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第二部 第四章

渭南県鄭城・南岳衡山・二仙山(六)

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(くそっ、俺が付いていながらなんてことだ!  )
 燕青は歯噛みして悔しがった。何ができたのかはわからないが、己の無力さに腹が立つ。
 翡円も「小融…しょうゆう…」と、袖を顔に押し当ててさめざめと泣くのを、紅苑が背中を抱いて撫でている。

「まるで神隠しにあったような」
 燕青が無意識につぶやいた言葉に、成仁が何かに思い当たったようだ。
 
「……そういえば、小融は誰かに呼ばれている気がする、とか言ってたそうですね」
 その言葉に、翡円も涙に濡れた顔を上げ、
「そうです。登ってくるにつれ、どんどん呼ぶ声が強くなってくる気がすると言ってました! 」
「ひょっとすると、この神像に呼ばれていたのかもしれない。そして神界に連れて行かれたのかも」

 成仁の言葉で、燕青は思い出した。
「部屋から出てきた時、小融の瞳がいつもと違って両方とも真っ赤になっていたのですが、何か関係がありますか? 」

「それだ! 」
 成仁は膝を叩いた。
「小融はこの神に呼ばれたのかもしれない 」
「この神とは? 」
 燕青は恐ろしげな形相の神像を見上げた。成仁も見上げながらこう答えた。

祝融しゅくゆう神《しん》です」

 祝融。
 元霊宮に祀られている炎帝神農の子であり、南方及び火をつかさどるとされる古代の神である。一説によれば人面獣身で2頭の龍に乗っている。また、「四罪」と呼ばれる古代の魔物、共工きょうこうこんを倒したとも言われる。

「そもそも南岳衡山でいちばん高いこの峰自体が、祝融様を祀っているため祝融峰と呼ばれています。だから祝融様はまた南岳聖帝とも呼ばれているのですよ」 

「それで聖帝廟と…… あ、そういえば小融の渾名あだなを聞いたとき、南蛮の祝融夫人みたいだとからかったことがあったのですが」
「祝融夫人が実在の人物かどうかはわかりませんが、名の通り祝融神の眷属だと言われています。ひょっとしたら小融も、その末裔なのかもしれません。火の神様なので小融の瞳が赤くなっていたのもそのせいかと」

 どうやら悪い神ではないようだ。だが、いくら眷属かもしれないとはいえ、行方知れずで心配なことには変わりがない。
 
「とにかく、一度二仙山に報告し指示を仰ぐことにしましょう。行きは杜允といん、帰りは薛永せつえいが縮地法を使って二仙山おやまに戻り、このことを伝えてください」
「わかりました。日が昇りましたらすぐに陣を作ります」
「できるだけ早く戻ってきてください。これ以上手薄になるのはまずいですし」

(観山寺といい、女の子ひとり守り切れずに何をやってるんだ俺は)
 成仁たちの話を聞きながら、燕青は自分自身を殴りつけたい気持ちで一杯だった。
(大丈夫なのか、小融は……)



「大丈夫かなあ、小融たち」
 両足を大きく広く開き、太股が地面と平行になるくらいに腰を落とし、両腕をまっすぐ前に伸ばしたまま、張嶺は呟いた。

 一行が南岳に旅立った翌朝のことである。
 日の出と共に起き出し、二仙山の男館の裏で馬歩站椿まほたんとうを始めてから四半時(30分)。この基本こうを始めてからかれこれ1年以上経つ。

 それまで辛いだけだった功だが、燕青の指導を受けてから、それまで漠然と行っていた功が、少しずつ「踏む」力を感じられるようになり、面白くなってきたところである。

 立ててある線香の、半分の印まで燃えたのを確認し、張嶺は站椿を続けたまま、前に伸ばした両掌を、ふたつの円を描くようにゆっくりと回し始めた。

牽縁手けんえんしゅ」である。

 踏みしめた地から上がってくる気を、足の裏、両足、丹田たんでんへと導き、丹田で錬った気がさらに両腕に流れていく様子を思い浮かべながら、重心を崩さぬよう外回し、内回し、同じ向き、交互など、様々な形で回していく。
 
 篭山炭鉱から戻った次の日、站椿だけならば半刻(1時間)は十分にできるようになった張嶺を見て、燕青が功を一段階上げたのだ。

 残りの線香が燃え尽きるまでゆっくりと繰り返し、燃え尽きたのを確認してからやっと腰を上げた。

 足も、上げっぱなしの両肩もパンパンに張っている。張嶺はまだ13歳である。普通ならばとっくに音を上げていても不思議ではないが、たったひとりで、泣き言も言わず毎朝欠かさずに続けている。

