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第七章
青州観山寺(三)
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経堂の中は急に真っ暗になってしまった。湿気抜きの窓にはめられた板の隙間から、かろうじて光の筋が見えるのみである。
四娘は一瞬戸惑ったが、目は相変わらず壁に吊した巻物を凝視している。
すると、美人画の描かれた巻物全体が、少しずつ光を発し始め、ついにはなんと、描かれていた美女の絵がゆらゆらと絵の中から抜け出てきたではないか。
四娘はすかさず懐から「逐怪破邪符」を取り出し、左手の人差し指と中指で挟み眼前に構え、咒文を唱え始めた。
「嚇々陽々、日出東方、断却凶悪、祓除不祥、急々如律令。勅!」
四娘の体に、霞のような淡くて白い煙がまとわりついた。
「逐怪破邪符」の咒文は、精神攻撃や状態異常に対抗する仙術である。常廉の話から、相手の精神を惑わす類いの妖物と推定し、前もって自らに護身の仙術をかけたのだ。
その間に、絵から抜け出た美女は瞬く間に一丈(三m)ほどの大きさに変化して四娘を見おろし、にぃ、と笑いかけてきたのである。
「この寺のお坊さんを殺したのはあんたね!」
四娘は叫び、背中の双剣を空中に飛ばし、二本まとめて握ったその切っ先を、絵から抜け出た妖に向けた。
それを見た妖物はおもむろに口を開き、甲高い声で笑い出した。
「おーっほっほぉ、妾が殺したなどと、人聞きの悪いことをいう小娘じゃのぉ。あの坊主が頼みもせんのに、勝手に妾の封印を解いたのでおじゃるぞ。毎晩毎晩呼びもしないのにやってきては、淫らなことを考えてあやつが勝手に自滅したのじゃぞ?妾に何の咎があるというのじゃ?えぇ?」
妖物は四娘のはるか上方から見下ろし、嘲りの表情を浮かべた。絵で見た慈悲深い天女のような表情はすっかり消え、姦婦毒婦の類の邪悪な笑みを浮かべている。薄衣はすっかりはだけ、ほとんど全裸に近い姿で両手両足を広げて立っている。
「あんたいったい何者?正体を見せなさい!」
四娘は「逐怪破邪符」を懐に入れ、すかさず別の霊符を取り出し顔前に構えた。
「それ清陽は天となり、五行顕れて十干立つ。濁陰は地となり、八方定まりて十二支に分かる。十干十二支配合して共に妙用をいたす。伏して願わくば、正対化神変中に加護哀愍したまえ。謹請し奉る。十二辰仙人正対化霊天真坤元尊神、陰陽の理を示し顕現せしめよ。急々如律令!疾《ち》っ」
咒文を唱え終わると、抜き出した「乾坤清濁転元符」を、妖物に向けて投げつけた。
正体の分からぬ妖物を、本来の姿に転じさせる霊符である。霊符は宙を舞い、妖女の体に張りついたかと思うと、まばゆい光を発し始め、妖女の姿がその光で一瞬覆い隠された。
「ぬうぅぅぅ!」
叫び声が途絶え、光が消えたかと思うと、女の姿が徐々に変わり始めたのだ。
いつの間にか天女を思わせた美貌は変化し、かろうじて人らしき形は残しているが、目尻は切れ上がり、鼻先が伸び、大きく開いた口からは牙が伸びてきて、頭に獣のような耳がぴんと立っている。
薄衣の下の肌は全身毛が覆い、尻からは何股にも分かれた太い尻尾が生えている。
獣とも人ともつかぬ、それでいて艶めかしい女の体をしたなにか。おそらくこれが怪異の正体なのであろう。
光がほとんど差し込まない経堂の中であるが、四娘の「浄眼」は、暗闇の中にはっきりと、半人半獣の魔物の姿を捕らえていた。
「ふふん、妾がこの姿を見せるのは初めてじゃの。小娘、そなたに恨みはないが、せっかく久々に世間に出られたのじゃ。封じようというのならただでは済まさんぞ!」
魔物が「轟!」と吠えた。
(くっ!この圧力、相当手強い魔物だわ)
四娘は双剣を両手に持ちかえ、戦う構えをとった。
「小娘って言ったわね?……あたしが小さいからって舐めてると痛いめに遭うわよ!」
「何が起きたのだいったい!」
経堂の分厚い扉がいきなり閉まり、と繋がっていた綱がちぎれ飛び、危うく燕青が転びかけたのを見て、常廉和尚が慌てて問いただした。
「わかりません!」
体勢を立て直した燕青が叫び、急いで扉に飛びつき満身の力を込めて引っ張ったが、びくともしない。
扉が閉まったせいか、男を淫らな気持ちにさせる効力はほとんど感じられなくなったが、扉に体当たりを食らわしても、経堂全体がずしりと揺れるだけで全く壊れそうもない。
「無理じゃ、その建物は扉も壁も全面五寸四方の角材でできている。わしの力でも壊せん」
「どこか入れるところはありませんか?」
「上の湿気抜きの窓からならば。おい誰か、梯子を持ってこんか!」
見上げた窓は、床から約三丈(九m)もの高さにあった。外壁には足がかりになりそうなものはなく、垂直にそそり立っている。
(ええい糞っ、小融ひとりにしちまうなんて鏢師失格だ!梯子を待つ時間が惜しい!)
