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第二章『共存と滅亡の狭間で』

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 結局その日の夕食は悠介の沈黙という名の無言の抗議によって気まずい時間となってしまった。楽しい夕食の時間とならなかったのは悠介を除く家族全員の重い時間になってしまった。

 この気まずい空気に耐えきれなくなったのか、麗俐は早々に部屋へと引き上げてしまうし、修也は母親の洗い物を手伝った後にその母親を連れて二階にある部屋の中へと戻っていった。

 こうして居間には悠介一人が残されることになった。悠介は初め居間の中で一人退屈そうにテレビを見つめていたが、すぐに電源を切った。

 それから後で適当に携帯端末を開いていく。クラスやバスケットボール部でのグループの中では自身の悪口で盛り上がっている姿が見えた。

「クソッタレ」

 悠介は携帯端末を見て悪口で盛り上がっているかつての仲間たちに向かって悪態を吐いていた。
 見ていて不愉快な光景だ。悠介が携帯端末を切って机の上に置いた時だ。

 ブルブルと呼び出しを意味するバイブ音が聞こえてきた。悠介が携帯端末を手に取ると、電話口の向こうから可愛らしい声が聞こえてきた。

「もしもし、悠介くん?」

「あぁ、紗希さきか? どうした?」

「大事な話があるんだ。今すぐに町田山陽公園に来てくれない?」

 町田山陽公園というのは21世紀の終盤に住宅の真ん中に憩いの場として公園として作られた小さな公園だった。

 それ故に他の公園よりも悠介にとっては身近な公園だった。同時に家が公園を挟んで反対側にある紗希にとっても身近な公園であった。その地理的な優位を利用して帰宅してから或いは登校前の僅かな時間を使って悠介と紗希は相瀬を重ねていたのだ。

 相瀬を行う時間は放課後か登校前ということもあって大抵が夜。もしくは早朝だった。親にはバスケットボール部の練習だと嘘を吐いて熱心に通って行ったことを覚えている。

 そのため悠介にとってその公園は思い出の場所だった。それは同じく幸福な時間を過ごしていた紗希本人も分かっていたはずだ。

 だからそんな思い出の場所を汚すはずがない。悠介はそう信じていた。
 だが、紗希の口から出てきた言葉は悠介が胸に抱いていた微かな希望を完膚なきまでに打ち壊していったのだった。

「……悠介くん、私と別れてほしいんだ」

「……わ、別れてほしい? ちょっと待ってよ。嘘でしょ?」

 悠介は信じられないと言わんばかりに両目を見開いていた。

 だが、公園の小さなブランコに腰を掛けた紗希は残念そうに首を横に振るばかりだった。

「悠介くん、そっち座ってよ」

 紗希は空いていた隣のブランコを指さしながら言った。悠介は黙ってブランコの上に腰を掛けた。悠介の重い体重に耐え切れず、外れかけのチェーンがギィギィと鳴っていくのが耳に染み込んできた。

「私ね、決意したんだ。そりゃあね、うちの学校にもいじめられているアンドロイドの子はいるよ。けど、悠介くんのお姉さんの場合はその……やり過ぎだよね。よく、あんなことができるなぁと思ったよ」

 悠介は言葉が出てこなかった。信じていた恋人に裏切られた悲しみが溢れ出てきた。
 紗希ならば姉のことなど関係なく付き合ってくれるのかと思っていたのだが、その予想は大きく外れてしまったらしい。
 悠介の口からは耐えられずに嗚咽音ばかりが聞こえてきた。
 それ以上の悲しみを抑えるためか、悠介の中でブランコのチェーンを握る力が自然と強くなっていった。

 もしこれ以上自分の身に悲しいことが起きることがあれば自分の心は壊れて何かをしかねない。
 だが、そんな悠介の心境を無視するかのように紗希は言い放った。

「もちろん悠介くん自身が何も悪くないことは知っているよ。けど、どうしても無理だったんだ。本当にごめんね」

 嘘だ。嘘だ。嘘だ。悠介の中で吐き気がこみ上げてきた。同時にこれまでの紗希との思い出が鮮明に頭の中で線香花火のような思い浮かんではすぐに消えていった。

 悠介はこの現実に耐え切れず、両手で頭を抑えて唸り声を上げていった。野獣のような凄まじい唸り声だ。深夜だというのに近所の家にも聞こえかねないほどの大きな声だった。

「本当にごめんね。じゃ、じゃあ、あたしこれから明日の予習があるから家に帰らないといけないの」

 そのままブランコから立ち上がって公園を立ち去ろうとした紗希の腕を勢いよく掴んでいった。

「痛ッ、離してよ!」

 紗希は苦痛に顔を歪めた。

「待てよ、なぁ、紗希。おれのことを見てくれよ。おれはお姉ちゃんじゃない。おれは大津悠介っていう一人の人間なんだよ。お姉ちゃんじゃない。おれを見てくれ」

 悠介は必死だった。真摯に向き合うことができれば最愛の恋人は自分のことを理解してくれる。そう信じてやまなかった。
 だが、そんな悠介の期待は至極あっさりと裏切られることになってしまった。

