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第七章
青州観山寺(五)
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着衣し、すっかりしおらしくなった己五尾の前に、四娘、燕青、常廉の三人が向き合って座った。
先ほどまでの半人半獣の容貌はどこへやら。すっかり絵の中の美人をそのまま具現化した姿である。
僧侶たちや燕青を悩ませた「淫気」は感じられないが、醸し出す色香はただごとではなく、燕青も常廉もきな臭い顔つきを隠せない。それを見て密かに苛立つ四娘。やがて常廉が口を開いた。
「己五尾とやら、そもそもおぬしいったい何者じゃ?人か?けだものか?」
「妾はあの巻物に描かれた女の絵姿に、魂魄が宿って形を成したもの。描かれたのは隋の時代じゃ。名は知らぬが相当な名工の手によるものと聞いておる」
「はて、それならばなぜあのけだもののような姿に?」
「その時に使われた筆が、今は亡きわが主の尻尾の毛で作られていたからじゃ」
「その主とは?」
「妲己、とおっしゃるお方よ」
(妲己!)
三人は一斉に息をのんだ。と同時に、燕青と四娘は合点がいったのである。
(そうか、それで二千年の時を経て、とか言っていたのか!)
妲己……中国の歴史上、「悪女」といえばまず真っ先に思い浮かぶであろうこの女、紀元前十一世紀末頃、殷の帝で「酒池肉林」の故事でも知られる紂王の妃であった、。己が姓、妲が字であるという。
元は有蘇氏の娘で、「炮烙の刑」という残酷な刑罰を見て笑ったり、諫言した臣下の心臓をえぐり出させて鑑賞したりと、残虐な性格であると同時に絶世の美女であった。
そしてその正体は強力な霊力を持つ「九尾の狐」で、周の武王によって殷が滅ぼされた時、首と九本の尾を切られ死んだとされている。
その切り落とされた尾の毛で作られた筆で描かれたことによって、魂を持つと同時に、狐の霊力を宿した、ということらしいのだ。
「あれ?だってあんた五尾って名乗ったじゃない?」
四娘の問いに対し、
「妾は九本あるうちの五番目の精である。真ん中の尾で一番霊力が強いのじゃ」
「なるほど」
「で、その妲己の眷属が、なぜわしの弟子を殺したのだ!」
常廉が語気を強く尋ねた。
「それは違うでおじゃる!」
己五尾が強く反駁した。
「何が違うのだ!我が弟子の常栄が、この経堂で干からびて死んだのは、お主の仕業であろうが!」
常廉が烈火の如く怒り出すのを、燕青がなんとかなだめすかす。
「責任がないとはいわぬ。あの者は気の毒なことになったとも思っておる。じゃが好奇心からあの者が巻物を開かなければ、こんなことにはなっておらなんだ」
「だ、だが、わしはお主のような気を発する巻物を、この経堂で見たことも感じた事もないぞ?一体どこからやってきたのだ!」
「大相国寺から参った」
「大相国寺?……というとあの避難させた御物の中に?」
常廉が立ち上がり、かなり古びた長櫃に近寄り、蓋を開けた。
「この中か?」
「左様。宝物庫で眠っておったのに、あたふたと長櫃ごとこの寺に連れ込まれたのじゃよ」
大相国寺は、国都東京開封府随一の名刹である。大昔からの宝物御物が数多く秘蔵されてきた。
ところが昨今の遼軍、金軍との軋轢の中で危険を感じる場面が多くなってきた。
そこで万一の場合を考え、いくつかの寺に宝物を分散避難させることになったのだ。その寺の一つがこの観山寺であり、ここに運び込まれた複数の長櫃の一つに、あの美人画が入っていたことになる。
「しかし、あの長櫃が運び込まれたときにはわしもいたが、開けようとしても空かなかったし、あんな淫らな気も発していなかったぞ?」
「妾は隋代に描かれたのち、唐代に何とかいう偉い坊主に、長櫃ごと封印されたのでおじゃる。たしか玄奘三蔵とかいったかの?」
(……どえらい名前が出てきたな)
三人は目を白黒させた。ご存じ「西遊記」の主要人物であり、唐の都長安から天竺まで仏教の原典を求め旅をし、「大般若経」を初めとする六百五十七部もの経典を持ち帰った高僧である。
