それさえも愛の楔

狭雲月

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 ずっとずっと――君を愛していたんだ。


 イーデンは幼い頃、孤児院の前に捨てられた子供だった。

 身一つ以外は何も持っていない彼にとって、生まれ持っていたのは孤児にはそぐわない美貌と気品。そしてその美しさに見合った利発な頭脳。
 あまりの他の孤児たちとは一線を画した雰囲気に軽口で、貴族が美しい使用人を孕ませたやら、貴族の令嬢が戯れの末に産み落としたのやら、という事を言われるほどだった。それほどの戯れが、真実であっても可笑しくないと思われるほど、イーデンは抜きんでた存在だった。
 もし、その推測が本当にしろ、捨てられたという事実には違いないと夢を見る事はない世を拗ねた性格でもあったが。

 その長所は年を経るごとに際立っていき。彼はいつまでも「可哀相な孤児」という境遇に甘んじているつもりはない人間へと成長していった。
 持ち前の美貌に奢ることなく、頭の良さで努力しチャンスを掴み、貴族のお屋敷へ執事の養子として上がることになった。
 上級使用人――次期執事としての道が約束された。
 孤児として捨てられた人間としては、破格の待遇だ。

 そこで同時期に雇われた、メイドのコリンヌ。
 決して美しい容貌ではなかったが、華奢で小柄な体つきに、豊かな蜂蜜色の髪。
 やんわりとした表情や柔和な瞳は、孤児院で飾られていたのでよく見た、聖母の画のような穏やかな優しさを感じた。
 何よりも物柔らかな態度や、温かみのある声や抑揚に、相手もつられて癒されてしまう。

 出会った当初イーデンは、コリンヌに嫌悪感を抱いていた。
 純粋さと優しさが、偽りのものだと思っていた。
 それほど当時の彼は荒んだ心をしていたし、孤児院ではそんな偽善者をいくつも見てきたから。彼女もそうだと思い込み……しかし屋敷には彼女以外にも女性はいた、召使いとしては将来有望で、手が届きそうなイーデンに露骨に誘いをかける、もっと醜悪な女性もいた。孤児院でも嫌悪の対象でしかなかった、幼かったイーデンにも触手を伸ばす、下卑た女達とその面影が重なる人間も。

 それなのに何故か、その面影からは程遠い、沢山いる女性使用人の中で唯一コリンヌだけが一層鼻について、彼女を不当に扱った。
 彼女だけが目に留まる。
 何をしても、どこに居ても。

 下級使用人への管理者としての名目。
 という名の執拗な観察の末、彼女のその美しい心根が、本物だと気づいた時。
 コリンヌへの執着が「恋」だと気がついた。
 水底から浮き上がるような感覚。
 彼女は醜悪な女では無いと、女達の同類であって欲しくないと、心の奥の底の底。自分でも気づけない深層が、無意識にイーデン突きを動かしていたのだ。
 気が付くと同時に彼は抜けられない、抜けたいとは思わない落とし穴にも深く深く落ちていく。

 ――恋は、病む、ことに似ている。

 コリンヌはその純粋な心根ゆえか、イーデンの冷たい態度は、コリンヌ自身に悪い所があるのだと思っていた。
 イーデンの態度が緩和すると、二人の関係はいともたやすく、とても友好的なモノになる。
 そうするとイーデンを心から信頼し、疑うこともしない、コリンヌ。
 純粋な信頼に満ち溢れた瞳で見つめられるのは、なんと至福の時だろうか。
 その瞳に、愛も浮かばせてみたくてたまらなくなる、欲がでる。

 やがて二人はいい友人になった――友人であることにイーデンは甘んじていた。
 その友人という状態は、彼にとっては彼女を手に入れようという隙を伺っていたに過ぎない。
 いつも笑顔で働き者のコリンヌは年頃になると、様々な男から口説かれていたが、恋愛に疎い彼女は、全く気付いていなかった。
 彼女にかかると下種な好意も、善意に変換されていくようだ。少しは警戒しなければと注意はしても、それは軽い忠告にとどまる。だからこそ、イーデンという最も注意しなければならない人間が、やすやすと近付けたのだから。
 それを幸いに、イーデンは相手を徹底的に様々な方法で潰していく。
 愚かな下級使用人程度では、相手にもならなかった。

 イーデンは次期執事になるための努力は惜しまず。
 一方コリンヌはその間に長年の実績と、その性格ゆえに、お屋敷の異端児ともいえる四男の担当になっていた。
 四男サルジオは社交の場にもあまり出てこない変わり者で、他者を寄せ付けず、担当になっても長く務まる召使いは中々いなかった。だから押し付け合いの末に、コリンヌが選ばれたのは自然な流れだった。
 辛く当たられてもめげずに優しく接する彼女は、そのまま四男に気に入られ担当となった。
 それもそうだろう。
 イーデンでさえも惹かれたのだから、あの四男がコリンヌを受け入れないはずもない。


