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第二章
二仙山紫虚観(六)
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猛烈な喉の渇きで、燕青は目覚めた。気づけば、古いが清潔な寝台の上に寝かされていた。どうやら男院の一室らしい。上体を起こすと、少し頭が痛む。二日酔いだろうか。
(昨日は……あ!)
思い出してしまった。赤面するほど初心ではないが、あの姉妹と、一清道人に合わせる顔がない。
寝台を下りるときに、服が変わっていることに気づいた。昨日まで着ていた、白の簡素な服ではなく、ゆったりとした黒い道服である。はて、誰が着替えさせてくれたものか。
差し込む朝日に眼を細めながら、男院の扉を開けて戸外に出てみると、高山特有の涼しさで、酔い覚めの体がきゅっと引き締まった感じがする。食堂へ行って水をもらおうと歩き出してふと気づいた。
男院の裏手に、中腰で立っている少年がいる。昨日食堂で燕青を睨んできた「張嶺」少年であった。
両足を肩幅より少し広めに開き、膝を深く曲げ、両手を伸ばし肩の高さに挙げている。どれくらい立っていたものか、全身小刻みに震えているのが見てとれた。
(ほぉ、馬歩站椿か)
自分もかつて、主人であり師父である盧俊義から言いつけられ、早朝から一刻(二時間)、雨の日も風の日も欠かさず続けてきた修行である。昔を思い出し、懐かしさについ微笑んだのだが、折悪しく張嶺少年が、馬歩立ちのまま燕青の方を見た。
「おい!何笑ってんだよ!」
張嶺は立ち上がり、顔を真っ赤にして怒りだした。つかつかと近づいてきて燕青を指さし、
「人が一生懸命修行してるのに、バカにするんじゃねぇよ、え!」
「いや、すまんすまん、バカにしてたわけじゃないんだ。俺も昔よくやっていたから、つい懐かしくなって」
「うそつけ、このやろう!」
張嶺が殴りかかってきた。
言いがかりも甚だしいが、おそらく秦玉林と同い年くらいの少年の、打ってくる拳圧はなかなかに強い。左右の突きと、蹴りを織り交ぜて次々に出してくるが、惜しむらくは下半身との連動ができておらず、いわゆる「手打ち」になっている。
燕青は、後年「迷蹝芸」と呼ばれることになる独特の歩法で、背後に回り込んだり横をすり抜けたりしながら、張嶺の死角へ死角へと体を移動させ、拳や脚を避けている。
全力での突きや蹴りを、ことごとく空振りさせられ、張嶺は普段の何倍も疲れを感じ、とうとう呼吸が苦しくなり、へたり込んでしまった。
汗だくになり、仰向けに倒れ、ぜいぜい荒い呼吸をしている。
どんな武術であっても、当てるつもりで打った場合、頭や体が自然と間合いを想定し、当たった瞬間に最大の破壊力を出すよう調整するものだ。それを外された場合、想定外の動きとなってしまい、筋肉などが言わば「騙された」感覚になってしまう。実際に当てるよりも、予想外の当たらない動きをさせられる方がずっと疲れるのである。
「大丈夫か?ええと、張嶺だっけ?」
燕青が引き起こしてやろうと、片手を伸ばしたが、張嶺はその手を払いのけ、
「馬鹿にすんなよ、お情けなんて要らねぇや!」
次の瞬間、目から大粒の涙がぼろぼろ溢れ落ちた。仰向けのまま、自分の腕で顔を隠し、歯を食いしばって我慢しようとするが、涙はなかなかとまらない。燕青は人さし指でぽりぽり頭を掻きながら、嗚咽を漏らす張嶺の隣に腰をおろした。
「畜生、ちくしょう・・・・・・」
張嶺はまだ小さくつぶやいている。やがて鼻をすする音が小さくなったのを見計らって、
「張嶺、馬歩立ちは誰に習ったんだ?」
と穏やかな声で聞いてみた。すると張嶺、相変わらず鼻をすすりながらではあるが、
「……一清様だよ」
と、わずか答えた。
「入雲龍」公孫勝こと一清道人は、もともと堂々たる体躯の持ち主で、剣も相当に使う。かつて|高唐州知府《》こうとうしゅうちふ(長官)の『高廉』や、田虎軍の『喬冽』などいう、名だたる妖術使いと、風を呼び神兵を使い、五色の龍や大鵬を呼び出し戦わせてきた。そのうえ羅真人から「五雷天罡正法」の奥義を授かっている。そんじょそこいらの道士とは別格の仙術使いだが、学者然としたひ弱な道士ではないのだ。
