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神と神との決闘編

折原絵里子が弟に執着する理由ーその③

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「さぁ、これでようやく落ち着いてぼくの話を聞いてくれるよね?」

新山はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべていた。見ていて不愉快な笑みだ。正直にいえば気色が悪い。
絵里子は下衆なハゲネズミから目を逸らしたかったが、もし目を逸らしてしまえば弟がどのような目に遭わされるのかわかったものではない。
日頃から鬱陶しいとは思っているが、憎いわけでもないのだ。そんな弟にもしものことがあれば絵里子の喉には一生食べ物が通らないかもしれない。

いわゆる後味の悪いものを感じてしまうかもしれない。そんな思いから絵里子は何とか自分を言い聞かせて、新山に向かって両目の視線を向けていく。
新山は自身の方を向いた絵里子を見て満足気な笑みを浮かべて、

「よしよしいい子だ」

と、素直に褒めたのである。

すっかりと満足した新山は自身の背後に控えていた部下を呼び寄せ、耳元で何やら命令を出していく。
部下の男は小さく首を縦に動かしたかと思うと、クルタ服の懐から真っ白な四角い箱を取り出す。

それを見た瞬間に絵里子は目を疑った。というのもそれは現在禁煙法で禁止されている煙草であったからだ。かつて流通していた煙草用に銘柄が発見されないのは地下で極秘に密かに製造している違法モノだからだ。
或いは教団の施設内で極秘裏に製造している煙草なのかもしれない。新山は煙草の出所を訝しんで睨んでくる絵里子のことなどものともせずに箱から煙草を取り出し、口に咥えると火を付けてそれを勢いよく吸っていく。

満悦した顔を浮かべたまま新山は人差し指と中指の間に挟んでいた煙草を地面の上へと放り捨て、火の元を靴の踵ですり潰していく。
それから改めて煙草を口の中に咥えると、もう一度絵里子へと向き直る。

「さてと、率直に話そう。キミたち二人を我々の仲間に加えたい」

「仲間に加えたいですって?」

「そうだ、我々の同志になってくれ、我々と同じ神を崇めようではないか」

「嫌よ」

絵里子の顔には嫌悪の色が浮かんでいた。それはカルト宗教に対する嫌悪からか、それとも新山兼重という男個人に対する嫌悪から生じたものであるのかは絵里子本人にもわからなかった。
もしかすればその両方であったかもしれない。

ともかく絵里子は目の前にいる男から殴られることや或いはそれ以上のペナルティを喰らうことを覚悟でそう言ってのけたのである。
だが、男は何もしなかった。こちらを見下ろすような冷たい視線を向けながら見つめているだけだった。

絵里子が不気味な視線に思わず背筋を凍らせていると、新山はふと無言で背中を向けたかと思うと、椅子の上に拘束されている孝太郎の腹を思いっきり蹴り上げたのである。
不意に蹴りを喰らわされたこと、そしてその蹴りが鳩尾へと思いっきり食い込んだことによって孝太郎は悶絶してしまった。

痛さによって生じた短い悲鳴が倉庫の中へと響き渡っていく。だが、新山は構うことなく今度は孝太郎の頬に向かって強烈な張り手を喰らわせていく。
両親が怒りで浴びせるような愛のある平手打ちなどとは比較にならない。悪意と憎悪にのみ溢れた一撃が喰らわせたことによって幼い孝太郎の両目からは涙が溢れ出ていた。

「やめてッ!もうそれ以上孝太郎を叩かないでッ!」

絵里子の懇願は本心からであった。この時まで絵里子に対する孝太郎の感情はどうでもいいというものであった。
これまでの人生の中で弟に対して大した愛情を持っていなかったという状況にあったとしても絵里子の中にあった本能が弟に対する理不尽な暴力を止めるように突き動かしたのだろう。
もちろん新山は絵里子の哀願などに突き動かせるようなやわな精神などは持ち合わせていなかった。

新山は絵里子のことを気にすることもなく、孝太郎に向かってひたすらに暴力を振り続けていた。
この時の絵里子は中学2年生。義務教育の範囲内の年齢である。世間的に見ればまだまだ保護者からの愛と十分な教育とが必要とされる頃合いだ。弟の孝太郎に至っては小学生6年生の男子でしかない。

到底今の地獄のような状況に耐えられるような精神性など持ち合わせてはいなかった。
絵里子は新山をこちらに振り向かせるため、大きな声で新山の背中に向かって「待って!」と叫んだ。
新山がゆっくりと背後を振り返っていく。口元は『不思議の国のアリス』に登場するチャシャ猫のように歯を見せて笑っていた。