「では、我が弟子常栄がその封印を解いたとな?」
「その常栄とやら、ずっと籠もりっきりでさまざまな経典ばかり詠んでおっての。たまたま詠み上げたのが、妾を封じた長櫃の封印を解く経文だったようじゃな」
長櫃から漏れ出た光に驚いた常栄は、好奇心に勝てず開けてしまい、中の御物を見ているうちに、己五尾が描かれた巻物を見つけてしまったのである。
「妾の淫気も、最初は本当にかすかなものじゃった。じゃが、妾の絵を開いて見たとき、欲情を覚えたのじゃろうな。その僧侶は妾の絵を見ながら自ら慰め始め、そして精を漏らしてしまった。慌てて床を反故紙で拭いたりして、ひどく自己嫌悪にかられていたように見えたのぉ」
「そういえば常栄は死ぬ少し前、思いつめた表情でわしのところへやってきて、なにやら言いたげな様子だった。あれはそういうことじゃったのか」
真面目一本槍で学問一筋。禁欲生活の長かった常栄は思い悩んだ。だがやめることが出来なかった。毎夜毎夜自己嫌悪に悩み苦しみながら、己が色欲に負けてしまい、絵を見つめながら行為にふけっていたのだ。
ところが、常栄が精を放つたび、妲己の尾の毛で描かれた絵がその精気に感応してしまい、絵自体から発せられる「淫気」がどんどん強くなってきた。そうなるとますます常栄の性欲がかきたてられ・・・・・・の悪循環で、常栄は生気を失い痩せ細っていき、己五尾の妖力は増強されていった。
そしてとうとうあの夜、己五尾と名乗るこの美女が絵から抜け出てきたのである。
破戒の極みである女犯の禁忌を犯した罪の意識と、思いのありったけをぶつける快感との狭間で苦しみながら、とうとう常栄は精気、生気ともに使いきり、名実ともに果ててしまったのだ。
古来より狐の精は、淫乱で好色とされてきた。ましてや希代の毒婦「妲己《だっき》」は最強の「九尾の狐」である。その眷属ともなると、一介の僧侶では太刀打ちできるはずもない。そして、これほどまでに妖として成長させてしまったのは、他ならぬ常栄なのである。
「むぅ、してみるとお主が魔物として顕現したのには、確かに当方にも責任はある。だがお主を生かしておけばまた寺の者が色香に迷い修行にならぬ。悪いがお主を滅するほかはあるまい」
「ここに至っては逃げも隠れもせぬ。じゃが妾を殺せば、巻物の絵も消えてしまうがそれはよいのか?」
ここで常廉はたと困った。大相国寺の御物となれば、国宝に匹敵する価値があり、封印されていても内容目録はきちんと残されている。封印は解かれているわ、有るはずの絵は消えているわでは、観山寺の管理責任問題を問われるのは間違いない。
「それは困る。とはいえ、お主をただ野に放てば、誰がどんな目に遭うかわからぬ。どうしたものか?」
「そこで妾からおぬしらに一つ、提案というかお願いしたいことがある」
「なんじゃ?申してみよ」
ここで己五尾は燕青の方を向き、
「どうか妾を燕青どのの配下としてお連れいただけまいか?この寺を出て行けば問題ないであろう?」
「はぁあ!」
三人が一斉に声を張りあげた。
先ほどまでの半人半獣の容貌はどこへやら。すっかり絵の中の美人をそのまま具現化した姿である。
僧侶たちや燕青を悩ませた「淫気」は感じられないが、醸し出す色香はただごとではなく、燕青も常廉もきな臭い顔つきを隠せない。それを見て密かに苛立つ四娘。やがて常廉が口を開いた。
「己五尾とやら、そもそもおぬしいったい何者じゃ?人か?けだものか?」
「妾はあの巻物に描かれた女の絵姿に、魂魄が宿って形を成したもの。描かれたのは隋の時代じゃ。名は知らぬが相当な名工の手によるものと聞いておる」
「はて、それならばなぜあのけだもののような姿に?」
「その時に使われた筆が、今は亡きわが主の尻尾の毛で作られていたからじゃ」
「その主とは?」
「妲己、とおっしゃるお方よ」
(妲己!)
三人は一斉に息をのんだ。と同時に、燕青と四娘は合点がいったのである。
(そうか、それで二千年の時を経て、とか言っていたのか!)
