んでいるのかが分かりましたよ」
「あとは見取り図だろ?わかってるよ。今度客を装って買いに来ておくれ。あたしが店頭にいる時間は午前中だから、その間にね」
「ヘヘッ、わかりやした。明日の午前中にお店の方に伺わせていただきやす」
「頼んだよ」
「わかってますって、トチって、十文字傷ジョーの名に泥を塗ることは致しませんよ」
十文字傷のジョー。この男は確かにそう言った。十文字傷のジョーは自分たちがこの街のギルドマスターから駆除を頼まれている相手の名前だ。聞き間違えるはずがない。
オリビアは恐らく、十文字傷のジョーの引き込み役で、手助けをするために商店の中に忍び込んでいたのだろう。
恐らく、油屋を襲撃した直後からジョーが目をつけた商店に潜入し、その内情を調べていたに違いない。
そうすると、オリビアがやけに自分の夫を恐れていたことがわかった。
大陸における各国歴代の国王が対処に悩む急ぎ働きの盗賊の親玉が相手なのだからどこまで逃げても追い掛けてくることは明白だ。
下手をすれば途中で捕まって、二人とも殺されてしまうかもしれない。
そうならないために必死に引き込み役の任をこなしていたのだ。
娘に対して暴力を振るっていたのもその任を邪魔されたくなかったからだろう。
だが、そんな理由があったとしてもカーラはオリビアを許せそうになかった。
オリビアに対して何らかの処置を施したかったったし、オリビアの代わりに傷付いた少女の手助けもしたかったが、今は駆除の依頼を優先するべきだろう。
カーラは十文字傷のジョーの居所を確かめるべく、赤い色の髪をした男を追い掛けていく。
気配を消し、足音を殺し、木の陰に身を潜めながらまるで、その場に存在しないかのように後を追いかけていくカーラに対しては熟練の盗賊一味の盗賊といえども気配を察することができなかったらしい。
教会よりも奥に位置する廃屋に赤い色の髪をした男は向かっていく。
一階建ての横長に広がる巨大な屋敷だ。
元々は森に向かう狩人のための休息所か何かであったらしい。壁には鹿の頭や狼の頭を使って作られた剥製が飾られていた。
窓に使われているステンドグラスにも狩人の場所であるということを強調するためか、獲物を追い掛ける狩人と追い掛けられる鹿の姿が描かれている。
カーラは壁に耳を近付け、中で繰り広げられている盗賊たちの会話に耳を傾けていく。
盗賊たちの会話によると、やはりカーラの推測はあたっていたらしい。
オリビアは盗賊一味の引き込み役であり、元々は昔どこかの商店を襲った時に拉致してきた娘だという。
その際に子どもができたので、やむを得ずパートナーにしたが、オリビアとその子どもが鈍臭いので苛立ち紛れやストレス解消という目的で子どもを殴り付けていることを声高に語っていた。
そして、翌日あの赤い髪の男が商店全体の見取り図を持ってくることになっており、その晩に“仕事”を決行するつもりでいるらしい。
そうさせてはならない。カーラはアジトの場所と盗賊たちの会話を記録し、再び音を出さないように森の中へと戻っていく。
後は森を抜けて、宿屋にいるレキシーやギルドマスターにこのことを知らしめるのみである。
「だって、だって、パパのところに居たくないんだもん」
「わからない子だねッ!ここには来るなって言っているじゃあないかッ!」
平手打ちを行う母親の顔は憎悪に見舞われていた。その顔を見るだけで、カーラの頭には実母でありながら養子の娘を優先し、自分を虐げてきた母親の顔が思い浮かんでいた。
もし、この時にレキシーが強い力でカーラの腕を掴んでいなければカーラは何の躊躇いもなく母親の延髄に針を突き立て、女の子を助けていただろう。
物陰のカーラの耳に平手打ちの音が聞こえるたびにカーラはレキシーが自らを止めていることに苛立って仕方がなかったのだ。
カーラを抑えるためにレキシーは母親と少女が立ち去った後で駆除人の掟を改めて叫ばねばならなかった。
カーラは頭ではその理屈に納得していた。だが、心の中では到底納得などできるはずがなかった。
依頼者からギルドマスターを介した前金をもらうことで、初めて動くというのが駆除人というのならば自分が依頼人となり、あの母親を自らの手でその延髄に針を埋め込んでやりたい。
カーラの腹の中でその思いは治療のために店へ通い、あの母親と顔を合わせるたびにより一層強くなっていくのであった。
そんな義娘の心境を思い計ってか、レキシーは店の主人の診療中に何気ない雑談を交えて母親のことについて尋ねてみた。
「そういえばご主人、最初に会った時に水筒をもらったあのねえさんだけどさ、どういう人なんだい?」
「あぁ、オリビアのことかい?いい人だよ。よく働くし、よく気がきくし、それに誰に対しても優しく接するんだ。大帝国の時代に酷い男に翻弄されて、泣かされる女神のような女性を扱った悲喜劇が流行ったけれど、私からすればオリビアはその悲喜劇に出てくる女性みたいだよ」
