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第六章
飲馬川山塞(五)
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そもそも周老人は、二十年前に土地の役人といさかいを起こしてしまい、その責任を取って少林寺を抜けた。
その内容というのも、少林寺の門前町の小さな居酒屋に、酔っ払った宋軍の兵士が数名押しかけ、老主人の対応が気に入らないと店を壊すわ、老人に暴行を加えるわ、というところに通りかかった周侗が、その兵士たちを散々に懲らしめたのだが、その中に宰相「蔡京」の遠い親戚がいたのである。
後日、少林寺を鄭州の役人、捕り手数十人が取り囲み、一方的に罪状を押しつけられ逮捕されそうになったので、数人を叩きのめして嵩山に登って逃げ、その後乞食坊主として各地を転々としていたのである。
その旅の途中、相州湯陰県を訪れたとき、ひょんな事から十歳ほどの少年と出会った。少年は幼いころ父を亡くしていたが、俊敏で賢く、彼の「強くなって母を守りたい」という気持ちにほだされ、数年間少林拳を教えていたという。
ところがこの若者、遼やら金やらがたびたび宋国に侵入し、領土を広げていることに我慢ならなくなって、故郷を出て宋国のために戦う、と言い出したのだ。
「自分の国を守りたい、というのは当たり前の気持ちじゃが、あやつはあまりにもその気持ちが純粋すぎた。漢人ならば誠心誠意、忠義を尽くして宋国に報いるべきだ、そう信じて疑わなかった。たとえ自分の命を捨ててでも、とな。それを聞いたときのわしの気持ち、おぬしならわかるじゃろ」
「ふぅ。そうですね。誰だって自分の国が侵されたなら、身を張ってでも守りたい。でも私は、この国がそれに報いてくれるなんて、これっぽっちも思えないです。梁山泊の兄貴達もこの国に裏切られた人ばかりでした」
「わしもそう言ったのだ。お前の国を愛する気持ちは当然だし貴いが、国は必ずしもお前を愛してはくれんぞ、行っても裏切られて、お前が辛い思いをするだけじゃと。すると」
「すると?」
「あやつはだまって衣を脱ぎ、わしに背中を見せよった。黒々と『尽忠報国』と彫られた背中をな」
「……梁山泊とは正反対の覚悟ですね」
「今までありがとうございます、御達者で、と言って出て行ったきり、一度も会っておらん。何やら義勇軍に加わった、と風の噂で聞いたが。果たして生きているやら」
梁山泊の合言葉《スローガン》は「替天行道」、即ち「天に替わって道を行う」である。当てにならない宋の天子、役人、軍隊に替わって正しい道を行う、という意味であり「忠義を尽くして国に報いる」とでは、全く逆向きの覚悟だ。
本来、国とは忠義を尽くしたくなる存在であってほしい。だが燕青が見聞きし体験してきた国の上層部、役人、官軍の腐敗し堕落した実情を知れば知るほど、到底そんな気持ちにはなれないのである。
とはいえ、話を聞けば頑固だが一本気な青年。そして仁義の心、侠の覚悟を持っているに違いない。歳も近いらしいし、別の時、別の場所で会っていれば、きっと良い仲間、刎頸の友になれたのではないか。そう考えると果てしなく残念な気がする。
「周先輩、そのお弟子さんのお名前は?」
「姓は岳、名前は飛。字を鵬挙という。もしもどこかで会ったならよろしく伝えてくれまいか」
「はい、ぜひ会ってみたいものです」
「尽忠報国」の彫物を背負った「岳鵬挙」か。ぜひ一度会ってみたいものだ。東の空が白々と明るんでくる中、燕青はそんなことを考えていた。
やがて日が昇り、目を覚ました祝四娘が寝ぼけ眼を擦りながら身支度をし、見慣れぬ館の回廊を歩いてくると、何やら激しく肉と肉がぶつかり合う音が聞こえてきた。
「え!ちょ待って!」
いっぺんに目が覚めた四娘は慌てて走り出した。昨夜焚き火をしていた前庭に出てみると、燕青と周侗老人が激しく打ち合いをしている。慌てて加勢をしようと、懐に隠した飛刀を抜き出したところで、はたと気づいた。
二人ともめまぐるしく打ち合いをしているのだが、楽しくてたまらないといわんばかりに、口元に笑みを浮かべているのである。
(争っている……んじゃないようね)
飛刀を納め改めてよく見ていると、片方が攻め片方が受ける、次に全く同じ技で逆側が攻め、同じ技で受ける。これを交互に凄まじい速さで打ち合っているのだ。