妲己……中国の歴史上、「悪女」といえばまず真っ先に思い浮かぶであろうこの女、紀元前十一世紀末頃、殷の帝で「酒池肉林」の故事でも知られる紂王の妃であった、。己が姓、妲が字であるという。
元は有蘇氏の娘で、「炮烙の刑」という残酷な刑罰を見て笑ったり、諫言した臣下の心臓をえぐり出させて鑑賞したりと、残虐な性格であると同時に絶世の美女であった。
そしてその正体は強力な霊力を持つ「九尾の狐」で、周の武王によって殷が滅ぼされた時、首と九本の尾を切られ死んだとされている。
その切り落とされた尾の毛で作られた筆で描かれたことによって、魂を持つと同時に、狐の霊力を宿した、ということらしいのだ。
「あれ?だってあんた五尾って名乗ったじゃない?」
四娘の問いに対し、
「妾は九本あるうちの五番目の精である。真ん中の尾で一番霊力が強いのじゃ」
「なるほど」
「で、その妲己の眷属が、なぜわしの弟子を殺したのだ!」
常廉が語気を強く尋ねた。
「それは違うでおじゃる!」
己五尾が強く反駁した。
「何が違うのだ!我が弟子の常栄が、この経堂で干からびて死んだのは、お主の仕業であろうが!」
常廉が烈火の如く怒り出すのを、燕青がなんとかなだめすかす。
「責任がないとはいわぬ。あの者は気の毒なことになったとも思っておる。じゃが好奇心からあの者が巻物を開かなければ、こんなことにはなっておらなんだ」
「だ、だが、わしはお主のような気を発する巻物を、この経堂で見たことも感じた事もないぞ?一体どこからやってきたのだ!」
「大相国寺から参った」
「大相国寺?……というとあの避難させた御物の中に?」
常廉が立ち上がり、かなり古びた長櫃に近寄り、蓋を開けた。
「この中か?」
「左様。宝物庫で眠っておったのに、あたふたと長櫃ごとこの寺に連れ込まれたのじゃよ」
大相国寺は、国都東京開封府随一の名刹である。大昔からの宝物御物が数多く秘蔵されてきた。
ところが昨今の遼軍、金軍との軋轢の中で危険を感じる場面が多くなってきた。
そこで万一の場合を考え、いくつかの寺に宝物を分散避難させることになったのだ。その寺の一つがこの観山寺であり、ここに運び込まれた複数の長櫃の一つに、あの美人画が入っていたことになる。
「しかし、あの長櫃が運び込まれたときにはわしもいたが、開けようとしても空かなかったし、あんな淫らな気も発していなかったぞ?」
「妾は隋代に描かれたのち、唐代に何とかいう偉い坊主に、長櫃ごと封印されたのでおじゃる。たしか玄奘三蔵とかいったかの?」
(……どえらい名前が出てきたな)
三人は目を白黒させた。ご存じ「西遊記」の主要人物であり、唐の都長安から天竺まで仏教の原典を求め旅をし、「大般若経」を初めとする六百五十七部もの経典を持ち帰った高僧である。
「では、我が弟子常栄がその封印を解いたとな?」
「その常栄とやら、ずっと籠もりっきりでさまざまな経典ばかり詠んでおっての。たまたま詠み上げたのが、妾を封じた長櫃の封印を解く経文だったようじゃな」
長櫃から漏れ出た光に驚いた常栄は、好奇心に勝てず開けてしまい、中の御物を見ているうちに、己五尾が描かれた巻物を見つけてしまったのである。
「妾の淫気も、最初は本当にかすかなものじゃった。じゃが、妾の絵を開いて見たとき、欲情を覚えたのじゃろうな。その僧侶は妾の絵を見ながら自ら慰め始め、そして精を漏らしてしまった。慌てて床を反故紙で拭いたりして、ひどく自己嫌悪にかられていたように見えたのぉ」
「そういえば常栄は死ぬ少し前、思いつめた表情でわしのところへやってきて、なにやら言いたげな様子だった。あれはそういうことじゃったのか」
真面目一本槍で学問一筋。禁欲生活の長かった常栄は思い悩んだ。だがやめることが出来なかった。毎夜毎夜自己嫌悪に悩み苦しみながら、己が色欲に負けてしまい、絵を見つめながら行為にふけっていたのだ。
ところが、常栄が精を放つたび、妲己の尾の毛で描かれた絵がその精気に感応してしまい、絵自体から発せられる「淫気」がどんどん強くなってきた。そうなるとますます常栄の性欲がかきたてられ・・・・・・の悪循環で、常栄は生気を失い痩せ細っていき、己五尾の妖力は増強されていった。
そしてとうとうあの夜、己五尾と名乗るこの美女が絵から抜け出てきたのである。
破戒の極みである女犯の禁忌を犯した罪の意識と、思いのありったけをぶつける快感との狭間で苦しみながら、とうとう常栄は精気、生気ともに使いきり、名実ともに果ててしまったのだ。
古来より狐の精は、淫乱で好色とされてきた。ましてや希代の毒婦「妲己《だっき》」は最強の「九尾の狐」である。その眷属ともなると、一介の僧侶では太刀打ちできるはずもない。そして、これほどまでに妖として成長させてしまったのは、他ならぬ常栄なのである。
「むぅ、してみるとお主が魔物として顕現したのには、確かに当方にも責任はある。だがお主を生かしておけばまた寺の者が色香に迷い修行にならぬ。悪いがお主を滅するほかはあるまい」
「ここに至っては逃げも隠れもせぬ。じゃが妾を殺せば、巻物の絵も消えてしまうがそれはよいのか?」
ここで常廉はたと困った。大相国寺の御物となれば、国宝に匹敵する価値があり、封印されていても内容目録はきちんと残されている。封印は解かれているわ、有るはずの絵は消えているわでは、観山寺の管理責任問題を問われるのは間違いない。
「それは困る。とはいえ、お主をただ野に放てば、誰がどんな目に遭うかわからぬ。どうしたものか?」
「そこで妾からおぬしらに一つ、提案というかお願いしたいことがある」
「なんじゃ?申してみよ」
ここで己五尾は燕青の方を向き、
「どうか妾を燕青どのの配下としてお連れいただけまいか?この寺を出て行けば問題ないであろう?」
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