 ――そして、彼女は恋をした。


 相手はイーデンではなかった。
 彼女が恋をしたと知った時のイーデンは、砂を噛むような気持ちになった。
 つかみ取りたいと……狙い続けたのに。
 掴み取ってしかるべきものが、すり抜ける喪失感。
 しかし幸いな事に、彼女の心が誰に向けられているのか、分かった時は絶望と共に安堵した。


 ――相手はサルジオだった。


 身分違いの恋。
 四男とは言え、サルジオは貴族の身分。
 メイドとは釣り合うはずも無く、コリンヌも端から諦めている恋。
 初めはただの仕事の話題だったはずだ。そうとは言わなくても、悩みの種だったはずだ。段々とコリンヌとの会話を占める話題が、サルジオの話題が多くなっていくので嫌な予感がイーデンに警鐘をならしてしていた。
 だから牽制のために、彼女に悪意をそれとなく吹き込むが……。
 普通の人間ならイーデンの思惑通りに悪意の芽は芽吹くのに、彼女は汚れない心でそれに気付くことさえなかった。彼女のそんなところが、愛しくて恨めしい思いに駆られるほどに。

 絶対に実るはずのないと思っていた恋。

 分っていても、イーデンのサルジオへの嫉妬は抑えきれるものではなかった。
 コリンヌの為にそれを必死で隠し、彼女の恋愛相談にも黙ってのっていた。
 こんなことを話せるのはイーデンだけだと言う彼女に、信頼されているのを喜んでいいのか悲しんでいいのか複雑な感情が混じる。
 天国と地獄。
 甘美と忌まわしい気持ちが固まり、凝縮され、イーデンの心はその重みで歪みだした。

 彼女と彼は結ばれない。

 それだけがイーデンの希望であり未来だった。
 恋に敗れた彼女を、真綿でくるむように癒やすのは自分の役目だと思っていた。
 そしてそれに付け込むのも。

 しかし、その希望の未来は――消え失せる。

 泣きながらコリンヌに呼び出されたイーデンは、ついにその日が来たと思った。
 彼女はサルジオに振られたか、諦めたのだろうと思い、慰めの言葉がいくらでも出て来た、頭の中でどの慰めが一番効果的なのかという余裕まででていたが、違った。
 彼女がその結果を口に出す前に、目が合って気が付いた。

 ――彼女の流す涙は、喜びの涙だった。

 サルジオはコリンヌに、妻になってくれと言ったらしい。
 コリンヌはその言葉だけで生きていけると、求婚を断った。メイドである自分が妻になるのは無理だと……普段からイーデンがそれとなくコリンヌに自覚させていた理由で。
 相談相手を演じながら、その実コリンヌがサルジオを諦めるように慎重に誘導していたのだ。
 元から身分違いだとあきらめ気味な心に、知らぬ間にコリンヌに浸透していき功を奏していたが、サルジオはそれでは諦めなかった。
 サルジオはサルジオで、長年コリンヌを妻にすることを、ただの夢想ではなく現実にするために考えていたらしい。「身分違い」という至極当たり前の理由で尻込みするコリンヌを、説得し説き伏せた。
 自分と結ばれる事で、サルジオの上流階級としての生き方に、傷がつくと思っているコリンヌを納得させるために、どれだけの労力をサルジオはかけたのだろうか。それは生半可な思いではない。今までコリンヌを誘導しようとしていたイーデンには、彼女の心根がたやすく曲がる事はない事が痛い程知っていた。
 イーデンのコリンヌに掛け続けた呪縛を打ち砕くほどの、熱意という愛。

 ――イーデンは出し抜かれたのだ。

 幸せそうに微笑むコリンヌを見ながら、様々な悪感情が渦巻く心を必死で耐えた。
 耐えて耐えて、「おめでとう」と笑顔で嘘をつく。
 そして「何かあったらいつでも相談して欲しい」と言い取り繕った笑顔で別れた時。堪えるあまり、力いっぱい握り締めていた手を開くと、仕事柄短く整えられているはずの爪が、食い込みすぎたせいで血が滲んでいた。

「痛い……な」

 震える手に流れる自らの血を見ながら、そう呟いたイーデンの表情は、虚ろで全てを吹っ切れた顔。

 
 それは、彼の心が歪んだ重みで折れた瞬間だった。



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