「へぇ」
「あぁ、暴力を振るう酷い男から逃げ出してきたみたいでね。いつか娘さんを迎えにいくって張り切ってる。フフ、健気なもんだ」
「そいつは偉いねぇ」
レキシーは感心したような口調で答えた。その反面診療の手助けをしていたカーラの心境はというとレキシーとは対照的に怒りに満ち溢れていた。
昔から家族に暴力を行う人間はいわゆる外面はいいものであると聞いていたが、あのオリビアという女性はまさしくその典型的な性格ではないのだろうか。少なくともカーラにはそう思えてならない。
娘を迎え入れるなどいう言葉も自分を体良く見せるための嘘に過ぎないのだ。
自分の母親が自分という存在をよく見せるため、あるいはお家発展のためのアクセサリーとして扱っていたからこそ皮肉にもオリビアの主張が理解できるのだ。
要するに自分をよく見せるために子どもをダシに使っているに違いない。
だが、表立ってそのようなことをいえば不信を買うのは自分の方だ。
オリビアは表向きは人々に好かれているのだから。
そのように言い聞かせた後で、カーラはレキシーを手伝い、仕事に打ち込むことでオリビアのことを忘れようとしていた。
そのまま二人して店から帰ろうとした時だ。主人が二人を呼び止め、お茶とお菓子を食べるように勧めた。
レキシーは遠慮なく主人の勧めを受け、主人と雑談を交わしながらお茶とお菓子のもてなしを受けることに決めた。
カーラも折角であるから主人の勧めを受け、ご馳走になることを決めた。
だが、持ってきた相手がいけなかった。よりにもよって部屋にお茶とお菓子を持ってきたのはオリビアであったのだ。
診療の最中に雑談にオリビアの名前を出した主人などは上機嫌でオリビアを迎え入れ、仕事中の彼女を掴まえて雑談を始めていくのだった。
「先程、レキシー先生と話していた時にお前の話が出てな。その時にお前は甲斐甲斐しく働く素晴らしい人だと褒めていたんだよ」
「あら、やだ。そんなあたしはまだまだですよ。ご主人様に学ばせていただいていることも多いのに」
「謙遜するな。素直に受け取っておけよ。あっ、そうだ。思い出した。私はこの後に教会に行く必要があるんだが、お前さん共としてついてきてくれるか?」
「もちろんです」
オリビアは太陽のように輝かしい笑みを浮かべて言った。主人の評するように誰にも優しいような素晴らしい笑顔だ。
だが、その笑顔の裏には自分が腹を痛めて生んだ娘に対する暴力があるのだ。
あの笑顔は暴力によって作られている。和やかに談笑するオリビアをカーラは憎悪の炎を宿した両目でじっと睨んでいた。
その後で、ベットの上に座っていた主人はレキシーに振り返って尋ねた。
「そういうことなんですけれど、いいですよね?レキシー先生」
「少しずつ体を動かしていくのがいいって聞きますからねぇ。許可しますよ」
「ありがとうございます!」
こうして主人の機嫌が良いまま小さなお茶会はお開きとなり、滞在先の宿屋に一旦帰ることになった二人であったが、カーラは店の物陰から出てきた女の子を指差し、レキシーに向かって頭を下げながら懇願した。
「申し訳ありません。私はこの後の十文字傷のジョーの探索に参加できませんわ」
「そりゃなぜだい?」
「あの子が私だからです」
カーラはポツリポツリと自身があの小さな少女を追いかけていくのかをレキシーに向かって語っていく。
カーラの言い分を聞いたレキシーは首を縦に動かし、カーラに付いていくことを了承させた。
承諾はしたものの、レキシーは駆除人の掟についてもう一度念を押す。
カーラは本当のところは了承できる自信はなかったが、それでも少女を追い掛けたいという思いが正直な感想よりも勝ったのでやむを得ずに首を縦に動かした。
このような不穏な思いが心の中で燻っていたものの、レキシーの承諾を得られたのは事実である。カーラは悟られないように足音を消し、気配を消し、物陰に身を隠すことで拙い尾行を続ける小さな少女を追い掛けていく。
田舎町の郊外、森の奥深くに建っている教会の門の前まで少女を追いかけたカーラは少女が上手く主人の前から抜け出したオリビアによって教会近くの森の中へと連れ出される場面を目撃していた。
少女は上手く物陰を利用して隠れていたものの、教会近くの見えやすい木に身を隠したのが仇となり、とうとう見つかってしまったのだ。
少女はオリビアによって乱暴に引っ張られ、森の奥深くへと連れ込まれてしまっていた。
「いい加減におしよッ!ここには来るなと何度も言っているじゃあないかッ!」
オリビアは激しい平手打ちを喰らわせながら自身に娘に対して叫んでいく。
その顔には厭悪の念が滲み出ていた。本当に実の娘に対して向ける感情なのだろうか。
カーラが我慢する理由などもうどこにもなかった。レキシーにいくら叱責されても構わない。このままオリビアの息の根を止めてしまおう。