 張嶺は、仙術にも拳法にも、取り立てての才能がないと自認している。だが、実は得がたい才能を持っている。それは「同じことを愚直に繰り返せる」ことである。

  燕青はすごい人だ。だからその燕青が教えてくれた功をおこなえば、いつかは燕青のようになれるかもしれない、いや、少なくとも近づくことはできるはずだと、ただひたすら教えを守っている。愚直を通り越して盲信とすら言える。

「精が出るのお、小僧?  」
 汗をぬぐう後ろから声がかかり、驚いて振り返ると人形ひとがた己五尾きごびが立っていた。

「な、なんだよ、何か用かよ! 」
 虚勢を張りながら張嶺が答える。
 狐の精の変化へんげだと聞いているし、翡円翠円姉妹や王扇の美貌とはまた違う、醸し出される怪しげな色香に、正直腰が引けているのだ。

 それとみて悟った己五尾は
(ふふっ、強がりおって、可愛いのぉ……ちょいとからかってみるかの)
 ちろり、と舌なめずりして話しかけた。

「そう警戒せずともよい。別に取ってくおうとは言わぬ……それとも、一度わらわにくわれてみるかえ? 天にも昇る気持ちにさせてやるぞえ?」
 すうっと身を寄せてきたものだから、慌てた張嶺、
「い、いらねえよ、邪魔すんならあっちいけよ! 師父に言いつけるぞ! 」

「おお、怖い怖い、許してたもれ、これこの通り」
 わざとらしく口元を押さえたあと、謝る振りで大仰に頭を下げて見せたのだが、計算通り胸元が崩れ、豊かな乳房が八割方こぼれだしている。それをすぐ目の前で見せられたものだからたまらない。

 真っ赤になった張嶺、思わず股間を抑え前かがみになってしまう。何がどうなったものかわからぬはずもないのだが、己五尾はすっとぼけて驚いた表情を作り

「おや、どうしたのじゃ。腹でも痛いのか、どれわらわがさすってしんぜよう。これ、腰を引くでない、悪化しても知らんぞ……むむ、 何やら堅いしこりのようなものが……」
「うわああ、変なとこ触んな! やめてくれよぉ!  」
 もう半べそ状態である。

 それこそ下の毛がやっと生えたか生えないかという、思春期真っただ中の少年なのだ。初めは少々嗜虐的な心持ちでちょっかいを出していた己五尾も、流石に気の毒になったとみえ、それ以上追い打ちをかけるのは控えることにした。

「ふふふ、すまぬすまぬ。これ、からかって悪かったの。機嫌を直しておくれでないかえ」
「……いいよもう。でもおいらの修行の邪魔すんなよな、あっちいってくれよ」
「ふむ……これ、わびと言ってはなんじゃが、ちとわらわと一手交えてみるかえ?」
「えっ!……いいのかい? 」

 涙目になっていたのもどこへやら、張嶺はぱあっと顔を輝かせた。毎日まいにちずっと単調で苦しい功を続けてきたその成果が、はたしてどの程度のものなのか、知りたくて仕方がなかったのである。そもそも対人で戦うなど、最初に燕青に出会った
とき以来なのだ。

「でも、あんた狐だろ? 拳法なんてできるのかい? 」
「ふふ、わらわは拳法は全く知らぬが、おぬしの攻撃を避けるくらいは造作もないことよ。わらわに一撃でも入れられたら、食堂じきどう饅頭まんじゅうをたらふく食わせてやるぞよ」
「言ったな、舐めんなよ! 」

 張嶺はぱっと1丈ほど跳びすさり、軽く膝をまげ拳を握って構えた。
 己五尾はすっと両腕を後ろに回し、スカートをたくし上げ帯に挟み込み、細身のズボン姿で直立し正対した。

「行くぞ! 」
 たわめた膝を伸ばすと同時に、 一気に跳び込んで己五尾の胴体目がけて右手の突きを放った。その突きを己五尾は、軽く片足を引き半身になるだけで躱す。

 横をすり抜けた張嶺、後ろに残した左足を軸に体を捻りつつ、左の肘を己五尾の顔面にとばした。だが、これまたわずかに足を引いただけの己五尾に躱された。

 己五尾は後ろに手を組んだままである。涼しい顔で軸足を入れ替える、ただそれだけで張嶺の突きや蹴り、肘打ちを、次々に際どく見切ってかわしていく。己五尾に拳法の心得はないのだが、獣の動体視力と素早さで、軽々と攻撃を避けているのだ。

(くそっ、なんで当たらないんだ! )
 焦って手足を振り回す張嶺の額に汗がにじんできた。
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