燕青は一度石段の下まで降り、勢いを付けて駆け上がると軽効を使ってそのまま外壁を斜めに走り抜け、屋根の梁に飛びついた。
見ていた常廉と弟子たちは、その見事な技に声を失った。梁にぶら下がった燕青は二、三度体を揺らし、反動を使って窓を内張りした板ごと蹴り破り、そのまま堂内へとび込んだ。
ほぼ真っ暗だった堂内にいきなり太陽の光が差し込み、床にふわりと降りた燕青の目に飛び込んだのは、双桃剣を構える四娘と、それに向き合った半人半獣の魔物の姿である。
急いで四娘の側に駆け寄り、
「すまん、大丈夫か?……ぬぅっ!」
声を掛けた次の瞬間、堂内に濃厚に立ちこめていた淫蕩な妖気が燕青を包み込んだ。
(いかん、迂闊に飛び込んだがさっきよりも怪しげな気が強い。くっ、このままでは)
さすがの燕青も、内からこみ上げてくる強烈な欲情に翻弄されつつある。扉を押し開けようとしても、閂も架かっていないのにやはり微動にしない。
「あっはっはぁ、無駄でおじゃるよ無駄ぁ。この堂内は妾の張った結界の中。妾がその気にならなければ扉は開かないでおじゃる」
勝ち誇った顔で半人半獣の魔物があざ笑う。
燕青はますます色欲に絶えきれなくなりつつある。四娘をすら押し倒して凌辱してやりたい、という気持ちにまでなっている。
(くそっ、なんの対策も立てずに飛び込んだ俺が愚かだった)
歯がみしながら必死に理性を奮い起こし
「小融、逃げろ、このままではお前まで襲ってしまいそうだ」
「うふふふ、飛んで火に入る色男ってやつかねぇ?良いじゃないかえ、思うがままに本能に身を委ねてみれば。見れば幼女だけど可愛い娘じゃないかえ。抱いてみればきっと新しい世界が開けるでおじゃるよ、あっはっは」
腰に手を当て、余裕の表情で茶化してくる。
「だまれ!」
四娘が裂帛の気合いで決めつけ、床にうずくまり必死に色欲に対抗している燕青のそばに駆け寄り、
「以日洗身、以月煉形、仙人扶起、玉女随行、二十八宿、與吾合形、千邪万穢、逐水而清、霊宝天尊、安慰身形、弟子魂魄、五曜玄明、青龍白虎、隊仗紛紜、朱雀玄武、侍衛身形、急急如律令!浄!」
猛烈な勢いで「浄身咒」を唱え、うずくまった燕青の周囲で、まるで空間から四角い箱を切り出すかのように双桃剣を振るう。
すると、うつ伏せにのたうち回っていた燕青を襲っていた強烈な欲情の大波がふっと消えた。
唖然として顔を上げたところに四娘が
「青兄の周りに小さな結界を張ったから、動かないで見てて!」
振り返り魔物に向き直って、燕青に背を向けたままぴしゃりと言いつけた。
「ほぉ?」
魔物が腰から手を離し、毛むくじゃらで豊満な乳房の前で腕組みをし、すっと目を細めた。
「妾のこの淫気に結界を張ったか、なかなかやるじゃないかえ、おちびちゃん?」
「うるさいわよさっきから妾わらわって偉そうに。いったいあんた何様のつもり、名乗りなさいよ!」
双桃刀を眼前で交差させながら魔物を睨みつける。
「ふふん、名前なんぞないが……そうさねぇ、己五尾とでも名乗っておこうかね」
「きごび、ね。何でもいいからその嫌らしい気を引っ込めて、絵の中に戻りなさいよ!」
「嫌でおじゃるな。そもそも妾を絵から呼び出したのはここの坊主でおじゃる。勝手に顕現させておいて、自分たちで妙な気分になっといて、あやかしだなんだ言われてもこっちが迷惑じゃ。知ったこっちゃないでおじゃる」
「どうしても戻らないっていうなら退治するしかないわね。覚悟しなよ」
「面白い、やってみなよこのドちびが!」
くわっと目を見開き、四つん這いになったかと思うと、獣の早さで飛びかかってきた。
四娘は一瞬戸惑ったが、目は相変わらず壁に吊した巻物を凝視している。
すると、美人画の描かれた巻物全体が、少しずつ光を発し始め、ついにはなんと、描かれていた美女の絵がゆらゆらと絵の中から抜け出てきたではないか。
四娘はすかさず懐から「逐怪破邪符」を取り出し、左手の人差し指と中指で挟み眼前に構え、咒文を唱え始めた。
「嚇々陽々、日出東方、断却凶悪、祓除不祥、急々如律令。勅!」
