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神との接触編

超越者(オーバーロード)は覚醒する

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マリヤは己の死を覚悟した。目の前から迫る亀の怪物が天使だというのならば、聖職者らしく、その身を天に委ね、食い殺されるという選択肢を取るのも悪くはあるまい。
彼女が両目を強く瞑った時だ。もう一度、あの声が耳元で囁いていく。

(で、どうするの?ぼくらの力を借りるの?それとも借りないの?)

囁きかける声は表向きのところ選択肢を提示しているようなものだが、実際的な問題としてその選択肢はないに等しい。
というのも、契約を結ばれなければ目の前の怪物に食い殺されることは確実であるからだ。

こうした卑劣な選択を迫る存在が天使などであるはずがない。自分に向かって囁きかけるのは悪魔の声だ。
悪魔の声に耳を貸してはいけない。自分にできることは天使だという目の前から迫り来る怪物に身を委ねて、気高い聖職者のまま、あの世へと旅立つことだ。

そうすればきっと、神も自分を楽園へと受け入れてくれるだろう。
覚悟が決まるのと同時に、死を覚悟したマリヤの頭の中に膨大な量が流れ込む。

マリヤはこの現象を日本でいうところの『走馬灯』のようなものであるということを知っていた。
『走馬灯』というのは日本の言葉で、その意味は切り抜かれた馬の絵が影絵となって走って見えることからそう名付けられたとされている。
そして、後になってから死に際に感情が揺さぶられ、様々な記憶が蘇るということを意味となったのだ。

マリヤの脳裏によぎるのは自分に向かって優しい笑顔を浮かべる母親の姿。
思い出した。マリヤは母親のために司教となったのだ。母親に負担をかけさせたくないという一心で勉学に励み、学費のいらない神学校へと進学し、司教となったのだ。

自分には故郷に残してきた母親がいるのだ。こんなところで死ぬわけにはいかない。母親と会うためには悪魔とだって手を結んでやろうではないか。
マリヤはもう一度、己を奮い立たせ、心の中で手を結ぶことを了承した。
先程までの声は朗らかな声で、

(よし、契約成立だ。これで、キミは天使を吹き飛ばす力を手に入れることができた。これで、あの亀の怪物を倒すがいいさ)

と、契約の言葉を告げた。
契約が結ばれた瞬間にマリヤの全身が大いなる白色の光に身を包まれていく。
その場にいた人々は誰も、いや、天使であるという亀の怪物さえ姿が見えなかった。

やがて、その光が徐々に収まってくると、全員が恐る恐る両目を開いていく。
両目を開くと、そこには片刃の長剣を握り締めた司教の姿をしたマリヤが立っていた。
亀の姿をした怪物は唐突に変化したマリヤの姿を見て、一瞬動揺する姿を見せたが、すぐに口を大きく開き、爪を立てながらマリヤに向かって襲い掛かっていく。

マリヤは真上から襲い掛かってくる亀の怪物を手に持っていた巨大な剣で一刀両断に叩き伏せたのである。
怪物は天使だと自称していたように生き物ならば絶対に持っていると思われる血や臓物の類を見せることはなかった。

代わりに小規模の爆発を起こし、爆風によってマリヤは吹き飛ばされてしまう。
吹き飛ばされたマリヤを孝太郎が優しく受け止め、笑いかけたのだった。

「無事だったか?」

「あっ、平気です。ありがとうございます」

不思議なことはマリヤの体は修道服からいつものスーツへと戻っていた。
爆風に吹き飛ばされた際、瞬時にその衣装が元に戻っていたのだが、孝太郎たちには訳が分からなかった。
魔法でも使わない限り、服が一瞬のうちに変化するなどという現象が起きるはずがない。

だが、マリヤの魔法ではない。マリヤの魔法は別のものである。服を瞬時に着替える魔法などではないはずだ。
どういった原理で彼女の服が一瞬のうちに元に戻ったのか孝太郎には理解できなかった。
孝太郎が笑顔の裏で、この現象についての報告文を考案していた時だ。
外にいた聡子が大きな声で叫んだ。

「剣がねぇよ!さっきまで、マリヤさんが使ってた剣がッ!」

「剣がない?それって本当なの?聡子ちちゃん」

明美が真剣な表情を浮かべて問い掛ける。その問い掛けに対し、聡子は至極真面目な様子で答えた。おふざけや冗談が含まれていないのは表情からわかった。
混乱しているのは絵里子だった。亀の怪物が消えて無くなってしまったことは安堵するべきことであるが、それ以上に今回の事件は謎が大きかった。

第一は伊豆屋浩介の死因。第二はどうして、別荘の屋根の上にあんな怪物が待ち構えていたのか、ということだ。
それに怪物がマリヤや自分たちを襲った理由も不明。

これからは先程までの戦いを地元の警察に対して説明を予定であるが、先程までのような漫画的な出来事を警察が納得してくれるとは考えられない。
全員が特撮ヒーロー番組の見過ぎだと侮られるばかりだ。

絵里子は頭を抱えた。三年前に組織を結成し、孝太郎たちと共に白籠署公安部として捜査に臨むようになってからは出世とは無関係のつもりでいたが、それでも、自分たちが狂人のように扱われるのは嫌だった。人間として扱われたいというのは人間として当然の権利ではないだろうか。

絵里子の頭に痛みが増していく。割れるような痛みだ。あまりの痛さに蹲ってしまった時だ。孝太郎が心配そうな顔を浮かべて、慌てて絵里子の元へと駆け寄っていく。
すっかりと憔悴してしまった絵里子を優しく介抱しながら、孝太郎は優しい声で励ましていく。

「姉貴、大丈夫か?気をしっかりと持ってくれ」

心配げな様子で顔を覗き込む孝太郎の頬を優しく撫でた後に手を引っ張り、その手の甲を優しく摩っていく。

「ごめんね。孝ちゃん……色々とあって、つい……」

「当然さ。オレだって戸惑ってる」

それを聞いて、絵里子が微かな笑みを浮かべながら答えた。

「だよね。その言葉を聞いて、少しだけ安心したわ」

なんと優しい笑顔だろう。孝太郎は思わず、頬を赤らめてしまう。
同時に胸が高鳴った。この胸の高鳴りは単純に姉に褒められたという嬉しさからなのだろうか。はたまた、大事な家族が無事だったという安堵感からだろうか。
そのどれでもないことは孝太郎が一番知っているはずだ。

孝太郎はその瞬間、自分が獄門台行きの罪人になったような心持ちになった。
どうしても拭い取ることのできない背徳感。後ろめたさが孝太郎を襲っていく。
自分は惚れてしまったのだ。自身の上司に、実の姉に。
自分が狙われたのはもしや、この許されるざる恋を抱いてしまったからではないか。

そう自分に対して厳しい尋問を行うたびに孝太郎はすさまじい嫌悪感に駆られていく。
そして、あろうことか、半身を起こし、自分に対して心配そうな顔を向ける姉から反射的に目を逸らしてしまったのだ。
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