中国拳法では決まった型の打ち合いを「対打」と言うが、四娘の目ではとても追いきれないほどの早さで、正確に打ち、蹴り、払い、止め、捌いての対打を繰り返している。ひとつ間違えば急所に決まりそうに見えるのだが、全てぎりぎりの呼吸で当たらず、逆に相手の急所への反撃が来る。それをひたすら繰り返す様は、舞踊にも似た美しさがあった。
やがて二人は距離を取って向かい合い、両足をそろえて直立し、腕を真っ直ぐ下ろした後、互いに拱手して動きを止めた。
「周先輩、久しぶりに良い稽古をつけていただきありがとうございます」
「なに、わしのような老いぼれには付いていくのがやっとじゃ。もうわしでは敵わん、岳飛とならいい勝負になったじゃろうが」
瞬きもせずに見つめていた四娘が、緊張をといて近づくと、焚き火の上で例の湯隆特製の調理器から、美味そうな匂いが広がっていた。
上蓋を開けてみると、中蓋の上で具の入っていない饅頭が蒸されていた。下の器では、昨日の猪肉を一口大の賽の目に切ったものを、醤や豆鼓、焼酎の残り、長葱、玉葱、生姜、酢、黒砂糖などで煮込んであった。
猪肉の角煮ができあがったところで、燕青は饅頭に切れ込みを入れ、煮汁のしみこんでくたくたになった猪肉と野菜を挟み込み、四娘に手渡した。四娘は軽く頭を下げ頬張った。続いて同じく角煮と野菜を挟み込んだ饅頭を二つ作り、一つを周老人に渡して、自分も一緒にかぶりついた。朝食としては少々脂っこいが、食べたら出発する予定なのである。この不思議な老人とのお別れの、ちょっとした宴として、持ち合わせの材料を使い野営料理をふるまったのだ。
三者とも朝から和やかに食事をし、茶の葉を煮出して啜ったころには、もう日は高く登っていた。名残惜しいが出発の時である。
「それでは周先輩、これでお暇します。ご教授ありがとうございました」
「お爺ちゃん、また会おうね。それまで元気でね」
「応、道中気をつけてな」
立ち去る二人に手を振り、姿が見えなくなってから周老人はふぅとため息をつき、自分の両腕を見た。
燕青の突きや蹴りを受け流したはずの前腕部が、あちこち青黒く腫れ上がってきたのである。
(わしが衰えたのか、あの男が凄いのか。なんにせよおもしろい奴じゃったの)
周老人の脳裏に、燕青と愛弟子「岳飛」の、目まぐるしく対打している光景がありありと浮かびあがっていた。
(それにしても、ちょっと教えただけで「あの技」が使えるようになるとは。もし岳飛と戦わば、どうなることやら)
老人は大欠伸をし、尻の当たりをぼりぼり掻きながら砦の中へ戻っていった。
その内容というのも、少林寺の門前町の小さな居酒屋に、酔っ払った宋軍の兵士が数名押しかけ、老主人の対応が気に入らないと店を壊すわ、老人に暴行を加えるわ、というところに通りかかった周侗が、その兵士たちを散々に懲らしめたのだが、その中に宰相「蔡京」の遠い親戚がいたのである。
後日、少林寺を鄭州の役人、捕り手数十人が取り囲み、一方的に罪状を押しつけられ逮捕されそうになったので、数人を叩きのめして嵩山に登って逃げ、その後乞食坊主として各地を転々としていたのである。
その旅の途中、相州湯陰県を訪れたとき、ひょんな事から十歳ほどの少年と出会った。少年は幼いころ父を亡くしていたが、俊敏で賢く、彼の「強くなって母を守りたい」という気持ちにほだされ、数年間少林拳を教えていたという。
ところがこの若者、遼やら金やらがたびたび宋国に侵入し、領土を広げていることに我慢ならなくなって、故郷を出て宋国のために戦う、と言い出したのだ。
「自分の国を守りたい、というのは当たり前の気持ちじゃが、あやつはあまりにもその気持ちが純粋すぎた。漢人ならば誠心誠意、忠義を尽くして宋国に報いるべきだ、そう信じて疑わなかった。たとえ自分の命を捨ててでも、とな。それを聞いたときのわしの気持ち、おぬしならわかるじゃろ」
「ふぅ。そうですね。誰だって自分の国が侵されたなら、身を張ってでも守りたい。でも私は、この国がそれに報いてくれるなんて、これっぽっちも思えないです。梁山泊の兄貴達もこの国に裏切られた人ばかりでした」
「わしもそう言ったのだ。お前の国を愛する気持ちは当然だし貴いが、国は必ずしもお前を愛してはくれんぞ、行っても裏切られて、お前が辛い思いをするだけじゃと。すると」
「すると?」
「あやつはだまって衣を脱ぎ、わしに背中を見せよった。黒々と『尽忠報国』と彫られた背中をな」
「……梁山泊とは正反対の覚悟ですね」
「今までありがとうございます、御達者で、と言って出て行ったきり、一度も会っておらん。何やら義勇軍に加わった、と風の噂で聞いたが。果たして生きているやら」
