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第二部 第二章
康永金夢楼・金軍陣幕内・西岳華山(五)
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西岳崋山から西へ百里余り(60㎞)。西京河南府華州、渭南県の県城東門。
刻限になったので、門番の下級兵士である孫康が、今まさに門扉を閉めようとした僅かな隙間から、血まみれの男がひとり倒れ込んできた。
「なんだお前、古着屋の劉じゃねぇか。どうしたんだそんな格好で、野盗にでも襲われたか? 」
「と、とにかく早く門を閉めろ、化け物が来たんだ! 早く! 」
あまりの形相につられ、思わずひょいと門の隙間から孫康が顔を出した。
それが、孫康の最期だった。
ぞぶっ、と音を立てて首が飛び、吹き出す血潮で扉に赤い筋を残しながら、ずるずると地に倒れ伏した。
古着屋の劉玄が腰を抜かしたまま後ずさりする中、眼前の門扉が押し広げられた。
ぬう、と姿を現したのは、身の丈2丈(6m)ほどもある、白と黒の縞柄の魔獣であった。後ろ足で立ち上がったそれは、人のような眼の下から猪に似た鼻梁が突き出ており、そこから1尺もある2本の長い牙が伸びている。同じく縞柄の尻尾は体長と同じくらい長く、人の足ほども太い。
これぞまさしく、西岳崋山に封印されていた古代の魔獣、四凶のうちの「檮杌」であった。
檮杌は、首のない孫康の死体に近づき、黒く長い爪を胸の辺りに無造作に突き刺し、持ち上げてそのまま腹部にかぶりついた。
ごぶりっ、ぐちゃりっと、ふた口で腹部を食いちぎり、着ていた革の鎧だけをぷいと吐き出した。さらに両太ももを根元から引きちぎり、横に咥えて鶏の手羽先でも食うかのように肉をこそぎおとしてから骨をすて、劉玄を見た。
その光景を目の当たりにした劉玄は震え上がり身じろぎもできない。檮杌と眼があった瞬間、次は自分が食われるのだと悟り、恐怖に失禁してしまった。
檮杌は劉玄の足を掴むと、そのまま逆さに釣り上げた。声の出たのはその瞬間だった。言葉にならぬ声で、誰にともなく助けを呼び、絶叫したが、檮杌はうるさげに顔を顰め、空いた手で男の頭を掴むと、たんぽぽの綿毛でもむしるかのように、無造作に引っこ抜いた。
痙攣する死体を頭上に持ち上げ、首からぼたぼたしたたる血を満足げに飲みこんでいる。そのとき、城壁の上から敵襲を知らせる銅鑼の音が城内に鳴り響いた。
じゃーん、じゃーん……
銅鑼に呼応するように城壁の上に弓を構えた兵士達が立ち並び、眼下の檮杌に狙いを定めた。さらに詰所から長槍を抱えた兵士たちが駆け出し、檮杌を十重二十重に取り囲んだ。
「化け物が! 孫康の敵、まず矢を射かけろ! 」
馬に乗った指揮官らしき兵士の合図で、城壁の20人ほどの兵士は一斉に檮杌に矢を放った。檮杌は、瞬く間に全身針ねずみのようになった・・・・・・かに見えた。
が、檮杌の全身は二尺ほどの長い毛に覆われているため、一瞬刺さったように見えても、本体まで鏃が通らない。放たれた矢は一旦当たったのち、ぱらぱらと力なく落ちていくのみ。
「槍だ、槍で刺せ! 」
得体の知れない魔物相手であるが、兵士たちは勇猛果敢に突きかかっていった。だがやはり檮杌の長い体毛に阻まれ有効な攻撃ができない。それどころか槍が次々に体毛に絡め取られ、慌てて引っ張っても抜けない。
唖然とした兵士たちは、腰の剣を抜いて構えたが、檮杌はそんな兵士たちを、片手で握った劉玄の首の無い死体を振り回し、むやみやたらに殴り始めた。同時に太い尻尾をも振り回す。
死体で殴られた兵士も、尻尾が当たった兵士も、ある者はくしゃくしゃの肉塊と化し、あるものは弾き飛ばされて仲間にぶつかり、文字通り嵐の中に放り込まれたように次々に潰されていく。
