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第三話
しおりを挟む──汝、神の律法に反しない限りにおいて、
臣従の義務を厳格に果たすべし。
『騎士の十戒』
Book Cover for Leon Gautier's
"La Chevalerie"
第三話
ガウェインは獅子の仔を見たことがある。もちろん本物の獅子ではない。あれはまだアーサーが選定の剣を抜いて間もなかった頃だ。若い王からブリテンを奪おうと、11人の王──うち一人が自分の父であったことをガウェインは今も恥じている──が刃向かった時、獅子の仔はきらめきを放った。
敵の軍勢が迫る中、アーサーは人々に向かって口を開いた。力強い声が凛と響く。広間にいる騎士や貴族ばかりではない。扉の向こうの人々、そしてブリテン島のすべての民衆に聞こえよとばかりに、アーサーは声をはりあげた。
『私はそなたたちの王だ。これからどのような敵が迫ろうと、私はそなたたちの信頼にこたえよう。ともに軍勢を集結し、国を荒らしまわる者どもを追い返そうではないか。
父ウーサーが亡くなって以来、剣と炎によって引き裂かれたブリテンをわれらの力で統べよう。この国を統治する者は力強きがゆえではなく、正しきがゆえに上に立つのだ。ブリテンの人々よ、私にそなたたちの愛と信頼をあたえてほしい。私も生涯変わることなく、そなたたちに愛と誠意を捧げよう』
アーサーの声は人々の心に深く響いた。しんと沈黙した広間。金髪の青年は満足げに微笑んだ。
その直後、ガウェインはのちに獅子となるアーサー王にひざまずいたのだ。
ガウェインは隣をあるく少女を見た。小柄な彼女はうつむきがちで、さらに小さく見える。アーサー王が獅子ならばアネット嬢はなんだろう。きっと今はまだであれ、素晴らしい女性へと成長する。機会を与えてあげられるなら、彼女も成長するだろう。
「どうぞお手を。レディ・アネット」
ガウェインは騎士の作法で彼女を馬上へといざなった。
アネットを乗せて自分も一緒に乗る。密着すると彼女が体を硬くしていることがよく分かった。まずは緊張をほぐさないと。
森をあゆむと空気が澄んでいて、草木はすがすがしい芳香を放っていた。木々の息吹や風のざわめきが二人を包む。やがて美しい風景が目前に広がった。
森の奥に湖があった。琥珀や朱色、とりどりに染った紅葉と湖の合わせ鏡。音はしんと止み、肌にまつわるような風の冷たさに深まりゆく秋を感じる。
「いかがですか?」
アネットが息をのむ音がして、ガウェインは優しく言った。「今しか見られない絶景です」
「はい…大変綺麗だと思います……」
消えいりそうな声で少女は答えた。景色に魅入っているが、まだ緊張はほぐれていない。ガウェインは考えた。
──なにか、彼女の心をひらくきっかけになるものはないだろうか?
そこで思いついた物のところへ、アネットを連れていくことにしたのだった。
「気を付けてください。凶暴なやつなんです。貴女を見たら飛びかかってくるかもしれません」
「飛びかかる…」
ガウェインの言葉にアネットはいっそう表情を固くした。
「ええ。私でも止められません」
「サー・ガウェインが?」
あんまり言うと泣かせてしまうかもな、とガウェインは思った。目の前の小屋からは、彼の気配に気づいたのか、ガタガタと暴れまわる音がしていた。
「コツは幾つかあります。一つ、大きな音を立てないこと。二つ、向こうから近づいてくるのを待つこと」
アネットは小さな声で復唱した。
これで脅かしは十分だろうか。彼女の中で膨らんでいる想像に思いを馳せて、ガウェインは笑いをこらえた。かまえる姿勢をとって慎重そうに、扉に手をかける。
「──開けますよ」
白と茶色の塊がすごい勢いで飛び出した。飛び跳ねながら、ガウェインの周りをぐるぐる回る。やがて丸い目は見慣れない客人をとらえ、小さな体から出たとは思えない大声で吠えた。
びくっと肩をふるわせたアネットに、ガウェインはおだやかな声でうながした。「いいですか、大きな音を立てずに…」
「…待つ……」
アネットは覚悟を決めた表情でその場にしゃがんだ。彼女のゆっくりした動作を見て、小さな獣はカーブを描いて近づいてくる。くんくんと鼻を動かすのでアネットは手を差し出し、匂いを嗅いでくるゲラートという小獣の胸を撫でた。するとしっぽを振って見上げたので、アネットはついに微笑んだ。
「もっと力を抜いてください。リラックスすれば、自然に受け入れてくれますから」