「なるほど。毎日どれくらいやってるんだ?」
「毎朝あの線香が燃え尽きるまでやれって」
見ると太さ五分(一、五センチ)ほどの太い線香が、灰を入れた壺の中に立てられている。あの太さなら四半刻(三十分)はかかるだろうか。修行としてはかなり厳しい部類だ。
どうやらすっかり泣き止んだらしい張嶺が言いにくそうに
「あ、あのさ」
おずおずと話しかけてきた。
「ん、どうした?」
「なんでおいらの突きや蹴りは全然あんたに当たらなかったんだい?」
「うーん、まぁいろいろ理由はあるが、まずは技の『起こり』がわかるんだよ」
「起こり?」
「うん、簡単に言えば突きにしても蹴りにしても、『これからこういう動きをしますよ』というのが前もってわかってしまうんだ」
「どうやって?」
「例えば目だな。張嶺はどうしても先に蹴りたいところ、突きたい場所を見てしまってる」
「見なきゃ当てられないじゃん。じゃあ、あんたはどうしてるんだ?」
「どこか一カ所に視線を合わせるのではなく、半眼にして全体を薄っすらぼんやりと見る。そうした方が不思議と相手の動きが見えてくるもんなんだよ」
「そうなんだ」
「それと、ひとつひとつの技が全力すぎる」
「全力じゃだめなのかい?一清様には毎日突き千回、蹴り千回全力で打て、と言われたけど」
「基本の鍛錬としてならそれでいいんだよ。ただ、ずっと全力でやっているうちに、力の抜き方がわかってくる。無駄な力が入らなくなると、『起こり』がわかりづらくなる。おまけに突きも蹴りも段違いに早くなる。最初から全力で突こうとすると、腕より先に肩が張るから、突きがくる、ってわかってしまうんだよ」
「ふぅん・・・・・・そんなもんなのかい?」
「ちょっとやってみようか。そこに立ってみてくれ」
すっかり涙の跡も乾いた張嶺が立ち上がった。子供らしい好奇心が出てきたようで、食らいつくような真剣な眼差しになっている。
燕青は張嶺の正面に立ち、右足を引いた半身に構えた。右拳を固く握りしめ、張嶺に見せてから脇に引きつけ、
「最初から全力を込めた突きがこれ」
顔面に突きを出した。ぶぅむ、と重い音がし、一瞬の後、張嶺の鼻のあたりに強い圧力の拳風がくる。
顔の肉が押される感覚に、張嶺は思わず一歩下がって
「すげぇ」
とつぶやいた。
「じゃあ次は力を抜いて突くぞ。当たる瞬間に握る感じだ」
力を抜き、柳の葉のようにふわりと指を広げたところから突きを出した。ふひゅっ、と高い音がして、拳が面前に来るより早く、突き刺すような凩のように鋭い拳風がきた。
張嶺は鼻や頬が鎌鼬に切り裂かれたような幻覚に襲われ、思わず両頬に手の平をあてたものだ。
「どうだ、全然突きの質が違うのがわかったかい?」
と尋ねると、張嶺はもう驚きと感動で目を輝かせながら
「うん!わかる!」
何度もうなづく。完全に燕青を見る目が変わっていた。昨夜の秦玉林や、林翡円・翠円姉妹と同様の、羨望の眼差しである。
「じゃぁ、もうひとつだけ。今もやっぱり張嶺は俺の右手ばかり見ていたけど、さっき言った『半眼』で、俺の顔から体全体を何となくぼんやりと見てみな」
「わかった!」
先ほどと同様、右足を引いた半身に構え、手の平を軽く開いた状態から右拳を突く、と思いきや、前に置かれた左足が真下から跳ね上がり、張嶺の右側頭部を襲ったのだ。
「うわっ!」
張嶺が思わず右腕を挙げて頭を庇う。跳ね上がった燕青の左足は、張嶺の右腕にあたる寸前でぴたりと止まった。
「ひでぇや!いきなり蹴るなんて聞いてないよ」
「あはは、すまん。でも、右の突きが来ると思っていただろうけど、逆側の蹴りも見えただろ。防ぐこともできたじゃないか」
「あ!」
「全体を見るっていうのはそういうことさ。いざ誰かと戦うとなったら相手は、右の拳を出すぞ、左の蹴りを出すぞ、なんてわざわざ言ってくれないからな」
「すげぇ……あんた、いや燕青さん。さっきはごめんなさい。失礼なこと言っちゃって」
「いや、それはいいよ、お互いさまだ。ただ、ひとつ聞きたいんだが」
「なんだい?」
「昨日、酒を持ってきてくれた時、君に睨まれた気がしたんだが、俺なにか気にさわることしたかな?」
「あ……済みません!全部おいらの勝手な思い込みなんだよ。八つ当たりというか、なんというか」
「なんのことについての?」
(昨日は……あ!)