四娘の体に、霞のような淡くて白い煙がまとわりついた。
「逐怪破邪符」の咒文は、精神攻撃や状態異常に対抗する仙術である。常廉の話から、相手の精神を惑わす類いの妖物と推定し、前もって自らに護身の仙術をかけたのだ。
その間に、絵から抜け出た美女は瞬く間に一丈(三m)ほどの大きさに変化して四娘を見おろし、にぃ、と笑いかけてきたのである。
「この寺のお坊さんを殺したのはあんたね!」
四娘は叫び、背中の双剣を空中に飛ばし、二本まとめて握ったその切っ先を、絵から抜け出た妖に向けた。
それを見た妖物はおもむろに口を開き、甲高い声で笑い出した。
「おーっほっほぉ、妾が殺したなどと、人聞きの悪いことをいう小娘じゃのぉ。あの坊主が頼みもせんのに、勝手に妾の封印を解いたのでおじゃるぞ。毎晩毎晩呼びもしないのにやってきては、淫らなことを考えてあやつが勝手に自滅したのじゃぞ?妾に何の咎があるというのじゃ?えぇ?」
妖物は四娘のはるか上方から見下ろし、嘲りの表情を浮かべた。絵で見た慈悲深い天女のような表情はすっかり消え、姦婦毒婦の類の邪悪な笑みを浮かべている。薄衣はすっかりはだけ、ほとんど全裸に近い姿で両手両足を広げて立っている。
「あんたいったい何者?正体を見せなさい!」
四娘は「逐怪破邪符」を懐に入れ、すかさず別の霊符を取り出し顔前に構えた。
「それ清陽は天となり、五行顕れて十干立つ。濁陰は地となり、八方定まりて十二支に分かる。十干十二支配合して共に妙用をいたす。伏して願わくば、正対化神変中に加護哀愍したまえ。謹請し奉る。十二辰仙人正対化霊天真坤元尊神、陰陽の理を示し顕現せしめよ。急々如律令!疾《ち》っ」
咒文を唱え終わると、抜き出した「乾坤清濁転元符」を、妖物に向けて投げつけた。
正体の分からぬ妖物を、本来の姿に転じさせる霊符である。霊符は宙を舞い、妖女の体に張りついたかと思うと、まばゆい光を発し始め、妖女の姿がその光で一瞬覆い隠された。
「ぬうぅぅぅ!」
叫び声が途絶え、光が消えたかと思うと、女の姿が徐々に変わり始めたのだ。
いつの間にか天女を思わせた美貌は変化し、かろうじて人らしき形は残しているが、目尻は切れ上がり、鼻先が伸び、大きく開いた口からは牙が伸びてきて、頭に獣のような耳がぴんと立っている。
薄衣の下の肌は全身毛が覆い、尻からは何股にも分かれた太い尻尾が生えている。
獣とも人ともつかぬ、それでいて艶めかしい女の体をしたなにか。おそらくこれが怪異の正体なのであろう。
光がほとんど差し込まない経堂の中であるが、四娘の「浄眼」は、暗闇の中にはっきりと、半人半獣の魔物の姿を捕らえていた。
「ふふん、妾がこの姿を見せるのは初めてじゃの。小娘、そなたに恨みはないが、せっかく久々に世間に出られたのじゃ。封じようというのならただでは済まさんぞ!」
魔物が「轟!」と吠えた。
(くっ!この圧力、相当手強い魔物だわ)
四娘は双剣を両手に持ちかえ、戦う構えをとった。
「小娘って言ったわね?……あたしが小さいからって舐めてると痛いめに遭うわよ!」
「何が起きたのだいったい!」
経堂の分厚い扉がいきなり閉まり、と繋がっていた綱がちぎれ飛び、危うく燕青が転びかけたのを見て、常廉和尚が慌てて問いただした。
「わかりません!」
体勢を立て直した燕青が叫び、急いで扉に飛びつき満身の力を込めて引っ張ったが、びくともしない。
扉が閉まったせいか、男を淫らな気持ちにさせる効力はほとんど感じられなくなったが、扉に体当たりを食らわしても、経堂全体がずしりと揺れるだけで全く壊れそうもない。
「無理じゃ、その建物は扉も壁も全面五寸四方の角材でできている。わしの力でも壊せん」
「どこか入れるところはありませんか?」
「上の湿気抜きの窓からならば。おい誰か、梯子を持ってこんか!」
見上げた窓は、床から約三丈(九m)もの高さにあった。外壁には足がかりになりそうなものはなく、垂直にそそり立っている。
(ええい糞っ、小融ひとりにしちまうなんて鏢師失格だ!梯子を待つ時間が惜しい!)