すっかり血の気の失せた指揮官は、きびすを返し救援を求め走り去ろうとしたが、何と檮杌は自分の体毛に絡まった槍を一本取り上げ、指揮官の背中めがけて投げつけた。
槍は鎧を着た指揮官の背中から腹へと突き抜け、そのまま馬の頭までをも串刺しにし、指揮官と馬は一本の槍で貫かれたままその場にずどう、と倒れ伏した。
方臘や田虎など各地の反乱の制圧に使われ、収まった後は北方の燕京攻撃に徴用されたため、渭南の県城に残っていた守備兵は数少ない。そのうち大部分が、何もできぬままこの僅かな時間でなぶり殺しに遭ってしまったのである。
遠巻きに見ていた住民達は一斉に悲鳴をあげ、雪崩をうって逃げ出した。檮杌はその背中を眺めたあと、兵士たちの残骸の山の真ん中に腰をすえ、まだ蠢いている一つに手をのばした。
……という目撃情報を受け、龍虎山上清宮の主、張継先は考えた。(さて、今の弟子たちで対処できるだろうか)
弟子たち、とは言ったが第30代天師であるこの継先、まだ30歳そこそこである。
字は嘉聞といい、元裕7(1092)年、龍虎山の蒙谷庵で生まれた。生まれつき聡明だったが、5歳まで言葉を話さなかった。ところがある日、鶏の鳴き声を聞いて詩賦を作り、翌日には青い蓮の花の上に座っていた、という伝説がある。
歴代の天師の中でも屈指の術力を誇る彼だが、哲宗皇帝の元符3(1100)年、先代に子が無かったため僅か9歳で教団を継いだ。
4年後の祟寧3(1104)年には、皇帝徽宗の要請に応え、澥州の鹽池の氾濫を改善するために赴き、池の主たる蛟龍を、関聖帝君(三国志の関羽の神格化)を召喚し雷で退治する、という絶技を披露したのである。
わずか13歳の少年が起こした奇跡と、その霊験あらたかな仙術に、徽宗はすっかり惚れ込んでしまい、龍虎山上清観の改築や、道士たちのために田畑を賜うなど様々な恩恵を与えた。とはいえ、この厚遇は必ずしも他の道士に良い影響を与えたとは言えなかった。
というのも、早熟で孤高の天才である継先に仕える龍虎山の道士たちは、ほとんど彼より年上であり、仙術についても凡庸な者ばかりだった。
そこに降って湧いた様々な配慮である。道士たちの修行は疎かになり、仙術の実力は伸び悩んだ。だが暮らしに困ることはないどころか、黙っていても朝廷から次々金品が寄せられるのだ。堕落していく道士が増えてくるのは人の性というものである。
今いる弟子の中で、一番の腕利きは王道堅である。仙術は相当なものだが、まだ「五雷天罡正法」を会得できておらず、檮杌を封じるなり退治するには心許ない。
(もしもまだ陶凱が居たならば……ひょっとしたら)
4年ほど前に龍虎山を去った、腕利きの道士を思い出したが、考えても詮無きことである。張天師は軽く頭を振った。
もちろん、窮奇の再封印の時同様、継先自身が出馬し、羅真人なり一清道人なりの五雷正法の使い手と協力すれば、封印は可能だろう。だが実は継先、その若さとは裏腹に、既に世間に嫌気がさしていたのである。
政道を省みることもせず、亡国の危機が迫っているというのに、皇帝をはじめ相変わらず豪奢な暮らしにうつつを抜かしている高官、役人たち。彼らが自らの手で解決しようともせず、何かと言えば仙術で解決してもらおうと頼ってくることに、いい加減うんざりしていた。
そんなところに檮杌が現れた。遼国に奪われた旧北岳恒山の窮奇を封じてから、まだ2年も経たぬうちに、である。張継先ならずとも、五岳に封じられた残りの四凶と蚩尤の守りを固める必要に気づこうというものだ。
(そろそろわたしも、世俗から離れ羽化登仙(俗世を離れ仙人になること)することを考えようか)
そんなことを思いつつ、第30代天師張継先は、弟子の王道堅に檮杌討伐隊の編成を下知した。