思い出してしまった。赤面するほど初心ではないが、あの姉妹と、一清道人に合わせる顔がない。
寝台を下りるときに、服が変わっていることに気づいた。昨日まで着ていた、白の簡素な服ではなく、ゆったりとした黒い道服である。はて、誰が着替えさせてくれたものか。
差し込む朝日に眼を細めながら、男院の扉を開けて戸外に出てみると、高山特有の涼しさで、酔い覚めの体がきゅっと引き締まった感じがする。食堂へ行って水をもらおうと歩き出してふと気づいた。
男院の裏手に、中腰で立っている少年がいる。昨日食堂で燕青を睨んできた「張嶺」少年であった。
両足を肩幅より少し広めに開き、膝を深く曲げ、両手を伸ばし肩の高さに挙げている。どれくらい立っていたものか、全身小刻みに震えているのが見てとれた。
(ほぉ、馬歩站椿か)
自分もかつて、主人であり師父である盧俊義から言いつけられ、早朝から一刻(二時間)、雨の日も風の日も欠かさず続けてきた修行である。昔を思い出し、懐かしさについ微笑んだのだが、折悪しく張嶺少年が、馬歩立ちのまま燕青の方を見た。
「おい!何笑ってんだよ!」
張嶺は立ち上がり、顔を真っ赤にして怒りだした。つかつかと近づいてきて燕青を指さし、
「人が一生懸命修行してるのに、バカにするんじゃねぇよ、え!」
「いや、すまんすまん、バカにしてたわけじゃないんだ。俺も昔よくやっていたから、つい懐かしくなって」
「うそつけ、このやろう!」
張嶺が殴りかかってきた。
言いがかりも甚だしいが、おそらく秦玉林と同い年くらいの少年の、打ってくる拳圧はなかなかに強い。左右の突きと、蹴りを織り交ぜて次々に出してくるが、惜しむらくは下半身との連動ができておらず、いわゆる「手打ち」になっている。
燕青は、後年「迷蹝芸」と呼ばれることになる独特の歩法で、背後に回り込んだり横をすり抜けたりしながら、張嶺の死角へ死角へと体を移動させ、拳や脚を避けている。
全力での突きや蹴りを、ことごとく空振りさせられ、張嶺は普段の何倍も疲れを感じ、とうとう呼吸が苦しくなり、へたり込んでしまった。
汗だくになり、仰向けに倒れ、ぜいぜい荒い呼吸をしている。
どんな武術であっても、当てるつもりで打った場合、頭や体が自然と間合いを想定し、当たった瞬間に最大の破壊力を出すよう調整するものだ。それを外された場合、想定外の動きとなってしまい、筋肉などが言わば「騙された」感覚になってしまう。実際に当てるよりも、予想外の当たらない動きをさせられる方がずっと疲れるのである。
「大丈夫か?ええと、張嶺だっけ?」
燕青が引き起こしてやろうと、片手を伸ばしたが、張嶺はその手を払いのけ、
「馬鹿にすんなよ、お情けなんて要らねぇや!」
次の瞬間、目から大粒の涙がぼろぼろ溢れ落ちた。仰向けのまま、自分の腕で顔を隠し、歯を食いしばって我慢しようとするが、涙はなかなかとまらない。燕青は人さし指でぽりぽり頭を掻きながら、嗚咽を漏らす張嶺の隣に腰をおろした。
「畜生、ちくしょう・・・・・・」
張嶺はまだ小さくつぶやいている。やがて鼻をすする音が小さくなったのを見計らって、
「張嶺、馬歩立ちは誰に習ったんだ?」
と穏やかな声で聞いてみた。すると張嶺、相変わらず鼻をすすりながらではあるが、
「……一清様だよ」
と、わずか答えた。
「入雲龍」公孫勝こと一清道人は、もともと堂々たる体躯の持ち主で、剣も相当に使う。かつて|高唐州知府《》こうとうしゅうちふ(長官)の『高廉』や、田虎軍の『喬冽』などいう、名だたる妖術使いと、風を呼び神兵を使い、五色の龍や大鵬を呼び出し戦わせてきた。そのうえ羅真人から「五雷天罡正法」の奥義を授かっている。そんじょそこいらの道士とは別格の仙術使いだが、学者然としたひ弱な道士ではないのだ。
「なるほど。毎日どれくらいやってるんだ?」
「毎朝あの線香が燃え尽きるまでやれって」
見ると太さ五分(一、五センチ)ほどの太い線香が、灰を入れた壺の中に立てられている。あの太さなら四半刻(三十分)はかかるだろうか。修行としてはかなり厳しい部類だ。