カーラが殺害を決意しようとした時だ。他ならぬ少女の一言が木の陰に隠れて針を取り出そうとしていたカーラを押し留めたのだった。
「じゃあ逃げようよ!あたしとママとエミリーでッ!」
少女はそう言いながら傍に大事そうに抱えていたボロボロの手作りの人形を差し出しながら叫んだ。
エミリーというのは人形の名前のことだろう。他の可能性も検討してみたが、思い当たる存在もないので十中八九あの人形のことであるに違いない。
涙交じりの言葉とボロボロになったエミリーの姿を見て流石のオリビアも平手打ちと叱責を止め、先程よりもどこか弱々しい口調で言い返していた。
「逃げる?それができたら苦労しないよ。あいつは……あんたのパパは蛇みたいに執念深いんだ。逃げ出したってどこまでだって追い掛けてくるよ」
「やだぁ!やだぁ!あたしママと逃げるんだもんッ!ママと一緒にいたいんだもんッ!」
幼い心で少女は懸命に叫んだ。そして、少しでも母の愛情に縋り付くためその体に勢いよく抱き付いたのだった。
だが、オリビアの下した判断は冷酷なものであった。自身の胸元に抱き付く娘を張り飛ばし、一言を告げることもなくその場を立ち去ろうとしたのだ。
だが、その前に背後から声をかけられてオリビアはその場に止まらざるを得なかった。
「ヘヘッ、姐さん苦労してますね」
「言うんじゃないよ」
「ヘヘッ、こいつはどうも」
現れたのは赤い色の髪をしたどこか軽率な印象を受ける男であった。
オリビアはその赤い色の髪をした男に向かって何かが記された紙を手渡す。
軽率な印象を受ける男はどこか感心したような表情を見せて、紙を懐の中へと仕舞う。
「流石は姐さんですね。これであの商店にどんな奴が住んでいるのかが分かりましたよ」
「あとは見取り図だろ?わかってるよ。今度客を装って買いに来ておくれ。あたしが店頭にいる時間は午前中だから、その間にね」
「ヘヘッ、わかりやした。明日の午前中にお店の方に伺わせていただきやす」
「頼んだよ」
「わかってますって、トチって、十文字傷ジョーの名に泥を塗ることは致しませんよ」
十文字傷のジョー。この男は確かにそう言った。十文字傷のジョーは自分たちがこの街のギルドマスターから駆除を頼まれている相手の名前だ。聞き間違えるはずがない。
オリビアは恐らく、十文字傷のジョーの引き込み役で、手助けをするために商店の中に忍び込んでいたのだろう。
恐らく、油屋を襲撃した直後からジョーが目をつけた商店に潜入し、その内情を調べていたに違いない。
そうすると、オリビアがやけに自分の夫を恐れていたことがわかった。
大陸における各国歴代の国王が対処に悩む急ぎ働きの盗賊の親玉が相手なのだからどこまで逃げても追い掛けてくることは明白だ。
下手をすれば途中で捕まって、二人とも殺されてしまうかもしれない。
そうならないために必死に引き込み役の任をこなしていたのだ。
娘に対して暴力を振るっていたのもその任を邪魔されたくなかったからだろう。
だが、そんな理由があったとしてもカーラはオリビアを許せそうになかった。
オリビアに対して何らかの処置を施したかったったし、オリビアの代わりに傷付いた少女の手助けもしたかったが、今は駆除の依頼を優先するべきだろう。
カーラは十文字傷のジョーの居所を確かめるべく、赤い色の髪をした男を追い掛けていく。
気配を消し、足音を殺し、木の陰に身を潜めながらまるで、その場に存在しないかのように後を追いかけていくカーラに対しては熟練の盗賊一味の盗賊といえども気配を察することができなかったらしい。
教会よりも奥に位置する廃屋に赤い色の髪をした男は向かっていく。
一階建ての横長に広がる巨大な屋敷だ。
元々は森に向かう狩人のための休息所か何かであったらしい。壁には鹿の頭や狼の頭を使って作られた剥製が飾られていた。
窓に使われているステンドグラスにも狩人の場所であるということを強調するためか、獲物を追い掛ける狩人と追い掛けられる鹿の姿が描かれている。
カーラは壁に耳を近付け、中で繰り広げられている盗賊たちの会話に耳を傾けていく。
盗賊たちの会話によると、やはりカーラの推測はあたっていたらしい。
オリビアは盗賊一味の引き込み役であり、元々は昔どこかの商店を襲った時に拉致してきた娘だという。
その際に子どもができたので、やむを得ずパートナーにしたが、オリビアとその子どもが鈍臭いので苛立ち紛れやストレス解消という目的で子どもを殴り付けていることを声高に語っていた。
そして、翌日あの赤い髪の男が商店全体の見取り図を持ってくることになっており、その晩に“仕事”を決行するつもりでいるらしい。
そうさせてはならない。カーラはアジトの場所と盗賊たちの会話を記録し、再び音を出さないように森の中へと戻っていく。
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