あわせて、(またあの羅真人に応援を頼むのは癪だが……)と苦笑いしつつ、残る南岳、中岳、東岳の守りを固めるべく、各地の道観に協力を依頼するため筆を執ったのであった。
刻限になったので、門番の下級兵士である孫康が、今まさに門扉を閉めようとした僅かな隙間から、血まみれの男がひとり倒れ込んできた。
「なんだお前、古着屋の劉じゃねぇか。どうしたんだそんな格好で、野盗にでも襲われたか? 」
「と、とにかく早く門を閉めろ、化け物が来たんだ! 早く! 」
あまりの形相につられ、思わずひょいと門の隙間から孫康が顔を出した。
それが、孫康の最期だった。
ぞぶっ、と音を立てて首が飛び、吹き出す血潮で扉に赤い筋を残しながら、ずるずると地に倒れ伏した。
古着屋の劉玄が腰を抜かしたまま後ずさりする中、眼前の門扉が押し広げられた。
ぬう、と姿を現したのは、身の丈2丈(6m)ほどもある、白と黒の縞柄の魔獣であった。後ろ足で立ち上がったそれは、人のような眼の下から猪に似た鼻梁が突き出ており、そこから1尺もある2本の長い牙が伸びている。同じく縞柄の尻尾は体長と同じくらい長く、人の足ほども太い。
これぞまさしく、西岳崋山に封印されていた古代の魔獣、四凶のうちの「檮杌」であった。
檮杌は、首のない孫康の死体に近づき、黒く長い爪を胸の辺りに無造作に突き刺し、持ち上げてそのまま腹部にかぶりついた。
ごぶりっ、ぐちゃりっと、ふた口で腹部を食いちぎり、着ていた革の鎧だけをぷいと吐き出した。さらに両太ももを根元から引きちぎり、横に咥えて鶏の手羽先でも食うかのように肉をこそぎおとしてから骨をすて、劉玄を見た。
その光景を目の当たりにした劉玄は震え上がり身じろぎもできない。檮杌と眼があった瞬間、次は自分が食われるのだと悟り、恐怖に失禁してしまった。
檮杌は劉玄の足を掴むと、そのまま逆さに釣り上げた。声の出たのはその瞬間だった。言葉にならぬ声で、誰にともなく助けを呼び、絶叫したが、檮杌はうるさげに顔を顰め、空いた手で男の頭を掴むと、たんぽぽの綿毛でもむしるかのように、無造作に引っこ抜いた。
痙攣する死体を頭上に持ち上げ、首からぼたぼたしたたる血を満足げに飲みこんでいる。そのとき、城壁の上から敵襲を知らせる銅鑼の音が城内に鳴り響いた。
じゃーん、じゃーん……
銅鑼に呼応するように城壁の上に弓を構えた兵士達が立ち並び、眼下の檮杌に狙いを定めた。さらに詰所から長槍を抱えた兵士たちが駆け出し、檮杌を十重二十重に取り囲んだ。
「化け物が! 孫康の敵、まず矢を射かけろ! 」
馬に乗った指揮官らしき兵士の合図で、城壁の20人ほどの兵士は一斉に檮杌に矢を放った。檮杌は、瞬く間に全身針ねずみのようになった・・・・・・かに見えた。
が、檮杌の全身は二尺ほどの長い毛に覆われているため、一瞬刺さったように見えても、本体まで鏃が通らない。放たれた矢は一旦当たったのち、ぱらぱらと力なく落ちていくのみ。
「槍だ、槍で刺せ! 」
得体の知れない魔物相手であるが、兵士たちは勇猛果敢に突きかかっていった。だがやはり檮杌の長い体毛に阻まれ有効な攻撃ができない。それどころか槍が次々に体毛に絡め取られ、慌てて引っ張っても抜けない。
唖然とした兵士たちは、腰の剣を抜いて構えたが、檮杌はそんな兵士たちを、片手で握った劉玄の首の無い死体を振り回し、むやみやたらに殴り始めた。同時に太い尻尾をも振り回す。
死体で殴られた兵士も、尻尾が当たった兵士も、ある者はくしゃくしゃの肉塊と化し、あるものは弾き飛ばされて仲間にぶつかり、文字通り嵐の中に放り込まれたように次々に潰されていく。
すっかり血の気の失せた指揮官は、きびすを返し救援を求め走り去ろうとしたが、何と檮杌は自分の体毛に絡まった槍を一本取り上げ、指揮官の背中めがけて投げつけた。