どうやらすっかり泣き止んだらしい張嶺が言いにくそうに
「あ、あのさ」
おずおずと話しかけてきた。
「ん、どうした?」
「なんでおいらの突きや蹴りは全然あんたに当たらなかったんだい?」
「うーん、まぁいろいろ理由はあるが、まずは技の『起こり』がわかるんだよ」
「起こり?」
「うん、簡単に言えば突きにしても蹴りにしても、『これからこういう動きをしますよ』というのが前もってわかってしまうんだ」
「どうやって?」
「例えば目だな。張嶺はどうしても先に蹴りたいところ、突きたい場所を見てしまってる」
「見なきゃ当てられないじゃん。じゃあ、あんたはどうしてるんだ?」
「どこか一カ所に視線を合わせるのではなく、半眼にして全体を薄っすらぼんやりと見る。そうした方が不思議と相手の動きが見えてくるもんなんだよ」
「そうなんだ」
「それと、ひとつひとつの技が全力すぎる」
「全力じゃだめなのかい?一清様には毎日突き千回、蹴り千回全力で打て、と言われたけど」
「基本の鍛錬としてならそれでいいんだよ。ただ、ずっと全力でやっているうちに、力の抜き方がわかってくる。無駄な力が入らなくなると、『起こり』がわかりづらくなる。おまけに突きも蹴りも段違いに早くなる。最初から全力で突こうとすると、腕より先に肩が張るから、突きがくる、ってわかってしまうんだよ」
「ふぅん・・・・・・そんなもんなのかい?」
「ちょっとやってみようか。そこに立ってみてくれ」
すっかり涙の跡も乾いた張嶺が立ち上がった。子供らしい好奇心が出てきたようで、食らいつくような真剣な眼差しになっている。
燕青は張嶺の正面に立ち、右足を引いた半身に構えた。右拳を固く握りしめ、張嶺に見せてから脇に引きつけ、
「最初から全力を込めた突きがこれ」
顔面に突きを出した。ぶぅむ、と重い音がし、一瞬の後、張嶺の鼻のあたりに強い圧力の拳風がくる。
顔の肉が押される感覚に、張嶺は思わず一歩下がって
「すげぇ」
とつぶやいた。
「じゃあ次は力を抜いて突くぞ。当たる瞬間に握る感じだ」
力を抜き、柳の葉のようにふわりと指を広げたところから突きを出した。ふひゅっ、と高い音がして、拳が面前に来るより早く、突き刺すような凩のように鋭い拳風がきた。
張嶺は鼻や頬が鎌鼬に切り裂かれたような幻覚に襲われ、思わず両頬に手の平をあてたものだ。
「どうだ、全然突きの質が違うのがわかったかい?」
と尋ねると、張嶺はもう驚きと感動で目を輝かせながら
「うん!わかる!」
何度もうなづく。完全に燕青を見る目が変わっていた。昨夜の秦玉林や、林翡円・翠円姉妹と同様の、羨望の眼差しである。
「じゃぁ、もうひとつだけ。今もやっぱり張嶺は俺の右手ばかり見ていたけど、さっき言った『半眼』で、俺の顔から体全体を何となくぼんやりと見てみな」
「わかった!」
先ほどと同様、右足を引いた半身に構え、手の平を軽く開いた状態から右拳を突く、と思いきや、前に置かれた左足が真下から跳ね上がり、張嶺の右側頭部を襲ったのだ。
「うわっ!」
張嶺が思わず右腕を挙げて頭を庇う。跳ね上がった燕青の左足は、張嶺の右腕にあたる寸前でぴたりと止まった。
「ひでぇや!いきなり蹴るなんて聞いてないよ」
「あはは、すまん。でも、右の突きが来ると思っていただろうけど、逆側の蹴りも見えただろ。防ぐこともできたじゃないか」
「あ!」
「全体を見るっていうのはそういうことさ。いざ誰かと戦うとなったら相手は、右の拳を出すぞ、左の蹴りを出すぞ、なんてわざわざ言ってくれないからな」
「すげぇ……あんた、いや燕青さん。さっきはごめんなさい。失礼なこと言っちゃって」
「いや、それはいいよ、お互いさまだ。ただ、ひとつ聞きたいんだが」
「なんだい?」
「昨日、酒を持ってきてくれた時、君に睨まれた気がしたんだが、俺なにか気にさわることしたかな?」
「あ……済みません!全部おいらの勝手な思い込みなんだよ。八つ当たりというか、なんというか」
「なんのことについての?」
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