梁山泊の合言葉《スローガン》は「替天行道」、即ち「天に替わって道を行う」である。当てにならない宋の天子、役人、軍隊に替わって正しい道を行う、という意味であり「忠義を尽くして国に報いる」とでは、全く逆向きの覚悟だ。
本来、国とは忠義を尽くしたくなる存在であってほしい。だが燕青が見聞きし体験してきた国の上層部、役人、官軍の腐敗し堕落した実情を知れば知るほど、到底そんな気持ちにはなれないのである。
とはいえ、話を聞けば頑固だが一本気な青年。そして仁義の心、侠の覚悟を持っているに違いない。歳も近いらしいし、別の時、別の場所で会っていれば、きっと良い仲間、刎頸の友になれたのではないか。そう考えると果てしなく残念な気がする。
「周先輩、そのお弟子さんのお名前は?」
「姓は岳、名前は飛。字を鵬挙という。もしもどこかで会ったならよろしく伝えてくれまいか」
「はい、ぜひ会ってみたいものです」
「尽忠報国」の彫物を背負った「岳鵬挙」か。ぜひ一度会ってみたいものだ。東の空が白々と明るんでくる中、燕青はそんなことを考えていた。
やがて日が昇り、目を覚ました祝四娘が寝ぼけ眼を擦りながら身支度をし、見慣れぬ館の回廊を歩いてくると、何やら激しく肉と肉がぶつかり合う音が聞こえてきた。
「え!ちょ待って!」
いっぺんに目が覚めた四娘は慌てて走り出した。昨夜焚き火をしていた前庭に出てみると、燕青と周侗老人が激しく打ち合いをしている。慌てて加勢をしようと、懐に隠した飛刀を抜き出したところで、はたと気づいた。
二人ともめまぐるしく打ち合いをしているのだが、楽しくてたまらないといわんばかりに、口元に笑みを浮かべているのである。
(争っている……んじゃないようね)
飛刀を納め改めてよく見ていると、片方が攻め片方が受ける、次に全く同じ技で逆側が攻め、同じ技で受ける。これを交互に凄まじい速さで打ち合っているのだ。
中国拳法では決まった型の打ち合いを「対打」と言うが、四娘の目ではとても追いきれないほどの早さで、正確に打ち、蹴り、払い、止め、捌いての対打を繰り返している。ひとつ間違えば急所に決まりそうに見えるのだが、全てぎりぎりの呼吸で当たらず、逆に相手の急所への反撃が来る。それをひたすら繰り返す様は、舞踊にも似た美しさがあった。
やがて二人は距離を取って向かい合い、両足をそろえて直立し、腕を真っ直ぐ下ろした後、互いに拱手して動きを止めた。
「周先輩、久しぶりに良い稽古をつけていただきありがとうございます」
「なに、わしのような老いぼれには付いていくのがやっとじゃ。もうわしでは敵わん、岳飛とならいい勝負になったじゃろうが」
瞬きもせずに見つめていた四娘が、緊張をといて近づくと、焚き火の上で例の湯隆特製の調理器から、美味そうな匂いが広がっていた。
上蓋を開けてみると、中蓋の上で具の入っていない饅頭が蒸されていた。下の器では、昨日の猪肉を一口大の賽の目に切ったものを、醤や豆鼓、焼酎の残り、長葱、玉葱、生姜、酢、黒砂糖などで煮込んであった。
猪肉の角煮ができあがったところで、燕青は饅頭に切れ込みを入れ、煮汁のしみこんでくたくたになった猪肉と野菜を挟み込み、四娘に手渡した。四娘は軽く頭を下げ頬張った。続いて同じく角煮と野菜を挟み込んだ饅頭を二つ作り、一つを周老人に渡して、自分も一緒にかぶりついた。朝食としては少々脂っこいが、食べたら出発する予定なのである。この不思議な老人とのお別れの、ちょっとした宴として、持ち合わせの材料を使い野営料理をふるまったのだ。
三者とも朝から和やかに食事をし、茶の葉を煮出して啜ったころには、もう日は高く登っていた。名残惜しいが出発の時である。
「それでは周先輩、これでお暇します。ご教授ありがとうございました」
「お爺ちゃん、また会おうね。それまで元気でね」
「応、道中気をつけてな」
立ち去る二人に手を振り、姿が見えなくなってから周老人はふぅとため息をつき、自分の両腕を見た。
燕青の突きや蹴りを受け流したはずの前腕部が、あちこち青黒く腫れ上がってきたのである。
(わしが衰えたのか、あの男が凄いのか。なんにせよおもしろい奴じゃったの)
周老人の脳裏に、燕青と愛弟子「岳飛」の、目まぐるしく対打している光景がありありと浮かびあがっていた。
(それにしても、ちょっと教えただけで「あの技」が使えるようになるとは。もし岳飛と戦わば、どうなることやら)
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