「はい…!」
ガウェインの言葉にあかるくアネットは返事した。
──ようやく気を遣わずに笑ってくれたな。
まるで日向(ひなた)のような笑顔だと思った。押しつけがましくなく穏やかで好きだ。ガウェインは言った。
「レディ・アネット。その笑顔はとても魅力的です」
「……!」
アネットは真っ赤になった。打てば響くような反応に、素直すぎると心配になりながらも『嫌いではない』とガウェインは思った。宮廷での駆け引きや裏をよむ会話よりずっと良い。
「仔犬を産んだばかりなんです。中に入りませんか?」
ガウェインは小屋の扉をあけてアネットを誘った。こんなふうに貴婦人をエスコートしたことはない。犬好きを隠しているわけではなかったが、そこまで自分を晒そうと思わなかったし、趣味と恋愛は別だと思っていた。アネットがそうさせたのはある種、彼女の特技なのかもしれなかった。
「はい……喜んで」
控えめな言動だが喜んでいることが分かった。自分の一挙一動にアネットはいじらしい反応をする。
──彼女といると心が和むな。
相手の心を開かせるつもりが、自分まで心を開いてしまった。ガウェインは驚きながらも微笑んだ。
アネットも驚いていた。信じられないことばかりだ。サー・ガウェインが自分をかばってくれたあの一件から、一週間過ぎても彼の館に留まっている。
──これは夢かも。
夢みたいに綺麗な景色を見て、サー・ガウェインといっしょに犬と遊んだのも楽しかった。毎日毎日、胸の高鳴りが止まない。
それだけではない。ガウェインは毎日アネットのもとを訪れ、頼み事はないかと聞いてくる。『じゅうぶん満足しています』とアネットは答えるのだけれども、それだとガウェインは残念そうな顔をするのだ。
なので、アネットは彼の負担にならない程度のお願いをした。その日初めに見た花を摘んできてほしいとか。お気に入りの物語を教えてほしいだとか。そして、お礼を言うと嬉しそうに微笑んでくれるのが、アネットを心の奥底からしあわせにしてくれた。
──今日はどんなふうに過ごせるのかな。
いつのまにか彼と会えるのを当たり前のように楽しみにしていた。
…でもこんなのは変だ。私はこんなことをして貰える人間ではない。立派な騎士様に優しくして貰える理由が分からない。あのときの償いなら十分なのに……。
アネットは幸せな日々を過ごしながらも、強い不安を感じていた。
「実家に手紙を出したいんです」
ガウェインの館に留まる日々はさらに続いた。そろそろ実家へ連絡するべきだと思い、アネットは頭を悩ませた。招待状の噂では一週間程度だったので、父は心配しているかもしれない。
だが何でもサー・ガウェインにお願いするのは申し訳なくて、アネットは勇気を出して召使いに言った。前のことを思い出すと怖かった。
──この召使いも私を笑うだろうか?
アネットは心配したが、ガウェインが新たに寄越してくれた召使いは愛嬌のある笑顔で応えた。「はい、アネット様。すぐに準備いたします」
「………」
てきぱきと準備してくれ、「他にもございませんか」と傍らで待機してくれている。
アネットはなんにも怖くなかったことに驚いた。むしろ『ようやく言ってくれた』と喜ばれているみたいだ。安堵して、恐れていた自分を馬鹿みたいだと思った。
そして言い出せた自分が、すこし誇らしかった。
「お手紙を出されると聞きましたよ」
部屋を訪れたガウェインもアネットの行いを聞いて喜んでくれた。「もっと言うんです。彼女たちは仕えている人の役に立つのが仕事ですから」
その日、ガウェインはいつも着ているかっちりした黒い上着ではなく、瞳の色と同じ青いシャツをまとっていた。首元までしっかり締まっていたが少しリラックスして見える。アネットは胸をときめかせた。彼はいつ会ってもすてきだ。
「手紙を書いた後、森へ散歩に行きませんか。よかったらゲラートと仔犬たちの相手もいっしょに」
ガウェインの申し出にアネットは笑顔になった。犬も好きだが、サー・ガウェインは犬と遊ぶとき更に優しい表情になる。
「もちろん、喜んで行きます。」
アネットは自分でもびっくりするぐらいはっきりと言えた。堂々とした物言いに、ガウェインが微笑む。
「…それでいい。遠慮なく言ってくださいね」
「はい」
アネットは恥じらいながらも微笑み返した。
外出用の上着を羽織るあいだ、ガウェインは机の上にあった書きかけの手紙に目をとめた。半分ほど書けていて、アネットらしい小さな文字が踊っている。
「ご実家に送るのですね」