燕青は一度石段の下まで降り、勢いを付けて駆け上がると軽効を使ってそのまま外壁を斜めに走り抜け、屋根の梁に飛びついた。
見ていた常廉と弟子たちは、その見事な技に声を失った。梁にぶら下がった燕青は二、三度体を揺らし、反動を使って窓を内張りした板ごと蹴り破り、そのまま堂内へとび込んだ。
ほぼ真っ暗だった堂内にいきなり太陽の光が差し込み、床にふわりと降りた燕青の目に飛び込んだのは、双桃剣を構える四娘と、それに向き合った半人半獣の魔物の姿である。
急いで四娘の側に駆け寄り、
「すまん、大丈夫か?……ぬぅっ!」
声を掛けた次の瞬間、堂内に濃厚に立ちこめていた淫蕩な妖気が燕青を包み込んだ。
(いかん、迂闊に飛び込んだがさっきよりも怪しげな気が強い。くっ、このままでは)
さすがの燕青も、内からこみ上げてくる強烈な欲情に翻弄されつつある。扉を押し開けようとしても、閂も架かっていないのにやはり微動にしない。
「あっはっはぁ、無駄でおじゃるよ無駄ぁ。この堂内は妾の張った結界の中。妾がその気にならなければ扉は開かないでおじゃる」
勝ち誇った顔で半人半獣の魔物があざ笑う。
燕青はますます色欲に絶えきれなくなりつつある。四娘をすら押し倒して凌辱してやりたい、という気持ちにまでなっている。
(くそっ、なんの対策も立てずに飛び込んだ俺が愚かだった)
歯がみしながら必死に理性を奮い起こし
「小融、逃げろ、このままではお前まで襲ってしまいそうだ」
「うふふふ、飛んで火に入る色男ってやつかねぇ?良いじゃないかえ、思うがままに本能に身を委ねてみれば。見れば幼女だけど可愛い娘じゃないかえ。抱いてみればきっと新しい世界が開けるでおじゃるよ、あっはっは」
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「以日洗身、以月煉形、仙人扶起、玉女随行、二十八宿、與吾合形、千邪万穢、逐水而清、霊宝天尊、安慰身形、弟子魂魄、五曜玄明、青龍白虎、隊仗紛紜、朱雀玄武、侍衛身形、急急如律令!浄!」
猛烈な勢いで「浄身咒」を唱え、うずくまった燕青の周囲で、まるで空間から四角い箱を切り出すかのように双桃剣を振るう。
すると、うつ伏せにのたうち回っていた燕青を襲っていた強烈な欲情の大波がふっと消えた。
唖然として顔を上げたところに四娘が
「青兄の周りに小さな結界を張ったから、動かないで見てて!」
振り返り魔物に向き直って、燕青に背を向けたままぴしゃりと言いつけた。
「ほぉ?」
魔物が腰から手を離し、毛むくじゃらで豊満な乳房の前で腕組みをし、すっと目を細めた。
「妾のこの淫気に結界を張ったか、なかなかやるじゃないかえ、おちびちゃん?」
「うるさいわよさっきから妾わらわって偉そうに。いったいあんた何様のつもり、名乗りなさいよ!」
双桃刀を眼前で交差させながら魔物を睨みつける。
「ふふん、名前なんぞないが……そうさねぇ、己五尾とでも名乗っておこうかね」
「きごび、ね。何でもいいからその嫌らしい気を引っ込めて、絵の中に戻りなさいよ!」
「嫌でおじゃるな。そもそも妾を絵から呼び出したのはここの坊主でおじゃる。勝手に顕現させておいて、自分たちで妙な気分になっといて、あやかしだなんだ言われてもこっちが迷惑じゃ。知ったこっちゃないでおじゃる」
「どうしても戻らないっていうなら退治するしかないわね。覚悟しなよ」
「面白い、やってみなよこのドちびが!」
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