「離してよッ!」

 紗希はそう叫んで縋り付いてきた悠介を勢いよく突き飛ばした。悠介はそのまま転倒して体を地面の上に大きく叩き付けられてしまった。

 紗希は涙を流しながら泥まみれになったかつての恋人を軽蔑の目で見下ろした後で、そのまま入り口に向かって駆け出していった。
 しかもただ叫んでいただけではない。明確に助けを求めていたのだ。

「誰かッ! 助けてッ! 頭の狂った男があたしを襲おうとしてきているのッ!」

 その言葉を聞いた悠介はしばらく公園で呆然していた。紗希の言葉が悠介には信じられなかった。
 休みの日には一緒に自転車に乗った。バスケ部の練習が空いた休みの日には映画館で一緒のポップコーンを買って照れ臭そうにポップコーンを摘んで笑い合った。

 やがて公園の周りに人が集まってくる気配を感じ、慌てて公園を飛び出していった。そしてそのまま宛てもなく走り出していった。

 どこでもいい。悠介はとにかく走りたかった。過去を捨て去り、自分を知らない人がいる場所に向かいたかったのだ。

 悠介はこの時背後で妙な音が聞こえたにも関わらず、振り向いて確認することもなくひたすらに走っていった。
 夢中になって足を走らせていると、あっという間に見慣れた景色が過ぎていき、知らない場所に辿り着いたとしても悠介は迷わなかった。

 そして気が付けば悠介は隣県の神奈川県の中に紛れ込んでいた。

 町田市に隣接する川崎市まで走ってきたらしい。この時悠介はこれまで走ってきた際に蓄積した疲労や痛みがどっと押し寄せ、体を地面の上に倒させてしまった。アスファルトの感触が痛かった。
 だが、完全に苦悩し切った後では痛覚さえ麻痺していた。

 既に悠介の中では『両肩で息をする』などという段階は超えていた。今の悠介が何よりも求めるものは水だった。一滴でもいいから水を飲みたかった。
 喉の中に一気に水を流し込んでさっぱりとした気持ちを味わいたかった。

「み、水」

 悠介は砂漠で水を求める遭難者のように相模原市の中を這いずり回っていた。
 悠介にとって不運であったのはそんな時間帯が夜であり、人の通りも少なかったということ、そして仮に人が通ったとしても不審な男に手を差し伸べるような人情のある人間がどこにも居なかったことだ。

 だが、今の時代にも人情というものが存在したらしい。足をふらつかせ、舌を出して水を動物のように求める悠介の前に使い捨てのペットボトルに入った水が差し出された。

「どうぞ」

 と、悠介の前に水を差し出したのは前髪を分けた清楚な黒髪をした綺麗な女性だった。服もシルエットが綺麗なパフスリーブの半袖ブラウスを使ったスカートスタイルの女性だった。
 ただ唯一違和感があったのは靴がパンプスでもヒールでもなく、スニーカーであったことが気になった。

 悠介は彼女から貰った水を飲み干したものの、まだ足りないらしい。図々しくもまだお代わりを要求していた。

「どうぞ、まだいくらでもありますよ」

 女性は使い捨てのペットボトルをもう一度差し出した。

 結局悠介が満足するまで水を渡すことになってしまった。よほど喉が渇いていたのだろう。結局悠介は五本のペットボトルを空にしてしまった。

「フフッ、大津さん。満足ですか?」

「えぇ、しかしどうしておれの苗字を?」

 悠介は不自然な様子に思わず首を傾げてしまった。

「よーく知ってますよ。我々は」

 彼女は怪しげな笑みを浮かべながら言った。それから恐怖によって顔を引き攣らせていた腹部を思いっきり強打して悠介の意識を奪い取ったのである。

 彼女はそのまま倒れた悠介を担いで近くに停めていた白色のワゴン車の中へと押し込めていった。

「ショウさん、大津悠介を捕まえました」

「ご苦労。ではこのまま隠れ家に移動するぞ」

 ショウと呼ばれた男はそのままアクセルを踏み、女性の言う隠れ家へと向かっていった。

「しかしショウさんもご苦労様でした。わざわざ悠介の恋人を買収して連れ出し、その上で拉致しようとするなんて」

「だが、その後に相模原市にまで行くとは流石に私も想像外だったぞ」

 ショウが運転席の前で苦笑している声が聞こえた。

「えぇ、お陰で私も追い掛けるのに苦労しましたよ」

 彼女は苦労したように言った。

「まぁ、いい。とにかく、これは交渉に使える。ご苦労だったぞ、ニイナ」

 ニイナと呼ばれた女性は可愛らしい笑みを浮かべて答えた。

「どういたしまして」

 白いワゴン車はそのまま他の車や夜の闇に紛れ、車道を何食わぬ顔で走っていた。
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