「はい。しばらくこちらにお世話になっているので」
でも、とアネットは思った。…父は心配してくれているだろうか。アネットが居なくなって気持ちが楽になっているかもしれない。父のことを考えると、鼻の奥がつんと痛くなった。
ふとガウェインが考え込んだ表情をしたので、アネットは彼をみた。
「──そういえば、レディは姉君がいるのでしたね」
「はい」
アネットは表情をこわばらせた。そうだ最初、サー・ガウェインは義姉を呼ぶつもりだったのだ。夢をみていた心にすきま風が吹きこんだ。
「姉君はどんな方ですか。見た目はそっくりで?」
「いいえ……髪の色も目の色も違います」
聞かれるまま、アネットは義姉の容姿を話した。口からは詰まらずに言葉が出たが、胸の奥では苦しいほど感情が渦巻いていた。彼の口から“義姉”のことが出るだけで苦しかった。
聞き終えたガウェインは言った。
「貴女のご家族に興味があります。ぜひ館に来て貰えるよう書いていただけませんか──姉君だけでも」
アネットは心臓をわしづかみにされたような気がした。
──ああ。やっぱりサー・ガウェインが呼びたかったのは義姉だ。私を館に留めてくれたのは、たぶん義姉を呼ぶためなのだ……。
アネットの悪い癖だった。相手の気持ちを確かめずにじぶんで理由をつけて、離れられても大丈夫なように距離を置く。
突然よそよそしくなったアネットに相手が疑問を抱いて遠ざかると、『やっぱり…』と不安から解放された。やっぱり、自分が好かれるわけないのだ。
独りでに納得して独りでに傷つき、アネットは心の中をさびしさでいっぱいにした。
──サー・ガウェインが優しくしてくれる理由が分かった。宙に浮いてふわふわしていた心が落下して落ち着いた。
──でも良かったじゃない。
アネットは必死に押さえ込んだ。義姉のおかげで、一生の思い出ができたのだ。こんなに素敵な、初恋の人と過ごせた……。
「……あ…」
アネットが返事をする前に、雨のしずくが窓を叩きはじめた。東の空に暗雲が立ちこめていた。
召使い達が大慌てで館じゅうの窓を閉めにまわる。慌ただしい空気に、話はいったん打ち切りになった。
「雨では散歩に行けませんね。ではまた、手紙が書けた頃にお伺いします」
部屋から出ていくガウェインをアネットは見つめた。
……前と違って呼び止めることもできる。だが、そうはしなかった。心の中でガウェインに本当のことを聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちがせめぎ合っていた。
できるなら聞きたい。でもアネットは『サー・ガウェインが自分に無償の優しさを与えてくれるわけがない』と先に思った。彼の口からはっきり言われるのが怖かった。
雨が降る中、扉は鈍い音を立てて閉じられた。
■□■□■
雨足が激しくなった頃、ガウェインの領内を人馬一体となって駆ける黒い影があった。雨の中いっさい速度を落とさず、巧みな乗馬技術の持ち主であることがわかる。フードから赤い髪が溢れていた。ガウェインと同じ円卓の騎士トリスタンだった。
「どう、どう」
無理をさせていることを詫びるようにトリスタンは馬に囁いた。…ガウェインの館まであと少し。雨の中でもゆっくり行くつもりはない。アーサー王のためならば。
「サー・トリスタン!」
ガウェインは遠目から彼に気付き、すぐさま館の中から飛び出した。トリスタンがわざわざ自分の館を訪れることなどめったにない。伝令を遣わせないほど急ぎなのだろうか。
「サー・ガウェイン……大丈夫ですよ」
トリスタンは緊急の用でないことを告げて、ガウェインの警戒を解かせた。「個人的な用事で来たのです。キャメロットではなく貴方の館で話したかったので」
ガウェインは急いで身につけた鎧の胸元に手を置き、安心したように言った。
「そうか。とりあえず、部屋を用意するから体を拭いてくれ。そのあと話を聞こう」
「かたじけない」
ガウェインは濡れたトリスタンを客室に案内した。
ガウェインにはトリスタンがやってきた理由に心当たりがあった。王都に呼ぶのではなく、わざわざ自分の館を訪れたのはそのためだろう。窓を閉じているせいで部屋の中は暗かった。
「…まどろっこしいことは無しだ。単刀直入に話してくれ」
ガウェインは、上着を脱ぎ髪を拭いているトリスタンに言った。一刻も早く話したがっているのが分かったし、ガウェインも嫌な話は早く済ませたかった。
「分かっているなら結構です」