「入信する気になったのかい?」

「し、します。ですから弟をそれ以上殴らないで……」

絵里子は声を震わせながら呟くように言った。

「よーし、いい子だ。弟くんへの暴力はこれ以上やめてやろう」

新山はそう言って既に鼻血と涙とで顔がボロボロになった孝太郎を拘束していた麻縄を解き、彼を自由の身にした。
それでも孝太郎に対する扱いというものは凄惨を極めたものであった。新山はようやく暴力から解放されて椅子の上からよろめくように転げ落ちた孝太郎の背中を蹴り付けていく。
それでも理不尽な暴力によって深い傷を付けられた孝太郎に対してせめてもの申し訳なさか、はたまた話を円滑に進めるためか、しゃがみ込んで幼い孝太郎へと目を合わせてのである。

「さてと、弟くん。お姉さんは入信したんだ。キミも入信するよね?」

「しないッ!」

孝太郎の言葉が狭い空間の中で響き渡っていく。
孝太郎の出した声はそれ程までに大きなものであったのだ。痛め付けられたことによってついに屈したと思われた孝太郎が入信を拒否するというのは意外だったのか、新山は思わず目を丸くした。

「……キミは自分が何を言ったのかわかってるのか?」

「オレは入信しないッ!絶対にお前らみたいな悪い奴らの教えなんか信じないッ!」

孝太郎が自身の決意を改めて表明した時のことだ。新山はもう一度孝太郎に対して蹴りを喰らわせた。新山の蹴りはゴルフクラブでゴルフボールを吹き飛ばすかのように小さな孝太郎の体を蹴り飛ばし、近くの壁に孝太郎を叩き付けたのである。
壁にぶつかった衝撃で呻き声を上げる孝太郎の髪を思いっきり掴み上げると、眉間に皺を寄せた新山は低い声で孝太郎に向かって問い掛けた。

「小僧。悪い奴らというのはおれたちのことか?」

どうやら新山が幼い子どもを容赦なく蹴り上げた要因は孝太郎が先ほど口走った「悪い奴ら」という単語からきたのだそうだ。
子どもらしい何の捻りもない直喩的な表現であったが、見事に宇宙究明学会の実態を指し示していた。
世の中には子どもの純粋な一言ほど効くものはないというが、今のように怒り狂った新山の顔を見ているとその言葉が正しく思えてきた。

新山は先ほどの言葉を取り消すように執拗に孝太郎を蹴り続けていた。
だが、孝太郎の意思は固かった。幼い両目からは確固たる信念のようなものが明確に感じられた。
この時絵里子はあれ程までに殴られ、蹴られても自分の意思を貫く孝太郎に対して感銘のような思いを受けていた。
重ね重ねいうが、これまで絵里子は弟に対してあまり深い感情を抱いたことはなかった。どちらかといえば鬱陶しがっていたというのは先述の通りである。

しかしこの時から絵里子は現在に至るまでの弟に対する深い情が形成されていったのだ。
そしてその情を姉弟の枠を超えた「愛」へと昇華させたのはこの直後の出来事である。
一向に「悪い奴ら」という言葉を撤回しようとしない孝太郎に対して嫌気が刺したのか、新山は孝太郎を強く蹴って地面の上を転がせると、絵里子の方へと向かっていく。

絵里子の元へと向かう理由は明白である。先ほど孝太郎を限界まで殴り付けることによって絵里子を無理やり入信させたように今度は絵里子に同じことをして孝太郎を入信させる算段なのだろう。
孝太郎はそのことを本能で理解していた。だからこそ新山の両足に縋り付き、自身がどのような目に遭わされようとも新山を掴んで離さなかった。

「ちくしょう!離しやがれッ!」

「……絶対に……絶対に離さないッ!お前たちの手から絶対にお姉ちゃんを守るんだッ!」

その言葉を聞いた絵里子は両目から涙を溢していた。
この言葉とそして己の身が傷付けられても自分を守ろうとする孝太郎の姿に絵里子は恋焦がれたのだ。

もし今の瞬間を切り抜けられたとすれば自分たちは日常の中へと戻り、勉学を修めてからは昔からの流れにしたがって世の中に出ていくことになるだろう。その時に出会っていく男性たちの中で今の弟のように自分を守ってくれる人間が現れるだろうか。
いいや、今のような状態になるまで自分を守ってくれる人間などいないに違いない。絵里子にとって孝太郎は自身の前に現れた運命の人であるのだ。

世間一般でいわれる運命の人がたまたま血の繋がった弟であったというだけに過ぎない。
これは今年の親族会議の帰りに弟に対して告白を行うまでずっと絵里子が胸の内に秘めていた感情であった。

そうした感情を抱いた絵里子からすればもう恐れるものなどなかった。自分の運命の人を助けに向かうだけだ。
絵里子が虐げられている運命の人へと向かって走り出そうとするのを孝太郎が自らの手で静止した。

「……お姉ちゃん、来ちゃだめだ」

「嫌よ!これ以上私は弟が苦しめられる姿なんて見たくないッ!新山ッ!あなたがこれ以上弟を殴るんだったら私は棄教してやるわッ!」

「……バカな小娘だ」

新山の口から出た言葉は明らかに敵意を含めたような言葉だ。それでも絵里子は怯むことなく新山を睨み続けていた。
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