上 下
31 / 75
第六章

飲馬川山塞(二)

しおりを挟む
「なにそれ?戦で大変なのに珍しい石集めてるって?」
  再び青州を目指してからはや一週間、すっかり旅にも乗馬にも慣れた四娘が、白兎馬の上ですっとんきょうな声をあげた。

「だから前言っただろ、一番信用ならないのはむしろ宋国だって」
 隣で説明した燕青は憮然ぶぜんとした表情である。
「ねぇ、皇帝って馬鹿なの?」

 梁山泊の面々を招安した徽宗きそうは、決して暗愚あんぐな皇帝ではなかった。むしろ聡明そうめいで、芸術についての造詣ぞうけいが深く、自らも詩文に巧みで、書も画も優れた才能を持ち、特に花鳥画を得意としていた。後の日本の大名たちは、徽宗の鷹の絵を持っていないと肩身の狭い思いをしたというほどである。

 幸か不幸か、徽宗の時代には政治家「王安石おうあんせき」以来の政治改革のお陰で、財政は豊かになっていたが、むしろそれにあぐらをかき、政治をおろそかにして趣味道楽に走ってしまった。そして、それをさらに加速させたのが他ならぬ悪宰相の「蔡京さいけい」である。蔡京は「豊亨予大ほうきょうよだい」という「易経」の中の言葉を見習うよう徽宗に勧めた。意味としては「余裕のある鷹揚おうような政治や生活をするのがよい」ということである。

 その言葉に踊らされた徽宗は、全国から書画骨董しょがこっとうの名品を収集し、宮中ではぜいを極めた食事や酒宴が続いた。さらに人民を苦しめた「花石綱かせきこう」である。全国から珍しい形の岩や草花を都に運ばせたのだ。さしもの潤沢な宋国の財源も、またたくまに枯渇こかつし、人民への課税、搾取さくしゅはさらに強化された。これに不満を抱いた者が、各地で反乱を起こすのもむべなるかな、である。

「おれが話した印象では、決して愚かな方ではなかった。だが蔡京さいけい童貫どうかん高俅こうきゅうなどのやからが陛下を駄目にしている。おれたちがどれだけ田虎でんこ方臘ほうろうと戦っても、手柄を立てても、陛下のところにはきちんと伝わらない。それどころかいつ虚言うそ讒言ざんげんおとしいれられるかわかったもんじゃないんだ。今までだってずっとそうだった。だからおれは、方臘との戦いが終わったら、軍から抜けて庶民に戻ろうと思い、そのうち絶対に罠に嵌められて始末されるからと、盧俊義ろしゅんぎさまや宋江そうこうさまを説得したんだが……」
 悔しそうに唇を噛む。

「駄目だったの?」
「とくに盧俊義さまには、徹夜で説得を続けたんだが、やはり昔の栄華が忘れられなかったのだろうな。とうとう最後にはお怒りになり、親子の縁を切る、とまで言われてしまって、仕方なくおいとましてきたんだよ」
「そうか……」

 元気づけようにも、慰めようにも、まだ子供の四娘にはかける言葉が思いつかなかった。しばらくは二人とも、何も言わずに馬を歩ませた。二頭のひづめの音だけが乾いた道に響いていた。四娘にとって、何でもできて常に明るく洒脱しゃだつな人だと思っていた燕青が見せる、初めての寂しげな表情であった。

「ちょっと急ぐか。この先暫くは町がないんだが、もう少し行くと飲馬川いんばせんという場所がある。かつてはおれの仲間がそこに籠もって山賊をしていたんだが、まだ砦が残っているはずだ。誰か別の奴が入り込んでいなければ、今日はそこで夜を明かそう」
「へぇ、面白そうだね」
 わざと明るくはしゃいでみせる四娘であり、それに気づかぬ燕青でもない。


  かつての隆盛りゅうせいは今いずこ。山塞さんさいに向かう道は草が生い茂り、かろうじて獣道程度になっている。どうやらその後大人数で使われている様子はない。だが……

「ちょっと馬を下りてここで待っていろ」
「どうしたの?」
「馬や荷車は通っていないようだが、人は通っているようだ。ところどころ草が踏み倒されている。多分ひとりだろうが、いちど偵察してくる」

 かつて、後に「星持ち」となる「鉄面孔目てつめんこうもく|裴宣はいせん、「火眼狻猊かがんさんげい鄧跳とうひ、「玉旛竿ぎょくはんかん孟康もうこうの三人が首領をしていたこの飲馬川いんばせんの砦は、周囲を川が取り囲み、一種の堀のようになっている。登り道はひとつしかなく、守りは固い。それほど急峻きゅうしゅんではないが、道以外は深い森になっていて、下手に入ると迷うこと請け合いである。