トリスタンが険しい表情にかわった。「…サー・ガウェイン。何をのんびりしているのですか。任務はどうしたのです?」
厳しい口調でもガウェインはたじろがなかった。
「むろん、任務は遂行するつもりだ。あとの算段もついている」
「ですが、このまえ宮廷へ報告にきた際は『手違いがあった』と話していたではありませんか。その令嬢をまだ帰していないと聞きました。私が来たのはそのためです」
「まさか……アネット嬢を送り帰すために来たのか?」
ガウェインは顔をしかめた。たしかに私情が混じってアネットを館に留めていた。だが説明をしたところで、トリスタンは聞く耳を持たないだろう。
「アネット嬢の姉君を呼ぶ算段でいた。それまで留めるつもりだ」
「名前を呼ばれるとは。ずいぶん親しくされているようで?」
トリスタンは冷やかに言った。「私なら待ちません。令嬢にはすぐ帰っていただいて、姉君を呼べばいい。悠長にやっている場合ではないとご存知でしょう」
「ああ、だが──…」
ガウェインは理解してもらえないと思ったが、アネットを引き留めた経緯を話した。トリスタンは黙って話を聞くだけの分別はあった。だが聞き終えて、よけいにすっきりしない表情をした。
「サー・ガウェイン。貴方が騎士としてすばらしい矜恃を持っていることは知っています」
ですが、と彼は続けた。「臣従の義務はどうしたのです? 貴方はだれよりもアーサー王に忠誠を誓って仕えてきたはずだ」
「ああ、王への忠誠は揺るがない」ガウェインは声を大きくした。「だが礼節を欠いた行為はアーサー王の名声を傷つけるだけだ、サー・トリスタン」
「つまり、私のやり方では王にとって不名誉になると?」
トリスタンは髪を拭いていた手を止めて、ガウェインを怪訝な目でみた。
「私は優先順位というものを考えています。サー・ガウェイン、貴方は名誉にこだわりすぎる節があるな」
「何だと?」
ガウェインの耳元で血がごうと騒いだ。ふだん穏やかなだけ、限度を超えると表に出やすいのが彼の欠点だった。手を伸ばし、トリスタンの胸ぐらを掴んで鋭く睨む。「…今の言葉を撤回するんだ」
「まさか。私は正しいと思ったことしか言わない。撤回もしない」
トリスタンはガウェインの手を振り解いた。「いますぐその令嬢に会いに行こうか。お優しいサー・ガウェインが言わないなら、このトリスタンが言ってさしあげよう」
「っ……!」
扉に向かおうとしたトリスタンを、ガウェインはとっさに腕をつかんで床に押さえつけた。トリスタンが抵抗し、馬乗りになる。
両者は力がぶつかって動けないまま睨み合った。
──それを。
薄く開いた扉からみていた人物があった。アネットだった。
もうほとんど手紙を書き終えるところだったので、本当に義姉を呼ぶべきか、ガウェインに確認しに来たのだ。
( ふたりはどうして……? )
アネットは騎士たちがもつれ合うところをみた。はっきりではなかったが、自分のことを指して争う声も聞こえていた。アネットはある可能性にたどり着いた。
──田舎領主であるクニス家に、サー・ガウェインの求婚状が届いたことが変だったのだ。
きっと何かしら事情があるに違いない。義姉を呼ばなければならない理由が。そうでなかったとしても、ガウェインが呼びたいのは義姉なのだ。
……ほら、やっぱり。
アネットは思った。私を好きになってくれる人はいない。何か理由があって優しくしてくれるだけ。
冷静に『そんな人ばかりではない』とおもう自分もいる。でもアネットは自分に自信がなく、無条件に愛されるということを信じられなかった。
幼い頃に母親を亡くしたことが、アネットの心に影を落としていた。
母は私を産んだせいで体を壊した。父から母を奪ったのは私。…だから、父には幸せになってほしかった。新しい義母に嫌なことをされても、自分を納得させて受け入れていたのはそのせいだった。
──父は何も言わなくても、私を憎んでいるのだ。
でもアネットは愛されたかった。そのうち、嫌われないために役に立たなければならないと思うようになった。自分への自信は消え、無条件に愛されるということを信じられなくなった。
──私を受け入れてくれる人は、私が役に立つから。
──サー・ガウェインは大切な人だ。彼のためなら、何だってできる。今すぐに。
アネットはなにも言わずに部屋へ戻った。
そして涙をぬぐわないまま、義姉をガウェインの館に招待する一文を添えた。
<続く>
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