槍は鎧を着た指揮官の背中から腹へと突き抜け、そのまま馬の頭までをも串刺しにし、指揮官と馬は一本の槍で貫かれたままその場にずどう、と倒れ伏した。
方臘や田虎など各地の反乱の制圧に使われ、収まった後は北方の燕京攻撃に徴用されたため、渭南の県城に残っていた守備兵は数少ない。そのうち大部分が、何もできぬままこの僅かな時間でなぶり殺しに遭ってしまったのである。
遠巻きに見ていた住民達は一斉に悲鳴をあげ、雪崩をうって逃げ出した。檮杌はその背中を眺めたあと、兵士たちの残骸の山の真ん中に腰をすえ、まだ蠢いている一つに手をのばした。
……という目撃情報を受け、龍虎山上清宮の主、張継先は考えた。(さて、今の弟子たちで対処できるだろうか)
弟子たち、とは言ったが第30代天師であるこの継先、まだ30歳そこそこである。
字は嘉聞といい、元裕7(1092)年、龍虎山の蒙谷庵で生まれた。生まれつき聡明だったが、5歳まで言葉を話さなかった。ところがある日、鶏の鳴き声を聞いて詩賦を作り、翌日には青い蓮の花の上に座っていた、という伝説がある。
歴代の天師の中でも屈指の術力を誇る彼だが、哲宗皇帝の元符3(1100)年、先代に子が無かったため僅か9歳で教団を継いだ。
4年後の祟寧3(1104)年には、皇帝徽宗の要請に応え、澥州の鹽池の氾濫を改善するために赴き、池の主たる蛟龍を、関聖帝君(三国志の関羽の神格化)を召喚し雷で退治する、という絶技を披露したのである。
わずか13歳の少年が起こした奇跡と、その霊験あらたかな仙術に、徽宗はすっかり惚れ込んでしまい、龍虎山上清観の改築や、道士たちのために田畑を賜うなど様々な恩恵を与えた。とはいえ、この厚遇は必ずしも他の道士に良い影響を与えたとは言えなかった。
というのも、早熟で孤高の天才である継先に仕える龍虎山の道士たちは、ほとんど彼より年上であり、仙術についても凡庸な者ばかりだった。
そこに降って湧いた様々な配慮である。道士たちの修行は疎かになり、仙術の実力は伸び悩んだ。だが暮らしに困ることはないどころか、黙っていても朝廷から次々金品が寄せられるのだ。堕落していく道士が増えてくるのは人の性というものである。
今いる弟子の中で、一番の腕利きは王道堅である。仙術は相当なものだが、まだ「五雷天罡正法」を会得できておらず、檮杌を封じるなり退治するには心許ない。
(もしもまだ陶凱が居たならば……ひょっとしたら)
4年ほど前に龍虎山を去った、腕利きの道士を思い出したが、考えても詮無きことである。張天師は軽く頭を振った。
もちろん、窮奇の再封印の時同様、継先自身が出馬し、羅真人なり一清道人なりの五雷正法の使い手と協力すれば、封印は可能だろう。だが実は継先、その若さとは裏腹に、既に世間に嫌気がさしていたのである。
政道を省みることもせず、亡国の危機が迫っているというのに、皇帝をはじめ相変わらず豪奢な暮らしにうつつを抜かしている高官、役人たち。彼らが自らの手で解決しようともせず、何かと言えば仙術で解決してもらおうと頼ってくることに、いい加減うんざりしていた。
そんなところに檮杌が現れた。遼国に奪われた旧北岳恒山の窮奇を封じてから、まだ2年も経たぬうちに、である。張継先ならずとも、五岳に封じられた残りの四凶と蚩尤の守りを固める必要に気づこうというものだ。
(そろそろわたしも、世俗から離れ羽化登仙(俗世を離れ仙人になること)することを考えようか)
そんなことを思いつつ、第30代天師張継先は、弟子の王道堅に檮杌討伐隊の編成を下知した。
あわせて、(またあの羅真人に応援を頼むのは癪だが……)と苦笑いしつつ、残る南岳、中岳、東岳の守りを固めるべく、各地の道観に協力を依頼するため筆を執ったのであった。
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