 四娘と二頭の馬を少し開けた草原にとどまらせ、燕青は足音を殺して砦に向かい、あっという間に門前にたどりついた。近づいてみると砦の中からうっすらと煙が立ち上っているのが見える。どうやら誰かいるようだ。

 山塞の門扉もんぴは分厚い木製だったが、金属の蝶番ちょうつがいが朽ちて片方が完全に倒れてしまっている。中をのぞき込むと、奥の建物もやはり屋根に草が生え、あちこちひび割れてかなり崩れているようだが、雨風はしのげそうである。

 その前庭に、焚き火の前に座る人影があった。
 遠目で見るに、伸びっぱなしでぼさぼさの髪の毛、髭もびっしり鼻の下からあごを覆っているので男だろう。着ている衣もぼろぼろで、むき出しの前腕やすねをぼりぼり掻いている。

 乞食か浮浪者か、何にしても一人のようだ。むしろの上に座り、焚き火で何かの肉をあぶっているとみえ、時々油が落ちるのか、炎が大きく燃え上がり、黒い煙が立ち上る。何度も大あくびをしながら、枝に刺した肉の塊をゆっくり回して焼いている。

(乞食一人なら大丈夫かな)
 燕青は一宿いっしゅくをお願いしようと、脅かさないようにゆっくりと姿を見せ、少しだけ音をさせながら歩み寄っていった。

 男は一度じろりと燕青の方を見たが、すぐに興味を失ったようで、眼前の肉の焼き加減を真剣に見つめている。近づいてみると、六十歳くらいであろうか。よほど長い間洗っていないのか、顔も手足もあかじみていて、着ている衣は、もとは白かったのだろうが、それを想像するのが難しいほど薄汚れていた。そですそもすり切れて、縄のれんのように垂れ下がっている。心なしか、近づくとぷんとえた臭いがする感じだ。

 燕青は慎重に話しかけた。       
「もし、ご先輩、ご無礼をお詫びします。少々お願いがありまして参りました」

 老人は燕青の方を向いてから、焼いていた肉の塊にかぶりついた。肉の一片を食いちぎり、もくもぐ咀嚼そしゃくしてごくりと飲み込んでから、

「ご先輩ときたか。まぁいきなり爺さんと呼びかけなかっただけましかな」
 と答えた。声は意外に若々しく、しかも低いのにしっかり遠くまで通る力強い声である。内功ないこう(気の鍛錬)がしっかりしていないとこういう声は出ない。その声を聞いた瞬間、燕青は(これは端倪たんげいすべからざる相手だ)と気持ちを引き締めた。あらためて頭を下げてから
「失礼いたしました。わたしは小乙と申す旅の者です。間もなく日も暮れようとしていますが、町まではまだ遠く、こちらの建物で一夜を過ごさせていただきたいのですが、お願いできますでしょうか?」

「ふふっ、わしとてこの山塞とりでの持ち主ではない。もともとここには山賊がいたらしいが、今は誰も住んでいないようなので、勝手に居着いているだけだ。空いた所を勝手に使えばよいさ」
「そうですか、実は下にわたしの妹も待たせてありまして、一緒に泊まらせていただきます。よろしくお願いします。ときにご先輩、お名前は?」

「わしか……わしは周化子こじきのしゅうと申す」
「周先輩ですか。では失礼して妹と馬を連れて参ります」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

安政ノ音 ANSEI NOTE

夢酔藤山
歴史・時代
温故知新。 安政の世を知り令和の現世をさとる物差しとして、一筆啓上。 令和とよく似た時代、幕末、安政。 疫病に不景気に世情不穏に政治のトップが暗殺。 そして震災の陰におびえる人々。 この時代から何を学べるか。狂乱する群衆の一人になって、楽しんで欲しい……! オムニバスで描く安政年間の狂喜乱舞な人間模様は、いまの、明日の令和の姿かもしれない。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

永艦の戦い

みたろ
歴史・時代
時に1936年。日本はロンドン海軍軍縮条約の失効を2年後を控え、対英米海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗するために50cm砲の戦艦と45cm砲のW超巨大戦艦を作ろうとした。その設計を担当した話である。 (フィクションです。)

密教僧・空海 魔都平安を疾る

カズ
歴史・時代
唐から帰ってきた空海が、坂上田村麻呂とともに不可解な出来事を解決していく短編小説。

処理中です...